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ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

無知の政治論争ばかり

 民主主義というと、平和や平等を表すマジックワードのように使う人がいるけれど、本当に民主主義っていうのはそんなにいいものなんだろうか、と私は思うことがある。

「民主主義ならオッケー。民主主義以外はダメ。」と安易に持ち上げるのはよくない。
 そもそも、民主主義が最良の政治システムだというのは、全員に共通の認識ではない。
 民主主義がよく機能するにはいくつかの成立要件があるはずだ。その成立要件を欠いている状態では、民主主義がいい政治システムにはなり得ない。

 それに、今の政治的論争というのは、対立する主張同士の争いというより、その前提レベルでの論争ばかりな気がする。

「○○について知っているか、知っていないか。」

多くの人が、

「そもそも○○について知ってない人々同士が主張している。」

ということにうんざりしているんじゃないかと私は想像する。


・修学旅行の行き先決定
 民主主義について考えるために、ここで、一つの例を挙げてみたい。

 あるクラスの高校生たちが、修学旅行の行き先を自分たちで決めようということになったとしよう。行き先の候補は以下の通りである。
・「ニューヨーク」
・「シンガポール
・「シドニー

 こういう候補があったとして、高校生たちが以下のように、自分たちの主張をしたとする。
・ニューヨーク組「世界随一の大都会を見に行きたい!!」
シンガポール組「シンガポールは複数の文化が共存していて、多文化理解について考えられ、修学旅行として適切。今のシンガポールドルと円のレートは○○なので、シンガポールの物価を考えると、○○○○。英語の練習にもなる。」
シドニー組「シドニーは日本との時差が○○なので、比較的時差ボケが少なく、日中の班別研修がやりやすい。オーストラリアの英語というのが聴けて、英語の多様性を理解するのに役立つ。」

 それぞれが色々な意見を言う。
 しかし、それぞれの主張は共通の基盤の元に行われているわけではない。ニューヨーク組は、「ニューヨークが見たい!」しか言っていないが、他の二組は、実際の活動内容について言及している。そもそも、このクラスの高校生たちは、海外に行ったことがない人がほとんどで、旅行については、具体的なイメージができていない人が多いようだ。

 多数決をとる前の段階では、「ニューヨーク」を希望する人が一番多かった。多数決ならば、このままだとニューヨークに決定しそうである。

 しかし、そこで担任の教諭の介入が入った。
「現地の治安と、フライト時間、飛行機代とホテル代、現地の物価や、現地で何ができるかは調べた?そもそも、修学旅行での目的については確認した?」
 


・民主主義は十分な情報が全員に共有され、共通の基盤に立ってのみ成立する。
 多数決は、一番多くの人が希望するものが何かということに基づいて意思決定するので、集団の意思決定としては、いい方法のように思われる。
 簡単な問題なら、これで決定してしまったら良いことがほとんどだ。5人グループで、
「今日のおやつはクッキーか、大福か。」
とか。

 しかし、多少問題が複雑になってくると、また違ってくる。

「おやつに今月はお金を使いすぎていることに一人が気づいた。このままでは、5人とも月末の3日間ほど、食事が取れなくなってしまう。今日は元々ケーキをおやつにしようとしていたけれど、安いものに変えるかどうか。」
 これが、5人全員に共有されている情報なら、「月末の3日間、食べるものが無くても今ケーキを食べるか。」、「月末の3日間、ご飯がないと困るから、値段を抑えようとするか。」といった議論が可能だ。
 しかし、「お金が足りない」といった情報が2人にしか共有されないとすると、5人組の残り3人はお金が足りないことを知らないので、
「ケーキを安いのにするのなんて嫌だ!ケーキを食べたい!」
というかもしれない。「ケーキを食べるか。」「ケーキを食べないか。」の議論になってしまう。多数決ならケーキを買うことになってしまうので、5人とも月末の3日間はご飯を食べられなくなってしまうが、そのときになってようやくその3人は、「お金がなかったならケーキを食べなきゃよかった。」と思うかもしれない。
 多数決であっても、5人の希望とは違う意思決定をしてしまう例である。


 多数決というのは、多数決の有権者が、判断に十分な情報を持っていて、それが共有されている、という状態でないと、議論もできないし、有権者たちの希望を反映することもできない。

 これは、経済政策、軍備、雇用問題、教育制度、などの分野でも同じだろう。


 先の修学旅行での例においては、十分な下調べをせず、情報を十分に得ていない高校生たちよりも、旅行会社と相談したり、下調べを念入りに行った担任教諭が独断的に判断した方が、結果的に高校生たちが一番満足できるプランを練ることができるかもしれない。

 

チャーチルの言葉
「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。」
 さっき見つけた。鋭いこというもんだな。


・「である」ことと「する」こと
丸山眞男 『日本の思想』 岩波新書 1961
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%80%8C%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8

 丸山眞男は、「である」ことと「する」ことについて、もうずいぶん前について考察をしている。
 民主主義「である」社会の上で、民主主義を享受することはできない。民主主義は、そのメンテナンスを「する」上にのみよく機能するのであろう。
 私はそう思っている。

 

 ここまで述べてきたように、そもそも、「知っている人」と「知らない人」の主張を比べてもそれは民意の反映にはならない。
 今は、政治主張を冷ややかな目で見る人が多いと思う。いや、前からかもしれないが。
「そもそも、○○について知らないから、こんなこと言ってるんだろうな~。ちゃんと勉強しようね~。」
みたいな意見をよく見る。
 主張と主張の議論にはほとんどの場合、なっていない。
「ちゃんと調べろよ!」
 というところで喧嘩になって、そもそも議論にならない。

あるいは、主張内容よりは、その方法ばかりが問題になったりする。
 やり方が暴力的だとか、報道が偏向的だとか。

あえてどこのグループがとは言わない。明言すると問題がありそうだから。

「そもそも情報が十分でない。」
「主張以前にやり方がおかしい。」

 そんな話ばかりだ。


有権者に努力を要求できるか
 じゃあ、有権者に、情報集めを要求することできるか、というと、実際問題それは難しいだろうなあ、と思う。
 任意では、自分たちで情報を収集するというような労力をとる人は増えないだろう。何か、市場原理に乗っとった仕組みや、制度的な介入、あるいはメディアの努力がないと、有権者は情報を自ら集めようとはしないだろう。


・過去の話
岩波新書 『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』 吉田裕 2007
というのを最近読んでいる。
 ちょうど、アジア・太平洋戦争前あたりだと、25歳以上の男性が選挙権を持つ時代なのだと思うが、この時代の世論についていくつか引用したい。

”重要なことは、知識人の反発にもかかわらず、一般の国民が東条を強く支持していたことである。”(p81、第2章 初期作戦の成功と東条内閣‐民衆の東条支持熱)

これは、自由主義的な外交評論家、清沢きよしの42年12月9日、44年7月22日の日記を引用して本文では論じられている。敗戦後も一定の人気はあったようだ。しかし、1943年10月以降、44年1月までの検閲では、

”毎日腹がへつて腹の虫がグウグウ言つて、気持ちが悪くて眠れません。早く戦争が終わって呉れなくては、国民は飢餓のため皆病気になつて、精神的にも駄目になつてしまひます。ツクヅク生きることが嫌になつて仕舞ひます。(東京・男)”(p130、第3章 戦局の転換‐生活の悪化と国民意識)

 といったような厭世的記述が国民の間で増えてくる。
 また、1943年12月には、
”四三年十二月四日、小畑敏四郎中将は、細川護貞に対し、「国内の政治については、民心はもう全く、東条内閣からは離れて居る様だ。最近迄は、比較的上層の知識階級のみの様にも思つて居たが、今日は上下を通じて離れて居る」と語っている(『細川日記』)。”(p151、第4章 総力戦の遂行と日本社会‐東条離れ)

 と国民意識が変化していく様が見て取れる。


 これは憶測だが、上層の知識階級は、アメリカの戦力について情報を持っていたのではないか。
 情報が十分にない状態で一般の国民が自ら不幸な選択をしてしまったのではないか。