ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

人の足を引っ張ることの合理性

 なんでこんなことをわざわざ記事に、と思う人もいるかもしれないが、「人が人の足を引っ張る」というのは、どこにいっても結構深刻な問題なのである。会社員同士が、自分の評価のために足を引っ張り合ったりするのが生産性の低下を招くのはもちろんである。しかし、そういったことが目に見えてわかりやすいとは限らない。

 僕が問題視しているのは、相手の足を引っ張っているとは思わずに相手の足を引っ張っていることが多いということである。
 例えば、こんな例である。テストの点が悪かった生徒4人が、学校の教師に、
「テストの点が悪かった罰として、放課後に君たち掃除しなさい。」
と言われたとして、
「テストの点が悪かったからといって掃除させられるのは理不尽だ。余計勉強時間が減ることにつながる!」
と帰ろうとしたとする。
このときに、次のような発言をする生徒が出てくる。
「おい。俺達は掃除してるのにお前だけ帰るとかふざけんなよ!」
しかし、その生徒はそのまま押し通して帰ったとしよう。残りの生徒たちの会話では次のようなが言われているかもしれない。
「ほんとあいつないわー。協調性がないわー。」
 雰囲気最悪である。険悪なムードとはかくして生まれる。
 さて、この例において、本来生徒たちが抗議するべき相手は教師であり、テストの点が悪かった生徒たちはお互いに協力して抗議する仲間であるはずなのだが、お互いがお互いにずるを監視して、「足を引っ張り合う」という行動をとる。今回の場合の「教師の言うことが理不尽だとして命令を撤回させる」といった「根本的な解決策」の実行が難しいときほど、この傾向は顕著に現れると推測される。
 この心理傾向を活用(悪用?)すると、人間たちを「管理」するときには非常に有効な手段になる。管理者が直接管理しなくとも、構成員同士が勝手に牽制しあってくれるため、管理コストが下がるのである。そして、過去に実際にこの心理傾向を政治に活用したのが、かの有名な「五人組」である。五人まとめて連帯責任を負わせて、お互いに監視をさせるという巧妙な手段である。ほんとによく考えたものである。今でさえ、このときの文化が残っているから日本人は連帯責任とか集団の空気とか好きなんじゃないかと思ってしまう。いや、実際の事実関係は知らないが。

 同じように、「お互いがお互いを監視しあって足を引っ張り合う」というのは色んな所にある。わりと問題なのは、ブラック労働文化だろう。
「俺たち月100時間残業してるのに、月50時間残業でブラックとかいうの笑えるwww」
とか
「俺らが若いときはもっと残業してたのに、今の若いやつは…。」
とかである。こういったことを言う人は結構多いのである。
「何足引っ張りあってんだ。」
という感想しかない。
 そして、そういう発言をしている人たちが、足を引っ張り合ってブラック労働に励んでいる自覚があるのかは疑問である。
 こんな風に足を引っ張り合うことでブラック労働を行うことの問題は、ブラック労働禁止を訴えるためのメインターゲットの不在である。もしも企業の運営者が社員にブラック労働を強いていて、労働者同士が協力することでその運営者を打倒する、もしくはみんなで転職してブラック労働が解決するなら事は単純である。しかし、このようにお互いがお互いを監視することで生まれるブラック労働のようなものはメインターゲットが存在しない。言うなれば、足を引っ張る発言をする人全員がターゲットである。打倒は難しい。ブラック労働を解決しようにも、労働者自らがそれを生み出しているのでは、のれんに腕押しになりかねない。
 この例のように、無自覚のうちに、他の人の足を引っ張っている人というのは非常に多い。そして、メインターゲットがいないので質が悪い。集団の気質の問題というのは解決が難しいのである。無自覚に足を引っ張っている人たちが、自覚的になれば解決するが、それを群衆に求めるのはわりと無理がある。群衆にそこまでの力はないのである。

 こうした足の引っ張り合いも、もしかしたら「パノプティコン効果」の一種なのかもしれない。常に監視されているという意識からみずから好んで規律に従おうとする、というあれだ。さっきのブラック労働の例のような話では、実際に監視する人がいるので、厳密には違うのかもしれないが、しかし、
「お前だけブラック労働しないなんてずるいぞ!」
という趣旨の発言の可能性が監視的に働き、自ら進んでブラック労働を行い、その後自らブラック労働を推進する発言側に回っているという可能性である。

 今まで述べてきたように、足を引っ張り合う行動というのは、どうにもこうにも扱いが難しいのであるが、では、そもそも相手の足を引っ張ろうとする心理について次に考察してみよう。

 まずは生物学的見地から。
 詳しい種の名前は忘れてしまったのだが、スニーキングという行動を取る魚がいることが知られている。これは、メスの獲得競争に敗れた体の小さなオスが、他のオスがメスの卵を受精する前に、それを横取りして自分の精子を卵にふりかけて受精させるという行動である。
 この事実は、従来、生物は種の保存のために合理的な行動を取ると思われていたが、そうとも限らないのではないか、と疑問を提示した。
 この例で言えば、一般的には、体の大きい強いオスが子孫を残すほうが、種の保存にとっては有利だと考えられる。そのため、体の大きさなどにより自然淘汰が行われるかと思いきや、そうでもなかった、ということである。
体の小さい弱いオスが横取りをする。
 これは種の保存ではなく、個の保存と呼ばれる。種の保存よりも、個体自身が子孫を残すことを優先させているのではないか、という考え方である。
 これは、ハーレムを形成するライオンのような動物でも同じことがいる。他の群れを乗っ取ったオスは前のオスが残した子を殺す「子殺し」を行うことが知られている。これも個の保存の一つと見るべきだろう。
 これらのように、生物には種全体の保存よりも個の保存を優先する行動を取る傾向が推測される。人間同士の足の引っ張り合いも、このように、ヒトという種全体の保存や、自分が所属している集団の利益よりも、まずは「個人」の利益が優先されている可能性が高い、ということを指摘したい。可能性も何も、直感的に「それはそうだろう。」と思っている人も多いかもしれないが。

 次にゲーム理論の観点から考えてみよう。
 ちなみに、ゲーム理論とはテレビゲームの攻略法について考えた理論のことではない。ゲーム理論は、行動の合理性について考える学問といえるだろう。
 とは、言ったものも自分もナッシュ均衡とか、ミニマックス戦略についてはちゃんとわかっているとは言い難い。正直、さわりくらいしかわかっていない。
 それくらいの知識しかないのだが、協力したほうが利益が最大化する場合でも、個人の損失を抑えようとするように人は働く傾向があるということは、「足の引っ張り合い」にも応用できるのではないか、と私は考えた。
 個人的合理性は集団的合理性と一致しないことは往々にしてある。「足の引っ張り合い」なんてその最たる例である。相手が得をすることで自分が相対的に損をすることを抑える、といった行動はある種の合理性なのである。だから、「足を引っ張る」行為は、合理的な選択であるともいえる。ただ、ブラック労働やその他問題においては、相手と話し合いができるのだから、裏切る確率よりも協力できる確率が高いと言えるし、それならばお互いに協力したほうが利益を最大化できるではないか、と思うのだけれど。

 そして、政治的観点から、「足の引っ張り合い」について考えよう。
 おそらく、足を引っ張る心理としては、上に述べてきたように、個体の損失を最小に食い止める戦略だとみることができるだろう。では、実際の政治ではどのような問題が生まれるかということについてここでは考えてみたい。
 まず、足の引っ張り合いというのは格差社会でより強くなるであろう。格差社会では低賃金労働者は、社会の発展よりも、自らの生活の水準向上を願う。他の労働者がより高い収入を得ることを良しとしないし、お金持ちたちを目の敵にして攻撃しようとする。格差が広がるほどに、集団にとって合理的な選択よりも、自分個人にとって合理的な選択を取るようになる傾向があると考えられる。
 これは推測だが、人は、一般的に、自分の安全がある程度保証される状況に限って集団の利益が最大化するような協力姿勢を取ることができる、という性質を持っているように感じられる。
 マズローの欲求5段階説と比較して言えば生理的欲求や安全欲求が満たされた状況でのみ、自己実現の欲求が表に現れ、協力することができるということである。
 こうして考えると、アファーマティブ・アクションポリティカル・コレクトネスは、国民の生理的欲求や安全欲求が満たされない状況では反発されるだろうと推測される。

 以上、「足を引っ張る」という行為について分析して見てきたが、ここで、では「足を引っ張る」ことをどう防ぎ、お互いの利益が最大化するようにできるのかについて考えたい。
 方法は主に2つあるだろう。まずは、制度設計の段階で、お互いに足を引っ張らないように、むしろ協力的になれるように設計するということである。制度のデザインというのはかなり技術が要求される分野であるが、わりと軽視されているように思う。学校でのいじめ問題も制度設計の問題とも言えるだろう。制度設計が軽視されるのは悲しいことである。
 例えば、アメリカのある業界の企業では、同僚が出世することをよく思わない人がいることを考慮し、出世するなら他の会社に転職することがルールになっていることがある。また、このように人を流動的に移動させることは、悪しき伝統を集団内に形成させることを防ぐ狙いもあるらしい。どの論文だったか、探しても見つからなかったのだが、たしか、アメリカのある地方の心臓外科医を、一定期間流動的に移動させて交流させると治療成績が有意に、しかもかなり上がったという報告があったはずだ。
 このように、制度設計は大事なのである。
 「足を引っ張る」ことを防ぐ方法のもう一つは、個々人が、
「自分の行動や感情をメタ的に認知して、自分が妬みによって相手の足を引っ張っていないか意識する」
ことである。これは、個々人のメタ認知能力を上げることができれば可能なのだが、それは実際問題、結構難しい。できるに越したことはないのだが。

 以上、「足を引っ張ることの合理性」について、また、その解決方法について考えてみた。
 まとめると、足を引っ張ることは個人にとって合理的な選択である場合も多いが、協力するほうが利益は最大できることのほうが多く、制度設計の段階での努力が必要である、ということになるのだろうか。
 多くの人が、人の足を無自覚に引っ張っていることに気づき、制度設計の重要性を認識しくれること願う。