ロロの空想

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オタク批判について―日常系マンガやラノベ作品が理解されにくい理由

 最近(2017年1月1日現在から見て)は、アニメやマンガ文化は、多くの人に受け入れられつつあり、今回の冬コミ、C91には、叶姉妹が降り立ち、そのファビュラスな存在は、多数の話題を生んだ。星野源などの爽やか系タレントが、アニメオタクと公言するなど、アニメやマンガを取り巻く環境は、以前と比べて非常に良くなった。

 しかし、一方で、アニメやマンガ、ラノベ作品の一分野においては、未だ軽蔑的な態度で語られるものが多く存在する。

 

 そこで、ここでは、まんがタイムきららに代表される日常系マンガや、ラノベ作品がなぜ理解されにくいのか、考えたい。ここでは、ラノベ作品やきらら作品といった場合、書籍、及び、そのアニメ化作品どちらについても言及する。
 とはいえ、ここで戦う相手は、結局は藁人形になってしまうのだろう。藁人形。勝手に仮想的を作って戦う行為。
 しかし、ここではやむを得まい。具体名を出すわけにもいかない。妥協的措置である。

(2017/1/5追記)

 ここでは、腐好き、百合好きの女性などに対するオタク批判、といったものについてはあまり取り上げない。この記事内で、「オタク」といった場合には、主に「ヘテロシス男性」を想定されたい。

 

でははじめよう。

 まず、私は、きらら作品やラノベ作品に対して、こんな意見を実際ネットで目にしたことがある(ニュアンスだけを抽出)。

「現実では相手にされないオタクのこじれた性欲を感じる。」
「こんなキャラは現実にはいない。」
「オタクの妄想である。」


これに対する私の見解を、一言で表すとこうだ。


「(゚Д゚)ハァ~? 」


 危ない危ない、口調が崩れてしまった。しかし、これというのも、こういった発言をする人たちが、実際に、ラノベ作品やきらら作品を目にしたことがあるのかどうか疑問だからである。
 ラノベ作品やきらら作品と言うと、扱うのが広いので、一概に述べることは難しいのであるが。実際に観たこと・読んだことがないのではないだろうか?もしくは、エロ同人と公式作品を混同しているのではないか。


 他にも、ラノベ作品やきらら作品を嫌う人に多い誤解としては次のようなものもある。例えば、ラノベアニメ、萌系日常系が好きな人がどういうのが、好きかと聞いてみると、次のようなことを言う人がいるだろう。
・「○○たんだいしゅき!」と言った具合の口調でキャラを愛する。
・「メイド喫茶」みたいな、女性が媚を売ってくるのが好き。

 私は、これにたいしては、「一体、何を想像しているのだろう。」という感想を持つ。


 さて、ではこれらも踏まえて、具体的に批判者の層別に分けて、考えを進めていこう。

 

ラノベ作品やきらら作品を観たこと・読んだことがない人の批判
 要するに、ラノベ作品や、きらら作品を観たこともなく、また、それらを好きな人に対しても、実態は知らずに想像だけで語っている人というのが一定する想像する。
 この人達がやっていることは、
・日本人ということは、出っ歯で、自分の意見を言わず怖ず怖ずとした猿みたいな人種。
・中国人は、パクってばかりの民度が低い人種。
・韓国人は、暴力的で、日本人をこき下ろすことばかり考えている人種。
・海産物が好きだと言ったら、「じゃあ、きくらげとかも好き?」と言われた。

 と言うのと同じように、結局、詳しいことは知らずに偏見で語っているだけである。
 観たことあるのは、所詮CMくらいだろう。

つまり、これらの人たちから、ラノベ作品やきらら作品が毛嫌いされるのは、単に、作品や、それを鑑賞する人への偏見が強く、実情をよく知らないからである。
 これらの層については、正しい認識を広めていくことが重要となる。

 

・作品自体と、観客層を分離して考えられない人
 作品自体についてと、その作品を観ている観客層を混同して考えてしまっている人がいる。
 たとえば、「この作品を観るのは腐女子が多いから、この作品は嫌いだ。」とか、「EXILE好きには、パリピが多いから、EXILEを好きになろう。」とか、「このアニメ作品を好きな人は、見た目が気持ち悪い人が多いから、この作品は気持ち悪い。」とか。
 それは正しい認識とは言えない。バイアスがかなり強くなってしまって言る。こういった人たちが観ているのは、その物自体ではなく、「何が好きといえば、どういった属性の人種になれるか。」なのである。
 作品をグループに迎合する手段としてしか見ていない。
 本来は、「作品自体」ではなく、「その作品が好きな集団」について言及すべきであるのに、そこを取り違えてしまい、しかもその取り違えに気づかないというのは残念なことである。

 

・アニメオタク→根暗、陰キャラという論理を使ってしまう人
 根暗、陰キャラという言葉は、一般的な用語ではなく、西欧人が原住民をして「野蛮人」と呼んだように、西欧人がアジア人をして、「黄色い猿」と呼んだように、誰かを侮辱したくて暴力的な人間が生み出した概念であるので、別にクラスで無駄に明るく振る舞ったり、中身がスカスカの会話をしたり、意味もなく集まったりするような人と比べて、劣っているとかいった概念ではまるでないと私は考えていることを先に述べておこう。最近は、「陽キャラ」なる概念があるらしい。この言葉が、肯定的な意味を持つのか、否定的な意味を持つのか私は知らない。「パリピ」といった言葉が否定的な意味を持つ層と肯定的な意味持つ層があるように、もしかしたら集団によってその意味は変わるのだろうか。
 さて、本題であるが、基本的には、「アニメは開放的に人々を受け入れる。」といった事情と(別に会員登録して集まったりする必要はないので当然である)、「パーティーやその他会合は、排他的である。」といった事情を考えればよい。
 100人がいたとして、そのうち、20人が+、80人が±、20人が-といった属性を持つとして、「開放的活動」は、すべての符号を受け入れるとし、「排他的活動」は、+のみを受け入れるとする。すると、開放的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は0になり、排他的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は+20となり、相対的に、排他的活動のほうは、+に傾くのである。
 要するに、アニメオタクが「周囲と馴染めない人」、なのではなく、アニメは、受け入れる幅が広いので、結果、「周囲と馴染めない人」も人口の割合としては排他的な活動よりも多くなるのである。
(これについては、反論もあるかもしれない。ここでは、あくまで一つの仮説を述べた。)

 これについては、具体的にはこのような例が言える。
ごちうさ」を観ている人は、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている。」わけではない。
 実際には、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている」人口が一定数いる可能性があるとはいえ、論理の方向としては間違っている。それは、作品とは別の問題である。

 

それでは、以下では、実際に作品を観た上で批判している人たちについて述べていきたい。

 

・「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」という人たち
 先程、こういった発言をする人たちは、実際に作品を知らないのではないか、と書いたが、実際には、作品を見た上で、こういった批判をする人たちも存在する。しかし、この場合は、先程とは違い、的を得ている意見も多い。詳らかに見ていこう。

 まず、触れなければいけないのは、物語が成立している「フレームワーク」を受け入れることができるかどうか、から物語の理解は始まる、ということである。

 一般的に、創作物語の中の登場人物は、現実とは違うフレームワークで動いていることが多い。具体的には、女性の口調が「~なのよ。」「~だわ。」となっていたり、現実ではなかなかありえない行動を取ったりする、または、世界設定が現実とはだいぶ違うSF世界、といったことである。これは、別にラノベ作品やマンガだけに当てはまらない。ほとんどの創作物語では、この傾向がある。ただ、現実のフレームワークとの差で言えば、マンガやラノベ作品が、他の創作物語よりもその差は大きくなりがちである。

 ラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実に近いにもかかわらず、フレームワークが現実とはだいぶ違っている、というのが、物語を受け入れる上では一つのハードルになっていると私は考える。

 これまでのSF作品や、マンガなどでは、世界設定が現実とは大きく違うことが多かった。その結果、読者は視聴者は、「この世界は現実とは違うフレームワークで動いている」ということが容易に理解できた。
 一方で、昨今のラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実を出発点、ベースにしているものが多い。ラノベ作品は異世界転生系が多いので、別に、現実を出発点とはいっても、他のSF作品と変わらないんじゃないか、というのはたしかにその通りなのだが、主人公は、現実世界の感覚を持ち続けるものが多く、やはり基準は現実世界の設定に従っている。また、学園ハーレム系なんかでも、設定は現実世界のものに従っている。
 そのため、視聴者や読者には、「この物語は違うフレームワークで動いている」ということが伝わりにくく、慣れていない読者・視聴者は、「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」と言いたくなってしまう。
 例えば、巨乳キャラが出て来るアニメを観る男性に対して、
「こういう巨乳の女性が好きなんだろ?」
 というのは、まあ確かに好きな人は多いのだが、それは、俺様系が出て来る乙女ゲームをしている女性に対して、
「こういうのが好きなんだろ?オラオラ」
 とするような、あるいはエロ本を読んでいる女性に対して、
「こういうことされたいんだろ?」
 というような、少し的を外れた意見である。
 ラノベ作品やきらら作品に出てくる女性像は、「現実にいたらいいなという欲求の表れ」ではなく、創作物語の中の「キャラ」として作られていて、そのキャラについては、現実に投影して考えるのではなく、その物語のフレームワーク上で考えなくてはいけない。
 現実世界と大きく違うことがあらかじめわかっている「ワンピース」では、明らかに現実にはいなさそうな、超グラマラスな女性が描かれることが多いが、それについて、「こんな胸が大きい女性は現実にはいない!」という批判はそれほど聞かれないことからも、違う世界設定を作ると、違うフレームワーク上の物語だと伝わりやすいことがわかる。

 ラノベ作品やきらら作品を、現実と連続的な舞台で描かれた作品、として見てしまうと、このように、物語を受け入れることが難しくなる。

 しかし、例えば、きらら作品に対して、「女性ばかりが可愛く描かれるというフレームワークそのものが気に入らない。」、といった意見や、ハーレム系について、「そもそもハーレムという設定が気に食わない。」と言った感想を持つ人に関しては、何も反論することはできない。それは、スポーツマンガが嫌いだったり、バトル系が嫌いだったりするのと同じ様に、個人の趣味の問題なのである。
 私としても、ハーレム系であったとしても、SAOのキリトのような、それなりにモテる要素があるキャラがハーレムを形成するのはいいのだが、どう考えてもモテる要素がなさそうなキャラがモテるハーレム系は好きではない。主人公はかっこいい存在であってほしい。

 

・「きらら作品にはストーリーがない」という人たち
 この主張は、間違ってはいない。たしかに、きらら作品には、特にオチがなかったり、笑い要素がないものも多い。しかし、テーマ性がない、物語として欠陥である、というのはいささか尚早だといえる。

 少し、回り道になるが、物語とは何か、について考えることから始めたい。
 物語は、つまるところお話である。物語は、誰かが語ることを前提として成り立っている。日本の古典を見ればわかるが、元々は、「神の視点」のお話というのはなかったのである。お話というのは、誰かが誰かに語るという形態に乗っ取って発展してきた。そして、昔から現在に至るまで、物語には、教訓めいたこと、話のヤマやオチといったものが多く含まれるものが好まれてきた。
 しかし、実際は、物語の形態というのは、必ずしも、従来型の物語の枠組みに収まるものばかりとも限らないのである。
 従来型の話というのは、あえて、特徴づけるなら、笑い要素がある、オチやヤマがある話が多かった。例えて言うなら、複数人を前に、エピソードを演説のように語るのに向いた、面白い話というのが多かった。
 一方で、きらら作品の物語は、従来型の物語のポイントを踏襲していな鋳物が多い。例えて言うなら、「今日こんなことがあったんだー。」と語るような話が多い。こういった会話は、現実の女性に多く見られるタイプである。オチやヤマは特にないが、起こったことを話す。この形式は、実は日常会話では多く用いられている。

 つまり、今までの話は、演説型だったのに対して、日常系は、会話型ということができるのである。
 演説型は、聴衆を面白くさせることが目的だが、会話型は、話を聞いて、安心する、今日も平和で楽しい日だったと確認する、そういった目的がある。

 だから、日常系作品は、話のオチやヤマがなくても、テーマがないわけではない。物語性は弱いかもしれない。しかし、ラブ&ピースというテーマを伝えることができている。
ネットのノリで言えば、「守りたい。この笑顔。」と思わせることができる。
 たしかに、従来型の物語の枠組みで考えれば、物語の出来としては良くないものかもしれない。しかし、従来の物語とは違った形式の物語が、そこには成立している可能性が否めないわけである。

 とはいえ、聴衆の好みはあるわけである。日常生活でもそうだろう。何気ない会話が好きな人たちと、オチのある面白い話が好きな人たちがいる。
 だから、「日常系は全然、ストーリーないじゃん。」といって、あまり興味を示さない人がいるのはも当然である。
 しかし、日常系は、ストーリー物から、ストーリーを省いて、かわいい女の子を描いているだけで、テーマ性もない、というわけではないのである。
 やはり、ヤマやオチといったような物語性というのは、読者を楽しませる上では大事である。しかし、物語性を追求するのとは、別の方向で、ストーリーの新しい形態が進んでいるというのもまた事実ではないだろうか。

 

・まとめ

 この記事では、ラノベ作品やきらら作品のフレームワーク、物語の形式などについて考えた。
 私は、オタク批判については、正直やるせない気持ちを抱えている。一般的に、暴力的な発言、人を侮辱するような発言をする人が、内容や立場はどうであれ、優位にたってしまう、という現象があるように感じている。「暴力」を振るうものが「優れている」といった感覚を持っている人が多いのではないかと思うのである。例えば、学校の中で、クラスを仕切るのは暴力的な人間が多いし、法に基づいた暴力は正当化して考えてしまいがちな人が多い。しかも、オタク批判の場合は、オタク自らが、その批判に同調して自己批判、オタクグループ内での内部批判を起こしてしまう傾向がある。
 世間的には、オタク批判はアニメ・マンガ批判と密接に繋がっている用に感じている。そして、いつしか、アニメやマンガを規制しろ、といった方向へと傾倒してしまう人間もいる。
 しかし、実際、オタクやアニメ・マンガ文化について、ちゃんと分析を行った上で批判したり、規制しようとしたりしている人間は少数派だろうと感じる。
 それに対して、私は大きな懸念を抱いているのである。
 そもそも、表現の規制に関しては、ちゃんとアニメやマンガ文化の分析ができていたとしても私は反対であるが。いくら反社会的な表現であれ、表現の規制については私は反対である。とはいえ、政治家の家に火炎瓶を投げ込む行為を、「これは一種の表現であり、表現の自由は守られなければいけない!」といった主張や、夜間に爆音で街宣車を走行させる行為を「表現の自由だから守られなければいけない!」というのは、また表現の自由とは別の問題がありそうなので、ここで考えることは止めておく。表現の自由についての議論は、ここで行うにはスペースが足りない。


 また、物語の内容に関しては、おそらく、物語の構造、ストーリー性といった事柄に関しては、詳しく研究している人もいることだろう。これに関しては、文芸作品といった枠を超えて、都市社会学歴史学の分野などでも研究されることだろう。
 物語については、私自身も、これらの分野の研究内容などを調べ、見識を深めんとする所存である。