djangoをcgiでさくらレンタルサーバーで動かそうとして諦めた記録
2017/12/30
今まで、PythonのWebフレームワークのDjangoを使って開発をしていたアプリがあったんですが、いざ、デプロイしようと思ったら、契約しているさくらレンタルサーバーのスタンダードプランは共用サーバーでApacheの設定なんかをいじる権限がなかったということに気が付きました。
Djangoとしては、最近は、Apacheなどの設定を変えてmod_wsgiというのを使ってクライアントからのリクエストをDjangoへの橋渡しする方法をおすすめしているらしいですが、どうやらさくらレンタルサーバーではApacheをいじれないので、mod_wsgiが使えないらしい(涙)ということを、色々なサイトを見ているうちに知りました。
自分もよくわかっていなかったので、CGIとかWSGIとかmod_wsgiとかどういう意味だよって感じだったのですが、どうやらさくらレンタルサーバーでも、CGIなら使えるということがわかり、「django.cgi(#2407 (CGI Support for django) – Django)というのを使えば、djangoを動かせるらしい!」との情報を見つけたのですが、ネットの世界は広しといえ、DjangoをCGIで動かそうとしている人はほんのひと握り、やっとの思いで見つけたサイトに従ってやってみても、動かない。。
参考:
例のあれ(仮題)- さくらのレンタルサーバでDjangoアプリを公開する。
結論からいえばアプリをデプロイできなかったのですが、なぜdjango.cgiをつかってもうまく行かなかったのかはわかったのでここに記しておきたいと思います。
まず、djnago.cgiですが、これは、2017年の今から11年前、2016年にどうやら書かれているらしいです。
そして、このdjango.cgiは、djangoのバージョン1.1向けに作られています。
それに対して、私が今回開発に使っていたdjangoのバージョンは1.11。
試しに、django1.1を使ってさくらレンタルサーバーでdjango.cgiを使えば、Djangoの
「It works!」
画面が出てきたので、やっぱりdjango1.1なら動くみたいです。
とはいえ。
とはいえ、自分のパソコンにもdjango1.1をインストールして開発してみようと思いましたが、もうdjango1.11とはディレクトリ構成やらファイル構成が違っています。使えるライブラリも全然違うのだろうことは容易に想像できましたし、そもそもdjango1.1の説明は、ネットで探してももう全然出てきません。
ということで、今回のdjango1.11のアプリはもう使用を断念しました。
以上が、djngo1.11をさくらレンタルサーバースタンダードプランで動かそうとしてして断念するまでの経緯です。
今後、さくらレンタルサーバーでの稼働はCakePHP3を使って行っていこうと思いました。
(しかし、CakePHP3はまたこれはこれでErrorを連発してくれるのです。)
妖怪ウォッチ シャドウサイド 鬼王の復活 感想メモ
妖怪ウォッチシャドウサイド
鬼王の復活
の感想メモです。
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妖怪ウォッチを見たことはないけど、これはおそらく、妖怪ウォッチ作品というよりは妖怪ウォッチを題材にした二次創作と捉えた方がよい。
良くも悪くもゲームっぽい。
不動明王のCGと必殺技がゲームのワンシーンみたいだった。
脚本のテーマ、メッセージ性としては、孤独や承認欲求に関してだろうけど、掘り下げや、問題提起に関する答えの提示の仕方が微妙だったように思う。トウマが親に謝らなければいけないような理由はあっただろうか。
物語の軸、メッセージ、テーマみたいなものがいまいち見えてこなかった。
脚本に関しては、キラキラ☆プリキュアアラモードが非常にレベルが高いので、比較すると、微妙に感じた。
モチーフは色々なものを使っている。鬼太郎とその仲間たちは実際に出演していた。
ただ、さすが鬼太郎さん!みたいなよいしょが露骨だったのが残念。
、どことなく仮面ライダーっぽい変身をするトウマ、ドラクエのラプソーンっぽい形をした鬼王らせん、オラオラと承太郎さんみたく殴るジバニャン、のようなオマージュかパクリか、といったようなものが多くあった。
ナツメが青龍に助けられたところは、川に溺れているところをハクに助けられた千尋のような演出。意図的に似せたのかどうか。
エンマ大王とカイラのフュージョンみたいなものもあった。
酒呑童子が全然可愛くなかった。子供じゃない。酒呑童子といえば、可愛いロリババアってのが定番ではないのだろうか(多分違う)
エンマ大王とぬらりひょんがイケメンだったので、そこがよかった。
ぬらりひょんの子安ボイスがすごくよかった。
あと、ミッチーが愛すべきバカって感じで面白かった。
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以上。
アニメ的「DESTINY 鎌倉ものがたり」感想をつらつら述べる
「DESTINY 鎌倉ものがたり」観てきたので、よかったなぁと思ったところを書き連ねた感想です~。ネタバレを含みますのでご注意を。
公式サイトはこちら↓
http://kamakura-movie.jp/
本文は下↓
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よかったところ列挙していきます。
・ディズニー映画っぽい脚本
今回の映画の脚本のアウトラインは、簡単に言えば、「失われた日常を取り戻す」という趣旨のものだったと私は考えています。そのために、危険を冒して冒険をして、愛情と友情の力で敵に打ち勝ち、日常へと戻ってくる。これって、すごくディズニー的だなあと感じました。トイストーリーとか、そんな感じですよね。
実際はディズニーにしかない特異的な脚本術ってわけでもないんですけどね。日本のアニメ映画(ドラえもんとか)でもよくある展開だとは思います。何かのために冒険をして、危機一髪のときに仲間が助けてくれる、みたいなストーリーは王道ながらも非常に面白いので私は好きです。
・白組のVFX
白組といえば、私は「えとたま」みたいなアニメCGのイメージがあったんですが、今回の映画は、かなりリアルなCGも多くありましたし、非常にレベルの高い技術力があることをまざまざと見せつけられました。車、電車、茶碗の乗り物、みたいなのがよくできていたなと感じます。
あとは、キャラクターCGのアニメーションもかなりいい動きをしていましたね。Pixarと比べても遜色ないレベルだと感じました。日本にもこんなに素晴らしいCG制作会社があると思うと、非常に嬉しいです。今の日本のCGキャラアニメは、白組とPOLYGON PICTURESが引っ張ってくれているように感じます。
・幻想的な音楽
どことなくまどマギの次回予告っぽいBGMがテーマだった気がします。でも、あのテーマBGM、魔物の多い日本の旧市街地みたいな雰囲気によく合って多様に思います。
・あきこの幼児退行するところ
いちゃつくときに、コートのすそを掴んで離さないとか、幼児退行するところが、なんかリアルだなーと感じました。甘酸っぱい気持になりましたね、人にも夜と思いますけど、好きな人を前にするとデレデレになって幼児退行する人いますよね。
あきこ自身からは若干ラノベヒロインっぽさを感じましたが(笑)、底抜けにお人好しで無邪気なキャラが、物々しい雰囲気を中和して、物語を前進させていたように感じました。
・中二病的展開
「創造力で物質を錬成してバトルする」とか中二病の極みだと思うのですが、そういう願望が余すところなく表現されていて、中二病患者にとっては楽しかったです。
・かわいい死神
あの金髪のチャラめの死神がほんとにいいキャラ出してたなぁと思います。黒いハットに黒いごつごつしたジャケットきて、黒い手袋はめた幼い顔立ちの金髪チャラチャラ坊主(女の人っぽかったけど)って、色んなツボ抑えてきてる気がするんですよね。死神ちゃんかわいいなって思いました。アニメ絵にしたらめっちゃいいキャラになりそうで楽しみです。
・本筋の裏で描かれる様々な人間模様
本筋はまさかずとあきこの夫婦なわけですが、資産目当ての殺害をする夫とか、あるいは、家族のために魔物になって、しかも嫉妬に苦しむ夫とか、そういう奥ゆかしい夫婦像みたいなものが描かれていて、様々な夫婦像があるんだなと実感しました。どれも人間らしいなと感じました。
私は基本的にはアニメばかり観ているので実写の映画やドラマは観ないんですが、「シン・ゴジラ」に続いて、今回の「DESTINY 鎌倉ものがたり」は前から観に行くことに決めていました。
予告編の段階から、「この映画はアニメ的だな」と感じていたんです。
そしてやはり、その予感の通り、脚本もそうだし、演出、カメラワークとかもアニメっぽさをすごく感じるものでした。期待通りのものだったと思います。
自分でも、何をもってアニメ的というのかははっきりとはわかっていませんが、私は「アニメ的作品」が好きで、アニメ的であれば、それは実写でもアニメでも構わないんだなと感じました。
アニメでも、「orange」、「月がきれい」、「サクラダリセット」とかは、実写ドラマっぽいなという感じがしていましたし(見てないですが)。
だから今回の鎌倉ものがたりは、アニメ好きが見ても楽しめるんじゃないかと思いますし、逆に普段実写ばかり観ている人でも楽しめるような、アニメで言うところのジブリ作品的な立ち位置の実写映画なんじゃないかと思います。
多くの人に「DESTINY 鎌倉ものがたり」を観て、感想を発信してほしいと思っています。
自己問答「自分がやりたいこと」
自分でも何がやりたいのか言語化できなかったり、両価的な感情があって、うまく説明できなかったりしたので、自分との対話という形で、問答をシミュレーションしてみることにしました。
2「それで、君は何がしたいんだい?」
1「それが最近うまく言葉にできないから困っているんじゃないか。私は、自分の長所は自分の思考を言語化できることだと思っていたが、どうやら違うらしい。あるいは、自分の思考が言語化できる範囲を超えてしまったのか。」
2「言語化できないことは、そもそも思考できないんじゃないの?」
1「まあ、そういう言説もあるが、直感的に感じていること、思っていることがあって、それを自分が普段使っている既存の言語の枠組みでは上手く表現できていないだけなんじゃないか、と思っている。」
2「ヴィントゲンシュタインみたいなこと?」
1「まあ、たぶんは。それとも、既に存在している言葉を自分がうまく使いこなせていないだけかもしれない。」
2「まあ、その両方があるかもしれないね。そういえば、君は教育問題に執心していたようだけど、君が一番やりたいのは、教育問題ではないのかい?」
1「たしかに、私が現実で一番取り組みたいのは教育問題だろうと思う。でも、それも、何か他にしたいことのための布石でしかないのかもしれないと、最近は思い始めたんだ。」
2「というと?」
1「自分は、教育問題という一点を扱いたいわけではなく、教育問題への取り組みを通して、何かより大きな問題を扱いたいのではないかと思っている。」
2「ふむ。」
1「人は、教育を受けて、価値感の内面化や知識と技術の獲得をしなければ生きてはいけない。だからこそ、教育をどのように扱うかというのは、人間のあり方に干渉できる部分ではないかと私は考えたのだろう。」
2「なるほど。しかし、人間のあり方に干渉するというのはいささか抽象的すぎて、僕にはよくわからない。」
1「そうだな。私は、『世界』を作りたいのではないかと最近思うんだ。」
2「世界を作る?天地創造の神になりたい、とかそんなことなのか?」
1「まあ、そういうことに実際は近いのかもしれない。実現性は置いといて、希望としてはね。そして、自分の作った世界の中で、自分が思う生き方がしたい。」
2「しかし、それは随分恣意的ではないか?」
1「まあ、恣意的といえば、そうだろう。私が普段から色々な社会問題に取り組みたいと思って色々しているが、それも結局は自分が思う世界を作りたいからという、そういった恣意的な欲望から出発するのではないかと思うよ。むしろ、恣意的ではない欲望なんてのは存在するのかい?」
2「さあ、それはわからないよ。すべての欲望や正義感は恣意的なものかもしれない。ニーチェが指摘していたことだね。現在の道徳は基本的に奴隷道徳に基づくひとつの信仰にすぎない、ってことか。」
1「まあ、そういうことになるかな。その思想を採択すれば、だけれど。」
2「君はさっき世界を作りたいといったが、まるで『マギ』に出てくるシンドバッドのようだな。そういえば、君は普段から、自分のことを第一級特異点とかいっているもんな(笑)」
1「そうなんだ。最近、自分がやろうとしていることは、まさにシンドバッドがやろうとしていたことのようだなと思うんだ。私も、世界から争いがなくなり、それぞれが幸せを追求できるようになればいいと思っている。そして、それは一見、人のためのように思えて、自分が考える世界の実現を目指す欲望でしかないのかもしれない。」
2「君はシンドバッドのように、すべての人が対立しないように、同じような思想を持つべきだと思うかい?」
1「いや、それについてはそうは思わない。私は、やろうとしていることこそシンドバッドに似ているが、その内容自体はシンドバッドとはまた違うからな。」
2「では、君はいったいどういう生活を目指したいんだい?」
1「楽で幸せな世界かな。」
2「アバウトだなぁ。」
1「アバウトだと思うけど、本質をついているとは思うよ。今の世の中、苦労する必要がないことで苦労していることばかりな気がする。世界の仕組みをもう少し変えれば、もっと楽に、そして、今よりもっとよい結果が得られるはずだと思うんだ。」
2「なるほど、世界の仕組みを変えることで、楽で幸せに生きることができる世界を実現しようというわけだね。」
1「まあ、目指すところはそうなる。私は、自分のしたいことをして、誰に怒られることもなく、自分が一緒にいたい人と一緒に暮らしていたいと思う。」
2「でも、別にそれなら、世界を作るということまでしなくても、うまくお金を集めて、ひっそりとそういうことして暮らせばいいんじゃないの?」
1「まあ、それもそうなんだけど。でもなぁ…。」
2「何か違うのかい?」
1「そもそも、自分がしたいことが「自分がしたいことをする」という点で、なんだか再帰的じゃないかい?」
2「まあ、そうだな。」
1「これは、私にとっての至言なんだが、”再帰的なものはバグを起こす”」
2「再帰的なものはバクを起こす。」
1「例えば、プログラムで再帰的なプログラムを使っちゃうと無限ループに陥ったりするよね。あと、微分方程式とかも、今は解き方あるけど、あれ見つけるまではバグ扱いだった気がするんだな、よく知らないけど。あと、例えば、『表現の自由を侵害する自由』とか。再帰的な命題って扱いが難しいんだよね。普通に扱うとバグになっちゃう。」
2「なるほどね。で、結局君がやりたいことって何なんだい?」
1「自分がしたいことってのは、自由になることで、なぜ、自由になりたいかといえば、自分がしたいことをするためで・・・。」
2「いきなり、再帰的なバグに陥ってるじゃないか。馬鹿なのか?」
1「馬鹿かもしれない。」
2「結局、自分がしたいことは、自分が思い描く世界を作るということ?」
1「まあ、そうかもしれないね。たしかに、自分がやりたいことというのを小さくして、お金を集めて自由に暮らせば幸せ、と思えればいいのかもしれないけれど。」
2「それではなにか、物足りないと?」
1「そういうことなのかな。ただ、快楽が多ければいいというわけではないのかな、と思ったり。」
2「ミルの質的功利主義、みたいな思想だね。」
1「そういうことになる。」
2「君が目指す世界とはいったいどんなものなんだい?」
1「どうなのかなあ。それがなかなか難しい。働かなくては生きていけないとか、絶対に学校に行かなければいけない、とか、絶対にがんばらなくてはいけない、とか、そういったことがない世界にしたい。それぞれがそれぞれの自由に生きても、生きることも可能な、そんな世界を作りたい。」
2「なるほどねぇ。しかし、そういった風に、色々な自由を認めると管理が大変じゃないかい?」
1「まあ、そういうことになるだろう。画一的な人間たちを一元的に管理する方がはるかに管理は簡単だろう。しかし、それを、管理する技術を向上させれば、自由を与えつつも、今より管理がうまくいくようになると私は思うんだ。」
2「それに関しては、より具体的でな事例がないとよくわからない。」
1「まあ、そうなんだけどね。単純に、自由を拡大することで、全体の利益が失われるとか、管理ができなくなるというのは私は短絡的だと思うんだ。」
2「何か例を挙げてくれるかい?」
1「今だって経済活動を結構自由にしているだろう?それぞれに生まれながらにしてやることを制限して、経済活動の自由を剥奪するとその分だけ社会の利益は増えるといえるのかい?」
2「まあ、それはたしかにそうだね。」
1「そうだろう。自由を認めることで社会全体の利益が増えることもあると思うんだ。というか、管理をうまくすれば、自由の増加は社会利益の増加につながると思うんだ。結局は管理能力の問題なんだ。」
2「なるほど。まあ、そういう考え方もあるだろう。」
1「そもそも、社会っていうものの実体は個人だろう?」
2「それについては難しいな。君が言いたいのは、社会契約論の議論だろ?」
1「そういうことになるな。」
2「それについては、議論すると長くなる。今度にしよう。君がいう、新しい世界を作りたい、というのは何か突発的なことのように思えてしまうんだが、君がそう思うに至った経緯みたいなものはあるのかい?」
1「経緯か。構造主義ってのがあるだろ?」
2「ほう。」
1「私たちは、構造に依存して生きているんだ。私たちは、この世界のこの構造に規定されて生きている。」
2「うむ。」
1「その規定から逃れて自由になりたいんだ。」
2「マギのアルマトラン編だな。」
1「そうだ。イル=イラーに運命を規定されていることに絶望したアルマトランの民たちの気分だ。」
2「君は本当にマギが好きだな。なるほど、君が言う、自由の意味が分かったよ。君はこの世界の規定から自由になりたいと、そういうわけなんだね。」
1「そういうことだ。かといって、それにも限界があることはわかっている。どこまで行っても、私たちは何かの構造に縛られているということに変わりはない。」
2「ならば、君のいう『世界』を作りたい、というのは言うならば構造からの脱出を目指す、ポスト構造主義的な活動ということになるのかい?」
1「そう言うことだろうと思う。構造に規定されていることに絶望したのならば、自分で新たな構造をつくればよい。その構造の中で生きれば、ある程度の自由は担保されるだろうという思想だ。」
2「なるほど。やりたいことは少しわかったよ。でも、この世界に聖宮はないから、シンドバッドか、あるいはソロモンのように、自分の世界を作るということはできないんじゃないのか?」
1「まあ、そうなるだろうね。しかし、世界を完全に変えられなくても、傾けることはできる。」
2「傾物語か。かかっ。」
1「所詮この世界では寿命は有限。限られた時間の中で一人のできることなど、限られておる。世界を変えることはできなくとも、傾かせることくらいならできるんじゃないかの?」
2「おもしろい。」
1「まあ、私がしたいのはそういうことだ。自分が目指す世界を作るという、どこまでも恣意的な自己実現のために、自分の人生を使いたい、というそういうことだよ。そのために、できることから色々やってみようというつもりだ。」
づづく?
【脚本考察・感想】打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?ー私ならこういう脚本にする。
※本記事は、本映画、「時をかける少女」、「ひぐらしのなく頃に」、「魔法少女まどか☆マギカ」、「Re:ゼロから始める異世界生活」、「秒速5センチメートル」、「ヱヴァンゲリヲン TV版&旧劇」のネタバレを含みます。
2017年8月18日公開の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」
を見てまいりました。(以下、「打ち花」と呼称。)
もともと、この映画を見に行ったきっかけというのは、シャフトの大ファンというのがありまして、シャフト40周年のマドガタリ展もちゃっかり行かせていただきました。
今回、新房監督が総監督をやっていて、渡辺明夫さんがキャラデザで、神前暁さんが音楽ならもう見るしかない、ということで観てきました。
相変わらず映像技術は、めちゃくちゃすごかったですよ。
この映画はCGを結構がんばってた感があります。
シャフトは傷物語の映画辺りから積極的にCGを使い始めたなという印象があったんですが、今回の映画は、風車とか、キーアイテムとなる丸い球とか、花火とか、電車とか、CGのレベルがすごく高かったです。
人物はあともうちょい動きが柔らかければ…と思いました。
あと、序盤の映像観て
「シャフトっていつもプール無駄に深いよな。」
って思いましたが、あれイメージ映像であってプールじゃないのかもしれませんね。
神前暁さんの音楽は、今回は全体的にオーケストラ調でした。
物語シリーズとかまどか☆マギカが単楽器かアンサンブル調で、傷物語はジャズ調でしたが、それに対し今回はオーケストラ調と、神前さんも扱う音楽の幅がまた広くなられたんだなぁと感動しておりました。
また、エンドロールで知ったのですが、空間設計から劇団イヌカレーの方が参加されてたんですね。たぶん最後のあのぐるぐるした世界か、変な形の花火か、その辺りでしょうかね。
あと、米津玄師さんの主題歌と、なずなが歌ってた劇中歌もめっちゃよかったですね。今でもずっと口ずさんでしまってます。
さて、本編。
先に述べたように、映像技術や音楽は非常に素晴らしく、さすがシャフトだと思いましたが、しかし。
個人的には今回の脚本が非常にうすく感じました。
例えるならば味付けを何もしていない昆布だしでした。
好みの問題かもしれませんが、魔法少女まどか☆マギカや物語シリーズ、あと最近ですと、三月のライオンなんかを味わったシャフトファンからすれば、シャフトなのに毒々しさがないというか、あっさりしすぎだなあと感じたんですよ。
でも、今回の打ち花も一つ、一つのシーンはいいシーンなんですよ。自転車に乗って駅まで走るシーンとか、灯台から二人で観る花火のシーンとか、灯台から落ちながら時間戻る球(以下、ifボールと呼称)投げるシーンとか、海の中でキスするシーンとか。
でも、個人的に感動があんまりなかったんですよ。
あー、心動かされるって感覚があんまりなかったんです。
それがなんでなのかなーってのを今回考察しようと思って記事を書きました。
そして、ではどのようにその脚本を変えればそれが解決されるのか、ということについて、考えてみました。
ということで、以下、脚本の批判的考察をはじめます。これは私にとっての"if"の話です。
・原作について
打ち花は元々は1993年に岩井俊二監督による実写ドラマだったとようですが、私はそれを観ていませんし、小説版になっているのを読んだわけでもありません。
なので、今回の考察はシャフトのアニメの脚本においてのみの言及です。
・タイムループものというジャンルについて
結構、TwitterのTLでは、打ち花はポスト君の名は。を狙っているみたいな意見もありますが、元々の原作から考えて、ポスト君の名は。ではありません。
そして君の名は。は同じ時間を繰り返したというのとは少し系統が違います。君の名は。は最後の時間を1回だけ繰り返しましたが、他は繰り返しではなかったですしね。
では、タイムループもので代表的なものは何かというと、私が思い当たるのは、「時をかける少女」と「ひぐらしのなく頃に」と「魔法少女まどか☆マギカ」、「Re:ゼロから始める異世界生活」ですね。
今回の脚本考察についてタイムループものとしてはこの三つを比較対象として考えてみたいと思います。
・打ち花の脚本の復習
脚本の考察を始める前に、土台となる打ち花の脚本についておさらいしておきます。ここでの解釈が間違っていても、考察が変な方向に行くかもしれないので。
・1週目
なずなの家庭環境…なずなはなずなの母と2人目の夫(というかもともと浮気相手)との子。映画途中に出てきたのは、なずなの母の3人目の夫(仮)。
1学期最終日、なずなは通学途中で寄った海岸でifボールを拾う。
なずなは母が再婚するために引っ越さなければならず、転校する旨を伝えた手紙を担任の先生に渡す。
その日は茂下神社のお祭りと花火大会がある日、最後の日なのでみんなで学校の大掃除をする。
ノリミチとユウスケはプールの掃除当番に当たる。
プール掃除に来たところになずながいた。(ほんとになんでいた?のりみちが当番で来ることがわかってたのか?)
なずなとノリミチとユウスケの競争。
なずなが勝ち、ノリミチより早かったユウスケを花火に誘う。
花火を男たちで見に行くように話がまとまる。
ユウスケ、なずなとの約束をすっぽかす。
(なぜすっぽかした?恥ずかしかっただけなのか?それともなずながノリミチのことを好きなのを察して譲ったのか?)
なずな、出ていったのがばれて母親に連れ戻される。
ノリミチ、ユウスケへ怒りと嫉妬の鉄拳。
もしも、俺がプールで勝っていたら。
そして、時は遡る。
・2週目
プールで泳いでたところから。今回はユウスケにノリミチが勝つ。
なずなはノリミチを花火に誘う。(ユウスケのときより恥ずかしがってる感があるので、やはりこちらが本命か…と気付く。)
以下途中まで同じ。
なずながノリミチの家に迎えに来て、二人で自転車に乗って逃げる。
電車乗る手前でなずなの母と父(仮)に連れ戻される。
ノリミチ意気消沈しながら男たちと合流し、灯台で花火をみる。
せんべいのように平べったい花火。
んな馬鹿な。こんな花火があるはずがない。
(なにゆえ、こんな怪奇現象が起こるのか。ifボールを使ったことによる副作用か。)
もしも、俺があのとき、なずなと電車に乗っていたら。
ノリミチ、ifボールを投げる。
・3週目
電車のところから。ノリミチ、なずな父(仮)に勝つ。なずなの奪還に成功する。
電車に乗り込む。
しかし、電車に乗っているところを男共に発見され、嫉妬に燃えたユウスケは鉄道営業法に違反してまでなずなとノリミチの電車を追いかける。(電車に追いつく驚異の脚力!)
そして、なずなの母たちにも見つかってしまう。
次の駅で見つかったなずなとノリミチは灯台へと行き、てっぺんで花火を見る。
しかし、花火は奇怪な形をしていた。
そんな二人を嫉妬に狂ったユウスケが突き落とす。
海へと落下する二人。
もしも俺たちの駆け落ちが見つからなかったら。
ノリミチ三度目のifボールをスロー。
・4週目
電車の中から。
ノリミチはなずなを押し倒してやり過ごす。
しかし、電車は方向を変える。
(なぜ方向が変わった?ノリミチの願望の力がそうさせた?)
海をすべり、元の場所へと帰ってきた電車。
そこには、不思議な世界が広がっていた。
誰もいない世界。
そこで、二人で海へ行き、じゃぽんと泳いでキスをして、抱きしめ合う。
誰もいないと思いきや、なぜか飲んだくれのおっちゃんはこの世界にいて、ifボールを打ち上げてしまう。
(このときのifボールがやけに大きかった。願望を叶えるたびに何かを蓄えていたのか?)
壊れるifボール。
元に戻る時空の歪み。
その砕けちる世界の中で、それぞれの登場人物が、自分の望んでいたifの世界を夢見ていた。
夏休みが明けて。
なずなは結局引っ越してしまった。
ノリミチは、灯台?かどこかでなずなを懐かしんでいるため遅刻していた。
(このとき、なずなとノリミチは本当はどこにいたのか?まさかifボールが壊れたのでifの世界線のように駆け落ちが成功することはないと思ったが、本当になずなは転校し、ノリミチは遅刻しているだけなのだろうか?)
・今回の脚本の批判的考察で考えること
さて、この脚本に対して、主に以下のような点から脚本を考えたいと思います。
・なずなの人物描写
・物語の必然性
・タイムループの使い方
・盛り上がりの上げ下げの要素
それぞれについて、どう脚本を改変したら、自分好みの脚本になるのか、ということを書いていこうと思います。
・なずなの人物描写
個人的には、なずなという人物が最後まで謎を残したままだったな、という印象でした。
・なずなはなぜノリミチを好きになったか
・なずなはなぜ家出したのか
・なずなはどうビッチなのか
・なずなはなぜ急に泳ぎだすのか
なぜ、なずながノリミチを好きになったのか、本当に好きだったのか(たぶんそれはそうだと思いますが)、そういったことが描かれていないので、いまいち、なずなのノリミチに対する恋心みたいなものがよくわかりませんでした。けっこう、恋愛ものって「なぜ好きになったのか」っていうきっかけ、その好きになるまでの必然性ってのがあるとすっと納得できるものです。今回は、そういう設定だからそういうものなのだろう、と思いましたが、個人的にはここをもう少しわかりやすくしてくれたほうがいいんじゃないかと思います。
なずなとノリミチとユウスケは、元々3人仲良しだったという設定にしたほうが、わかりやすく、また三角関係がわかりやすくなっていいと思います。
それで、ノリミチとユウスケの内片方にだけ引っ越しのことを伝える、っていうことがなずなにとっての告白という演出もできますし、恋愛の必然性も描きやすくなります。
それに、ノリミチにとって、なずなと駆け落ちをしようっていう動機づけの説明にもなります。
・なずなはなぜ家出したのか
おそらくは、なずなは生みの父親のことが好きで、新しいお父さんがあまり好きじゃなかったんでしょうし、男の人を次々帰るお母さんのことが許せなかったんでしょう。
しかし、映画中ではあまりそういった家出の動機がわかりやすくは描かれていませんでした。
お母さんのこと嫌いなのかと思いきや、電車の中で「ママがよく歌ってた曲」といって歌を歌うことから、母親のことがそんなに嫌いだとも思えません。
このあたり、もう少し、生みのお父さんへの執着心とか、そのお父さんを忘れて次の男と再婚してしまう母親への憎悪を描いたらよかったんじゃないかと個人的には思っています。
・なずなはどうビッチなのか
ビッチの血が流れているとなずなは電車で言っていましたが、イマイチどのあたりがビッチなのかわかりづらいです。たしかに、のりみちとゆうすけを適当に選んだところとか、ビッチっぽさはあります。また、東京で風俗店で働こうとしていたこととかも、そういったところを伺わせますが、イマイチ伝わりづらかったです。
好きだった父親が死んでしまったり、母親が再婚しようとして家庭内不和があったり、そういったメンヘラ要素は揃っているんですし、なずながメンヘラビッチになる世界線を作ることで、なずなの家庭環境へも切り込め、ビッチ発言に対しての妥当性が生まれると考えます。
・なずなはなぜ急に泳ぎ出すのか
プールでも急に泳ぎ出しましたけど、謎なのは夜の海で泳ごうと言い出したあのシーンです。
夏とは言え、夜の海なんてめちゃくちゃ寒いですし、何がいるかわかりませんし、入ったらベタベタするに決まってます。それに着替えもなさげです。
そして、あの岩場から海に入ろうとする度胸。
夜の海で、あんな岩場で、あんな軽装備で入ろうとするとか、絶対怪我しますよ。
岩場で身体中血だらけになること必至だと思います。
なぜ、あんな無謀なことをしようとしたんでしょうか?
破滅願望があるということなら辻褄は合うかもしれませんが、イマイチそういうニュアンスではなさそうです。
・物語の必然性
なずなの人物描写で書いたなずなの恋愛感情や家出の理由についてもそうですし、ifボールを使わなければならない理由というのについては後で書きますが、物語全体に必然性というものが足りない気がしました。
それぞれの人物の行動に対して、観客が納得できる理由、その行動背景というのがイマイチ描かれていなかったという印象です。これをもう少し描いたほうがわかりやすいでしょう。
タイムループの必然性については、続けてタイムループの使い方の項で書きたいと思います。
・タイムループの使い方
今回は、3回くらいタイムループしているわけですが、正直、どれも時間を巻き戻さなければいけないような重大事項じゃないではないか、と観ていて思いました。
決定的な不可逆変化が起きたわけではないからです。
なずなの転校ということであれば、秒速5センチメートルのように、電車を乗り継いで会いに行った方が感動的で絵になる物語になります。
基本的に、タイムループというのは、もう取り戻せないことが起きてしまったときに仕方なく使ってこそ、その真価が発揮されると思います。
「時をかける少女」では、はじめこそ、ふざけたような理由ばかりで時をかけていましたが、最終的には、大事な友達の「死」ということを巻き戻すためにタイムループが起こったという点で感動的なストーリーになっています。
「まどか☆マギカ」も、「ひぐらしのなく頃に」も「Re:ゼロから始める異世界生活」も、これらタイムループものに共通するのは、「大切な人の死」という取り返せない、決定的な不可逆変化を巻き戻し、幸せなゴールへと到達するために登場人物たちががんばる、という点で一致しています。
したがって、私の意見としてはタイムループを使うならば、それぞれの世界において、取り返せない変化を起こした方が効果的だと考えます。
一回目の世界線では、タイムループが起きるということの自覚という意味も兼ねて、本編のような軽い感じでいいかもしれません。
二回目の世界線では連れ戻されてしまったなずなたちは一家で移動中に交通事故で死んでしまうなどして、タイムループの必然性を生むと、なずなが死んでしまった世界で、ノリミチやユウスケがどれくらいなずなを好きだったかを表現することもできますし、ifボールを使う必然性が生まれます。
三回目の世界線では、東京へ出れたはいいものの、仕事が見つからず、とりあえず泊まった先で、母親への憎悪と父親への愛を語りながら泣き始めてしまったなずなとノリミチ君のラブシーンって感じにすると、なずなの心の闇を描けます。ここでのラブシーンはなずなが自分を傷つけるためにしているということにすれば、生みの父親を忘れて結婚してしまった母親や、自分を残して死んでしまった父親への愛の深さとその愛の不足からくる破滅願望、その代償として使われるノリミチ君の切なさ、を同時に描けます(とはいえ、こんなシーンを描くと爽やか感ゼロになってしまいますが)。ちょうどエヴァのミサトさんみたいな感じですね。
自暴自棄になってしまったなずなに手が付けられなくなり、自分の無力さを感じたノリミチ君がifボールを投げれば4周目へとつなげることができます。
「これじゃなずなが幸せにはならない。」
と言いつつ投げれば、いいですね。なずなの幸せのためにタイムループするノリミチ君という設定結構いいと思います。
あるいは、なずながただ交通事故で死ぬよりもひどい世界という演出ができれば、最後のループでのシーンがより感動的になるので、それもありかもしれません。ラブシーン中にメンヘラったなずながナイフでノリミチ君を刺そうとして、逆にノリミチ君がなずなを刺してしまうとかいう世界観ならより悲劇的です。
四回目の世界線では、連れ戻されても事故に遭って死んでしまってダメ、そのままいっても東京へ出て行ってしまってもその先がうまくいかない、といった事情から、二人だけの世界に逃げ込んで、二人だけの世界で暮らそうとするノリミチ君を描いたらノリミチ君の必死さが描けていいと思います。ここで、本編のように、キスしたり抱きしめたりするシーンを挟めば結構山場としていい感じな気がします。二人の愛としては美しいですね。
しかし、二人だけでいても何もことは進まない、と考えたノリミチ君はなずなに、母と、新しい父と、そして死んでしまった父と向き合って乗り越えるように伝え、なずなは現実と向き合う覚悟をします。
二人だけの幻想の世界から帰ったなずなは、なずなを探していた母と会い、自分の思っていた想いを母に告げ、納得したうえで新しい父を迎えて、やはり転校することに決めることにします。
なずなは現実を受け入れたという点で、他の世界線とは違い、交通事故に遭って死んでしまうということもなくなるという設定にしましょう。
最後は、母と和解したなずなとノリミチ君が、きれいな丸い打ち上げ花火を横から見て、
「やっぱり花火は丸かった。」
(ものの見方を変えれば正しい答えに行きつく。=現実から逃避せずに現実に向き合って乗り越えて美しい世界へとたどり着こう)
みたいなラストにつなげればテーマ性もばっちりですし、奇妙な花火の形という伏線も回収できてよい気がします。
エヴァの旧劇の最後のシンジ君っぽさあります。
・盛り上がりの上げ下げ要素
さっきの項で、打ち花の脚本を改変するならこう、ということはもう書いてしまったので、ここでは、それほど書くことがないかもしれませんが、本編の脚本は、なずなとの海の中でのキスシーンが最高潮だったと思いますが、さっきのタイムループの使い方の項で書いたように、物語の最高潮は、最高潮のシーン自体の美しさというよりも、それまでの困難、そこにたどり着くまでの軌跡が大切な気がします。
今回の映画はそれぞれのシーンは非常に魅力的で美しいのに、映画全体で盛り上がりに欠ける感覚がしたのは、おそらくネガティブな感情や困難さの描写が少なかったためだと思います。
クライマックスをより感動的にするには、登場人物たちをもっといじめて、もっと困難を乗り越えてもらうのがよいと私は思います。
・おわりに
以上、偉そうにも打ち花の脚本の改変案を書いてしまいました。原作へのリスペクトがこれっぽちもないと怒られてしまいそうです。
今回の映画は、私にとって、物語の構成をどのように作るか、といったことを自分の中で考え、確認した作品でした。
私自身、物語を作る技術についてはまだまだ勉強中ですが、今回の映画は「自分ならどういうストーリーにするか」と考えるいい機会になりました。
このような映画の観方をさせてもらえてある意味よかったのかもしれないと、思っています。
ちなみに、なずなはかわいいので好きです。それにちょっとえっちです。
特典応募したの、当たるといいなぁ。
シングルマザーの貧困の複雑な問題点
現在、シングルマザーの貧困について考えている。しかし、その話をしようと思えば、色々な観点からの議論が必要になってくる。
シングルマザーの貧困というのは、非常に大きな枠組みの中で考えなくてはいけない。色々なところでたくさんの矛盾を抱えている。
今思いついたことだけでも、シングルマザーの貧困は、以下のようなことを考えなくてはいけない。
・シングルマザー家庭の貧困による教育格差
貧困が再生産されているのではないだろうか。
福祉政策による子どもの貧困の解決、格差の是正が必要である。
親の貧困が生涯にわたって子の教育レベルに影響を及ぼしている。
(参考:「子どもの貧困」岩波新書)
・愛着障害
幼児期の愛着形成の問題が、生涯引きずられる。その結果、パーソナリティー障害などの原因となる。
小さい子には、母親がちゃんと接する時間を取る必要がある。
シングルマザー家庭は働くことができるのか。
子どもの愛着障害は免れない。
(参考:「愛着障害」光文社親書)
・ジェンダー論
女性はなぜ男性に対して給与が低いのか。
社会的に女性への賃金や就労機会に関しての差別はあるか。
女性には働こうとするインテンシブが学生時代に男性よりも低いのか。
現代において女性と男性の社会的役割の差をどのように考えるべきか。
・非モテ男性救済
シングルマザーの貧困の援助のために福祉を充実させてきた北欧諸国でいったい何が起きているか。実質的な一夫多妻制が起きているではないか。
シングルマザーになっても暮らしていけるから将来のことを考えて結婚しなくても、イケメンと子どもをもうけて離婚する人が増えているのじゃないか。
非モテ男性は高い税金を取られて経済奴隷になっているではないか。
・大学改革論者
子どもにお金がかかるのは教育費が高いからである。
そもそも、大学にそんなに多くの人が入る必要があるだろか。学問のために大学に入っている人がどれほどいようか。もしかしたらほとんどが就職のために大学に通っているんじゃないだろうか。就職先で大学でやったことを実際に使っている人が全体の何割いるだろうか。
就職のための職業訓練大学なんかを作って学費を抑えた方がいいんじゃないだろうか。
企業も、大学新卒だけやめたらどうだろうか。
・企業論
企業が採用する人材としてコストがかからないのは、男性のほうだ。
教育を大学に投げるのではなく、企業の中で教育すべきじゃないだろうか。
企業が新卒ばかり採用するのではなく、中途からも正社員として採用すれば、シングルマザーの貧困も解決の方向へ進むのではないか。
しかし、容易に解雇できない日本では簡単に正社員として採用するのは経営戦略として賢いとは言えない。
・労働法
各国によって労働観は異なり、例えば、アメリカはわりと簡単に解雇することができるが、日本では正社員を解雇するのは非常に制限が厳しい。
これは、従来の日本では、労働は契約というより、企業の一員として家族のように共に働き、終身雇用という感覚が主流だったためである。
終身雇用を前提とするため、新卒採用以外は行われず、それを鑑みて解雇権濫用を防止するための法理が作られたが、そのせいで企業が正社員の採用を渋るようになった。
現在、非正規雇用は増えている。解雇権濫用法理を見直して、正社員の採用を推進すべきなのだろうか??
(参考:「労働法入門」岩波新書)
と、このように、経済政策の方向性だけでなく、教育制度や法律についても考えなくてはいけない。
私が今、シングルマザーの貧困の扱いを難しくしているのは、一般の人々の、シングルマザーへの嫌悪感と、支援を増大することでシングルマザーが増える可能性があるというギャップだろうと思う。
まず、シングルマザーへの嫌悪感に関して言えば、中高生時代の恋愛経験に遡る人もいるだろう。
中高生時代に真面目にやらずに男遊び、女遊びばっかりしていた人に嫌悪感を抱いていた人がいるかもしれない。そういった人たちが望まぬ妊娠をしたりしてシングルマザーになり、貧困になったとしても憐れみを感じず、その人のために税金が使われるのが嫌だと直感的に思っている人もいるだろう。
しかし、実際に貧困に陥っているシングルマザーの貧困は、40歳くらいが平均だという。10代で妊娠して出産した母親がシングルマザーになり貧困に陥っているというイメージは、実情を反映していないと考えた方がよい。(上述「子どもの貧困」より)
また、シングルマザーへの嫌悪感としては、実際に現在、夫との不和に陥っているが、経済的事情で離婚しえない人からもあるだろう。そういう人にとっては、「自分はこんなに辛い思いをして耐えているのに、自分で離婚を決めたんだからそれくらいの困難は覚悟の上でしょう!」
と言いたい気持ちもあるだろう。
このために、シングルマザーの貧困家庭へと税金を投入することに不快感を示す人々が一定数いるだろうと考えられる。
支援を増えることでシングルマザーが増大する可能性については、上で「非モテ男性救済」の項目で述べたことも関係するが、さっき述べたように、
「夫との仲が不和であり、離婚したいが経済的事情により離婚できない」
という母親が一定数いることが事実だとすると、シングルマザーが貧困に陥らないように支援を北欧並みに増大したとすると、その分、経済的懸念から離婚をためらっていた母親が離婚し、さらにシングルマザーが増え、より福祉の支出が増えるということにもなりかねない。
基本的に国家の統治戦略として、人々のコントロールをしたいときには、法によって行動を制限するか、経済的に得、または損をするようにしてコントロールするものである。
シングルマザーの貧困に関しては、貧困に陥ることが分かっていながら離婚し、シングルマザーになったものへの法的制裁を加えることができるだろうか?
おそらくできないし、仮にしたとしても、DVなど、別のところでの歪みが生じるのは必至である。
では、シングルマザーになると経済的に損をするようにしてコントロールすることはできるかということについて、現時点でシングルマザーになると経済的に損であるがシングルマザーは一定数いるし、そもそも、シングルマザーの貧困は、その子への影響の観点から一定以上の経済的支援があるので、経済的に損になるようにしてコントロールしようということは難しい。
今まで述べてきたことから、シングルマザーの貧困に向けて何か解決の方策を取ろうとすれば、どこかで誰かが損をするというような状況である。
非常に舵取りが難しい。
しかし、まずは、子の教育費の負担軽減と、親の文化資本に大きくは左右されない教育環境の提供からなんとかできないものだろうかと考えている。
サイゼリヤデートの話題をきっかけに、ジェンダー論の論点まとめてみる
30代の初デートでサイゼリヤデートはありなのか。
とかいうのがTwitterでは結構議論になっていましたね。
これをきっかけにジェンダー論の主な論点整理でもしてみようかなって思ってこの文章を書くことにします。
まずは、サイゼリヤデートの件なんですが、まあ、そもそもこの疑問自体が結構状況によりけりだと思いますね。
30代って言っても年収も人によってかなり違いますし、初デートって言っても、すでにもう付き合っていて、付き合ってから初めてのデートなのか、付き合う前にデートに来ているのかでもニュアンス変わってきますし。
細かいこと置いといて、これらの議論を眺めていて思ったのは、サイゼリヤは安くておいしいし、サイゼリヤ行って話題のほうれん草食べたいなってことです。
さて、サイゼリヤデートにおける議論でも、様々な人が様々な理論をぶん回してバトルを展開していたわけですが、デートとかって身近にジェンダー論を意識しなければいけない場だと私は思います。
最近のジェンダー論を考える上で、気にしなければいけないトピックとは何なのか。
私は以下のような点が論点になってくると思います。
・生物学的性差と平等性・同質性
・労働市場のキャパシティ
・自由恋愛市場における魅力
・個別の扱いとマクロ的扱い
それぞれについて話していきたいと思います。
・生物学的性差と平等性・同質性
ご存知の通り、女性と男性は違います。生物学的性差が必然として存在し、出産や授乳は女性が行うものであり、現在男性にはどちらもできません。
女性と男性では体格も違います。男性のほうが、平均的に背も高いですし、男性ホルモンの影響で筋肉量は女性にも多くなります。
この差について、ジェンダー論を語る上でもやはり無視はできないだろうと私は考えています。
そこで、男女平等論やフェミニズムはどこを目指すべきなのかということなのですが、私は、平等性と同質性という二つの異なる概念を使うべきだと考えています。
平等性についてですが、例えば2者間の平等を考える際に、必ずしも2者がまったく同じ権利や義務を有している必要はありません。
誰かが物を売り、誰かが物を買う時、この消費における契約は不平等なものかというとそうでもないと言えるでしょう。お金を払うという行為によって、お互いに平等な契約が結ばれていると考えることができると私は思います。(法学の素養がないので間違っていたらごめんなさい。)
世の中には異質なもの同士が契約によって平等につながっているということは、よくあることだと私は考えています。
したがって、男女平等論においても、必ずしも男女同権でなくても実現は可能ではないかと私は考えています。つまり、男女を無理に同質的に扱う必要はないと私は考えていますし、先に述べたように、男女には超えられない性差がある以上、完全に同質にすることは原理的に不可能だと私は考えます。
現在、男女は同質ではありませんが、現在男女が不平等なのか平等なのか再考すべきだと思います。
私は男女平等論を議論するならば、「どれほどまで男女の同質性を求めるべきか」といった同質性の程度の議論をすべきだと考えます。
・トレードオフ
さて、トレードオフというのは、あるものを得ればあるものを失うということ、単純に言えば、交換ということです。ジェンダー論の際には、権利と保護はトレードオフであるということを意識すべきだろうと私は考えます。
未成年者は法的に権利が制限されていますが、その分保護を受けています。
基本的に法は権利と保護がトレードオフされる形で制定されていると私は考えています。
この権利と保護のトレードオフというのは至る所で意識されることなく実践されている原理だろうと私は推測しています。
まだ一人で何もできない子は親の言うことに逆らえないなど権利は制限されているが、その分親から保護を得ているといったことは実感としてわかるのではないでしょうか。
女性の権利を男性と同じにしようとした場合、そこには必然的に権利と保護のトレードオフが生じるだろうと私は考えています。
例えば、女性は男性に奢ってもらいがちだったり、結婚した場合、専業主婦になることが社会的に認められやすいですが、男女が同じように労働する権利を有した場合、これらの慣習もまた変わる可能性が高いだろうと思います。
女性が奢られやすかったり、専業主婦になりやすかったりするのは、女性が男性よりも経済力が弱いことを前提とした違いであり、女性と男性が同じ経済力を持つに至った場合、男性が女性に奢られることも、男性が専業主夫を選択する可能性も、格段に高くなるだろうと予測します。
まあ、実際にそうなるかはさておき、権利と保護のトレードオフを考えればそういうことが起きるということを私は提唱したいわけです。
大事なことなのでもう一度言っておきますが、「権利と保護はトレードオフ」だと私は考えています。
・労働市場のキャパシティ
さて、今のジェンダー論では、女性が働きやすい職場を、といったように女性が今より労働者として社会に参入させようとする意図がありますが、労働市場にもキャパシティがあるということを考えなくてはいけません。
果たして現在の日本の経済において、希望すれば全員が労働に従事できるかどうか、と考えた場合、おそらくそれは不可能だと私は考えます。
雇える人数の総数は社会全体で決まっており、それを超える人たちは、労働に従事したくとも、非自発的失業者として労働市場からはじき出されざるを得ないでしょう。
ならば、それぞれの人の仕事量を半分にして雇用数を倍にすればいいと考えてしまうかもしれませんが、一般に雇用者数が増えるとその分管理費用がかさばるため、企業は同じ成果を上げられるならば少ない人数で業務を達成しようとします。
つまり、今まで労働市場に参入していなかった女性が参入してくるということは、その分労働市場からはじき出される男性が増えるということです。
実際には、高齢者に対して労働者人口は減っていますし、その解消のために女性も労働市場に参入させようとしているのが実際なので現実はそう単純ではないんですが。
しかし、女性の労働市場参入によってはじき出されて無職になってしまった男性を救出する機構を今の社会は生活保護くらいしか持ち合わせていません。
女性の場合は、労働市場からはじき出された場合は結婚して専業主婦という形が多かったですが、男性では結婚して専業主夫になるというのは、社会的に現在あまり受け入れられていませんし、恋愛市場の性差を考えると今後もそれほど増えることもないかもしれません。
現在の社会では、やはり結婚におけるメリットは、お金も大きく関係しますので、女性が労働市場に参入し、自己実現が可能になった社会では、労働市場からはじき出されて、お金がなく、お金がないので結婚ができない男性というのが社会的に作られやすくなる、ということを考慮しなくてはならないと私は考えます。
そのセーフティーネットをどうするかというのが一つの課題になります。
・自由恋愛市場における魅力
男女が異質なものとして現在も維持されている原因とは何かと考えたとき、私は、男女の自由恋愛市場がそうなのではないかと考えました。
社会の様々なことは男女の自由恋愛市場を基点として展開しているような気がしてなりません。
男性が女性をデートにおいてエスコートしたほうがよい、とする考えや、女性は化粧などをして美しさを保つのがよい、とするような考えは、恋愛市場における「望ましさ」に由来すると私は考えます。
いくら制度的に男女の権利を同質にしようとしても、男女はそれぞれ、恋愛市場における「望ましさ」を獲得するように動こうとするだろうと私は推測します。
女性にも男性と同じようにリーダーシップを与えようとしても、恋愛市場において男性にリーダーシップを取ってもらいたいと願う女性が多くいた場合、社会的にもやはり男性がリーダーシップを取る機会が多くなるだろうと推察されます。
現代の男女の役割の差異は自由恋愛市場の原理が反映されていると見るべきだと思います。
したがって、恋愛市場での価値感が変わらない限り、社会における男女の役割の差異は依然として存在し続けるでしょう。
・個別の扱いとマクロ的扱い
次のトピックが本当に難しいことなんですが、個別と全体では扱い方が違うだろうという考えについてです。
例えば、女性でも男性より力が強い人や体格がいい人がいますし、実際にそういった女性が働いたほうが男性より圧倒的に成果を上げられることも少なくありません。
しかし、これはミクロ的にみた場合、個別的事例の話です。
マクロ的にみたばあい、つまり集団としてみた場合、やはり男女には差異があります。
ミクロならば、力の強いAと力の強いBがいた場合、荷物の運搬などはAに任せた方がいいとなるでしょう。
しかし、マクロの場合、集団ごとに違う役割を振るべきなのかといったことが問題になります。
もちろん、個別事例を逐一見ることができればいいですが、個別の能力を逐一確認するにはコストがかかります。
例えば、配達業務の場合、男女では、男性のほうが地図を読めるという傾向があるでしょう。
採用の際に逐一地図がどれほど読めるかをチェックしてもいいですが、その分そのテストのためのコストがかかります。
そのコストを上回るだけのメリットがあればいいですが、何も考えずに男性だけを300人雇ったほうが結果的に利益が出せることが統計的に分かった場合、どういった選択をすべきかということを考えなくてはいけません。
実際には多少利益を犠牲にしても、男女が同じように働く権利を得られたほうがいいということになるでしょうが、なんらかの行政の誘導がなければ企業はコストがカットできるほうを選択するでしょう。
これはあくまで労働の話でしたが、集団の扱いを考える場合には、常に、個別事例と集団の扱いのバランスをどのように取るかということが問題になります。
特にこの問題は経済的余裕がない場合に切実になります。
さて、今回は以上の論点についてまとめてみました。
この記事ではあえて、男女同権を進めることへの疑問を呈する形として論点を提示しました。
逆説的ですが、男女同権の問題点、疑問を投げかけることで男女同権、あるいは男女平等の流れを促進するために必要なこともわかると考えます。
議論が平行線にならないために、論点を整理することは重要です。
これだけが論点ではありませんが、まずは以上のようなことを踏まえたジェンダー論の議論ができればよいのではないかと考えます。