ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

「教材開発」の有用性と可能性

「教材開発をしてみよう。」

と私はついこの間思い立った。

いや、別にこれが初めての思いたちというわけでもないのであるが、教材開発でなんとか会社を作ったり、収入を得たりすることができるのではないか、という予感を最近感じ始めたのである。
 とはいえ、現状として、それほど自信もなければ、明確なビジョンがあるわけでもない。
 収入を得られて、会社を作れるようになるかも一切不透明だし、自分が飽きずに続けることができるかも未だ不明である。

 どのみち、自分の性格上、「これと決めたらもっぱらそればかりをやる」というたちでもないので、教材開発をしようと思い立ったとはいえ、作業量としては、多くても週一くらいになるだろうし、やる気が無いときは、月に一回も作業に取り掛からないかもしない。

 しかし、教材開発は、自分がしたいことを実現するための一つの有効な手段なのではないか、という予感めいたものをやはり感じているのである。
 もし、そうであれば、教材開発に力を入れてみるのもよいのかもしれない。

 

 私は、これまで、あっちに手を伸ばし、こっちに手を伸ばし、色んなことをやってきた。
 その理由というのも、一つというわけではないのだが、その理由の一つに、やりたいこと、現状への不満、こうしてみたいという未来は漠然とあるが、そこまでの具体的な道筋が想像できていなかったということがある。
 社会への影響力のある芸術作品を作ってみたかったり、評論を書いてみたかったり、マンガや小説、アニメ、ゲームといった娯楽作品を作って大人数へと影響を与えたかったり、学校教育を改善したかったり、親と子どもの関係を改善したかったり、国民の精神衛生を上げたかったり、と様々である。
 しかし、それらに共通することを挙げるとするなら、私は社会を自分が希望する方向へと変えていきたい、という欲求があったということである。

 具体的な道筋は決められなかったので、とりあえず、自分がしたいことに繋がりそうなことを私は色々と試すことにした。


・絵を描く
 自分の経験上、何かを説明するときに、文字ばかりというのは辛いという印象があった。また、Twitterでは、マンガや絵のほうが人気があるし、娯楽作品でも、マンガやアニメなんかが人気がある。自分もマンガとかアニメはすごく好きだった。
 また、勉強で使う教材でも、文字ばかりのものは理解が難しく、イラストや写真が多いほうが理解がしやすかった。テレビなどでの解説でも、イラストは多く使われている。

 そういったことを考慮して、私は、文字による情報伝達に加えて、絵による情報伝達の可能性に惹かれた。何かを人に伝えようとするときに、絵が描けるというのは大きな武器になるだろうと私は感じていた。
 そこで、コピー用紙を買ってきて、イラストの練習をちょくちょくやり始めた。
 美術部で油絵はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。


・動画を作る
 絵をつなぎ合わせて、アニメーションを作れば、動画ができるし、コマ送りのイラストでなくても、動画編集の技術があれば、表現したいことの幅は広がるだろうと私は考えた。
 テレビでも、わかりやすい図解は動画が使われているし、NHKスペシャルの学問系の番組や、医療番組なんかでも、わかりやすい動画がたくさん使われていた。
 動画は、非常にわかりやすく、情報をまとめることができる。
 また、アニメMAD動画なんかも観ていて結構面白いし、動画は、労力少なく観ることができて、得られる情報が多いという魅力がある。
 音楽を入れることもできる。
 アニメを作ろうと思っても、動画編集技術は必要になるだろう。
 そう考えて、AviUtlを使って、いろいろな動画を作る練習をした。


・HTMLやプログラミングを学ぶ
 情報を公開するためには、ホームページやブログが作れなくてはいけない。
 ブログでも情報は公開することができるが、より融通がきくサイトを作るためには、HTMLを理解しなくてはいけない。
 しかし、HTMLだけでは動的なサイトを作りにくいため、Javascriptをある程度扱える必要があった。
 さらに、ある程度、レベルの高い、Webサービスを作ろうとすれば、PHPPythonMySQLなどの操作についても学習しなければならなかった。
 使いやすいWebサービスを作ることができれば、いろいろな人に利用してもらえて、自分が望む社会へと少しずつ変えることができるのではないかと考えていたし、いいサイトができて、アフィリエイト収入を得ることができれば、空き時間を使って、お金を使って、自分がやりたい活動を進めることができると考えていた。何かをしようと思えば、時間とお金が必須なのである。

 また、ゲームを作るにも、プログラミングができなくてはいけない。動画は、あらかじめ作ったものを流すことしかできないが、ゲームであれば、ユーザーに合わせて、情報を選んで表示、再生できるし、場合によっては、動画よりもよい情報伝達ツールになるかもしれない、という予感があった。
 また、面白いゲームができれば、それだけで、やっていて楽しい。


・CGを扱う
 動画や絵といっても、やはり2Dばかりでは、表現できるものが限られてしまうし、3DCGが扱えなくてはいけない、と考えた。かっこいい解説動画はCGを使っていることが多いし、最近のアニメやTV番組も、たいていどこかでCGを使っている。
 ということで、Blenderとか、123Design、Fusion360なんかを、少しずつ扱う方法を習得中である。


・音楽を作る
 動画にしたって、ゲームにしたって、音楽がなければ成り立たない。そこで、音楽を作れるようにしようとした。
 軽音楽部で音楽はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。
 DominoやReaperを使って、打ち込みを作ってみたり、Swaveを使って、SEを作ってみたりした。


・知識を集める
 誰かに何かを伝えようとしても、人に何かを教えようとしても、結局は、その中身がなくてはいけない。
 そのためには、いろんな本を読んだりして知識を習得することが必要だと私は考えた。
 世界史、刑法、哲学、物理や数学、学問の歴史、材料工学、教育学、医学、といろいろな分野についての本を読んだ。乱読とも言えるかもしれない。


 とまあ、こんな具合で、いろんなことをしていた結果、「結構いい教材が作れるのではないか。」と思い始めたのである。
 きっかけは、Twitterで、数学Gifを作っているアカウントや、化学画像を作っているアカウントなどを見つけたからだろうか。

 東進やN高など、革新的なメディアコンテンツによって、教育業界を変えてきた取り組みはこれまでにもあった。

 いいメディアコンテンツを作ることができれば、教育環境を、自分の望む方向に変化させていけるのではないか、と私は考えたのである。


以下で、少し、私が考える教育の方向性について考えたい。

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 上の画像で、「しつけ」と述べた項目は、教育学の用語で言えば公民教育に該当する。一方、「知識の教授」と述べたところは、人権教育に該当する。
 コミュニティ、公民教育、人権教育、この三項目が、学校の役割の主要な三つであると考えている。
 もちろん、他にも、民族統合の機能としても学校は働いているし、学校には、「隠れたカリキュラム」と呼ばれる内容もある。
 しかし、これらを含めるとしたら、なお一層、いろいろな機能を一つにまとめすぎだと考えている。
 学校がショッピングモールみたいになっている。
 複合型教育施設として、学校は存在している。

 しかし、私は、それが様々な弊害を生んでいると考えている。
 それら全てをここで述べることができないので、いくつかだけ述べたい。
 まず、学校があまりにもたくさんの時間を子どもから奪っているということである。
 児童や生徒の中には、学校の授業はわかりにくく、授業を聞くより自分で本を読んだほうが早いと感じている者も少なくないし、興味のある分野を学びたくても、学校の制度が飛び級を認めてくれず、拘束時間も長いため、時間を十分に生かせない、と感じているもの多い。
 学問だけでなく、絵を描いたり、工作をしたりして、技術を伸ばしたい生徒の要望にも答えられておらず、かといって、学校で教えることが実生活に役に立っていると実感している者も少ない。
 現在の学校は、人権教育としての名目であるが、実際は公民教育を行っている側面も未だ強く、しかしかといって、公民教育も十分にできておらず、人権教育としても不十分といった有様である。
 また、先程挙げた「隠れたカリキュラム」であるが、必ずしもこれがよい内容であるとは限らない。
 例えば、軍隊の思想・慣習を学校は引き継いでいるし、体育会系の気質など、ブラック労働の温床となる思想も学校で培われている。日本人に強い同調圧力や空気を読むといった文化の強要により、十分に実力を発揮できない生徒も多い。

 これらの弊害は、ある程度、学校の機能を分解することで、学校の持つ権力を弱体化させれば軽減が可能だと私は考えている。
 私が考えているのは、学校の機能分散である。ショッピングモールのように一箇所にたくさんの機能を学校に集中させるのではなく、今の学校の機能を複数の施設、制度、集団に分散させることである。学校を廃止して、学校の機能を失くすということを意味しているのではない。政治でいうところの政教分離であって、無政府主義ではないということである。

 それの実現のために、良い教材の開発というのは、一つの良い方法だと私は思う。
 学校以外にも、十分な教材を提供してくれるところがあり、学校に行かなくても、知識の習得が可能だということが一般の認識になれば、学校の機能分散を進めやすくなる。


 こういった考えで、私は、教材開発の重要性を感じつつあるのである。
 また、学校の教師は日々の業務に追われ、教材研究が十分にできていないという。大学の講師も、業務が多く、自らの研究に支障が出ていると聞くため、教材開発をする人口は多くないだろう。

 だから、第三者の教材開発者が必要だ。

 出版社も力は入れているだろう。
 しかし、それは、あくまで出版物としてであって、メディアコンテンツではない。また、学校教育の代替として使えるものを作ろうという意図ではないはずだ。

 また、私が考えている教材というのは、学校のカリキュラムに従うものではない。
 量子力学に興味のある中学生が量子力学について学ぶことができ、数学に興味のある小学生が、数学の最先端について学ぶことができ、工業製品を作りたい高校生が、工業製品の作り方を学べる、そういった内容の教材である。
 学校が恣意的に定めたカリキュラムは、学習意欲を妨げ、著しく効率を低下させているものだと私は思う。学校は、要点の整理としては、非常に素晴らしいカリキュラムを作ってくれているし、教材も充実している。しかし、そこには学習意欲が考慮されていないのである。各々の興味に合わせたテーラーメイドの教材が必要である。学校の教材は、本来、辞書的に使うのがよい使い方だ。
 また、学校では、学問を誤った認識へと導いている。歴史は、本来、暗記科目ではなく、過去と現在の文化を比較し、どこでどのようなことが起こった結果、現在の文化が形成されたか、といったような、中身が最も重要なのである。ストーリー性とでもいうか。
 あるいは、数学は、数の学問であり、文化系科目とは対局な位置にあると考えられがちであるが、論理学と非常に親和性が高く、むしろ、数学と国語は非常に近い性質をもっている。
 あるいは、学校では、学問の歴史や、内容の意義については扱わないが、物理学や化学が哲学からどのように分岐したのか、その間に起こった宗教的闘争にはどのようなものがあったか、などといったことを知ることは、学問の有用性を知るためには効果的である。学問の学問のようなものは、学校では扱わない。
 また、学校教材は、公平で中立であるべきだと考えられ、個人の入り込む余地が存在しない。
 そういった事情で滅菌処理された教科書は、本当に言いたいことや知らなければいけないことはわかりづらく、読んでいて面白みにかけるところがある。これは、いくつかの立場から作った教材を複数作れば、ある程度解決できる問題である。

 このように、私が想定する教材というのは、現在の出版状況からはおそらく離れたものである。しかし、有用性の高いものになるだろう。


 以上のような経緯から、今後少しずつでも、教材を開発することができないかと私は考えているのである。
 うまく行けば、規模を拡大していけるのではないだろうか。