ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

自分が「親」になることへの意識

 

 現在(2016年12月30日)の日本での親と子について考えよう。

 「母親ははじめの他人」という言葉があるが、私たちは、必ず誰かから生まれることで存在を始めることができる。故に、私たちにとって、親と子という関係から逃れることはできない。
 親は子にとって最も身近な存在であり、最も強い影響を受ける。親の教育なしに子は成長することができない。
 したがって、子にとって、親という存在は非常に大きい。子の人生は親に大きく左右される。

 しかしながら、私たちは、親と子の関係について深く考えることができているのか。
 子にとっての親。また、親にとっての子。子供を生み、育てるようになると、そのどちらも経験するようになる。
 子供を生むことができれば、誰でも親になれてしまう。親に国家資格などは必要ない。
 親のあり方、子との関係性、それについては個人にその裁量が委ねられている。

 親は、子にとって絶対的存在である。現在の法制度もとでは、親の庇護なしに子は生きることができない。それは、生活のための知恵や技術といったことは、もちろんであるが、経済的支援もまた含まれる。
 子は、法のもとで、制限行為能力者であるとして、いくつかの権利を剥奪されている。一方で、子の親には子を保護する義務が課せられているのである。
 しかし、現行制度では、親の保護義務を細かく監視することはできない。現状として、親は子の生殺与奪権を持った絶対的権力者として君臨することも可能である。実際に命を奪わなくとも、子の人生を捻じ曲げることは親としては可能なのである。

 保護を得るためには、一般に権利を放棄しなければならない。権利と保護をトレードオフである。子供は、権利と保護のトレードオフに同意するかどうかの意思表明をすることはできない。

 果たして、親は子に対して適切な保護を行えているのだろうか。それは私が長い間感じている疑問である。
 行政は親の教育の内容に対しては、虐待がない限りは介入することができない。しかし、最近は、心理的虐待といった概念を適応することで、その範疇を広げることが可能となり、介入はしやすくなった。これからも、ネグレクトの範疇や虐待の範疇が広がることで、行政の介入は大きくなっていくかもしれない。

 しかし、本来は、よくない親の行為の事後的解決ではなく、いい親が増えるほうがよいのである。
 では一体、どのようにすれば、虐待をしない、子にとってよい教育を施すことができる親となり、またパートナーとの関係も含め、よい家族関係を構築することができるのか。
 そのために、行政は何か対策を行っているのだろうか。
 私の感想としては、行政は、いい親の育成、いい家族関係の構築のための対策は行っていないように思える。多くの人が、誰かの親になる可能性を有しているにもかかわらず、そのほとんどが、親になるための教育を受けていないというのが実情ではないだろうか。

 となると、いい親になることができるかどうかは、個人の意識の問題となってしまう。
 そこで、日本人の「親」に対する意識を考察してみたい。ここでいう「親」とは、自分にとっての親のことでもあり、自分に子どもができて将来なるであろう親のことも指す。要するに、自分と親という役割の関わりについての意識の考察である。
 ここでは、年齢別にわけて意識を考えてみる。ここでは、あくまで一般的にありがちな意識を考える。


・就学以前
 親に、身の回りのあらゆることを世話してもらう。道徳心や行動規範を親から教育される。親は怒らせると怖い存在であると同時に、精神的拠り所としても重要な存在である。基本的に、親の言うことを疑うことはしない。親への態度・感情は、この時期の親との関係性が成長後も大きく影響する。


・小学校低学年
 親には依然として大きく依存しているが、自我がある程度成長する。自分の親以外にも、学校の教師、クラスメート、クラスメートの親など、意識しなくてはいけない他者が増えてくる。自分と他人の違いを認識し、親にも感情が存在することを意識する。


・小学校高学年
 親の言うことに対する疑問や、周囲と自分の違いなどを意識し、親から精神的に独立しようと試みる。親の気持ち、教師の気持ち、それらと自分の気持ちを比較し、他者との協調を意識する。


・中学生
 親の言うことよりも、自分の意識に重きを置き始める。親と意見のすれ違いが生じた場合は、従順に見せかけて、自分の意思を通せないかと画策したりする。精神的自立は進み、自分が将来親になる可能性についても考える。


・高校生
 親と対等に話ができるようになり、親と交渉をする力もついてくる。自分の将来、人生について考え、それについて親に同意を求める。
 自分が結婚、親になる可能性については、中学生の頃よりも現実味を帯びた問題として意識に浮上する。


・大学生
 自分の結婚と親になる可能性について、深く考える。卒業後どこに就職し、どのように結婚相手とは出会うのか、いつごろ結婚するか、いつごろ、何人子ども設けるかについて考えを巡らせる。
 人生プランを考えた上で、必要な給料と時間を計算し、仕事を探そうとする。


・高校卒業後就職
 自分の結婚と親になる可能性については、差し迫った問題となる。具体的に、いつごろ結婚するか、いつごろ子どもを設けるか、どれくらいの給料が必要で、どの辺りに住居を構えるかなどについて考える。


・大学卒業後
 仕事をしながら、結婚をするのかしないのか、するとしたらいつするのか、について考える。相手の職業や収入、結婚後うまく生活できるかについて考える。
 子どもができたら、どういった風に育てるか、考える。


 だいぶ偏見に満ちた推測ではあったが、おおよそこんな感じではないだろうか?
 小さいうちは、自分と自分の親の関係について考えることが多いが、成長するにつれて、少しずつ自分が親になったときのことを考えるようになる。
 とはいえ、これはあくまで推測ではあるが、結婚する以前には、一般的には自分が親になったことを考える時間よりは、自分が結婚する相手、そのパートナーについて考える時間のほうが多いのではないだろうか。
 誰をパートナーにするか、相手の職業は、性格は、といったことを考える人は多いように思う。
 また、何人くらいの子どもがほしいのか、男の子がいいのか、女の子がいいのかについて考える人もそれなりにいるだろう。
 しかし、将来、自分の子どもにどういった教育をして、どういった家族関係を築き、自分の子どもにどういった将来を辿ってほしいか、について考える人はそれほどいないだろう。
 それについては、深くは意識を巡らせることが少ないのではないか。
 それは、子どもについては、結婚の後の問題だから、結婚するより先に考えても仕方がない、結婚してから考えればいいという風に考えている人が多いからなのかもしれない。
 しかし、仕事やお金の工面に忙しい時期に、子どもの教育について十分な時間をかけて考えることができるかは不透明である。
 子どもの教育については、行き当たりばったりな対応の人も多いのではないか。
 そのために、子どもとの関係、子どもの教育についてないがしろにされている可能性を私は懸念している。


 ここからは少し私自身の話をしたい。
 私は、小学校高学年だったか中学生のときから、日記のようなものを時々つけるようになった。その動機は、「大人になってから子供のときの気持ちを思い出せるようにするため」であった。私は、小さい頃から、教育する側(教師や親)の要求の理不尽さ、その権力の乱用を感じることがあった。そして、なぜそのようなことになってしまうのか、考えを巡らせていた。
 自分もこれらの大人のように、子供に対して権力を振りかざして苦痛を与える大人になってしまうのだろうか、と考えることがよくあった。
「大人になったらわかるけど、子供のときは、自分は親とか先生の気持ちがわかってなかったなあ。」
 なんて言葉を、当時から聞く事があったように思う。しかし、私は、
「それは現在の自分の立場に近いから、親や先生の気持ちを感じるだけであって、小さい頃の気持ちを思い出せていないだけ、それを切り捨ててしまっているだけではないか。たとえ、親や教師の気持ちがわかっても、虐げられる側の辛い気持ちは変わらない。子供や児童・生徒だって、先生や親の気持ちが想像できないわけではない。それを想像した上で、虐げられる苦しみに憤っているんだ。結局、その時々の自分の辛さを優先して、他者の辛さを切り捨てているだけじゃないか。」
と考えていたと思う。
 だから、子供の時の自分の気持ちを思い出せるようにするため、感じたこと・思ったことを、時々日記に書くようになった。何があったとか何をしたとかはほとんど書いていなかったけれど、思ったことや感じたことはたくさん書いた。
 また、高校生以降は、将来自分が親になったとき、子どもに十分な教育ができるようにしよう、と考え、子どもに教えるための知識の習得を意識し始めた。子どもに与えることができる文化資本を蓄積しようと考え始めたのである。
 大学生以降は、さらに知識の習得については熱心に行うようになったが、より実務的なことについても考えるようになっていた。例えば、学校は私立がいいか、公立がいいか、どこに家を買うのが子どもの学校のためにも、自分の仕事のためにも便利なのか、親の収入がいくらある場合、子どもへ相続した時の税金はどれほどかかってしまうのか、家を建てたとして、固定資産税がいくらなのか、自分の老後に子どもへの介護の負担を減らすため、認知症予防や筋力低下に有効な方法はなんだろうか、などである。
 別に、自分が親にならないという可能性だって多く残っている。しかし、自分が親になったとき、子どもによい教育と暮らしをさせてあげたい、そのときに準備がなければ困る、と考えている。

 しかし、それでも、親や誰かを指導する側に私が回ってしまったとき、相手に苦痛を与えてしまうかもしれない。そういった懸念はある。努力しても失敗してしまう場合もあるだろう。だから、日記をつけ、色々と考え、工夫したってうまくいかない可能性は大きく残っている。しかし、少しでもうまくいく可能性が高くなればよいと私は思う。

 私の場合のように、親になるということ、指導をするということについて考えている人が世の中にどれほどの割合いるのか私にはわからない。しかし、同じように考えている人はそう多くはないのかもしれない。

 何かを考えるというのは結構な労力がいる。未来のこととか、世の中の事とか、人の気持ちとか、そういったことを考えなくても生きてはいけるし、それなりに幸せかもしれない。
 しかし、その一方で、それは誰か(それは自分の将来の子供かもしれない)に迷惑や危害を被らせる可能性を含んでいるということを私は感じている。

 私の懸念として、多くの人は、将来自分が親になるということについての思慮が深くない。自分が親とどういった関係を築くかについては考えても、親の資質については、個人の意識として不十分である。行政の支援も足りない。
 それが、多くの子どもに不幸を与えてしまっている。
 これをどうにかすることができないのか。
 いくつかの方法を考えてはいる。大学生や高校生による、同世代のための意識啓発。学校のカリキュラムに親の資質についての教育を入れる。いい親になるための意識啓発を社会全体に行うためのコンテンツを作る。
 色々考えているが、具体的で効果的な方法を示せないでいる。
 私は、現行の学校制度は問題があると考えていて、学校制度を大きく改めることで、いい親が育つ環境を作れるのではないかと考えているのだが、まだまだ遠い未来の話である。

 この記事のまとめを書く。

 一般的に、成長するに従って、自分と親との関係、自分が親になる可能性についての考えが遷移していく。
 しかし、自分が将来の子どもとどういった関係を築くか、どういった教育をすることができるか、については、十分に考えを巡らせることができている人はおそらく少ない。
 それによって、虐待を受けたり、十分な教育を受けられない子どもが多くなっているのではないだろうか。
 また、文化資本の蓄積をしていた親の子と、そうでない親の子に大きな格差が生じているのではないだろうか。

 私は、小さい頃から親になったときの考えを巡らせることや、親を育成するための行政的支援が必要だと考えている。