ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

稀勢の里と日本人の民族意識


 日本は国民国家なので、日本人の多くは民族問題には疎いところがあると思う。
 アメリカなんかよりも、民族問題が身近にあるとは思わない。

 周りは大体日本人って人が多いし。

 しかし、やはり在日朝鮮人やその他外国人の問題は依然としてある。自分が在日朝鮮人として暮らしていることを隠している人も私の身近にはいる。
 苗字も名前も日本風なので、本人から言われないと気づかない。


 在日外国人問題というのは、政治的問題という側面が結構強い。

 一方で政治的問題とはまた違った場面で民族意識を意識する場面が、日常には存在する。

 私が最近感じたのは、稀勢の里が、2017年初場所で優勝、その後横綱へと全会一致で推薦されたときのことである。

毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20170124/spn/00m/050/016000c
「1998年の3代目若乃花以来、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。」

THE PAGEのYahooヘッドラインニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170123-00000002-wordleafs-fight
「待望の19年ぶりの日本人横綱が誕生する。」

NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170123/k10010849951000.html
稀勢の里横綱に推薦決定 横綱審議委 19年ぶり日本出身横綱

 稀勢の里については、「19年ぶりの日本人横綱」以外にも、「30歳、遅咲きの横綱」、「悲願の初優勝」など、他にも話題になるトピックはあるし、それぞれの報道が、「19年ぶりの日本人横綱」を前面に押し出してばかりいるわけではない。
 元々の人気もあっただろうし、これだけ世間では騒ぎになっているともいえる。

 ただ、私の身近な人に、初場所中、以下のような発言をしている人がいた。
「やっぱり、優勝は、日本人の稀勢の里にしてほしいなー。」
 なるほど、たしかに、その通りだ、と私も思ったものだった。

 そして、稀勢の里は優勝した。
 その人も大喜びである。

 やったー。やったー。

 

 しかし。

 果たして、これでいいののだろうか、と私は思った。

 兼ねてより、稀勢の里を応援していた人もいる。しかし、稀勢の里が「日本人」だから、応援していた人もいる。

 白鳳だってモンゴル人だけれど、日本の相撲界での活躍はすごいし、日本に来て活躍しているモンゴル人力士に対してひどいんじゃないかなー、と思う。

 今までの外国人横綱は、元々、モンゴル人だった外国人だったから外国人力士と呼ばれていたし、その外国人力士に対して、日本人力士を応援するのは、スポーツの国際大会で日本を応援するのと似たような心情なのかもしれない。

 ただ、日本の相撲は国内大会であるという点で、他のスポーツの国際大会とは異なる。

 では、もしも、稀勢の里のような純系日本人ではなく、両親が日本に帰化した元外国人の子供だった場合、その子供は国籍上は、生まれも育ちも日本人になる(?)だろうが、そういった人間が、こういった国内大会で優勝争いした場合、
「日本人だから応援したい」
という気持ちが、純系日本人の場合と比べて変わるか、変わらないか。

「日本人って言っても、元々の血は外国人だし、ほんとの意味での日本人じゃないよなー。」
と言う人が一定数いそうな気がする。

 スポーツの国際大会に、日本代表として出場しているハーフの外国人選手もいる。
 あえて名前を上げないが、そのハーフの外国人には、見た目が日本人っぽくなく、黒人っぽい見た目の人などもいる。そういった人が活躍したときに、何か煮え切れない、盛り上がりきらない雰囲気を私は感じるのだが、それは私の周りにいる人が偏っているからなのだろうか。


 やはり、人々の間にあるのは、同じ国民としての一体感情ではなく、同じ民族としての民族意識なのだろうな、と私は想像する。


 自分の中に、自分の民族は応援したいし、自分の民族が他の民族にやられてしまうというのは嫌だ、という感情がある、ということに気づくことから始まるんだろうな。

 その感情が自分の中にあることを気づかないで、
「他の民族を差別するなんてひどい!なんでみんなで仲良くできないの!?」
なんて言っちゃダメなんだろう。
 自分の民族への意識に気づいたうえで、さて差別という行動に出るか、理解し合うという行動に出るか、という違いである。


 はたして、世界の争いというのは、本当に国家間の争いなんだろうか、と私は思うのだ。
『結物語』作・西尾維新
を最近読んだ。ここでは、平和活動として、国境を消して行く行為が描かれている。国境が消えて、国が消滅して世界統一政府ができれば本当に争いがなくなるのか、というと全然そんなことはないのだろう。
 

 また、移民政策についても、民族意識のことを考えなくてはいけないんだろうな、と思う。
 日本は、EUに比べれば、全然移民を受け入れていない。
 この移民については難しい。
 やっぱり、自分の国は、自分の民族がの国であってほしいと私は思ってしまうし、他の多くの人もそうだろう。
 移民を受け入れるときに、前提として、その移民が自分の国の隅っこのほうで暮らしてくれるんだろうということを想像してしまってはいけない。
「移民としては受け入れるけど、あんたもあんたの”子孫”も国の政治に関わったり、日本の中心となってはいけないんだぜ」
 というのはやはり無理がある。子孫までコントロールすることはできない。

 移民としてくる以上、その子孫たちが日本人となって生きていく可能性があるし、もしも、移民がたくさんの子供を産み、日本国民の過半数を移民が占めるようになり、日本の主要企業や政治家が移民の子孫ばかりになってしまったら、
「日本が乗っ取られてしまった。」
と感じる人もいるだろう。


 日本は、民族についてアメリカほど意識する必要がないので、民族問題の議論は遅れてるんじゃないだろうか。

 国家と民族は、どのように存在すればいいんだろうか。
 どこの民族を国民国家を形成すればいいというのは無理がある。

 民族ごとの統治機構を作り、思想ごとに国としての統治機構を作り、二重統治機構というのはどうだろう、と思ったけど色々課題がありそうだ。


 日本人の民族意識っていうのをもう少し考えてみないといけなさそうだ。

 

電車でのスマホの話とか


私がこの前、電車に乗っていたときの話である。
 その時間帯は、ちょうど電車が混む時間帯だった。電車が来たときには、車内にはやはり、それなりに人がたくさんいた。とはいえ、その日は、普段よりも人の量はましだった。
 電車に乗る前、駅のホームから車内を見渡した時には、結構空きスペースがあるように見えた。ホームに並んでいる人たちを見渡しても、これくらいの人数なら、まだ余裕を乗って乗れそうだと思った。
 しかし、電車のドアが開き、いざ、電車に乗り込もうとしたら、これがなかなか乗れない。扉のところぎりぎりまで、人が迫っていた。あれ、おかしいな、と車内をもう一度、窓を通して見ると、やはりそれなりにスペースはある。通路のところはまだ空いている。
 おかしいな、と思いながら、そのときは、なんとか人を押し込むようにして乗れた。
 その後、電車が発車してから、車内を見渡して気づいた。
 空きスペースを前にして、不動の人がいることに。
 しかも、その人は、両耳にイヤホンを当てて、スマホを見ていた。

 おいおい、こいつは…。

 なんとか、その人に前に進んではもらえないかと思ったが、顔は手元のスマホに向かったままであり、顔を上げる気配がなかった。
 どうやら、わざと空きスペースを前にして動かないというわけではなく、そもそも、後ろに人の山が控えているということに気がついていないようだった。

 その後、しばらく、私は、人の山の中で電車に揺られていたが、その人は、人の山がなくなるまで、顔を上げることはなかった。


 スマホを扱う時、あるいは、読書している時、あるいは、友人としゃべっているときなどもだが、何もせずに突っ立っているのではなく、あることをしていると周囲への注意は低下するだろう。
 電車の中で、座っていたり、壁際にいたりするのではなく、通路に立っている場合は、駅の到着前後は、
「近くの乗客に降りる人がいないか、その人の邪魔になっていないか。」
「新しく乗ってくる乗客はどのスペースに入ろうとしているか、自分がスペースの通り道を邪魔していないか。」
といったことを気にして、一度顔を上げ、周囲に注意を払ってほしいと思うのだ。
 他の乗客の移動がひと段落して、移動する人がいなくなればまた自分の作業に戻ればいいだろう。

 電車の停車の少し前から、電車が再び動き出すときまでの間は、通路に立っているなら、一度、スマホ操作、読書、おしゃべり、そういったことを中断する、といったことをマナーとして弁えてはくれないものだろうか。

「電車の停車発車前後は顔を上げやがれ!」

 私は、その日、そう思った。

 

余談:
 スマホの登場前、人びとは、電車の中で何をしていたんだろうか。本を読む人が多かっただろうか。そんなこともないかもしれない。
 スマホがないころは、待ち時間や電車の時間は時間を持て余していたことが多かった気がする。
 別に今も、皆がスマホを触っているというわけではないのだが、若年層の、電車や待ち時間の過ごし方としては、スマホを扱うといった選択が多い。
 スマホのおかげで、今まで持て余してしまっていた時間を楽しく過ごしたり、有意義に過ごすことができるようになった。スマホSNSもできれば、PDFや電子書籍を読むこともできるし、インターネットを使って調べ物をすることもできる。
 パソコンを誰でも簡単に持ち運べるようになったと考えてよいだろう。
 
 スマホは、一人で何かを待っていなければならなかった時間を埋めるのに大きく役に立つ。


 とはいえ。

 主作用として、スマホが一人の時の時間の消費の仕方を提供したのなら、その副作用として、周囲への注意力の低下などももたらす。

 スマホの普及というのは、それ自体は、活動形態の変化であり、その活動形態の変化は、一つの影響を持つのではなく、色々な方向に影響を持つ。
 たいてい、新しい技術の普及、新しい制度への移行といったことが、ある一つの影響のみを持つということはない。活動形態の変化は、複数の影響を持つものである。

 インターネットの普及は、世界中の情報へのアクセスを可能にしたが、同時にプライバシーの問題も深刻になったし、車の普及は長距離の移動を可能にしたけれど、屋外で遊ぶことの危険が増した。

 主作用には副作用が伴う。

 主作用のみに注目して、変化を推進するのでもなく、副作用のみに注目して変化を拒むでもなく、両方について考えて変化を捉えないとだめだなーと自分にも言い聞かせておこう。

 

 そして、物事を一面的にばかり捉えている人には、もっと多面的に捉えろと言いたい。

 

かおなしを「無職で孤独なおじさん」として解釈

 

ちょうど、昨日(2017年1月21日)、金曜ロードショー千と千尋の神隠しが放送されました。
久しぶりに観て、昔はカオナシがただの妖怪だと思っていたのですが、今回観て、カオナシに「無職で友達がいないおじさんが、キャバクラに行って問題を起こしたけれど職業訓練を受けて人生をリスタートする姿」を連想しました。
以下では、カオナシを現実世界でのおじさんに投影した場合にどうなるか、私なりのカオナシの解釈を述べます。
ここでは、油屋=キャバクラと置き換えています。


物語冒頭

カオナシおじさん「職もない。彼女もいないし、結婚もできない。友達もいない。寂しい。つらい…。」
そこに千(千尋)が通り過ぎる。
カオナシ「あの子かわいいな。ここで働いているのかな。」

カオナシ「ああ、あの子と喋りたいな。でも、とりあえずあの子を眺めるだけにとどめておこう。」

雨の中、千を眺めるカオナシ
千「そこに立ってると濡れませんか?開けときますね。」

カオナシ「こんな俺を入れてくれた。なんていい子なんだ。あの子と付き合いたい。あの子が欲しい。」

名のある川の主から出てきた砂金を集める人々を見たカオナシ
カオナシ「なるほど、こいつらは砂金が好きなのか。砂金持ってくれば客として扱ってくれるのか。それに、あの子は千というのか。千も砂金をあげたら喜んでくれるかな。」

カオナシ(あ、でも砂金ない…。作ればいいか。)

砂金…通貨偽造

千とはじめに鉢合ったカオナシ
カオナシ「千、ほらお金をあげよう。」


千「私、受け取れない。」

カオナシ(え、なんで。お金あったら喜んでくれるんじゃ…。)
カオナシ「あ…。あ…。」

踊ってたやつ「とんだご無礼を。」

カオナシ「ふっざけんなっ!!お前に俺の気持ちがわかるかよ。だまれ!」

カオナシ、自分が狙っていた嬢に拒絶されて暴れる客と化す。

しばらくたって、千がカオナシがいる部屋に呼ばれる。

カオナシ「千、ほらお前にもこんなにお金をやろう。好きなものを買ってあげよう。だから俺の女になれよ。」

千「私いらない。あなたには私が欲しいものを出せないわ。」

カオナシ(またもや、拒絶された。)
カオナシ「寂しい…。寂しい…。」

カオナシ、千からお団子もらう。お団子が吐くほどにまずかった。
(あるいは、アルコールを飲んでいたカオナシに対して嫌酒薬として作用した。)

カオナシ「くっそー。ふざけおって!!俺の女にしてやる。待てこら!」

千逃げる。カオナシ、吐きながら追いかける。

湯婆婆「お客様とて許せぬ!!」


海(?)にたどり着いた千。

千「こっちだよー。」
リン「呼んでどうすんだよ。」
千「あの人、ここ(キャバクラ)にいちゃいけない気がする。キャバクラに通わせるのやめさせなくちゃ。」

カオナシ、ゼニーバの元へ。
カオナシはそこで服飾の技術を教わる。
ゼニーバ「あんたはここで働いていきな。」

カオナシ(職もなかった、友達もいなかった。けれど、ここでやっと職業訓練を受けて働くことができる。)
カオナシ「俺も人生をここからやり直そう…。」


おわり

夢と無意識、明晰夢


 夢は無意識があらわれるというが、実際どうなのか。
 私は、夢分析には少し疑問を抱くが、夢自体が、無意識を表しているという意見にはある程度、賛同する。
 ある程度、といったのは、本当にそれが「無意識」なのかどうなのかは判断しかねるからである。意識と無意識の間かもしれない。

 私は、覚醒から眠りについて夢を見るまでを連続的に意識することがあるのだが、「夢が無意識を表しているのではないか。」というのは、その経験から考えている。所謂明晰夢というやつだろうか。
 意識してもやはり何の夢を見ていたかは忘れてしまうのであるが、これに関してはそれほど疑問視もしていない。
 
 順に、具体的に私の意見を述べよう。
 まず、私は、言葉を使って意識的に考える以外にも、我々はいろいろなことを考えていると思っている。
 とはいえ、私は、フロイトが言うような意識、前意識、無意識、といった意識構造の分け方には賛成しない。私が考えている人間の意識構造の一つのモデルは、以下の様なものである。
①言葉にでき、認知できるもの(言語化認知領域)
②言葉にはできないが、認知できるもの(非言語化認知領域)
③言葉にはできないし、認知もできないもの(非言語化非認知領域)
 私は、意識については、言葉にできるかどうか、また、言葉にできなくても感覚的に認知できるかどうかに注目して分けるべきだと考えている。とはいえ、これらは明確に区別されるものではなく、連続的なものだろう。

 恋心になぞらえて、具体例を挙げるなら、
 ①言語化認知領域は、「○○のことが好きだ。」と自覚している状態である。
 ②非言語化認知領域は、「なぜだかわからないけれど最近ぼーっとする」といった状態である。
 ③は、「恋していることにも気づかない」状態である(これを恋と呼ぶのかどうかはここでは議論しない)。

 認知において、私たちは言語に大きく依存しているため、言語化できるかどうかは、意識領域を分ける上で重要である。言語化できる領域までが、私達が認知可能な領域だという人もいる。私達の認知がどれだけ言語に依存しているのかについては、ソシュールやヴィントゲンシュタインなどの記述を一度探してもらうとわかりやすい。

 私の仮説としては、このように、私たちは自覚していないところで、何かを感じ、考えている。しかし、それは、普段は①言語化認知領域の感覚が強いので、意識的に探してもなかなかわかりにくいのである。

 基本的に、私達の感覚は、強い感覚が優先され、弱い感覚はマスクされる、といった傾向がある。
 聴覚で言えば、電車の中では小さい声が聞き取れなかったり、耳をふさげば自分の体を伝わってくる自分の声が聞き取れたりする経験や、視覚で言えば、明るいところでは星の光が見えないこと、触覚で言えば、0.000kgから0.050kgの変化には気づけても、10.000kgから、10.050kgには気づけなかったりする。
 自分の意識についても、私は同じだろうと考えている。

 夢を見ているときというのは、明晰夢の経験から言うと、①言語化認知領域の感覚が非常に弱い、またはなくなってしまっている。また、現実世界からの五感の刺激に対してもかなり鈍感になっている。
 したがって、私は、夢を見ているとき、②非言語化認知領域を強く感じるのである。
 目を覚ますと、夢を忘れてしまうのは、おそらく、②非言語化認知領域の感覚は元々弱く、しかも普段は言語化されない領域であるので、言葉として保持することが難しいからだろう、と思う。
 稀に、夢を覚えているのは、②非言語化認知領域をたまたま言語化することに成功した場合だと考えている。
 夢の中で誰かと喋った経験についても、あくまで、②非言語化認知領域は感覚を言語化できないだけで、誰かと何かを喋ると言った感覚自体を認知できないわけではないと私は考えている。
 例えば、誰かとこれからご飯を食べながら何か話すというとき、相手に話す内容を具体的に言葉にはしなくてもなんとなくイメージしている。それに近い。
 夢が脈絡がなかったりするのも、言語化して認知することができないので、理性的に整合性を取って思考するといったことができず、感覚の連鎖が起こっているのだと私は考えている。


要するに、私が考える夢とは、「覚醒時は現実にマスクされてしまっている意識領域」であり、以下のGIFのようなイメージである。

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・さいごに
 では、この私の仮説を、生物学的根拠を以って説明するにはどうしたらよいかについて考えてみる。

・実験的証明の計画
 眠っているときに、手を触ったりして触覚を刺激したときに、脳の中で手の体性感覚を司っている部分の血流量が覚醒時と比べて顕著に変化しなければ、外界からの刺激には鈍感になっており、現実世界の感覚の鈍麻が判断できる。また、ウェルニッケ野の血流量がレム睡眠時に低下していることがわかれば、①言語化認知領域が睡眠時に後退しているか可能性を指摘できるかもしれない。ただ、実際はそう短絡的にもいかないだろう。
 また、REM睡眠時に、脳の視覚や聴覚の部分の血流量が上昇していれば、実際に夢のなかで何かを体験していると言える。
 (どちらも、先行研究がありそうなので、それを調べればよいだろう)
 レム睡眠とノンレム睡眠は、レム睡眠を覚醒時に近いが、外界からの感覚の鈍麻や、①言語化認知領域の認知の後退、ノンレム睡眠は気絶状態、と考えれば説明はできる。
 脳波については、どのように説明するかはまだまだわからない。


 夢や睡眠、意識について、何か明らかにできればよいのだが…。

オタク批判について―日常系マンガやラノベ作品が理解されにくい理由

 最近(2017年1月1日現在から見て)は、アニメやマンガ文化は、多くの人に受け入れられつつあり、今回の冬コミ、C91には、叶姉妹が降り立ち、そのファビュラスな存在は、多数の話題を生んだ。星野源などの爽やか系タレントが、アニメオタクと公言するなど、アニメやマンガを取り巻く環境は、以前と比べて非常に良くなった。

 しかし、一方で、アニメやマンガ、ラノベ作品の一分野においては、未だ軽蔑的な態度で語られるものが多く存在する。

 

 そこで、ここでは、まんがタイムきららに代表される日常系マンガや、ラノベ作品がなぜ理解されにくいのか、考えたい。ここでは、ラノベ作品やきらら作品といった場合、書籍、及び、そのアニメ化作品どちらについても言及する。
 とはいえ、ここで戦う相手は、結局は藁人形になってしまうのだろう。藁人形。勝手に仮想的を作って戦う行為。
 しかし、ここではやむを得まい。具体名を出すわけにもいかない。妥協的措置である。

(2017/1/5追記)

 ここでは、腐好き、百合好きの女性などに対するオタク批判、といったものについてはあまり取り上げない。この記事内で、「オタク」といった場合には、主に「ヘテロシス男性」を想定されたい。

 

でははじめよう。

 まず、私は、きらら作品やラノベ作品に対して、こんな意見を実際ネットで目にしたことがある(ニュアンスだけを抽出)。

「現実では相手にされないオタクのこじれた性欲を感じる。」
「こんなキャラは現実にはいない。」
「オタクの妄想である。」


これに対する私の見解を、一言で表すとこうだ。


「(゚Д゚)ハァ~? 」


 危ない危ない、口調が崩れてしまった。しかし、これというのも、こういった発言をする人たちが、実際に、ラノベ作品やきらら作品を目にしたことがあるのかどうか疑問だからである。
 ラノベ作品やきらら作品と言うと、扱うのが広いので、一概に述べることは難しいのであるが。実際に観たこと・読んだことがないのではないだろうか?もしくは、エロ同人と公式作品を混同しているのではないか。


 他にも、ラノベ作品やきらら作品を嫌う人に多い誤解としては次のようなものもある。例えば、ラノベアニメ、萌系日常系が好きな人がどういうのが、好きかと聞いてみると、次のようなことを言う人がいるだろう。
・「○○たんだいしゅき!」と言った具合の口調でキャラを愛する。
・「メイド喫茶」みたいな、女性が媚を売ってくるのが好き。

 私は、これにたいしては、「一体、何を想像しているのだろう。」という感想を持つ。


 さて、ではこれらも踏まえて、具体的に批判者の層別に分けて、考えを進めていこう。

 

ラノベ作品やきらら作品を観たこと・読んだことがない人の批判
 要するに、ラノベ作品や、きらら作品を観たこともなく、また、それらを好きな人に対しても、実態は知らずに想像だけで語っている人というのが一定する想像する。
 この人達がやっていることは、
・日本人ということは、出っ歯で、自分の意見を言わず怖ず怖ずとした猿みたいな人種。
・中国人は、パクってばかりの民度が低い人種。
・韓国人は、暴力的で、日本人をこき下ろすことばかり考えている人種。
・海産物が好きだと言ったら、「じゃあ、きくらげとかも好き?」と言われた。

 と言うのと同じように、結局、詳しいことは知らずに偏見で語っているだけである。
 観たことあるのは、所詮CMくらいだろう。

つまり、これらの人たちから、ラノベ作品やきらら作品が毛嫌いされるのは、単に、作品や、それを鑑賞する人への偏見が強く、実情をよく知らないからである。
 これらの層については、正しい認識を広めていくことが重要となる。

 

・作品自体と、観客層を分離して考えられない人
 作品自体についてと、その作品を観ている観客層を混同して考えてしまっている人がいる。
 たとえば、「この作品を観るのは腐女子が多いから、この作品は嫌いだ。」とか、「EXILE好きには、パリピが多いから、EXILEを好きになろう。」とか、「このアニメ作品を好きな人は、見た目が気持ち悪い人が多いから、この作品は気持ち悪い。」とか。
 それは正しい認識とは言えない。バイアスがかなり強くなってしまって言る。こういった人たちが観ているのは、その物自体ではなく、「何が好きといえば、どういった属性の人種になれるか。」なのである。
 作品をグループに迎合する手段としてしか見ていない。
 本来は、「作品自体」ではなく、「その作品が好きな集団」について言及すべきであるのに、そこを取り違えてしまい、しかもその取り違えに気づかないというのは残念なことである。

 

・アニメオタク→根暗、陰キャラという論理を使ってしまう人
 根暗、陰キャラという言葉は、一般的な用語ではなく、西欧人が原住民をして「野蛮人」と呼んだように、西欧人がアジア人をして、「黄色い猿」と呼んだように、誰かを侮辱したくて暴力的な人間が生み出した概念であるので、別にクラスで無駄に明るく振る舞ったり、中身がスカスカの会話をしたり、意味もなく集まったりするような人と比べて、劣っているとかいった概念ではまるでないと私は考えていることを先に述べておこう。最近は、「陽キャラ」なる概念があるらしい。この言葉が、肯定的な意味を持つのか、否定的な意味を持つのか私は知らない。「パリピ」といった言葉が否定的な意味を持つ層と肯定的な意味持つ層があるように、もしかしたら集団によってその意味は変わるのだろうか。
 さて、本題であるが、基本的には、「アニメは開放的に人々を受け入れる。」といった事情と(別に会員登録して集まったりする必要はないので当然である)、「パーティーやその他会合は、排他的である。」といった事情を考えればよい。
 100人がいたとして、そのうち、20人が+、80人が±、20人が-といった属性を持つとして、「開放的活動」は、すべての符号を受け入れるとし、「排他的活動」は、+のみを受け入れるとする。すると、開放的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は0になり、排他的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は+20となり、相対的に、排他的活動のほうは、+に傾くのである。
 要するに、アニメオタクが「周囲と馴染めない人」、なのではなく、アニメは、受け入れる幅が広いので、結果、「周囲と馴染めない人」も人口の割合としては排他的な活動よりも多くなるのである。
(これについては、反論もあるかもしれない。ここでは、あくまで一つの仮説を述べた。)

 これについては、具体的にはこのような例が言える。
ごちうさ」を観ている人は、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている。」わけではない。
 実際には、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている」人口が一定数いる可能性があるとはいえ、論理の方向としては間違っている。それは、作品とは別の問題である。

 

それでは、以下では、実際に作品を観た上で批判している人たちについて述べていきたい。

 

・「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」という人たち
 先程、こういった発言をする人たちは、実際に作品を知らないのではないか、と書いたが、実際には、作品を見た上で、こういった批判をする人たちも存在する。しかし、この場合は、先程とは違い、的を得ている意見も多い。詳らかに見ていこう。

 まず、触れなければいけないのは、物語が成立している「フレームワーク」を受け入れることができるかどうか、から物語の理解は始まる、ということである。

 一般的に、創作物語の中の登場人物は、現実とは違うフレームワークで動いていることが多い。具体的には、女性の口調が「~なのよ。」「~だわ。」となっていたり、現実ではなかなかありえない行動を取ったりする、または、世界設定が現実とはだいぶ違うSF世界、といったことである。これは、別にラノベ作品やマンガだけに当てはまらない。ほとんどの創作物語では、この傾向がある。ただ、現実のフレームワークとの差で言えば、マンガやラノベ作品が、他の創作物語よりもその差は大きくなりがちである。

 ラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実に近いにもかかわらず、フレームワークが現実とはだいぶ違っている、というのが、物語を受け入れる上では一つのハードルになっていると私は考える。

 これまでのSF作品や、マンガなどでは、世界設定が現実とは大きく違うことが多かった。その結果、読者は視聴者は、「この世界は現実とは違うフレームワークで動いている」ということが容易に理解できた。
 一方で、昨今のラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実を出発点、ベースにしているものが多い。ラノベ作品は異世界転生系が多いので、別に、現実を出発点とはいっても、他のSF作品と変わらないんじゃないか、というのはたしかにその通りなのだが、主人公は、現実世界の感覚を持ち続けるものが多く、やはり基準は現実世界の設定に従っている。また、学園ハーレム系なんかでも、設定は現実世界のものに従っている。
 そのため、視聴者や読者には、「この物語は違うフレームワークで動いている」ということが伝わりにくく、慣れていない読者・視聴者は、「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」と言いたくなってしまう。
 例えば、巨乳キャラが出て来るアニメを観る男性に対して、
「こういう巨乳の女性が好きなんだろ?」
 というのは、まあ確かに好きな人は多いのだが、それは、俺様系が出て来る乙女ゲームをしている女性に対して、
「こういうのが好きなんだろ?オラオラ」
 とするような、あるいはエロ本を読んでいる女性に対して、
「こういうことされたいんだろ?」
 というような、少し的を外れた意見である。
 ラノベ作品やきらら作品に出てくる女性像は、「現実にいたらいいなという欲求の表れ」ではなく、創作物語の中の「キャラ」として作られていて、そのキャラについては、現実に投影して考えるのではなく、その物語のフレームワーク上で考えなくてはいけない。
 現実世界と大きく違うことがあらかじめわかっている「ワンピース」では、明らかに現実にはいなさそうな、超グラマラスな女性が描かれることが多いが、それについて、「こんな胸が大きい女性は現実にはいない!」という批判はそれほど聞かれないことからも、違う世界設定を作ると、違うフレームワーク上の物語だと伝わりやすいことがわかる。

 ラノベ作品やきらら作品を、現実と連続的な舞台で描かれた作品、として見てしまうと、このように、物語を受け入れることが難しくなる。

 しかし、例えば、きらら作品に対して、「女性ばかりが可愛く描かれるというフレームワークそのものが気に入らない。」、といった意見や、ハーレム系について、「そもそもハーレムという設定が気に食わない。」と言った感想を持つ人に関しては、何も反論することはできない。それは、スポーツマンガが嫌いだったり、バトル系が嫌いだったりするのと同じ様に、個人の趣味の問題なのである。
 私としても、ハーレム系であったとしても、SAOのキリトのような、それなりにモテる要素があるキャラがハーレムを形成するのはいいのだが、どう考えてもモテる要素がなさそうなキャラがモテるハーレム系は好きではない。主人公はかっこいい存在であってほしい。

 

・「きらら作品にはストーリーがない」という人たち
 この主張は、間違ってはいない。たしかに、きらら作品には、特にオチがなかったり、笑い要素がないものも多い。しかし、テーマ性がない、物語として欠陥である、というのはいささか尚早だといえる。

 少し、回り道になるが、物語とは何か、について考えることから始めたい。
 物語は、つまるところお話である。物語は、誰かが語ることを前提として成り立っている。日本の古典を見ればわかるが、元々は、「神の視点」のお話というのはなかったのである。お話というのは、誰かが誰かに語るという形態に乗っ取って発展してきた。そして、昔から現在に至るまで、物語には、教訓めいたこと、話のヤマやオチといったものが多く含まれるものが好まれてきた。
 しかし、実際は、物語の形態というのは、必ずしも、従来型の物語の枠組みに収まるものばかりとも限らないのである。
 従来型の話というのは、あえて、特徴づけるなら、笑い要素がある、オチやヤマがある話が多かった。例えて言うなら、複数人を前に、エピソードを演説のように語るのに向いた、面白い話というのが多かった。
 一方で、きらら作品の物語は、従来型の物語のポイントを踏襲していな鋳物が多い。例えて言うなら、「今日こんなことがあったんだー。」と語るような話が多い。こういった会話は、現実の女性に多く見られるタイプである。オチやヤマは特にないが、起こったことを話す。この形式は、実は日常会話では多く用いられている。

 つまり、今までの話は、演説型だったのに対して、日常系は、会話型ということができるのである。
 演説型は、聴衆を面白くさせることが目的だが、会話型は、話を聞いて、安心する、今日も平和で楽しい日だったと確認する、そういった目的がある。

 だから、日常系作品は、話のオチやヤマがなくても、テーマがないわけではない。物語性は弱いかもしれない。しかし、ラブ&ピースというテーマを伝えることができている。
ネットのノリで言えば、「守りたい。この笑顔。」と思わせることができる。
 たしかに、従来型の物語の枠組みで考えれば、物語の出来としては良くないものかもしれない。しかし、従来の物語とは違った形式の物語が、そこには成立している可能性が否めないわけである。

 とはいえ、聴衆の好みはあるわけである。日常生活でもそうだろう。何気ない会話が好きな人たちと、オチのある面白い話が好きな人たちがいる。
 だから、「日常系は全然、ストーリーないじゃん。」といって、あまり興味を示さない人がいるのはも当然である。
 しかし、日常系は、ストーリー物から、ストーリーを省いて、かわいい女の子を描いているだけで、テーマ性もない、というわけではないのである。
 やはり、ヤマやオチといったような物語性というのは、読者を楽しませる上では大事である。しかし、物語性を追求するのとは、別の方向で、ストーリーの新しい形態が進んでいるというのもまた事実ではないだろうか。

 

・まとめ

 この記事では、ラノベ作品やきらら作品のフレームワーク、物語の形式などについて考えた。
 私は、オタク批判については、正直やるせない気持ちを抱えている。一般的に、暴力的な発言、人を侮辱するような発言をする人が、内容や立場はどうであれ、優位にたってしまう、という現象があるように感じている。「暴力」を振るうものが「優れている」といった感覚を持っている人が多いのではないかと思うのである。例えば、学校の中で、クラスを仕切るのは暴力的な人間が多いし、法に基づいた暴力は正当化して考えてしまいがちな人が多い。しかも、オタク批判の場合は、オタク自らが、その批判に同調して自己批判、オタクグループ内での内部批判を起こしてしまう傾向がある。
 世間的には、オタク批判はアニメ・マンガ批判と密接に繋がっている用に感じている。そして、いつしか、アニメやマンガを規制しろ、といった方向へと傾倒してしまう人間もいる。
 しかし、実際、オタクやアニメ・マンガ文化について、ちゃんと分析を行った上で批判したり、規制しようとしたりしている人間は少数派だろうと感じる。
 それに対して、私は大きな懸念を抱いているのである。
 そもそも、表現の規制に関しては、ちゃんとアニメやマンガ文化の分析ができていたとしても私は反対であるが。いくら反社会的な表現であれ、表現の規制については私は反対である。とはいえ、政治家の家に火炎瓶を投げ込む行為を、「これは一種の表現であり、表現の自由は守られなければいけない!」といった主張や、夜間に爆音で街宣車を走行させる行為を「表現の自由だから守られなければいけない!」というのは、また表現の自由とは別の問題がありそうなので、ここで考えることは止めておく。表現の自由についての議論は、ここで行うにはスペースが足りない。


 また、物語の内容に関しては、おそらく、物語の構造、ストーリー性といった事柄に関しては、詳しく研究している人もいることだろう。これに関しては、文芸作品といった枠を超えて、都市社会学歴史学の分野などでも研究されることだろう。
 物語については、私自身も、これらの分野の研究内容などを調べ、見識を深めんとする所存である。

 

なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるのか考える。

 

 日本の学校文化に特有のものなのかどうかは分からないが、日本の学校では、スポーツができる人ほど優れているといった思想、文化が存在する。それはなぜなのか。ここで考えてみたい。それを明らかにすることができれば、現在のスクールカーストのような序列制度について、幾分明らかにすることができるようになるのではないかと期待している。
 実際、スポーツが将来のお金に結びつくことは少ない。しかし、依然として、スポーツができるかどうかで、優劣の概念をつけたがる人間は多く存在する。しかもそれは、学校の中でより色濃く現れる。

 はじめに断っておくと、私は、まだ現代スポーツの歴史などについて知識は持っていないし、この記事の中で、なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるかの答えまではたどり着かない。

 この記事の中でするのは、考えること、に留まる。

 本来は、ある程度、有用な考察を行うべきではあるのだが、スポーツと政策などの歴史について調査をするには時間がかかりそうなため、とりあえず、問題提起だけでもできればという考えで、この記事を書く次第である。
 今後調査が進み次第、追記したい。


・スポーツの歴史と意味
 スポーツは本来、何として始まり、どのような経緯を経て現在の形になったのか。
 現段階では、まだ詳しくは調べることができていないが、スポーツの歴史は概観すると以下のようなものだろうか。
 まず、遊びや儀式として始まり、軍事訓練としての側面のあった体操が明治維新前後に輸入され、とスポーツが融合する。その後、第二次世界大戦前には、スポーツにも戦争の色が強くなる。戦後も、スポーツの国際大会は、各国の国力の象徴として競われている。

 要するに、スポーツは未だ戦争の代理としての色合いが強いのではないだろうか。
 暴力ではなく、平和的に力を誇示するための象徴としてスポーツが使われているのではないだろうか。

 学校同士の対抗、学校内での序列、それにおいても、スポーツの強さ、は大きな意味を持つ。
 スポーツのできるものは、人の上位に立つという傾向がある。

 この意味については、先述のように、スポーツが軍事力や暴力を代理的に象徴するものだという考えにたてば、ある程度納得がいく。
 軍事力が強いものが、人の上に立つというのは歴史的に観ても当然のことである。

 国家間の戦争の代理のためにスポーツが使われ、国を代表する選手を育成するため、学校間による競争、全国大会が開催されている。その結果、生徒にも、スポーツの持つ、戦争の代理という側面が意識しないうちに刷り込まれているのではないか、というのが私の仮説である。

 それは、スポーツの指導の仕方にも色濃く出ている。体育会系というと、軍隊式といったイメージが付いて回るが、現在の学校の運動部指導では、多くのところで軍隊式のトレーニングが行われているのではないだろうか。

 運動部においては、スポーツは、遊びといった側面よりも、競争としての側面が強調され、スポーツそれ自体は楽しむものよりも苦しむものとして受け取られがちなように思う。
 運動部でも、勝たなくては意味がない、強くなければ意味がない、というような思想が蔓延しているように思う。
 一方で、楽しむためのスポーツを行う場は不足しており、結果的に、楽しむためにスポーツをするといった文化はほとんど見ることができない。
 スポーツが楽しいといっても、競争に勝つ喜び、ではなく、スポーツそのものを楽しんでいる人口というのがどれほどいるのか気になる。

 学校の体育では、幾分競争のためのスポーツという側面は、運動部に比べれば弱まるかもしれないが、依然として、生徒を競争させ、順位付けするという文化が存在する。

 このように、現在のスポーツには、その行為を楽しむというより、スポーツを手段として、力を誇示、競争するという側面が強いのではないだろうか。その結果、スポーツのできるものが、人間関係の上位に立つという可能性を、私は一つの仮説として考えている。

 しかし、このようなスポーツ文化がなぜ今も続いているのか、についても考えてみたが、一つは国家の政策のせいであるとも言えるし、もう一つは、こう言ってしまうことが非常に失礼であるということを承知の上で言わせてもらうと、日本においてスポーツを指導する立場にある人間は、勉強があまり得意ではない人が多いからではないかと思う。
 勉強に苦手意識を持っている人は、スポーツについても、スポーツの歴史、スポーツがどのような象徴的な意味を持っているか、スポーツを健康のために役立てるためにはどのような指導制度が適切か、などについて考えることも苦手なのではないだろうか。
 その結果、スポーツ文化の発展は滞り、従来型の方法を継承し続けているのではないかと、私は推測している。
 スポーツ文化の発展には、スポーツを研究する人間が必要である。

 


以下、主題からは逸れるが、スポーツの将来について考える。

・スポーツをどういった方向へと転換することができればよいのか。
 では、スポーツをどういった目的にすることができればよいか、については、これからの医療の展開を考えると、健康寿命を長くするための健康増進のためのスポーツ、といった役割が考えられる。


・スポーツを楽しむ行為に変えれば、他のもので戦争の代理が行われるのか。
 とはいえ、スポーツから、競争としての側面を取り払ってしまえば、今度は何か他のもので戦争の代理が行われるのではないか、というのが一つの懸念である。
 例えば、単に暴力での競争になりはしないのか。または、バイクの競争のような、より危険な手段で闘争が起こりはしないのか。
 それについては十分な注意が必要なのである。

 しかし、スポーツをいつまでも、力の誇示・競争のための手段にしていれば、スポーツが健康の役に立つことができない。
 むしろ、スポーツのせいで健康を害するということにもなりかねない。

 したがって、スポーツから競争の側面をある程度取り払うことは必要である。もしくは、競争の側面を除いたスポーツコミュニティを、学校以外に作るべきなのである。
 そして、スポーツ以外の競争手段を注意深く監視しておかなくてはいけない。

 人同士は、どこかで闘争しなければ生きていけないのか、それについてはまた別の問題として検討が必要である。

 

 

「教材開発」の有用性と可能性

「教材開発をしてみよう。」

と私はついこの間思い立った。

いや、別にこれが初めての思いたちというわけでもないのであるが、教材開発でなんとか会社を作ったり、収入を得たりすることができるのではないか、という予感を最近感じ始めたのである。
 とはいえ、現状として、それほど自信もなければ、明確なビジョンがあるわけでもない。
 収入を得られて、会社を作れるようになるかも一切不透明だし、自分が飽きずに続けることができるかも未だ不明である。

 どのみち、自分の性格上、「これと決めたらもっぱらそればかりをやる」というたちでもないので、教材開発をしようと思い立ったとはいえ、作業量としては、多くても週一くらいになるだろうし、やる気が無いときは、月に一回も作業に取り掛からないかもしない。

 しかし、教材開発は、自分がしたいことを実現するための一つの有効な手段なのではないか、という予感めいたものをやはり感じているのである。
 もし、そうであれば、教材開発に力を入れてみるのもよいのかもしれない。

 

 私は、これまで、あっちに手を伸ばし、こっちに手を伸ばし、色んなことをやってきた。
 その理由というのも、一つというわけではないのだが、その理由の一つに、やりたいこと、現状への不満、こうしてみたいという未来は漠然とあるが、そこまでの具体的な道筋が想像できていなかったということがある。
 社会への影響力のある芸術作品を作ってみたかったり、評論を書いてみたかったり、マンガや小説、アニメ、ゲームといった娯楽作品を作って大人数へと影響を与えたかったり、学校教育を改善したかったり、親と子どもの関係を改善したかったり、国民の精神衛生を上げたかったり、と様々である。
 しかし、それらに共通することを挙げるとするなら、私は社会を自分が希望する方向へと変えていきたい、という欲求があったということである。

 具体的な道筋は決められなかったので、とりあえず、自分がしたいことに繋がりそうなことを私は色々と試すことにした。


・絵を描く
 自分の経験上、何かを説明するときに、文字ばかりというのは辛いという印象があった。また、Twitterでは、マンガや絵のほうが人気があるし、娯楽作品でも、マンガやアニメなんかが人気がある。自分もマンガとかアニメはすごく好きだった。
 また、勉強で使う教材でも、文字ばかりのものは理解が難しく、イラストや写真が多いほうが理解がしやすかった。テレビなどでの解説でも、イラストは多く使われている。

 そういったことを考慮して、私は、文字による情報伝達に加えて、絵による情報伝達の可能性に惹かれた。何かを人に伝えようとするときに、絵が描けるというのは大きな武器になるだろうと私は感じていた。
 そこで、コピー用紙を買ってきて、イラストの練習をちょくちょくやり始めた。
 美術部で油絵はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。


・動画を作る
 絵をつなぎ合わせて、アニメーションを作れば、動画ができるし、コマ送りのイラストでなくても、動画編集の技術があれば、表現したいことの幅は広がるだろうと私は考えた。
 テレビでも、わかりやすい図解は動画が使われているし、NHKスペシャルの学問系の番組や、医療番組なんかでも、わかりやすい動画がたくさん使われていた。
 動画は、非常にわかりやすく、情報をまとめることができる。
 また、アニメMAD動画なんかも観ていて結構面白いし、動画は、労力少なく観ることができて、得られる情報が多いという魅力がある。
 音楽を入れることもできる。
 アニメを作ろうと思っても、動画編集技術は必要になるだろう。
 そう考えて、AviUtlを使って、いろいろな動画を作る練習をした。


・HTMLやプログラミングを学ぶ
 情報を公開するためには、ホームページやブログが作れなくてはいけない。
 ブログでも情報は公開することができるが、より融通がきくサイトを作るためには、HTMLを理解しなくてはいけない。
 しかし、HTMLだけでは動的なサイトを作りにくいため、Javascriptをある程度扱える必要があった。
 さらに、ある程度、レベルの高い、Webサービスを作ろうとすれば、PHPPythonMySQLなどの操作についても学習しなければならなかった。
 使いやすいWebサービスを作ることができれば、いろいろな人に利用してもらえて、自分が望む社会へと少しずつ変えることができるのではないかと考えていたし、いいサイトができて、アフィリエイト収入を得ることができれば、空き時間を使って、お金を使って、自分がやりたい活動を進めることができると考えていた。何かをしようと思えば、時間とお金が必須なのである。

 また、ゲームを作るにも、プログラミングができなくてはいけない。動画は、あらかじめ作ったものを流すことしかできないが、ゲームであれば、ユーザーに合わせて、情報を選んで表示、再生できるし、場合によっては、動画よりもよい情報伝達ツールになるかもしれない、という予感があった。
 また、面白いゲームができれば、それだけで、やっていて楽しい。


・CGを扱う
 動画や絵といっても、やはり2Dばかりでは、表現できるものが限られてしまうし、3DCGが扱えなくてはいけない、と考えた。かっこいい解説動画はCGを使っていることが多いし、最近のアニメやTV番組も、たいていどこかでCGを使っている。
 ということで、Blenderとか、123Design、Fusion360なんかを、少しずつ扱う方法を習得中である。


・音楽を作る
 動画にしたって、ゲームにしたって、音楽がなければ成り立たない。そこで、音楽を作れるようにしようとした。
 軽音楽部で音楽はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。
 DominoやReaperを使って、打ち込みを作ってみたり、Swaveを使って、SEを作ってみたりした。


・知識を集める
 誰かに何かを伝えようとしても、人に何かを教えようとしても、結局は、その中身がなくてはいけない。
 そのためには、いろんな本を読んだりして知識を習得することが必要だと私は考えた。
 世界史、刑法、哲学、物理や数学、学問の歴史、材料工学、教育学、医学、といろいろな分野についての本を読んだ。乱読とも言えるかもしれない。


 とまあ、こんな具合で、いろんなことをしていた結果、「結構いい教材が作れるのではないか。」と思い始めたのである。
 きっかけは、Twitterで、数学Gifを作っているアカウントや、化学画像を作っているアカウントなどを見つけたからだろうか。

 東進やN高など、革新的なメディアコンテンツによって、教育業界を変えてきた取り組みはこれまでにもあった。

 いいメディアコンテンツを作ることができれば、教育環境を、自分の望む方向に変化させていけるのではないか、と私は考えたのである。


以下で、少し、私が考える教育の方向性について考えたい。

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 上の画像で、「しつけ」と述べた項目は、教育学の用語で言えば公民教育に該当する。一方、「知識の教授」と述べたところは、人権教育に該当する。
 コミュニティ、公民教育、人権教育、この三項目が、学校の役割の主要な三つであると考えている。
 もちろん、他にも、民族統合の機能としても学校は働いているし、学校には、「隠れたカリキュラム」と呼ばれる内容もある。
 しかし、これらを含めるとしたら、なお一層、いろいろな機能を一つにまとめすぎだと考えている。
 学校がショッピングモールみたいになっている。
 複合型教育施設として、学校は存在している。

 しかし、私は、それが様々な弊害を生んでいると考えている。
 それら全てをここで述べることができないので、いくつかだけ述べたい。
 まず、学校があまりにもたくさんの時間を子どもから奪っているということである。
 児童や生徒の中には、学校の授業はわかりにくく、授業を聞くより自分で本を読んだほうが早いと感じている者も少なくないし、興味のある分野を学びたくても、学校の制度が飛び級を認めてくれず、拘束時間も長いため、時間を十分に生かせない、と感じているもの多い。
 学問だけでなく、絵を描いたり、工作をしたりして、技術を伸ばしたい生徒の要望にも答えられておらず、かといって、学校で教えることが実生活に役に立っていると実感している者も少ない。
 現在の学校は、人権教育としての名目であるが、実際は公民教育を行っている側面も未だ強く、しかしかといって、公民教育も十分にできておらず、人権教育としても不十分といった有様である。
 また、先程挙げた「隠れたカリキュラム」であるが、必ずしもこれがよい内容であるとは限らない。
 例えば、軍隊の思想・慣習を学校は引き継いでいるし、体育会系の気質など、ブラック労働の温床となる思想も学校で培われている。日本人に強い同調圧力や空気を読むといった文化の強要により、十分に実力を発揮できない生徒も多い。

 これらの弊害は、ある程度、学校の機能を分解することで、学校の持つ権力を弱体化させれば軽減が可能だと私は考えている。
 私が考えているのは、学校の機能分散である。ショッピングモールのように一箇所にたくさんの機能を学校に集中させるのではなく、今の学校の機能を複数の施設、制度、集団に分散させることである。学校を廃止して、学校の機能を失くすということを意味しているのではない。政治でいうところの政教分離であって、無政府主義ではないということである。

 それの実現のために、良い教材の開発というのは、一つの良い方法だと私は思う。
 学校以外にも、十分な教材を提供してくれるところがあり、学校に行かなくても、知識の習得が可能だということが一般の認識になれば、学校の機能分散を進めやすくなる。


 こういった考えで、私は、教材開発の重要性を感じつつあるのである。
 また、学校の教師は日々の業務に追われ、教材研究が十分にできていないという。大学の講師も、業務が多く、自らの研究に支障が出ていると聞くため、教材開発をする人口は多くないだろう。

 だから、第三者の教材開発者が必要だ。

 出版社も力は入れているだろう。
 しかし、それは、あくまで出版物としてであって、メディアコンテンツではない。また、学校教育の代替として使えるものを作ろうという意図ではないはずだ。

 また、私が考えている教材というのは、学校のカリキュラムに従うものではない。
 量子力学に興味のある中学生が量子力学について学ぶことができ、数学に興味のある小学生が、数学の最先端について学ぶことができ、工業製品を作りたい高校生が、工業製品の作り方を学べる、そういった内容の教材である。
 学校が恣意的に定めたカリキュラムは、学習意欲を妨げ、著しく効率を低下させているものだと私は思う。学校は、要点の整理としては、非常に素晴らしいカリキュラムを作ってくれているし、教材も充実している。しかし、そこには学習意欲が考慮されていないのである。各々の興味に合わせたテーラーメイドの教材が必要である。学校の教材は、本来、辞書的に使うのがよい使い方だ。
 また、学校では、学問を誤った認識へと導いている。歴史は、本来、暗記科目ではなく、過去と現在の文化を比較し、どこでどのようなことが起こった結果、現在の文化が形成されたか、といったような、中身が最も重要なのである。ストーリー性とでもいうか。
 あるいは、数学は、数の学問であり、文化系科目とは対局な位置にあると考えられがちであるが、論理学と非常に親和性が高く、むしろ、数学と国語は非常に近い性質をもっている。
 あるいは、学校では、学問の歴史や、内容の意義については扱わないが、物理学や化学が哲学からどのように分岐したのか、その間に起こった宗教的闘争にはどのようなものがあったか、などといったことを知ることは、学問の有用性を知るためには効果的である。学問の学問のようなものは、学校では扱わない。
 また、学校教材は、公平で中立であるべきだと考えられ、個人の入り込む余地が存在しない。
 そういった事情で滅菌処理された教科書は、本当に言いたいことや知らなければいけないことはわかりづらく、読んでいて面白みにかけるところがある。これは、いくつかの立場から作った教材を複数作れば、ある程度解決できる問題である。

 このように、私が想定する教材というのは、現在の出版状況からはおそらく離れたものである。しかし、有用性の高いものになるだろう。


 以上のような経緯から、今後少しずつでも、教材を開発することができないかと私は考えているのである。
 うまく行けば、規模を拡大していけるのではないだろうか。