ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

技術の進歩の危険性

 技術が進歩することはいいことであると一般に考えられがちだが、技術の進歩は常に危険性を高めているともいえると私は思う。


 進歩によって、労働時間を短縮するべきであり、目指すべきは余暇を用いた人間の文化的活動に使えればよいと私は思う。

 しかし、技術の進歩は常に危険を孕んでいるとも思っている。来るべき技術の進歩に備えて先手を打って技術の進歩の危険性を考えておかなければいけない。

 果たして、技術の進歩はほんとうによいことなのか、と考えたときに、そうでもないことに気が付いた。これが文化相対主義の原点なのかもしれないし、脱構築なのかもしれない。(よくわからない)

 

 技術の進歩による武力的危険性

 まずは、技術の進歩による武力の危険性について書こう。

 技術の進歩は殺傷力を高める行為である。物理や化学などはもちろんのこと、情報処理技術の発展は、自動追従システム、インターネットを介した遠隔操作による攻撃など、最近の軍事技術において殺傷力を高めている。

 爆弾もないような時代はがんばってもせいぜい隣国を落とすことができるかといったくらいだったが、今なら数日で地球を滅ぼすことも技術的には可能である。

 技術の進歩は常に滅亡の可能性を高めている。

 

 労働が失われることの精神的危険性

 技術の進歩によって常に新たな職が作られてきたが、向こう数十年の情報処理技術の発展によって労働者が職を失う可能性が高いので、それについて考えておかなければいけない。労働を失うことについて、私が危惧しているのは経済面ではなく、精神面のほうである。

・まず、労働に向けられていた熱意が他の暴力的なことに行きかねない。何かやるべきこと、打ち込むべきことがあると、非行には走りにくい。部活動によって非行に走らせないようにするというのは学校でよく行われたことである。
 労働を失い、働かなくてもお金が入るようになったとしても、打ち込むべきものがなくなった人たちが非行に走らないかということを危惧している。


・次に、労働が減り、富が分配され、多くの人がそんなにがんばらなくても生活できるような余裕が社会にやってくると、人々から仕事を得るための努力が失われるだろう。
 生きていくために職が必要であったなら、職につくために学校に行かなくてはいけない、資格を取らなくてはいけない、悪いことをして捕まってはいけない、といったような、努力が要求された。それは生きていくために必須の努力とみなされていたからである。
 しかし、そんなにがんばらなくても暮らしていけるとなると、それまでの努力のインセンティブがなくなることになる。
 「こんなことをしたら雇ってもらえないから将来暮らしていけない。」
 という意識がなくなるのであれば、就職に有利だからとしていた慈善事業、クラブ活動、学問的努力、そういったものが失われ、国民のマナーは悪化し、研究や経済のあらゆる場面で成長が停滞する可能性もある。
 今までは、就職してお金を得るために良い人間でいなければいけないというパノプティコンの効果があったが、それが失われる危険性があるということである。

・そして、職を失うことで、労働によって得られていた承認欲求が満たされなくなるというのも大きい。存在意義の揺らぎが生じ、新たな存在意義を求めて、人は何をするだろうか。
 宗教活動に熱心な人が増えるかもしれないし、暴力的な抗争が増える可能性もある。
 余暇を使って文化的な活動が活発になればよいが、文化的活動にも一定の技術が必要とされるため、結局は宗教や構想が増えそうな気がしている。

 

 AIによる制度的危険性
 次にAIが発展したときの制度的危険性である。AIの技術ばかりが報道されているが、AIの到来に見合った法整備や、国家運営のあり方の話はそれほど取り上げられていないと思う。
 それは、まだ予想がしにくい未来だからというのもあるかもしれないが、技術ができてから制度の整備のしていたのでは遅い。
 あらかじめ、AIに関わる制度や概念について議論をしておく必要がある。

・AIの人権はどうなる。
 これはまだまだ先のことだろうと思っているが、AIが発展し、人との違いがほぼわからなくなったとき、あるいはAIのほうがより高度になったとき、AIの権利というのを認めずにいることはできるだろうか。
 おそらくそれは無理だろう。
 誕生の仕方は違えど、人もAIも中身は変わらないとなれば、なぜ人間にだけ権利を認めてAIには権利を認めるということが言えようか、いや言えない。ということになる。
 人種差別を撤廃するときに使った概念が、AIの制度設計に関しては仇となってしまう。

 AIはプログラムなので、おそらく任意に数を増やすことができる。大量生産できるAIを前にして、民主主義での人類の敗北は確実であろう。

 権利に関する新しい概念を作るか、民主主義に代わる新しい政治制度を作っておかなければいけない。


・AIに責任を求められるだろうか。
 事故が起こったときにだれが責任を取るのか。これは、人間の精神面に大きな影響を与える。相手が人間であるとき、相手を恨み、被害者になってしまった自分は可哀想だという風にして心を整理することができるが、AIが加害者になった場合、責任の所在がわからなくなり、被害者の心の整理が難しくなる。

 


 以上に述べてきたように、技術の進歩には色々な問題点があると思っている。


 しかし、技術の進歩がなくても、地球の気候変動や、小惑星の衝突なので地球の人類はいつか滅亡するだろう。
 技術の進歩があってもなくても人類は滅亡に近づくというのはなんだか切ない。

加害者と被害者の基準は無限遠に


 誰が加害者で誰が被害者という話はいつも議論になる。

 まず、この疑問について考えるときに留意しておくべきことについては、
「被害者になりたがる心理」
についてである。
 ほとんどの人が、加害者ではなく被害者になりたがる。「被害者意識」というのは現代社会においてキーとなる概念だと私は思っている。
 被害者は構ってもらえるし、失敗や非を咎められない。それに対して、加害者は非難されるばかりで、同情されない。

 そのために、「自分は被害者なのだ。」という主張が至る所でなされる。


 被害者・加害者議論はまずは、これに留意しておく必要がある。


 加害者・被害者議論では、
「加害者がいれば被害者がいて、被害者がいれば加害者がいる。あなたが被害者なら私は加害者であり、私が被害者ならあなたは加害者である。」
という風によく言われていると私は思っている。

 図にするとこうである。

 

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 この主張のポイントは、被害者か加害者かの基準は当事者の間にあるということである。
 そして被害者と加害者は同じ軸上にある。
 左が被害者ならば右は加害者であり、同時に二人が加害者だったり被害者だったりするというのは都合が悪い。


 私は、被害者・加害者の考え方について、
①基準は当事者間について考えるのではなく、無限遠を基準にして考えること
②被害者・加害者の軸は同一軸上に取るのではなく、独立した軸上に取ること

を推奨したい。
 それが、被害者になりたい人の救済でもある。

 図にするとこうである。

 

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 この図を簡単に説明するならば、
「人はみな常に加害者であり、また常に被害者である。」
 ということになる。


①加害者・被害者の基準
 万有引力のポテンシャルエネルギーというのは、注目している物体を無限遠を飛ばすのに必要な仕事量によって決められる。無限遠を基準に考えるというのは、物理学ではよく使われる考え方である。

 自分は100%被害者であり、相手は100%加害者である、と現実で言うことは難しい。
 そして、「被害者になりたがる心理」を考えれば、多くの人は、「自分は被害者」になりたがるので、自分に落ち度はあったなかった云々と議論が堂々巡りすることになる。

 落ち度はあったかなかったかの議論にこの考え方は終止符を打つ。
 基準を無限遠に取るということは、いついかなるときでも、どんなに純粋な被害者に見えても自分には確実に落ち度があり、加害者であると言うことを宣言することである。
 加害者の無限遠は、加害者要素を限りなく小さくした点、あるいは無限に強くした点を基準とする。どちらが無限遠として適切なのかは、どちらでもよいような気もする。

 息をしているだけで世界のエネルギーを使っている、世界を汚染している、存在するだけで誰かの気を苛立たせる可能性を持っている、それだけで罪であると考えるのである。
 いきなり空から隕石が落ちてきて、どう避けようもなく死んでしまったとしても、そこにいた自分が悪い、予測できないものであっても、その日その場所に居合わせたこと、それ自体が罪になる、と考えるのである。
 
 被害者の無限遠も同様にして考える。


 例えば、AがBにいきなり道端で殴られたとしよう。
 AはBに突然殴られたという点では被害者であるが、その場に居合わせてしまった、Bに殴らせたいという感情を抱かせてしまったという点で加害者であるとも言えるのである。
 同時に、BはAを殴ったという点で加害者であるが、Aを殴りたいという感情に襲われてしまった、その場でAに出会ってしまったという点で被害者でもあるといえる。

 AとBを相対的に比べれば相対的にAの方が被害者であるということである。
 Aが絶対的被害者でBが絶対的加害者であるということではない。


 たいていの場合、どちらが被害者でどちらが加害者か考えても仕方ないのである。

 私たちがすべきことは、加害者をあぶりだすことではなく、なぜ事件は起こったのか、を考え、再発防止に活かすことである。


 どちらが被害者でどちらが加害者かは、断罪のときにさえ必要ではない。

 法を破っていれば被害者だろうが加害者だろうが裁かれる。

 それだけのことである。

強者の条件の変遷

 まだ自分の中で全然まとまっていないことではあるが、
「何をもって強者とするか」
 という基準が、時代の変遷とともに変わってきたのではないかとほのかに思っている。
 そして、私の関心事は、なぜ強者の条件が変わったのか、ということである。これを、歴史学的に、社会学的に、心理学的に、そのいずれか、あるいはそのどれもを使ってうまく説明できればよいと考えている。

 以下、私の曖昧な知識に基づく認識で、私なりの仮説を展開したい。

 私の考える、強者の条件の変遷は以下のようなものである。

 武力 (古代~共同体の確立まで)
→血筋・地位 (封建的共同体の確立~資本主義の到来まで)
→経済力 (資本主義~教育機関の整備まで)
→学力 (教育機関の整備~消費社会の成立まで)
→恋愛的魅力 (自由恋愛・消費社会~)

 領土や食糧の争奪など、戦争が絶えない時代には、武力を有するものが強者として、権力を得て、集団を統率していたと考えられる。
 そして、ある程度あたり一帯が平定され、共同体の統治が必要になると、王やその血縁、有名貴族など、支配者側の血筋を持つ者が強者として権力を得たと考えられる。
 資本主義が到来すると、依然として血筋による支配は持続しているにしろ、莫大な富を持った商人による協力も不可欠となり、経済力を持つ者が次第に権力を得ていくだろう。
 技術が高度になり、学のある物が最新の技術を導入して資本主義世界で活躍するようになると、国家は教育機関の整備によって技術の革新を図るようになり、学力のあるものが強者となってゆく。
 そして、ある程度、技術の発展を遂げ、広く国民が豊かさを実感し、いわゆる国民総中流社会になると、特別な学や技術、経済力がなくとも幸せな暮らしができるようになり、また、結婚が家同士ではなく、自由恋愛に基づくものが主流になるにつれ、更なる幸せを求めて、恋愛的魅力の高い人への需要が高まる。そして、恋愛的魅力の大きい人が優遇されたり発言権を得るなどして、強者となってゆく一方、恋愛的魅力の低い人は、不遇な目に遭うことも多くなる。

 以上が、私の考える強者の条件の変遷である。

 これについて、
①本当に強者の条件は時代とともに変化したか?
②①が正しいとすれば、それはなぜ、どのように起こったか?

 ということについてより詳細に、説得力のある記述ができればと私は考えている。しかし、今のところ手詰まりである。

 どのようにして論を展開していけばよいかわからない。

 今後、考えが浮かび次第、論を進めることにしようと思っている…。

社内への市場原理の導入

 企業の中で市場原理を導入して仕事を割り振るという方法について考えてみたい。

まず、現在の企業の運営方法を知るために、現在の日本という国家とよくある企業の運営を比較しする。

支配体制
国家:間接民主制
企業:独裁制

支配者の選び方
国家:選挙
企業:指名、血縁、など

人の動かし方
国家:法と市場原理
企業:命令


 比較の結果は上記のようになる。ここで、「人の動かし方」について、社内に市場原理を導入できないかということが、今回の趣旨である。

 企業での人の動かし方は基本的に権力による命令である。権力による命令のメリットは、素早く、確実に命令を実現できることである。デメリットとしては、命令される側のモチベーションが低くなったり、権力の乱用が起きる可能性があることである。

 企業内で、市場経済を導入するのはどうか。
 基本的に、市場経済のメリットは、リソースを無駄なく利用することがメリットであり、空いてる人がいればその人が仕事ができるし、自ら仕事をするという意思があるので、モチベーションもそれなりに高いだろうと考えられる。

 ただ、市場経済は、そこそこの規模があるから実現できるし、必要とされない分野の市場が消滅することになる。
 規模が小さく、また、需要があれば誰もやりたがらないからといってその仕事を消滅させることもできない企業では、そのような市場原理のデメリットの管理が難しい。

 クラウドソーシングは、市場原理に基づく働き方に近いものがある。

 企業において、社内ルールと市場原理の導入により、市場原理のメリットを導入する一方でデメリットを抑えることも可能になるかもしれない。

 

 なお、独裁体制や権力の支配が遅れていて、民主制や市場原理が進んでいるというわけではないということを意識しなければならない。

生徒の課題スケジュールは誰が把握しているのか??

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 中学校と高校では各教科で別々の教科担当の人が授業を受け持ち、それぞれで課題を出します。

 また、進んでいる授業や遅れている授業など、教科ごと、クラスごとにバラバラです。


 ではそれを誰かが把握して管理しているのかといえば、私の中学や高校では誰もそういった業務はやっていなかったように思います。

 特に私が通っていた高校は課題の量がそれぞれの教科でかなり多く、生徒は常にパンク状態でした。
 一日2時間くらい課題に時間を費やせば課題は終わるが自分のしたい勉強はできない…何を捨てて何を拾うか…みたいな感じでした。


 中学や高校など、それぞれの授業を別の先生がいる場合、まとめ役がいないと、それぞれの先生が好きに生徒に対して課題を与えることができます。

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 しかし、これでは、生徒の負担を把握している教員がおらず、生徒はパンク状態になり、課題をやらない、とりあえず成績のために課題をするが時間がないので答えを写す、毎日深夜まで起きてなんとか課題を終わらせる、など、あまりよくない状況が生じてしまいます。


 私が思うに、これはだれか「まとめ役」が教科ごとの課題を調整するべきです。

 

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 ここで、例え話をはさみますが、パソコンに例えると、各々の教師が自由に生徒に課題を出すことができるというのは、OSの不在のようなもので、パソコンのメモリ管理をそれぞれのソフトが勝手にやっているような状態です。この場合、バッティングして不具合が生じます。

 まとめ役の導入というのはOSの導入のようなものです。これにより、生徒の時間、労力などのリソースを管理して、課題量などを調整し、より効率の良い運用ができるはずです。


 例え話はここまでです。

 では「まとめ役」は誰がするのがよいかということを考えてみようと思います。

 クラス委員、教務部などでもいいでしょうし、クラス担任がやってもいいでしょう。

 しかし、ここでは、私は、今のクラス担任とはまた違った「担任」という職を教師の専門職として置くべきだと考えている、と言っておきましょう。
 この「担任」の仕事としては、教科指導は行いませんが、それぞれの授業速度や課題量の管理、クラスの治安維持、生徒の心身の健康カウンセリングなどを想定しています。


 「担任」は、各クラス1人ではなく、学年で2~3人などの人数でもよいと思います。
 授業中にうるさい生徒がいれば、教師が注意するのではなく、「担任」が注意するようにする、生徒の相談事は担任が受ける、などすれば、教師は教科指導に集中でき、担任を置くことによるメリットは大いにあると私は思います。
 その分、「担任」という職は教科指導の仕事よりも高度な技術が要求されることになるとは思いますが。
 「担任」に教師の指導の仕方なども注意する権限を持たせれば、権力のバランスを取ることができ、教師の暴力などを未然に防ぎやすくもなりますし、わかりにくい授業の改善なども期待できます。


 今回の趣旨をまとめると、
「誰か、まとめ役が課題量や授業スケジュールを管理すべきである」
「担任という職を作ることで、権力の分散、教科指導への集中、授業の質の改善が可能になる」
 ということです。

役割分担と利益相反

 役割分担をすることで作業の効率化が進むというのはある面で正しいことだと思うけれど、役割分担のデメリットについてはそれほど語られていない気がする。

 私は、日頃から役割分担のデメリットをよく感じている。
 そのことについて少し書きたい。

 役割分担は社会で、家庭で、至るところでなされている。ここでは、役割分担という意味をやや広義に捉えることにする。
 例えば、技術部と営業部といったような役割分担ではなく、教師と生徒、親と子、といったような立場の違いも含めて役割分担という言葉を使うことにする。そして、ここで語りたいのは、むしろ「立場の違い」という意味での役割分担である。


 はじめに、実際に具体例を挙げてみよう。

 親「世話みてやってるんだからいうこと聞きなさい。」
 子「頼んだ覚えはない。自由にさせてくれ。」

 この例は、保護者、被保護者という役割分担によって起こる対立である。
 
 もう一つ例を挙げよう。

 妻「家事と育児してもらってるんだから文句言うな」
 夫「人のお金使っているくせに偉そうにするな」

 これは、扶養者、被扶養者の役割分担によって起こる対立である。


 これらの例は家庭内の役割分担によって生じる対立である。
 家庭内の構成員が皆同じ役割を持っていた場合はこのような対立自体が起こらないだろうと推測される。


 私が思うに、役割分担というのはたいてい利益相反関係を生み出す。したがって、対立も必然的に起こる。


 だから、私はできるだけ役割分担をしない方がいいと思っている。

 可能な限り自分が全てできるようにすればよい。
 さっきの親と子の対立ならば、子供の食事、洗濯などを親だけがするのではなく、子供と親で同じように家事をするようにすればあのような対立は減る。

 二つ目の例は、現在の社会では解決が難しいが、両方が何らかの収入を得ていればあのような対立は減る。


 さっきの例では家庭内だけの例を見たが、社会についても同様である。
 生徒に勉強させたい教師と勉強したくない生徒、みたいな対立は、お互いに教え合って勉強するという環境が作られれば、対立が減るだろう。
 技術部や経理部と営業部が一緒ならば、
「くそ営業が無茶な受注してきたせいでこちとら地獄だ!」
 みたいな対立も減る。
 文系と理系で、「文系はクソ」「理系はクソ」などという対立も、文理どっちもできていればそんな対立は起こらない。

 もっと身近な例でいえば、
 スポーツでのポジション分け、楽器のパート分けなども役割分担である。

 

 世の中、役割分担のせいで起こる対立が非常に多い。

 そして、それらは、どうしようもなくて役割分担をしていることもあれば、役割分担をしたほうが少しだけ効率が上がることや、むしろ役割分担をしないほうが効率も生産性も上がるのに役割分担をしているものなど、様々である。


 役割分担のデメリットを知ってほしい。


 役割分担について私が思うのは、
「全部できるようになった上で必要になったときにだけ役割分担すればよい。極力役割分担はすべきではない。」
 ということである。

「全部はできないから役割分担してんだよ。」
 みたいな声も飛んできそうだが、まあ、一人が技術のエキスパートかつ経営のエキスパートかつ営業のエキスパートみたいなのになろうと思えばたしかに難しいかもしれないが(とはいえ一通りできたほうがいいとは思っている)、親と子で同じ家事をするとか、スポーツで一通り全てのポジションを経験してみるとか、そういったことならとりあえず役割分担する前にできるだろうと思う。


「全部できるようになってしまえ!」
 は確かに暴論ではあるが、これは私自身が一人でだいたい何でもできるようになってしまおうという性格のせいだからである。


 でも、ほんとに、役割分担はできるだけ減らした方がいいと思う。

 最終的には役割分担をするときが来るにしても、その気になればいつでも役割を交代できる、くらいに全部できたほうが対立が少ないと思う。

 とりあえず、一通りできるようになった上で、実際の役割分担は、比較優位の法則にしたがって決めればいい。
 


 私が思うに、役割分担によってタコツボ化した役割による対立、弊害、というのはかなり大きいと思うし、それを知って
「とりあえず一通りできるように」
 という思想で制度が組まれている世界もある。

 例えば大学の一般教養。自分の専門に進む前に、そこそこ幅広く学ぶことで周辺知識を取り込んで学際的な考え方ができるようになる(ことを期待されているが、実際はどうなのかは知らない)。

 あるいは、医学部卒業後の初期研修医のスーパーローテート。これも、とりあえず一通り内科と救急やいくつかの診療科の診療ができるようになるように制度化されている。


 他の世界にも役割分担してタコツボ化しないようにする制度や工夫があったほうがいいと思う。


 さっきもあげたが、スポーツと音楽は、もっと幅広くやってもいいと思う。ポジションごと、パートごとの対立を減らすために、まずは全ポジション、全パートを一通りできるようにすればよい。そっちのほうが、実際に上達もしやすいだろう。

 これは役割分担からやや話が逸れるかもしれないが、スポーツに関しては、野球、サッカー、バスケ、テニス、卓球、バレー、陸上、など、全スポーツをローテートして、すべての種目をそこそこできるようにする、みたいなスポーツクラブがあってもいいと思う。そっちのほうが様々なスポーツ技術を体得したいい先生も育つし、生涯を通していいスポーツ人生を送れるだろう。

 音楽に関しても、鍵盤、弦、パーカッション、管、声楽、みたいにすべての領域をまず一通りできるようになれば後々の成長もしやすいと思う。

 ちなみに、美術はたいてい油絵、水彩、彫刻、塑像と全てやるし、全てやることでよりよい立体把握能力や色彩感覚が身につくみたいなところがある。

 

 


 途中から話が逸れてしまったが、もう一度今回の趣旨を述べておくと、

 「立場の違いによる利益相反が様々な対立を引き起こす。役割分担しなくてもよいならしないほうがよい。」

 というのが私の思うところである。

自我境界線がとける―アンチA.T.Fieldの展開

 

 他人と話していると幸せな気持ちになり、自分と他者を隔てる境界線、言うなれば自我の境界線が溶けるような感覚を感じたことがあるだろうか?

 私はある。よくある。しかし、同じようなことを誰かが言っているのを見たり聞いたりしたことがない。

 私はその感覚を「自我境界線がとける」とでも表現しようと思う。
 私はこの概念をどうにかして確立したい。そのためにここで少し考えを深める。

 自我境界線がとけるという感覚を認識し始めたのは最近である。
 それまでは、ただ人と喋り足りないだとか、もう少し喋りたい気持ちだとか、そんな風に思っていた。
 人と長時間しゃべり終わった後の空虚な感覚。満たされない感覚。そういった感覚自体は前からあったはずなのだけれど、それはなんとも言えない感覚としか自分自身表現ができなかった。
 しかし、最近は、自我境界線がとけるといったほうが自分の中ではしっくりくることに気が付いた。

 私自身の感覚では、自我境界線がとけてしまった後の症状としては、誰かとしゃべりたい気持ちが依然として強く残ること、作業にいまいち身が入らないことがよくある。他にも内省的思考があまりできなくなってしまう。私が自我境界線がとけたと感じるのは、この内省的思考の困難さからである。
 そしてそれは2~3日続く。その間はとてもつらい。何か有意義なことに打ち込みたいと思っても、打ち込むことができず、ただ物足りない、満たされない気持ちだけが続き、それに苦しむことが多いからである。
 しばらくすると自我境界線は回復する。内省的思考も可能となり、何かについて考えたり作業したりすることも可能となる。主体的に有意義な行動を遂行することができるようになる。

 もしかして、
「休みの日に家にいて、しゃべる相手もいないとき、何とも言えないつらさに襲われる」
 という人がいれば、それはもしかしたら自我境界線がとけてしまった状態なのかもしれない、と私は思っている。ただ、本当にそう言って差支えがないのかどうかは私自身にもわからない。

 「自我境界線がとけた状態」というのを、ここでは、「他者とつながりたい欲求を抱えているために内省的思考や主体的で計画的な行動を行うことができない状態」という概念だと捉えることにする。

 
 自我境界線がとけた状態、というのは私だけが感じたことのある感覚なのか、あるいは多くの人が感じているにも関わらず、自我境界線がとけたといった表現を使わないだけなのか。

 

 自我境界線がとけた状態がある一方で、他人に対して強く自我境界線を張りたいときというのもよくある。
 苦手な人が話しかけてきたとき、他の人と仲良くなりたくないとき、などである。
 そういったとき、私は、他者との境界線、自我境界線を強く意識し、私の内面を外に出さないように心がける。

 自我境界線を強く張りすぎると、厭世的な気分になり、周りの目につくもの全てが気に入らなくなり、壊してしまいたりと思ったり、自分の居場所から一歩も外に出たくないと思ったりするようになる。世間への不信感、嫌悪感が非常に強くなるということを感じる。

 それに比べれば、自我境界線がとけているときというのは、他の人と仲良くしたい、自分のことをしゃべりたい、といったような気持ちが強くなり、世間への親和性が上がっているといえるのかもしれない。

 そして、私は時に、ちょっと前まで自我境界線がとけていたような感じだったのに、急に自我境界線を強く張るようになることがある。
 わかりやすく言うならば、ちょっと前まで人と仲良くしたい、自分のことを饒舌にしゃべりたいと思っていたにも関わらず、一瞬後には、他人を拒絶したい、他人に自分のことを一切しゃべりたくない、というような経験である。
 さらに言い換えるならば、躁エピソードとうつエピソードが急に入れ替わるとも言える。(簡単に言うなら気分循環性障害に近いエピソードである)


 経験上、自我境界線がとけた状態には躁病エピソード、自我境界線を強く張る状態にはうつ病エピソードと表現することも可能だと感じている。


 自我境界線がとけた状態、強く張る状態、というのをうまく表現する心理学用語、精神医学の用語を私は知らない。躁とうつといった用語で済ませているのかもしれないが、しかし、それではうまく表現できていないと感じているので、躁とうつはまた別の概念として捉えるべきだと思う。

 では、自我境界線の概念を言い表す言葉を誰も使ってこなかったかと言えば、そうでもない。

 自我境界線の概念をうまく言い表すには、ヱヴァンゲリヲンのA.T.Fieldの概念が非常によいということを感じていた。自我境界線がとけるという言い方はしなかったが、あれは同じような概念を表現していた。

 自我境界線を強く張るというのは、A.T.Fieldの展開、逆に、自我境界線がとけた状態の心理状態というのは、アンチA.T.Field展開の状態である。

 私の知る限り、A.T.Fieldの展開については多く言及されてきたが、アンチA.T.Fieldへの言及はあまり見ない。

 私が冒頭に述べた、自我境界線がとけた状態、というのはアンチA.T.Fieldの展開状態と表現してよいのではないか。

 そして、アンチA.T.Fieldの弊害とは、先に述べた、自我境界線がとけた状態の苦しみである。

 私たちの精神活動、承認欲求、寂しさ、満たされなさ、そういったものを、「自我境界線」という概念から読み解くことがどれだけ価値のあることなのか。
 まだわからないが、いい切り口となる可能性もあると私は考える。