ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

電車でのスマホの話とか


私がこの前、電車に乗っていたときの話である。
 その時間帯は、ちょうど電車が混む時間帯だった。電車が来たときには、車内にはやはり、それなりに人がたくさんいた。とはいえ、その日は、普段よりも人の量はましだった。
 電車に乗る前、駅のホームから車内を見渡した時には、結構空きスペースがあるように見えた。ホームに並んでいる人たちを見渡しても、これくらいの人数なら、まだ余裕を乗って乗れそうだと思った。
 しかし、電車のドアが開き、いざ、電車に乗り込もうとしたら、これがなかなか乗れない。扉のところぎりぎりまで、人が迫っていた。あれ、おかしいな、と車内をもう一度、窓を通して見ると、やはりそれなりにスペースはある。通路のところはまだ空いている。
 おかしいな、と思いながら、そのときは、なんとか人を押し込むようにして乗れた。
 その後、電車が発車してから、車内を見渡して気づいた。
 空きスペースを前にして、不動の人がいることに。
 しかも、その人は、両耳にイヤホンを当てて、スマホを見ていた。

 おいおい、こいつは…。

 なんとか、その人に前に進んではもらえないかと思ったが、顔は手元のスマホに向かったままであり、顔を上げる気配がなかった。
 どうやら、わざと空きスペースを前にして動かないというわけではなく、そもそも、後ろに人の山が控えているということに気がついていないようだった。

 その後、しばらく、私は、人の山の中で電車に揺られていたが、その人は、人の山がなくなるまで、顔を上げることはなかった。


 スマホを扱う時、あるいは、読書している時、あるいは、友人としゃべっているときなどもだが、何もせずに突っ立っているのではなく、あることをしていると周囲への注意は低下するだろう。
 電車の中で、座っていたり、壁際にいたりするのではなく、通路に立っている場合は、駅の到着前後は、
「近くの乗客に降りる人がいないか、その人の邪魔になっていないか。」
「新しく乗ってくる乗客はどのスペースに入ろうとしているか、自分がスペースの通り道を邪魔していないか。」
といったことを気にして、一度顔を上げ、周囲に注意を払ってほしいと思うのだ。
 他の乗客の移動がひと段落して、移動する人がいなくなればまた自分の作業に戻ればいいだろう。

 電車の停車の少し前から、電車が再び動き出すときまでの間は、通路に立っているなら、一度、スマホ操作、読書、おしゃべり、そういったことを中断する、といったことをマナーとして弁えてはくれないものだろうか。

「電車の停車発車前後は顔を上げやがれ!」

 私は、その日、そう思った。

 

余談:
 スマホの登場前、人びとは、電車の中で何をしていたんだろうか。本を読む人が多かっただろうか。そんなこともないかもしれない。
 スマホがないころは、待ち時間や電車の時間は時間を持て余していたことが多かった気がする。
 別に今も、皆がスマホを触っているというわけではないのだが、若年層の、電車や待ち時間の過ごし方としては、スマホを扱うといった選択が多い。
 スマホのおかげで、今まで持て余してしまっていた時間を楽しく過ごしたり、有意義に過ごすことができるようになった。スマホSNSもできれば、PDFや電子書籍を読むこともできるし、インターネットを使って調べ物をすることもできる。
 パソコンを誰でも簡単に持ち運べるようになったと考えてよいだろう。
 
 スマホは、一人で何かを待っていなければならなかった時間を埋めるのに大きく役に立つ。


 とはいえ。

 主作用として、スマホが一人の時の時間の消費の仕方を提供したのなら、その副作用として、周囲への注意力の低下などももたらす。

 スマホの普及というのは、それ自体は、活動形態の変化であり、その活動形態の変化は、一つの影響を持つのではなく、色々な方向に影響を持つ。
 たいてい、新しい技術の普及、新しい制度への移行といったことが、ある一つの影響のみを持つということはない。活動形態の変化は、複数の影響を持つものである。

 インターネットの普及は、世界中の情報へのアクセスを可能にしたが、同時にプライバシーの問題も深刻になったし、車の普及は長距離の移動を可能にしたけれど、屋外で遊ぶことの危険が増した。

 主作用には副作用が伴う。

 主作用のみに注目して、変化を推進するのでもなく、副作用のみに注目して変化を拒むでもなく、両方について考えて変化を捉えないとだめだなーと自分にも言い聞かせておこう。

 

 そして、物事を一面的にばかり捉えている人には、もっと多面的に捉えろと言いたい。