ロロの空想

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のんのんびよりを観て感じた都市と田舎の人間関係


2016年12月23日

 アニメ「のんのんびより」と「のんのんびより りぴーと」を最近になってようやく観た。
 4人の少女+αたちの、超田舎での生活を描いた作品である。原作は、コミックアライブ連載の「のんのんびより」、著者はあっと氏。
 時間がゆっくりと流れ、いろいろなしがらみを感じさせない、のんびりとした生活というのに憧れを感じさせる作品だった。

 のんのんびよりを観て、私はこの作品に、「都市にはないのどかさ」を感じ、それが何に由来するのかしばらく考えていた。そして、いくつかのポイントを見つけたような気がする。ここでは、それについて書きたい。一応、のんのんびよりを観たことがない人にも伝わるように、随所でシーンの解説を入れるつもりである。

・田舎と都市(郊外)のイメージモデル
 田舎について何か書くとき、それは都市と田舎との比較で書かれることが多い。私も、これからその比較の中で、のんのんびよりについて書くつもりだ。
 したがって、まずは、何が田舎で、何が都市なのか、について考えておかなくてはいけない。
 ここでは、あえて、「都会」ではなく、居住人口の密度について注目するため、「都市」という言葉を用いる。都市の対義語に「村落」ではなく、「田舎」という言葉を用いるのは、「のんのんびより」の作中で「いなか」という単語がよく使われていたためである。
 さて、田舎と言っても千差万別であるし、のどかに暮らせる治安のいい田舎もあれば、治安が悪く、住民の仲も悪い田舎もあるだろう。だから、とりあえず、モデルを決めることが大事だ。ここでは、のんのんびよりについて書くのだから、田舎についてのモデルはもちろん「のんのんびより」でいいだろう。
 一方、都市でのモデルとしては、ここでは、まんがタイムきららMAX連載、原悠衣氏の「きんいろモザイク」を基準にしてみようと思う。同じ日常系マンガとしては、ちょうどよいだろうという判断である。
 なお、ここでは、便宜上、「のんのんびより」と「きんいろモザイク」を目安にして語ることにするが、どちらも創作の物語であり、これらの比較のみに基づいて田舎と都市を論ずるのは多少無理があるという指摘もあることだろう。それに、語ろうとすることすべてにおいて、このモデルでの比較を用いるのも無理があるだろう。
 だから、あくまでこの2つは、あくまで「目安」としてのモデルだ。一応は、モデルを設定しておかないと、読み手によってイメージの齟齬が出て来ることは必至なので、とりあえず設定した基準、目安として考えてもらえるとよい。都市の生活と言ったときに、人によって「ルーキーズ」や「ごくせん」のような世界観を持ったり、「這いよれ!ニャル子さん」や「らき☆すた」のような世界観を持ったりと大きく違っては困るので、恣意的に、そして暫定的に決めたに過ぎない。
 なお、創作物語の世界観について語ることが現実の事情に結びつくは妥当なのか、という疑問も当然だと思うが、ここでは、創作物語も現実を反映したものであり、現実と創作の世界には一定の関連が観られるとし、創作物語の世界を通じて現実について語ることにも、「一定の」妥当性があると判断することにする。
 なお、「のんのんびより」「きんいろモザイク」のモデルとしては、基本的にはアニメ作品を優先とするが、マンガ作品についても、モデルとして考えてよいことにする。
 
・大きなコミュニティVS小さなコミュニティ
 都市と田舎の比較では、ビルや電気といった文明や技術が比較されることが多いが、ここでは、「コミュニティの大きさ」に注目したい。都市でのコミュニティは、大きなコミュニティであり、田舎でのコミュニティは小さなコミュニティと言える。これは単に人口密度の問題とも言えるが、それだけの問題だとも限らない。職住の一致と不一致という点にも注目しなければならない。それについては次のセクションで述べる。
 果たして、どれほどまでなら小さいコミュニティと言えるのかについては考えなくては行けないが、ここではとりあえず、「のんのんびより」くらいの規模を想定しよう。
 このコミュニティのサイズというのが、色々な人間関係の変化を生むことになる。

・職住別離VS職住近接
 職住が同じところにあるか、職住が違うところにあるか、これがコミュニティのサイズを決定する一つの因子でもあるように思う。学校の場合は、職住ではなく校住近接というべきか。
 近代化の流れを受けて、人々は交通手段の発達とともに、都市と郊外という都市構造を形成してきた。それによって、住居は郊外、仕事や学校は都市へと出かけるというスタイルがスタンダードとなったのである。
 「のんのんびより」の登場人物が主に中学生であり、高校生組は電車通学や下宿をしているので、「きんいろモザイク」と比較してもあまり顕著な違いは感じられないかもしれないが、職住が近接している人たちの暮らしは、比較的狭い範囲で完結する事ができるのに対し、職住別離型の生活をする人は、生活圏外がどうしても広くなってしまう。
 かつては、日本もイギリスの職住近接型都市としてのニュータウンをモデルにして都市計画を進めようとしたが、日本にニュータウンという概念が輸入されたときには、新規開発という部分だけを輸入し、職住近接の概念は抜け落ちてしまったと聞いたことがある(事実は知らない)。日本は、結果として大きな都市と、それを取り巻く大きな郊外という都市構造が生まれてしまった。そして、都市文化が日本に定着したのだと私は考えている(詳しいことはまだ勉強していない)。
 それによって起こるのが、人間関係の流動化と、仮面を使った交流である。

・流動的VS固定的
 職住近接の場合は、人が移動することが少なく、人間はある場所に固定化されやすい。一方で、職住別離型の人は、大いに動く。したがって、都市の人の場所というのは流動的なのである。
 流動的なのは、場所だけではない。人間関係も立場も流動的である。都市では、人々は大きなシステムの中で生きている。その中では、容易に人間関係や立場は再編成される。大きなコミュニティを管理するためには大きなシステムが付随してくるのである。
 田舎の農村地区では、お互いの人間関係はそんなに動くことはない。いつまでたっても、「近所の人」「同業者」くらいのものである。学校でもそうだ。「何歳か上のお兄さん、お姉さん」くらいの関係のまま固定される。
 しかし、都会では、システムが大きく、かつ複雑なため、「同僚」だったのが「上司」になったり、「同業者」が「仲間」だったり「商売敵」になったり、学校では、「近所のお姉さん」だったり、「クラブの先輩」だったり、「学校の先輩」だったり、「塾の先輩」だったり、立場が流動的に変化することで人間関係も流動的に変わってしまう。
 このように、都市では、大きな「構造の力」が働く。このために、人々は、「仮面」によって人間関係を行わなければいけなくなり、「キャラ闘争」も発生してくる。


・知らない人が普通VS知っている人が普通
 「のんのんびより」で田舎っぽさが現れていたのは、小学一年生の「れんげ」が、おばあちゃんの家に遊びに来ていた同じく小学一年生の「ほのかちん」に声をかけたシーンである。
 れんげの行動論理としては、「知らない人だったから声をかけてみた。」だったのだと思われる。れんげの住む小さなコミュニティでは、「知っている人」というのが普通であり、「知らない人」というのは特別なのである。したがって、興味がわいてれんげはほのかちんに声をかけてみた。
 ここに、都市との大きな違いを感じることだろう。都市では、普通「知らない人」には声をかけない。声をかけるのは「知っている人」である。
 つまり、田舎では、「知らない人だから(不思議に思い)声をかける。」のに対し、都市では、「知らない人だから(不審に感じ)声をかけない。」のである。これが一般化されることではないのはわかっているが、れんげの行動論理にはここに述べたようなものが隠れていると思われたのである。
 そして、この考えをさらに推し進めていくと、人間関係のはじめについて、意外な帰結にたどり着くことになる。
 田舎では、上記のように、知らない人に声をかけて知り合いになることに「特別な理由」はいらない。もっといえば、知らない人だということそれ自体が声をかける「理由」にもなっているのである。
 一方、都会では、「特別な理由」がない限り、知らない人には話しかけない。道端を歩いていて、知らない人に「どこから来たの?何してるの?」と問いかけることは不審な行動と受け止められる。これは、人々の暗黙の了解として、「知らない人に話しかけるときにはそれ相応の理由がある。」という意識が共有されているからである。田舎で知らない人に、「どこから来たの?何してるの?」と問うのでは全く意味が異なってくるのである。知らない人が普通だというコミュニティでは、人への不信感が増すのである。
 これはつまり、人が多い都市ほど、人と交流することが難しいといった事情を生み出している。皮肉なことである。人が多いゆえに、人と交流できない。人が少ない田舎に一人で引越したほうが、人の多い都市に引っ越すよりも孤立しにくいのではないだろうか。都市では、職場や何らかの目的を持ったコミュニティに入らないことには、人と交流する機会がなく孤立しやすい。
 これは一つに、都市のような大きなシステムの中では、人々が「個人」ではなく、「仮面」として人間関係を構築するという共有された意識があるからではないかと考える。知らない人と話をするときには、「道を訊く人」と「道を訊かれる人」、「落とし物を拾ってあげる人」と「拾われる人」といったように、いわゆるステージ上での役割のように、何かしらの仮面を演じることが求められている。それが、小さなシステムより大きなシステムの中ではより顕著になるのである。
(まだ詳しく調べたことはないが、シンボリック相互作用論やドラマツルギーといった言葉はこれと関係があるのだろうか?)

・歳の差による人間関係
 否かでは、多少都市が離れていようと、「だいたい同年代」という風に同じように接することができる。しかし、都市では、年齢ごとに「層別化」され「序列化」され、人間関係が規定される。これも大きな「構造の力」の一例である。
 「のんのんびより」での、東京から引っ越してきた「ほたる」とそれ以外の人たちの言葉遣いに注目するとわかりやすいかもしれない。
 ほたるは東京育ちなので、年齢別に厳格に層別化・序列化されることに慣れ親しんでいる。したがって、年上には敬語を使うし、年下には敬語は使わないといったように相手によって言葉遣いを変える。一方、他の人達は、年上だろうが年下だろうが同じ話し方である。
 年齢による序列化によって、都市では違う年齢同士の交流が阻害されているのである。


・構造の力
 大きなコミュニティでは、大きなシステムが必要とされ、小さなコミュニティでは小さなシステムが必要とされる。システムというのは「構造」であり、基本的にシステムの大きさが大きくなると、それだけ「構造の力」も大きくなる。どういうことかというと、システムが巨大になるほどに、「何時にどこどこに行かなければいけない」「何々という用事を何時何時までにおわらせなければいけない」といったような要求や、「組織の下っ端」「組織のトップ」「不毛な会議をする人」「約束を守らない人」などといった人に貼るレッテルの種類が大きくなるということである。つまり、大きな構造では、それだけその構成員を規定する力が強い、ということである。システムが大きくなるほどに、人間の存在意義は構造に依存するようになるのである。これは構造主義的な考え方である。
 田舎ののんびりさ、都市の息苦しさ、というのはこの「構造の力」の大小が大きく影響しているのではないだろうか。
 大きな「構造の力」は、構成員から「個人」同士の付き合いを禁じ、「仮面」同士の付き合いを強要するようになる。
 例えば、学校のクラブ活動について考えてみよう。部員数が2、3人のクラブでは、クラブ員であってもクラブ員でなくても、大きく人間関係が変わることはないだろう。「のんのんびより」の中で、中学二年の夏海が「クラブ作ろうぜ!」といっても、それによって大きな人間関係の変質はもたらされないのである。
 一方で、クラブ員が30人くらいの都市の学校のことを考えてみよう。ここでは、「クラブ員であること」が交流の条件になることも多い。
「クラブを辞めたら、元部員と気まずくなった。」
という話もよく聞くのではないのだろうか。「同じクラブ員である」から友達であったり、一緒に遊んだりするということも多いのではないだろうか。
 「きんいろモザイク」では、「同じクラスか否か」は人間関係にとって大きなファクターとなりうることがわかる。
 このように、システムが大きいと、システムが人間関係を規定する力はより強くなる。構造が人間関係を大きく変質させる力を持っているのである。

・仮面VS個人
 これまでに述べてきたように、大きなコミュニティでは、大きな「構造の力」が働き、それによって、人々は「個人」同士の付き合いではなく、「仮面」同士の付き合いを余儀なくされる。
 「個人」同士の付き合いというのは、その人の様々な人間像を含めた包括的な付き合いをするということである。その人を誰かに紹介するときには、「友達」などといったプライベートな人間関係の言葉で説明するときに、それは個人同士の付き合いだと言えよう。
 「仮面」同士の付き合いというのは、その人の社会的一面によって行われる付き合いである。その人を、「同級生」や「同僚」といったような社会的関係の言葉で説明するとき、それは仮面同士の付き合いだと言えよう。
 「のんのんびより」での生徒と先生の関係は、「生徒」と「先生」という仮面の関係である前に、「近所のよく知った人」なのである。
 一方で、「きんいろモザイク」では、やはり「生徒」と「先生」といった社会的な関係が個人的な関係に先行するのである。
 もちろん、田舎だからと言って、「個人」同士の付き合いを必ずするかといえば、そうでもない。ご近所さん同士の関係で終わることもしばしばだろう。しかし、個人同士の付き合いは、都市よりも行われやすいのではないか。
 東京から引っ越してきたほたるは、家では超あまえんぼうであるが、外ではしっかり者として見られている。ほたるは対極的な二面性を有した人物である。これも、ほたるが東京で育ったゆえのことだと考えることもできる。
 ほたるは、東京での人間関係のくせから、外では社会的一面である「仮面」を被って生活をしているのかもしれない。
 
 まとめると、田舎のような小さなコミュニティでは、「個人」の関係が「仮面」の関係に先行し、都市のような大きなコミュニティでは、「仮面」の関係が「個人」の関係に先行すると言える。

・キャラ闘争
 都市では、お互いが仮面同士の付き合いをすることが一般的である。そのため、組織の中で「キャラ闘争」が起こると考えられる。学校について考えるとわかりやすい。学校では会社のように役職が決まっていないので、お互いの立場というものは、「キャラ」によって決まる。
 番長系キャラ、文学少年系キャラ、委員長系キャラ、オタク、ヤンキーといった風に、どういった仮面を被るか、それによってどういった立ち回りをするかが決まってくる。このような、キャラの仮面による組織内での立ち振舞いをここでは「キャラ闘争」と呼ぶ。
 大きなコミュニティが、仮面の付き合いを生み、それがキャラ闘争を生み、それがスクールカーストをはじめ独特の学校文化を生み出しているのかもしれない。

・公共の目の存在
 羞恥心の歴史や恥の文化について確かいい本があったはずなのだがまだ読んでいない。だからここは私の個人的な推測による論理になるが、大きなコミュニティによって「公共の目」が誕生し、それが一つの羞恥心、恥を決めているのではないかと私は考える。
 「公共の目」というのは、あらゆる行為に羞恥心を付与する。知り合い同士では心理的ハードルが低いことでも、「公共の目」を意識すると恥ずかしくなるということはよくあるのである。
 例えば、少し変わったゴスロリファッションを着て街中を歩くというのは、「公共の目」によって奇異に思われるという羞恥心があるかもしれない(「きんいろモザイク」のしのが変な衣装を着て出かけるシーンがある。しのが羞恥心を感じているのかはわからないが。)。
 しかし、それが知っている人ばかりの田舎ならその羞恥心も多少は和らぐ…かどうかはわからないが、「公共の目」を意識しない分、多少楽になるかもしれない(余計辛くなる人もいるかもしれないが)。「のんのんびより」ではれんげがてるてる坊主の格好になって村を練り歩くシーンがあるが、あれは知っている人ばかりの田舎だからできることであって、知らない人ばかりの都市ではなかなかできないものである。
 つまり、知らない人ばかりが普通のコミュニティでは「公共の目」の存在により新たな行動規範が作られるのである。


パノプティコン
 「公共の目」によって作られるのは、羞恥心だけではない。上記に挙げたように、行動規範も作られる。これがパノプティコン効果といえるかもしれない。誰かから監視されているという意識が、人々に新しい倫理観をもたらすのである。このパノプティコン効果を「パノプティコンの力」というならば、これにより、「構造の力」はさらに大きくなるのである。


・都市の利便性と田舎の不便性
 ここまで、都市と田舎のコミュニティの違い、システムの違い、それによる人間関係の違いについて述べてきたが、しかしやはりなんといっても、都市と田舎の違いというのは生活の利便性といったことにあるだろう。水道、ガス、電気、電波、スーパーに本屋さん、その他もろもろ。そういった利便性抜きにはやはり田舎と都市を語ることはできない。
 問題は、都市化することで失われた田舎の良かった点をどう取り入れ、都市化の悪い点をどう減らすかにある。あるいは、都市と郊外の関係をどう見直し、どのような都市計画を立てるかといったことが重要なのである。

・何を目指すべきか
 古代中国には小国寡民、すなわち国民を少なくして小さい国家を作るのを是とする老荘思想があった。これは、このような都市化の問題点を排除しようとした結果だったのかもしれない(詳しいことは知らない)。
 また、仮面同士の人間関係、巨大な構造の力によって支配されることによって人間疎外が起きているとも考えられる。人間疎外は資本主義の結果の出来事だと語られがちだが、人間疎外は都市化による構造の問題だともいえるのではないだろうか。
 私たちは、田舎のいいところと都会のいいところを取り入れつつ、いい社会のあり方を模索しなければならない。
 のんびりとのんのんしながら、便利に暮らすことができれば幸せである。


・おまけ
 個人的なお気に入りのシーンを三つ挙げるなら、「蛍に大人っぽさで完全敗北するこまちゃん」、「家に帰ると急にあまえんぼうになるほたる」、「そ・すんさー」である。「のんのんびより」の8話と「のんのんびより りぴーと」の第11話は歴史に残る素晴らしい回だった。