ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

シングルマザーの貧困の複雑な問題点


 現在、シングルマザーの貧困について考えている。しかし、その話をしようと思えば、色々な観点からの議論が必要になってくる。
 シングルマザーの貧困というのは、非常に大きな枠組みの中で考えなくてはいけない。色々なところでたくさんの矛盾を抱えている。

 今思いついたことだけでも、シングルマザーの貧困は、以下のようなことを考えなくてはいけない。

・シングルマザー家庭の貧困による教育格差
 貧困が再生産されているのではないだろうか。
 福祉政策による子どもの貧困の解決、格差の是正が必要である。
 親の貧困が生涯にわたって子の教育レベルに影響を及ぼしている。
(参考:「子どもの貧困」岩波新書)

愛着障害
 幼児期の愛着形成の問題が、生涯引きずられる。その結果、パーソナリティー障害などの原因となる。
 小さい子には、母親がちゃんと接する時間を取る必要がある。
 シングルマザー家庭は働くことができるのか。
 子どもの愛着障害は免れない。
(参考:「愛着障害」光文社親書)

ジェンダー
 女性はなぜ男性に対して給与が低いのか。
 社会的に女性への賃金や就労機会に関しての差別はあるか。
 女性には働こうとするインテンシブが学生時代に男性よりも低いのか。
 現代において女性と男性の社会的役割の差をどのように考えるべきか。


非モテ男性救済
 シングルマザーの貧困の援助のために福祉を充実させてきた北欧諸国でいったい何が起きているか。実質的な一夫多妻制が起きているではないか。
 シングルマザーになっても暮らしていけるから将来のことを考えて結婚しなくても、イケメンと子どもをもうけて離婚する人が増えているのじゃないか。
 非モテ男性は高い税金を取られて経済奴隷になっているではないか。


・大学改革論者
 子どもにお金がかかるのは教育費が高いからである。
 そもそも、大学にそんなに多くの人が入る必要があるだろか。学問のために大学に入っている人がどれほどいようか。もしかしたらほとんどが就職のために大学に通っているんじゃないだろうか。就職先で大学でやったことを実際に使っている人が全体の何割いるだろうか。
 就職のための職業訓練大学なんかを作って学費を抑えた方がいいんじゃないだろうか。
 企業も、大学新卒だけやめたらどうだろうか。

・企業論
 企業が採用する人材としてコストがかからないのは、男性のほうだ。
 教育を大学に投げるのではなく、企業の中で教育すべきじゃないだろうか。
 企業が新卒ばかり採用するのではなく、中途からも正社員として採用すれば、シングルマザーの貧困も解決の方向へ進むのではないか。
 しかし、容易に解雇できない日本では簡単に正社員として採用するのは経営戦略として賢いとは言えない。

・労働法
 各国によって労働観は異なり、例えば、アメリカはわりと簡単に解雇することができるが、日本では正社員を解雇するのは非常に制限が厳しい。
 これは、従来の日本では、労働は契約というより、企業の一員として家族のように共に働き、終身雇用という感覚が主流だったためである。
 終身雇用を前提とするため、新卒採用以外は行われず、それを鑑みて解雇権濫用を防止するための法理が作られたが、そのせいで企業が正社員の採用を渋るようになった。
 現在、非正規雇用は増えている。解雇権濫用法理を見直して、正社員の採用を推進すべきなのだろうか??
(参考:「労働法入門」岩波新書)


 と、このように、経済政策の方向性だけでなく、教育制度や法律についても考えなくてはいけない。

 私が今、シングルマザーの貧困の扱いを難しくしているのは、一般の人々の、シングルマザーへの嫌悪感と、支援を増大することでシングルマザーが増える可能性があるというギャップだろうと思う。

 まず、シングルマザーへの嫌悪感に関して言えば、中高生時代の恋愛経験に遡る人もいるだろう。
 中高生時代に真面目にやらずに男遊び、女遊びばっかりしていた人に嫌悪感を抱いていた人がいるかもしれない。そういった人たちが望まぬ妊娠をしたりしてシングルマザーになり、貧困になったとしても憐れみを感じず、その人のために税金が使われるのが嫌だと直感的に思っている人もいるだろう。
 しかし、実際に貧困に陥っているシングルマザーの貧困は、40歳くらいが平均だという。10代で妊娠して出産した母親がシングルマザーになり貧困に陥っているというイメージは、実情を反映していないと考えた方がよい。(上述「子どもの貧困」より)
 また、シングルマザーへの嫌悪感としては、実際に現在、夫との不和に陥っているが、経済的事情で離婚しえない人からもあるだろう。そういう人にとっては、「自分はこんなに辛い思いをして耐えているのに、自分で離婚を決めたんだからそれくらいの困難は覚悟の上でしょう!」
と言いたい気持ちもあるだろう。
 このために、シングルマザーの貧困家庭へと税金を投入することに不快感を示す人々が一定数いるだろうと考えられる。

 支援を増えることでシングルマザーが増大する可能性については、上で「非モテ男性救済」の項目で述べたことも関係するが、さっき述べたように、
「夫との仲が不和であり、離婚したいが経済的事情により離婚できない」
 という母親が一定数いることが事実だとすると、シングルマザーが貧困に陥らないように支援を北欧並みに増大したとすると、その分、経済的懸念から離婚をためらっていた母親が離婚し、さらにシングルマザーが増え、より福祉の支出が増えるということにもなりかねない。

 基本的に国家の統治戦略として、人々のコントロールをしたいときには、法によって行動を制限するか、経済的に得、または損をするようにしてコントロールするものである。
 シングルマザーの貧困に関しては、貧困に陥ることが分かっていながら離婚し、シングルマザーになったものへの法的制裁を加えることができるだろうか?
 おそらくできないし、仮にしたとしても、DVなど、別のところでの歪みが生じるのは必至である。
 では、シングルマザーになると経済的に損をするようにしてコントロールすることはできるかということについて、現時点でシングルマザーになると経済的に損であるがシングルマザーは一定数いるし、そもそも、シングルマザーの貧困は、その子への影響の観点から一定以上の経済的支援があるので、経済的に損になるようにしてコントロールしようということは難しい。


 今まで述べてきたことから、シングルマザーの貧困に向けて何か解決の方策を取ろうとすれば、どこかで誰かが損をするというような状況である。
 非常に舵取りが難しい。

 しかし、まずは、子の教育費の負担軽減と、親の文化資本に大きくは左右されない教育環境の提供からなんとかできないものだろうかと考えている。

 

 

サイゼリヤデートの話題をきっかけに、ジェンダー論の論点まとめてみる


 30代の初デートでサイゼリヤデートはありなのか。

 とかいうのがTwitterでは結構議論になっていましたね。

 これをきっかけにジェンダー論の主な論点整理でもしてみようかなって思ってこの文章を書くことにします。

 まずは、サイゼリヤデートの件なんですが、まあ、そもそもこの疑問自体が結構状況によりけりだと思いますね。

 30代って言っても年収も人によってかなり違いますし、初デートって言っても、すでにもう付き合っていて、付き合ってから初めてのデートなのか、付き合う前にデートに来ているのかでもニュアンス変わってきますし。

 細かいこと置いといて、これらの議論を眺めていて思ったのは、サイゼリヤは安くておいしいし、サイゼリヤ行って話題のほうれん草食べたいなってことです。

 さて、サイゼリヤデートにおける議論でも、様々な人が様々な理論をぶん回してバトルを展開していたわけですが、デートとかって身近にジェンダー論を意識しなければいけない場だと私は思います。

 最近のジェンダー論を考える上で、気にしなければいけないトピックとは何なのか。
 私は以下のような点が論点になってくると思います。

・生物学的性差と平等性・同質性

トレードオフ

労働市場のキャパシティ

・自由恋愛市場における魅力

・個別の扱いとマクロ的扱い

 

 それぞれについて話していきたいと思います。

・生物学的性差と平等性・同質性
 ご存知の通り、女性と男性は違います。生物学的性差が必然として存在し、出産や授乳は女性が行うものであり、現在男性にはどちらもできません。
 女性と男性では体格も違います。男性のほうが、平均的に背も高いですし、男性ホルモンの影響で筋肉量は女性にも多くなります。

 この差について、ジェンダー論を語る上でもやはり無視はできないだろうと私は考えています。

 そこで、男女平等論やフェミニズムはどこを目指すべきなのかということなのですが、私は、平等性と同質性という二つの異なる概念を使うべきだと考えています。
 平等性についてですが、例えば2者間の平等を考える際に、必ずしも2者がまったく同じ権利や義務を有している必要はありません。
 誰かが物を売り、誰かが物を買う時、この消費における契約は不平等なものかというとそうでもないと言えるでしょう。お金を払うという行為によって、お互いに平等な契約が結ばれていると考えることができると私は思います。(法学の素養がないので間違っていたらごめんなさい。)
 世の中には異質なもの同士が契約によって平等につながっているということは、よくあることだと私は考えています。

 したがって、男女平等論においても、必ずしも男女同権でなくても実現は可能ではないかと私は考えています。つまり、男女を無理に同質的に扱う必要はないと私は考えていますし、先に述べたように、男女には超えられない性差がある以上、完全に同質にすることは原理的に不可能だと私は考えます。

 現在、男女は同質ではありませんが、現在男女が不平等なのか平等なのか再考すべきだと思います。
 私は男女平等論を議論するならば、「どれほどまで男女の同質性を求めるべきか」といった同質性の程度の議論をすべきだと考えます。

トレードオフ
 さて、トレードオフというのは、あるものを得ればあるものを失うということ、単純に言えば、交換ということです。ジェンダー論の際には、権利と保護はトレードオフであるということを意識すべきだろうと私は考えます。

 未成年者は法的に権利が制限されていますが、その分保護を受けています。

 基本的に法は権利と保護がトレードオフされる形で制定されていると私は考えています。

 この権利と保護のトレードオフというのは至る所で意識されることなく実践されている原理だろうと私は推測しています。
 まだ一人で何もできない子は親の言うことに逆らえないなど権利は制限されているが、その分親から保護を得ているといったことは実感としてわかるのではないでしょうか。

 女性の権利を男性と同じにしようとした場合、そこには必然的に権利と保護のトレードオフが生じるだろうと私は考えています。
 例えば、女性は男性に奢ってもらいがちだったり、結婚した場合、専業主婦になることが社会的に認められやすいですが、男女が同じように労働する権利を有した場合、これらの慣習もまた変わる可能性が高いだろうと思います。

 女性が奢られやすかったり、専業主婦になりやすかったりするのは、女性が男性よりも経済力が弱いことを前提とした違いであり、女性と男性が同じ経済力を持つに至った場合、男性が女性に奢られることも、男性が専業主夫を選択する可能性も、格段に高くなるだろうと予測します。

 まあ、実際にそうなるかはさておき、権利と保護のトレードオフを考えればそういうことが起きるということを私は提唱したいわけです。

 大事なことなのでもう一度言っておきますが、「権利と保護はトレードオフ」だと私は考えています。


労働市場のキャパシティ
 さて、今のジェンダー論では、女性が働きやすい職場を、といったように女性が今より労働者として社会に参入させようとする意図がありますが、労働市場にもキャパシティがあるということを考えなくてはいけません。

 果たして現在の日本の経済において、希望すれば全員が労働に従事できるかどうか、と考えた場合、おそらくそれは不可能だと私は考えます。

 雇える人数の総数は社会全体で決まっており、それを超える人たちは、労働に従事したくとも、非自発的失業者として労働市場からはじき出されざるを得ないでしょう。

 ならば、それぞれの人の仕事量を半分にして雇用数を倍にすればいいと考えてしまうかもしれませんが、一般に雇用者数が増えるとその分管理費用がかさばるため、企業は同じ成果を上げられるならば少ない人数で業務を達成しようとします。


 つまり、今まで労働市場に参入していなかった女性が参入してくるということは、その分労働市場からはじき出される男性が増えるということです。

 実際には、高齢者に対して労働者人口は減っていますし、その解消のために女性も労働市場に参入させようとしているのが実際なので現実はそう単純ではないんですが。

 しかし、女性の労働市場参入によってはじき出されて無職になってしまった男性を救出する機構を今の社会は生活保護くらいしか持ち合わせていません。

 女性の場合は、労働市場からはじき出された場合は結婚して専業主婦という形が多かったですが、男性では結婚して専業主夫になるというのは、社会的に現在あまり受け入れられていませんし、恋愛市場の性差を考えると今後もそれほど増えることもないかもしれません。

 現在の社会では、やはり結婚におけるメリットは、お金も大きく関係しますので、女性が労働市場に参入し、自己実現が可能になった社会では、労働市場からはじき出されて、お金がなく、お金がないので結婚ができない男性というのが社会的に作られやすくなる、ということを考慮しなくてはならないと私は考えます。
 そのセーフティーネットをどうするかというのが一つの課題になります。

 


・自由恋愛市場における魅力
 男女が異質なものとして現在も維持されている原因とは何かと考えたとき、私は、男女の自由恋愛市場がそうなのではないかと考えました。
 社会の様々なことは男女の自由恋愛市場を基点として展開しているような気がしてなりません。

 男性が女性をデートにおいてエスコートしたほうがよい、とする考えや、女性は化粧などをして美しさを保つのがよい、とするような考えは、恋愛市場における「望ましさ」に由来すると私は考えます。

 いくら制度的に男女の権利を同質にしようとしても、男女はそれぞれ、恋愛市場における「望ましさ」を獲得するように動こうとするだろうと私は推測します。
 女性にも男性と同じようにリーダーシップを与えようとしても、恋愛市場において男性にリーダーシップを取ってもらいたいと願う女性が多くいた場合、社会的にもやはり男性がリーダーシップを取る機会が多くなるだろうと推察されます。

 現代の男女の役割の差異は自由恋愛市場の原理が反映されていると見るべきだと思います。
 したがって、恋愛市場での価値感が変わらない限り、社会における男女の役割の差異は依然として存在し続けるでしょう。

 

・個別の扱いとマクロ的扱い
 次のトピックが本当に難しいことなんですが、個別と全体では扱い方が違うだろうという考えについてです。

 例えば、女性でも男性より力が強い人や体格がいい人がいますし、実際にそういった女性が働いたほうが男性より圧倒的に成果を上げられることも少なくありません。

 しかし、これはミクロ的にみた場合、個別的事例の話です。

 マクロ的にみたばあい、つまり集団としてみた場合、やはり男女には差異があります。
 
 ミクロならば、力の強いAと力の強いBがいた場合、荷物の運搬などはAに任せた方がいいとなるでしょう。

 しかし、マクロの場合、集団ごとに違う役割を振るべきなのかといったことが問題になります。
 もちろん、個別事例を逐一見ることができればいいですが、個別の能力を逐一確認するにはコストがかかります。
 例えば、配達業務の場合、男女では、男性のほうが地図を読めるという傾向があるでしょう。
 採用の際に逐一地図がどれほど読めるかをチェックしてもいいですが、その分そのテストのためのコストがかかります。

 そのコストを上回るだけのメリットがあればいいですが、何も考えずに男性だけを300人雇ったほうが結果的に利益が出せることが統計的に分かった場合、どういった選択をすべきかということを考えなくてはいけません。

 実際には多少利益を犠牲にしても、男女が同じように働く権利を得られたほうがいいということになるでしょうが、なんらかの行政の誘導がなければ企業はコストがカットできるほうを選択するでしょう。

 これはあくまで労働の話でしたが、集団の扱いを考える場合には、常に、個別事例と集団の扱いのバランスをどのように取るかということが問題になります。

 特にこの問題は経済的余裕がない場合に切実になります。

 

 さて、今回は以上の論点についてまとめてみました。
 この記事ではあえて、男女同権を進めることへの疑問を呈する形として論点を提示しました。

 逆説的ですが、男女同権の問題点、疑問を投げかけることで男女同権、あるいは男女平等の流れを促進するために必要なこともわかると考えます。

 議論が平行線にならないために、論点を整理することは重要です。

 これだけが論点ではありませんが、まずは以上のようなことを踏まえたジェンダー論の議論ができればよいのではないかと考えます。

学校の人員配置を見直す

 

 ここでは、学校の人員配置について私から提案をしたい。
 ここで提案する配置方法は学校に限らず、様々な組織において導入が可能だと考えている。
 はじめに学校における諸問題について論じた後に、学校の人員配置について提案し、他の分野への導入についても提案したい。


・学校の人員配置諸問題

 まず、あらゆる組織において、上下関係というものは存在するが、上下関係にはフィードバック機構、あるいはセーフティーネットが必要である。
 上下関係というのは権力の不均衡であり、強者は弱者に対して理不尽な要求をすることも可能である。それから弱者を守るためにフィードバック機構あるいはセーフティーネットというものが必要なのである。

 現在は法、あるいは行政処分によって学校の教員を縛ることで生徒を守っている。
 わいせつや体罰は処分を受ける。
 しかしながら摘発されるのは一部であり、体罰なんかは当然のように見過ごされているのが実情であろう。

 他にも、教科担当の先生が明らかに生徒のキャパシティを超える課題を出したり、先生の好き嫌いで成績をつけるといったような横柄も存在はするが、よほどの苦情が集まらない限り処分には至らない。

 このように、現在の学校において、セーフティーネットが機能するまでには一定の閾値を超える必要があり、あまり上手く機能してないという感想を私は持っている。

 

 次に、学校といっても偏差値や地域によって大きく内情が異なるというのは広く知られていることだと思う。

 学校によっては、教師は教科指導よりも生活指導のほうに労力を割かれているということも多いだろう。
 クラスの不良の相手をしていて、授業が全くできないといったような状況では学校のカリキュラムを遂行できていないと言わざるを得ない。

 たしかに、学校の機能の一つとして「隠れたカリキュラム」といったものもあるが、授業ができないといった状況を是正し、明文化されたカリキュラムを遂行することが学校の期待される役割だと私は思う。

 このように、学校では教科指導の他にも生活指導をしなければならないといった実情がある。そして、その生活指導によって教科指導が機能してないといった学校も多くある。
 生活指導は「治安維持」とも言えるだろうから、学校は治安維持をしつつ教科指導を遂行することが期待していると考えられる。


 また、学校において、生徒は様々な悩みや不満を抱えているが、それらにスポットライトが当てられることは少ないと感じている。
 「教科指導がわかりにくい、もっとこうしたほうがわかりやすいのに。」といった生徒の声が教師にまで届いて授業が改善されるということはまれであろう。
 また、教育雑誌などにおいて論じられる主役が教師であることが多く、
「教師の業務負担軽減」や「悩みを抱えた生徒への教師の対応」などについて論じられることが多くとも、生徒自体が主役となっていることは少ないと感じている。
 これについては、生徒は未熟な人格者であり、生徒の考えは参考にはしても信頼には足らないとする傲慢さがあるように私自身は感じている。

 このように、生徒自身の不満や悩みは汲み取られることなく、見えないままになっていることが多いように私は思う。


・上下関係をめぐる組織設計
 学校に限らず、親と子、上司と部下といったように、上下関係は色々なところに存在するが、上下関係は上の者が下の者に対して危害を加える危険性を孕んでいる。

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 これを防ぐためには弱者からのフィードバック機構が必要である。

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 では、これをいかにして実現するかということであるが、単純に思いつくのはじゃんけんのように、上下関係をくるくると循環させるという方法である。

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 これは一見簡単そうに見えて実際に組織に導入することは難しい。
「自分の部下が自分の上司の上司であり、自分の上司は自分の部下の部下である」
 といった設計は多くの人に受け入れられないであろう。

 かといって、下の者が上の者に何かを直接進言することも難しい。

 そこで、下の者に対してクライアントとして接して意見を聞き、それを上の者に伝え改善させる。あるいは、クライアントの様子を察して上の者に諫言するといった役割の者がいればよい。

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 この仲介者は、指導者―生徒の上下関係のラインからは少し離れた存在である必要がある。

 

・学校の人員配置の提案

 さて、以上のようなことを踏まえて、学校の人員配置について考える。
 私が考える、学校の人員配置、あるいは組織設計において重視するポイントは以下の2つである。
・分業による教師の負担軽減と業務遂行の効率化
・フィードバック機構をしっかりさせることによって生徒の不満を解消する

要するに、分業とフィードバックをさせる人員配置にしようということである。

 私は、以下のような配置が望ましいと考える。

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 管理者は、教科担当にどのような内容の授業をし、どれほどの課題量にするのかを指定して依頼をする。生徒に対しては、教科担当の教員からどのような授業を受けているかを把握するとともに、授業の進行を妨害しているような生徒や教科以外において指導が必要と考えられる場合に指導をする。
 教科担当に対しては、他の教科との課題量の調整や授業スケジュールの立案、生徒に対しては状況把握と治安維持のための指導に当たるということである。
 現在の担任と生徒指導部、カリキュラム作成委員などを統合したような存在が管理者に当たる。

 教科担当は、管理者からの依頼を受けて授業を実施する。教科担当者は、わかりやすさと知識の正しさと豊富さが求められる。
 複数の学校を兼任したり、大学に所属する人による講義なども可能にすることで授業の質を保障することが可能となる。
 また、従来の教科に縛られず、
「自営業者や公務員によるキャリア教育」
感染症研究所職員による流行している伝染性感染症の予防について」
などといった講義も導入できる拡張性を備えることで、時代の流れに柔軟に対応が可能となる。
 塾との連携も可能であろう。


 相談役は、生徒の相談に乗ったり、管理者や教科担当のやり方についての不満や意見を聞き、管理者や教科担当にフィードバックする役割を持つ。
 生徒が管理者のやり方への不満をこぼしてから動くと、「チクった」などとして余計にひどい扱いを受ける可能性があるため、場合によっては能動的に動く必要がある。
 フィードバックにあたる相談役はあくまで、権力的に下の者を保護する立ち回りをしなければいけない。そうでなくてはフィードバックの意味がない。
 例えば、
「宿題多すぎてつらいよ。」
という生徒に対しては、
「それくらいやらないとできるようにならないから文句言わずにやりなさい」
とは言わず
「宿題多いのがつらいんだね。」
といったように共感的理解を示すことが必要である。医療面接や臨床心理士の面接方法を参考にしてほしい。
 相談役は、担任、カウンセラー、行政担当者、のような役割を統合した役割である。


 私が考える学校における人員配置はこのようなものである。ここには書かれていないが、事務や部活動などの他の部署も管理者からの依頼によって活動するようにすれば後で部署も簡単に追加できるという拡張性も保障されるし、「事務作業に終われて教科研究ができない」といったような状況も改善されるだろう。

 

これらの役割は現在の教員免許制度では対応しきれない可能性が高く、導入のためには新しい免許制度が必要となるだろう。

 

・他の組織への導入

 上記のような、「管理者」「担当者」「フィードバック役」の3役の配置というのは様々な組織においても適用が可能だと私は思う。
 職場においてはパワハラや離職、ブラック労働の予防にも効果的だと思う。

 

 設計思想については、過去にこのような記事を書いた。

 

 設計思想というのは多くの場面で応用が可能なものが多い。


 今回の学校の制度設計については、管理者やフィードバック役は人体のホメオスタシスを保つ生理学の仕組みや、イベントを監視しつつプログラムを実行するプログラムに発想の原点を得た。

 また、下の者がフィードバック役との間に結ぶ関係については、法における契約関係の種類、医師―患者関係のような契約方式などを参考にした。

 

 実際に今回提案した人員配置の設計がどれほど上手く機能するかはわからないが、身近なところに導入して今後効果を試してみたい。

幽奈さんを機にエロ表現の論点について整理する

・ゆらゆら大事件

 ジャンプの巻頭カラー(センターカラ―?)のゆらぎ荘の幽奈さんが問題だという発言に端を発して色々な議論が巻き起こっています。
 私はこの事件を、「ゆらゆららららゆらゆら大事件」と個人的に呼んでいます。

 私自身は当該ジャンプを読んでいないので、幽奈さんのカラー写真はネットで回っているのを見ただけですが、ゆらぎ荘の幽奈さんははじめの方は読んだことがあります。
 今はジャンプは購読していないのですが、まだジャンプを購読していたときに新連載として出てきた1話目からかなりハイクオリティなマンガだなと感じました。
 絵は上手いし、ベタな展開を面白く描いていて面白い作品だなとしばらく読んでいました。ポストToLoveるっぽいなと思います。
 残念ながらニセコイの最終回を機にジャンプの購読はやめてしまったので、途中までしか読んでません。ちなみに最後に買った巻に載っていたのは幽奈さんの26話でした。


・エロ表現の論点
 さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入りたいと思います。今回はゆらぎ荘の幽奈さん自体については議論するつもりはありません。
 今回の事件を機会に、エロ表現についての論点を整理、考察しようというのが今回の趣旨です。
 先に、私が考えるエロ表現についての論点を列挙しておきます。
・当該表現は女性の権利を実際に侵害しているか
・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
・子供への影響とR18の根拠

・禁止かゾーニング
内心の自由と規制活動

 それぞれについて以下で説明をしていきます。前3つがエロ表現について考える際の根拠となる概念について、後2つはエロ表現対策の活動方法についての項目として並べたつもりです。

・当該表現は女性の権利を侵害するか
 これは、「ある作品の中で女性を凌辱する場面の描写があった場合、それ自身が女性の権利を侵害するか」という問題です。
 これは女性に限ったことではありません。より抽象的に記述するならば、
「空想の人物への権利侵害は、現実において同じ属性を持つ人物への権利侵害に当たるか」
 ということになります。
 例えば、「空想の子供に労働させれば現実の子供への権利侵害になるか」
「空想の人間を監禁・拷問する場面の描写は人間自体への権利侵害になるか」
 ということです。

 これは、「私の身体はどこまでか」という議論につながります。よく、「道具は身体の延長である」と言われます。
 わかりやすい例かどうかはわかりませんが、背負っているかばんを誰かに叩かれたとき、「私が叩かれた」と思う人は多いと思います。「この人はかばんを叩くつもりであって私を叩くつもりはなかったからこの人の行動は私には無関係である」と思う人は少ないと思います。
 同様に、空想の中の人物という「概念」は私の身体の延長として捉えられるのかどうか、そしてそれへの権利侵害は実際の人物への権利侵害になるのかどうか、が一つの論点だと私は思います。

 ちなみに、「不快に感じること」と「権利侵害」は同一ではありません。

 

・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
 もう一つの論点が、実際に侵害しているかではなく、将来的に侵害する可能性を有するか、という話です。
 この前ヒルデガーの心理学を読んだときには、「暴力的なテレビ番組を観た子供はそれを観ていない子供たちよりも暴力的になる」といった旨のことが書かれていました。
 正直、この研究がどれだけ交絡因子を排除しているのか、またカタルシス効果についてはどれほど考慮されてのかといったことについてはわかりませんが、上のような記述を心理学の本にあったということを先に述べておきます。
 したがって、「エロ表現に多く触れた子供はエロになる。」という可能性はありますが、それが実際に「日本において」成り立つのか、そして「権利侵害としてのエロ行動に出るのか、権利を侵害しないエロ行動に出るのか」といったことなど、単純に当てはめられない点があるのも実際のところであろうと思います。

 このように、未だ潜在的な権利侵害の可能性についてはわからないことが多いと思います。したがって、潜在的な権利侵害の可能性について議論するためには、場合分けをするべきです。
 場合分けの仕方として、潜在的な権利侵害の可能性が
・有する場合
・有さない場合
・わからない場合
 とするのがよいでしょう。

潜在的な権利侵害の可能性を有する場合
 このとき、実際に権利侵害があるので規制をするのかどうか、ということが次の議論になってきます。
 権利侵害がある→即ち規制ともなり得ないのが実際です。
 そこは権利侵害と利益の天秤によって判断せざるを得ません。
 たばこは肺がんの可能性を多分に有していますが、その経済効果や依存性などからすぐに全面禁止に至るということはありません。
 また種々のワクチン接種は、副作用の可能性がないわけではありませんが、利益の可能性の高さから接種が推奨されます。

 以上のように害が少しでもある→規制となるわけではなく、害の大きさと可能性、益の大きさと可能性が天秤にかけられた上で次の行動へと移るであろうと思います。

潜在的な権利侵害の可能性を有さない場合
 特に問題ないといえるでしょう。

潜在的な権利侵害の可能性がわからない場合
 この場合についてがいわゆる見切り発車をするしかないわけです。可能性を有する場合、有さない場合、どちらも考えた上でわからないなりの最適解を探す努力をしなければなりません。


・子供への影響とR18の根拠
 女性への権利侵害と同時に論点となるのは子供への影響です。子供への影響とはよく言われますが、実際にどういった影響が考えられるのか、そしてその影響を防ぐために子供のアクセス権を制限することは妥当性があるのか、そしてその根拠とは何か、ということについて考えなければなりません。

 私は法律にはそれほど詳しくはありませんが、調べたところ、青少年保護育成条例、あるいは青少年健全育成条例というものがR18の法的根拠となっているようです。
 実際にこういった条例が制定されているならば、議論すべきかは当該表現が条例に抵触しているかどうかであり、抵触しているならば相当の処罰を受けるということになります。

 その際に条例が妥当かどうか、正しいのかどうかといったことは問題にはなりません。法に触れているかどうかということのみに判断するのが法治国家の原則だと私は考えています。

 しかし、ここでは、エロ表現の概念について考えるためには新しい法を作るべきか、あるいは既存の法を廃するべきかといった議論も含めてするトピックだと思います。

 そこで、青少年保護育成条例とR18の根拠とは何かについて考えるべきです。ここでは、条例とR18という概念の根拠は同一だという前提のもとで話を進めます。

 正直、私はR18の根拠が何なのかわかりません。何をもって18歳未満に有害なのか、どういった害があるのか、私にはわかりません。

 タバコなら肺がんといったように、わかりやすい「害」があります。R18の18歳未満への「害」とは何でしょうか。
 何かいい本があれば教えてください。


 ちなみに、子供への規制というのは子供への権利侵害だという概念が抜け落ちている人が多いように感じています。
 子供が働いてはいけないのは、子供の保護であると同時に権利侵害です。
 現在の多くの法は、子どもを保護する代わりに子どもから権利を奪っているということを忘れてはいけないと思います。保護と権利を常にトレードオフだと私は思います。

 

・禁止かゾーニング
 さて、ではエロ表現から子どもを遠ざけたほうがよい、ということになったとしましょう。
 あるいはエロ表現が女性の権利侵害になったとしましょう。
 その際に、ゾーニングをすれば問題ないのか、あるいはそもそも当該表現を禁止しなければならないのかということが問題になります。
 そして、ゾーニングを推奨にするのか、ゾーニングしないといけないという法を作ってゾーニングを義務にするのか、ゾーニングというのはどれほど効果があるのか、といったことを考えなければいけません。

 仮にエロ表現の対策をしようとしても、その方法は多岐にわたることでしょう。


内心の自由と規制活動
 最後に、「エロ表現が嫌いだ」と思う内心の自由と実際の規制活動とは区別すべきだということを述べたいと思います。

 私は、「エロ表現が嫌いだ」という内心の自由は保証されるべきだと思います。
例えば、Twitter
「このエロ表現まじムカつく。なんか馬鹿にされてる気がするし気持ち悪い~」
 みたいなツイートがあったとして、そう思う自由自体は保証されるべきだと思います。このツイートに対して、
「あなたは表現の自由を認めないというのですか??」
 と絡むべきではないと言うことです。上記のツイートでは、「表現の自由を規制すべきであり、実際に規制に向けて活動している」ということではありません。

 もっと言えば、「表現の自由を規制したい」と思う内心の自由は保証されるべきだと思います。
表現の自由を規制したい気持ちは山々だが、歴史的経緯から実際に規制してはいけない」
 ということもあります。

 「不快に思うこと」を許容する自由を保障すべきだと思います。

 

 

 今回はこれで終わりです。

 

技術の進歩の危険性

 技術が進歩することはいいことであると一般に考えられがちだが、技術の進歩は常に危険性を高めているともいえると私は思う。


 進歩によって、労働時間を短縮するべきであり、目指すべきは余暇を用いた人間の文化的活動に使えればよいと私は思う。

 しかし、技術の進歩は常に危険を孕んでいるとも思っている。来るべき技術の進歩に備えて先手を打って技術の進歩の危険性を考えておかなければいけない。

 果たして、技術の進歩はほんとうによいことなのか、と考えたときに、そうでもないことに気が付いた。これが文化相対主義の原点なのかもしれないし、脱構築なのかもしれない。(よくわからない)

 

 技術の進歩による武力的危険性

 まずは、技術の進歩による武力の危険性について書こう。

 技術の進歩は殺傷力を高める行為である。物理や化学などはもちろんのこと、情報処理技術の発展は、自動追従システム、インターネットを介した遠隔操作による攻撃など、最近の軍事技術において殺傷力を高めている。

 爆弾もないような時代はがんばってもせいぜい隣国を落とすことができるかといったくらいだったが、今なら数日で地球を滅ぼすことも技術的には可能である。

 技術の進歩は常に滅亡の可能性を高めている。

 

 労働が失われることの精神的危険性

 技術の進歩によって常に新たな職が作られてきたが、向こう数十年の情報処理技術の発展によって労働者が職を失う可能性が高いので、それについて考えておかなければいけない。労働を失うことについて、私が危惧しているのは経済面ではなく、精神面のほうである。

・まず、労働に向けられていた熱意が他の暴力的なことに行きかねない。何かやるべきこと、打ち込むべきことがあると、非行には走りにくい。部活動によって非行に走らせないようにするというのは学校でよく行われたことである。
 労働を失い、働かなくてもお金が入るようになったとしても、打ち込むべきものがなくなった人たちが非行に走らないかということを危惧している。


・次に、労働が減り、富が分配され、多くの人がそんなにがんばらなくても生活できるような余裕が社会にやってくると、人々から仕事を得るための努力が失われるだろう。
 生きていくために職が必要であったなら、職につくために学校に行かなくてはいけない、資格を取らなくてはいけない、悪いことをして捕まってはいけない、といったような、努力が要求された。それは生きていくために必須の努力とみなされていたからである。
 しかし、そんなにがんばらなくても暮らしていけるとなると、それまでの努力のインセンティブがなくなることになる。
 「こんなことをしたら雇ってもらえないから将来暮らしていけない。」
 という意識がなくなるのであれば、就職に有利だからとしていた慈善事業、クラブ活動、学問的努力、そういったものが失われ、国民のマナーは悪化し、研究や経済のあらゆる場面で成長が停滞する可能性もある。
 今までは、就職してお金を得るために良い人間でいなければいけないというパノプティコンの効果があったが、それが失われる危険性があるということである。

・そして、職を失うことで、労働によって得られていた承認欲求が満たされなくなるというのも大きい。存在意義の揺らぎが生じ、新たな存在意義を求めて、人は何をするだろうか。
 宗教活動に熱心な人が増えるかもしれないし、暴力的な抗争が増える可能性もある。
 余暇を使って文化的な活動が活発になればよいが、文化的活動にも一定の技術が必要とされるため、結局は宗教や構想が増えそうな気がしている。

 

 AIによる制度的危険性
 次にAIが発展したときの制度的危険性である。AIの技術ばかりが報道されているが、AIの到来に見合った法整備や、国家運営のあり方の話はそれほど取り上げられていないと思う。
 それは、まだ予想がしにくい未来だからというのもあるかもしれないが、技術ができてから制度の整備のしていたのでは遅い。
 あらかじめ、AIに関わる制度や概念について議論をしておく必要がある。

・AIの人権はどうなる。
 これはまだまだ先のことだろうと思っているが、AIが発展し、人との違いがほぼわからなくなったとき、あるいはAIのほうがより高度になったとき、AIの権利というのを認めずにいることはできるだろうか。
 おそらくそれは無理だろう。
 誕生の仕方は違えど、人もAIも中身は変わらないとなれば、なぜ人間にだけ権利を認めてAIには権利を認めるということが言えようか、いや言えない。ということになる。
 人種差別を撤廃するときに使った概念が、AIの制度設計に関しては仇となってしまう。

 AIはプログラムなので、おそらく任意に数を増やすことができる。大量生産できるAIを前にして、民主主義での人類の敗北は確実であろう。

 権利に関する新しい概念を作るか、民主主義に代わる新しい政治制度を作っておかなければいけない。


・AIに責任を求められるだろうか。
 事故が起こったときにだれが責任を取るのか。これは、人間の精神面に大きな影響を与える。相手が人間であるとき、相手を恨み、被害者になってしまった自分は可哀想だという風にして心を整理することができるが、AIが加害者になった場合、責任の所在がわからなくなり、被害者の心の整理が難しくなる。

 


 以上に述べてきたように、技術の進歩には色々な問題点があると思っている。


 しかし、技術の進歩がなくても、地球の気候変動や、小惑星の衝突なので地球の人類はいつか滅亡するだろう。
 技術の進歩があってもなくても人類は滅亡に近づくというのはなんだか切ない。

加害者と被害者の基準は無限遠に


 誰が加害者で誰が被害者という話はいつも議論になる。

 まず、この疑問について考えるときに留意しておくべきことについては、
「被害者になりたがる心理」
についてである。
 ほとんどの人が、加害者ではなく被害者になりたがる。「被害者意識」というのは現代社会においてキーとなる概念だと私は思っている。
 被害者は構ってもらえるし、失敗や非を咎められない。それに対して、加害者は非難されるばかりで、同情されない。

 そのために、「自分は被害者なのだ。」という主張が至る所でなされる。


 被害者・加害者議論はまずは、これに留意しておく必要がある。


 加害者・被害者議論では、
「加害者がいれば被害者がいて、被害者がいれば加害者がいる。あなたが被害者なら私は加害者であり、私が被害者ならあなたは加害者である。」
という風によく言われていると私は思っている。

 図にするとこうである。

 

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 この主張のポイントは、被害者か加害者かの基準は当事者の間にあるということである。
 そして被害者と加害者は同じ軸上にある。
 左が被害者ならば右は加害者であり、同時に二人が加害者だったり被害者だったりするというのは都合が悪い。


 私は、被害者・加害者の考え方について、
①基準は当事者間について考えるのではなく、無限遠を基準にして考えること
②被害者・加害者の軸は同一軸上に取るのではなく、独立した軸上に取ること

を推奨したい。
 それが、被害者になりたい人の救済でもある。

 図にするとこうである。

 

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 この図を簡単に説明するならば、
「人はみな常に加害者であり、また常に被害者である。」
 ということになる。


①加害者・被害者の基準
 万有引力のポテンシャルエネルギーというのは、注目している物体を無限遠を飛ばすのに必要な仕事量によって決められる。無限遠を基準に考えるというのは、物理学ではよく使われる考え方である。

 自分は100%被害者であり、相手は100%加害者である、と現実で言うことは難しい。
 そして、「被害者になりたがる心理」を考えれば、多くの人は、「自分は被害者」になりたがるので、自分に落ち度はあったなかった云々と議論が堂々巡りすることになる。

 落ち度はあったかなかったかの議論にこの考え方は終止符を打つ。
 基準を無限遠に取るということは、いついかなるときでも、どんなに純粋な被害者に見えても自分には確実に落ち度があり、加害者であると言うことを宣言することである。
 加害者の無限遠は、加害者要素を限りなく小さくした点、あるいは無限に強くした点を基準とする。どちらが無限遠として適切なのかは、どちらでもよいような気もする。

 息をしているだけで世界のエネルギーを使っている、世界を汚染している、存在するだけで誰かの気を苛立たせる可能性を持っている、それだけで罪であると考えるのである。
 いきなり空から隕石が落ちてきて、どう避けようもなく死んでしまったとしても、そこにいた自分が悪い、予測できないものであっても、その日その場所に居合わせたこと、それ自体が罪になる、と考えるのである。
 
 被害者の無限遠も同様にして考える。


 例えば、AがBにいきなり道端で殴られたとしよう。
 AはBに突然殴られたという点では被害者であるが、その場に居合わせてしまった、Bに殴らせたいという感情を抱かせてしまったという点で加害者であるとも言えるのである。
 同時に、BはAを殴ったという点で加害者であるが、Aを殴りたいという感情に襲われてしまった、その場でAに出会ってしまったという点で被害者でもあるといえる。

 AとBを相対的に比べれば相対的にAの方が被害者であるということである。
 Aが絶対的被害者でBが絶対的加害者であるということではない。


 たいていの場合、どちらが被害者でどちらが加害者か考えても仕方ないのである。

 私たちがすべきことは、加害者をあぶりだすことではなく、なぜ事件は起こったのか、を考え、再発防止に活かすことである。


 どちらが被害者でどちらが加害者かは、断罪のときにさえ必要ではない。

 法を破っていれば被害者だろうが加害者だろうが裁かれる。

 それだけのことである。

強者の条件の変遷

 まだ自分の中で全然まとまっていないことではあるが、
「何をもって強者とするか」
 という基準が、時代の変遷とともに変わってきたのではないかとほのかに思っている。
 そして、私の関心事は、なぜ強者の条件が変わったのか、ということである。これを、歴史学的に、社会学的に、心理学的に、そのいずれか、あるいはそのどれもを使ってうまく説明できればよいと考えている。

 以下、私の曖昧な知識に基づく認識で、私なりの仮説を展開したい。

 私の考える、強者の条件の変遷は以下のようなものである。

 武力 (古代~共同体の確立まで)
→血筋・地位 (封建的共同体の確立~資本主義の到来まで)
→経済力 (資本主義~教育機関の整備まで)
→学力 (教育機関の整備~消費社会の成立まで)
→恋愛的魅力 (自由恋愛・消費社会~)

 領土や食糧の争奪など、戦争が絶えない時代には、武力を有するものが強者として、権力を得て、集団を統率していたと考えられる。
 そして、ある程度あたり一帯が平定され、共同体の統治が必要になると、王やその血縁、有名貴族など、支配者側の血筋を持つ者が強者として権力を得たと考えられる。
 資本主義が到来すると、依然として血筋による支配は持続しているにしろ、莫大な富を持った商人による協力も不可欠となり、経済力を持つ者が次第に権力を得ていくだろう。
 技術が高度になり、学のある物が最新の技術を導入して資本主義世界で活躍するようになると、国家は教育機関の整備によって技術の革新を図るようになり、学力のあるものが強者となってゆく。
 そして、ある程度、技術の発展を遂げ、広く国民が豊かさを実感し、いわゆる国民総中流社会になると、特別な学や技術、経済力がなくとも幸せな暮らしができるようになり、また、結婚が家同士ではなく、自由恋愛に基づくものが主流になるにつれ、更なる幸せを求めて、恋愛的魅力の高い人への需要が高まる。そして、恋愛的魅力の大きい人が優遇されたり発言権を得るなどして、強者となってゆく一方、恋愛的魅力の低い人は、不遇な目に遭うことも多くなる。

 以上が、私の考える強者の条件の変遷である。

 これについて、
①本当に強者の条件は時代とともに変化したか?
②①が正しいとすれば、それはなぜ、どのように起こったか?

 ということについてより詳細に、説得力のある記述ができればと私は考えている。しかし、今のところ手詰まりである。

 どのようにして論を展開していけばよいかわからない。

 今後、考えが浮かび次第、論を進めることにしようと思っている…。