ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

キラキラしたものは苦手だったのに

 

 私はもともとおしゃれなものとか、綺麗なものとか、そういうのが苦手だった。


私はときめく喫茶に行くよりは図書館で歴史や哲学、工学系の本を探しに行くのが好きだった。


それはその向こう側に、騒ぐのが好きで、刹那的なその日暮らしをしている人が目にみえていたのかもしれない。


そういった人たちが苦手だったし、自分がそうなりたくないと思っていたのかもしれない。

 

あんまりでかけたこともなかったし、服はたくさん持ってなかったし、出かけるほどのお金もなかった。

 

それよりも家にこもって本を読んだりコンピュータをいじったりしていたし、そういうことのほうにより価値を見いだしていた。

 

私はもともと大事にしていたものも今も大切にしている。

でもそれだけじゃなくて、今は他にも世の中には素敵なことが溢れているのを知っているし、大切にしたいものがある。

 

私に、世界に溢れる綺麗で素敵で楽しい物を教えてくれた恩人がいた。

 

その恩人は、何でもよく知っていた。

誰も知らないような最近出来たばかりの素敵なお店を知っていたし、美味しいレストラン、喫茶、パン屋さん、楽しいレジャー施設も、いい映画館も、観劇する劇場も、いい服も、いい食器も、素晴らしいイベントも知っていた。

外国にも十数ヶ国に行っていたし、海外のことにも詳しかった。

音楽とか絵画とかに関する造詣も深かった。


その人に色々と学んだことは多い。


地元のちいさなシネマ。

古いけれど趣のあるところだった。

そこではそのシネマの運営がおすすめするものが順番に上映されていて、そこで今まで知らなかった有名な監督の作品なんかを見つけられた。

 

外国のおいしいお菓子とか、いいお茶に親しむようになった。


現代芸術の展示会で、空間を感じられるものの良さを知ってそういうものをたくさん探すようになった。


その人から教えてもらって、私は街の中に溢れる素敵な者たちを探し始めた。

 

おしゃれなものが好きになったし、おしゃれは誰かのためのものじゃなく、自分の生活を彩るためのものだとしった。

でかけるとお金はなくなるし、時間もなくなっていく。

 それでも、すごく楽しい。

 

思えば、そういったときめくものに対して自分で手を出さずにこれまでの自分の暮らしを肯定したかっただけかもしれない。


しかし、私はいつしかそういったきらめいたものを探すのが普通になって、きらめきを探さない人に対してのもどかしさを感じ始めてしまっていた。


自分の中でのそうした変化に戸惑いを覚えた。


出かけるプランを立てるとき、自分は行きたい素敵なお店があっても、寄りたいところや行きたいイベントがあっても、そういう行きたいところがひとつも出てこないかったり。あれが可愛い、これがかっこいいと、色んな物や服や雑貨の良さを語っても、そうなんだーよくわからない、といった返事しか返ってこなかったり。


それはかつての自分のようにも感じるし、だからこそそこにもどかしさを感じるのだろうか。


何かを大切にすることは他の何かをないがしろにするというわけではない。


私は恩人に感謝している。

今は色んなものが好きだし色んなものを大切にしたい。

これからも素敵なものに胸をときめかせたい。


 

 

 

教育をスーパービジョンすることでの質担保

教育は至るところで、行われる。学校教育だけでなく、職業教育、サークル活動、などなど。

だからこそ、よい教育の仕方というのをちゃんとわかっている必要があると思う。

よい教育の実践ができれば、どんな場面でも人を育てられる。

教育の質の担保のために、教育の方法自体を教育することを考えた。
教育のスーパービジョンだ。

これを思った背景にもつながるけれど、最近、保育士試験の勉強をしていた。
教育原理や発達心理学には非常に参考になる。
ゲゼルのレディネスの考え、エリクソンの発達についての課題、教育思想として、これまでルソーやコンドルセが何を考えてきたか。
教育方法としてのブルームの完全学習、キルパトリックのプロジェクト・メソッド、ブルーナーの発見学習、オーズベルの有意味受容学習、などなど。
教育についてはいろいろと参考になるところがある。

とはいっても、だれかに教育する人みんなが、こういった教育思想や心理学に詳しいわけではないだろうし、それを求めることもできまい。

けれども、教育は至るところで行われると言った現実がある。

では、それぞれの教育についてよい質を担保しようとおもったら、上に述べたような教育に関する詳しい話を知っている人が、教育する人をスーパービジョンして、よりより教育に導くというシステムが望ましい。

教育自体を教育するという方法がなぜか現場の文化で育っていないのはどうしてなのか。
もっと教育自体の質の担保のために、教育自体をスーパービジョンするという構造を色んなところで取り入れることができたらと思う。

そういった構造を作るためには、さらに教育をスーパービジョンする人材の育成のスタンダード化が必要になってくると思うし、そういった人材のためのコアカリキュラムを作成する必要があるのではないかと思う。

現場の教育を良くして、パワハラと教育を履き違えている人から、人々を救うのだ。

人との出会いが次に繋がる嬉しさ

新しい人に会っていろんなことを話すのはすごく楽しい。

そして、それを次会う機会に繋げていけたらすごくいい。

結構色々と話をして面白い人は多い。

でも、その場で一度きりの関係になってしまうこともある。

けれど、そのあともスパンをあんまりおかずに、数回会える機会があると、その後長期にわたって関係を続けることができることもある。

はじめてをなんとかする力とそのあとを続ける力はまた違うのかなと思う。

そのどちらもあったほうが、人生はより豊になるし、関係にも恵まれる。

変化に対しての抵抗


何かをやろうとするときに、周りから否定はされなくても肯定はされないことがおおい。

「それって意味ある?」
「うーん、めんどくさい笑」
「何か進んだらまた教えて~」
「よくわからん」
「とりあえず、他のこと終わってからにしましょう」
「今別に困ってないんだから変えなくてもいいんちゃいます?」


何かをやろうとするときに、その真意というのはなかなか伝わらない。
真意が伝わったからといって印象が変わるわけではないのかもしれないけど。

でも、自分が意味のあると思うものについて、興味を持ってもらえない、抑止されるというのはつらい。
話も聞いてもらえないことは多い。


だから私は、人が何か変なことを言い出したときには、話を聞くようにしている。
真意がわからないうちは、とりあえず肯定的に話を聞く。

その人がやりたい気持ちを応援したいと思う。

私が住んでいる文化圏は、変化を拒む。
人が変なことをするのを避けたがる。

挑戦よりも安定を好むのか。

今よりよくなる可能性があっても、今よりめんどくさいことが増える可能性があればやりたがらない。

でも現状にはぶつくさ文句を言っている。


この前、以下の記事を読んだ。

http://simplearchitect.hatenablog.com/entry/2019/03/12/081739

アメリカでのこの人の体験は些細なことに「いいね」「応援するよ」という姿勢に支えられていた。


私たちは何かに成功することよりも失敗しないことのほうを重視して、ことなかれ主義で、保守的で、恥ずかしがり屋なのではないか。


人が何かをしたいという気持ちを大切にしたい。

児童福祉を勉強中。これからの子と親の援助―。

 

今は日本の児童福祉について勉強している。日本の福祉は思ったよりもたくさんのシステムがあって驚いた。

 

母子生活支援施設、自立支援施設、児童養護施設、里親制度、グループホーム、児童厚生施設、とあんまり馴染みのなかった制度名や概念がたくさん出てきた。

 

核家族化が進み、また、親の社会参加も進む中で、子どもの保育・教育にさけるリソースは多くはないし、周りに助け合える環境がない中で不安と孤独を抱えながら子どもを育てる親もいる。

 

子どもの側からみれば、家庭においては親の監督の下で生きるしかないことに不安を抱えている子もいるだろう。

親の権利は子どもにとっては諸刃の剣である。

 

子どもも親も、救うことはできないだろうか。

より負担の少なく、幸せな養育は実現できないだろうか。

 

子どもは家庭の所有物か、社会的養護の対象か。

 

私は、それについて考えた。「子供の権利条約」では、以下のように書かれている。

 

子どもの権利条約の第9条-1

締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。

 

 

www.unicef.or.jp

 

www.unicef.or.jp

 

親は子どもを養育する権利と同時に義務を負う存在である。

 

ja.wikibooks.org

 

 

こうした背景も踏まえてに、どのように親と子を幸せにできるのか。

それは、人間としての幸せを考える上でも重要になるはずだ。

 

順調にいってそうな親と子に対するアウトリーチは効果的ではないだろうか?

 

医療や福祉の範疇に入ってくる人は、ある程度の困難を抱えている人が多い印象を受ける。

かといって、なにも問題なくスムーズに言っている人には、援助は必要ないのであろうか。

 

そんなことはないと思う。うまく言っているように見せかけてるだけの人もいるんじゃないか。

 

壊れる寸前になって、あるいは壊れてから援助を求めるというのだけでなく、上手くいっている人にも定期的なメンテナンスをするというのがいいのではないだろうか。

 

車を壊れてから修理屋に持っていくのではなく、壊れる前に定期的なメンテナンス、車検を受けるものだろう。

 

人は自分のことになると強がりなのかもしれない。

 

必ずしも、援助するのは行政でなくてもよいだろう。

 

助け合いができればいい。

 

個人の困難を助けあいで乗り越えていくことはできないだろうか?

 

 

考え方の前にあるもの

価値観の相違というと、あたかも考え方の違いのようにも聞こえるが、その実、考え方の相違であることは少ないように思う。

「考え方の不一致」とされている話は多くの場合で、一致してないのは考え方ではないように思う。

一致していないのは、「知識」であったり「認識の仕方」である。

私がなにかを話したとき、提案したとき
「いや、それは違うと思う」
と言ってくる人がいる。

それで、何が違うのかと聞いてみると、結構な場合で、私の話を私が思っているのとは違う解釈をしている場合がかなり多い。
むしろ、ほとんどその場合であることが多い。

人の考えというのは、まずなんらかの「知識」があり、それをベースにした現実の「認識の仕方」があり、その上に成り立つものだ。

だから、その土台となる知識や認識がずれていたら考え方を比較することはできない。

相手の考えが自分にとって違和感のあるもので感じたときは、相手がどんな知識を持っていて、どんな認識をしているのかを確認してみよう。

いきなり、「それは違う」と言っては相手の伸び伸びとした考えを萎縮させるだけになってしまう。
否定から始めるというのは意外と難しい。

まずは、「違う」とは言わない。
「もう少し詳しく教えて」「これはどういうこと?」「こういうことを目指してるってこと?」
と相手の考えのベースについてちゃんと知ろうとしよう。

それが、建設的な話し合いへの一歩だと思う。


ただ、これには欠点があって、これは論理的で理詰めな話し方であるということを忘れてしまうと、思わぬところで、「誰もがそんな論理こねてると思うなよ💢」とぶちギレられてしまう。
気をつけよう。

愛は人をつなぐのか、愛をあげること

人と人をつなぐのは、お金か愛か。

経済的なもののみかたをすればそれはお金であるが、愛が人をつなぐこともあると思いたい。

愛がみな恋愛ではない。

人を思いやる気持ちは愛なのである。

「こういったことがしたい。これが世のためになる。」

そういったことを言っても
「お金がないと結局人が集まらないでしょ」
と馬鹿にされることもよくある。

人のつながりはやはりお金が強くて、愛は弱いのだろうか…
人はみな生活を抱えている。

そういえば、理不尽な処遇がなされた知り合いがいることに対しておこっていて、理不尽な対処について抗議をしようと心に火をともしていた知人がいた。

私はその人を応援していた。その人は理不尽に苛まれた知人への愛を持って動いていたからである。

しかし、その陰で
「生きるのが下手だ、上手く立ち回ればいいものを…頭が悪い」
と言っている人がいた。

私には衝撃的だった。
そんな風に物を考える人がいるのだと知った。


私は人が人を思いやることを大切だと思っている。

人を大切に思うことは、大切に思われることと同じくらい重要なことだと思う。

人は何かを与えられることで充足を感じるのだろうか。

私は、それは一面的な見方であると思うようになった。
人は誰かに大切にされることと同じくらい、誰かを大切にすることで充足を得るものではないのだろうか。

私はそこに愛が人間を形作るのではないかとの期待を感じた。

自分が辛いときこそ人を大切にしたい。
私はそう思う。