ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

男女の比較は非対称性を考える。

 

 男性と女性の比較方法、というのは、単純に、男女を入れ替える、という方法がとられることが多いけれど、そういう比較方法以外の比較をしたほうがいいときも多いと思う。

 具体例を考えてみる。
 例えば、
「女性→男性:かっこいい男性といるときの気持ち」

「男性→女性:かわいい女性といるときの気持ち」
という風に置き換えたとする。これが男女を対称にした変換の仕方だと考えたりする。
しかし、これは、
「男性→男性:かっこいい男性といるときの気持ち」
あるいは
「男性→女性:かっこいい女性といるときの気持ち」
と比較したほうが、比較としては、より対称になっているんじゃないか、を私は思う。


「かっこいい男性」と対をなすのは「かわいい女性」ではないと思う。
「かっこいい男性」の対は、「かっこいい女性」である。


 他には、
「男性→男性:男性と喋る時の気持ち」
を、
「女性→女性:女性と喋るときの気持ち」
に置き換えて、対称になっていると考えてしまったりする。
 しかし、これも
「男性→男性:男性と喋る時の気持ち」は
「女性→男性:男性と喋るときの気持ち」
と比較し、
「女性→女性:女性と喋るときの気持ち」は
「男性→女性:女性と喋るときの気持ち」
と比較したほうが、対称としてはきれいな形になるんじゃないかと思う。

 これについて、例として以下のような男性の発言を考えてみる。
「女同士ってわりとプレゼント交換したりとかするじゃん?でも、あれ男が男同士でやるって考えてみ?何か変な感じしない?え、しない?そっか。あ、じゃあ、女同士って抱き合ったり、スキンシップ多かったりするけど、それ男同士が…えっ?それも別に変な感じしない?むしろ、そういうの普段から…あ、そっか。」

この発言は、女性同士の行動を男性同士に置き換えて考えている。
 それを男性同士に置き換えてみることで、同性同士の雰囲気をつかもうとして、それに失敗している。
 しかし、女性同士がの行動の感覚は、男性同士の感覚でシミュレートするのではなく、男性と女性間での行動でシミュレートするほうが、実際の女性同士の感覚に近い気がする。
 女性同士のプレゼント交換は、女性と男性のプレゼント交換のほうが、男性と男性のプレゼント交換よりは感覚が近いだろう、ということだ。(個人差はある。)

 他にも、「女性が急に男性に声を掛けられたときの気持ち」は、「男性が女性に急に声を掛けられたときの気持ち」よりは、「男性が男性に急に声を掛けられたときの気持ち」のほうが近いだろうと思う。

 

 男女を単純に入れ替えるというシミュレーションには、私は疑問があるのだ。
 主体と客体どちらも入れ替えるのではなく、主体だけを入れ替えて客体を据え置きにしたほうがまだ感覚が近いようなことが多いんじゃないかと思う。

 男女を単純に入れ替えたらいいと考えてしまう一つのバックグラウンドとして、
 男女は、右と左みたいな、鏡で写した鏡像のような、対称的な存在である、というような思想があるんじゃないかと私は思う。

 しかし、男女は、そんなきれいな対称存在ではないと思う。

 黒ペンに対する赤ペンとかではなくて、ペンに対するノート。

 そういう非対称性、非互換性が男女にはあるのじゃないかと私は思う。

 だから、単純に男女は入れ替えられないと思うし、男女平等論というのも、この非対称性、非互換性があるとした上で建設していったほうがいいと私は思う。

 

余談:
私がここに書いたようなことを思ったのは、
「オヤジみたいに女子を愛でる女子」がいることや、「男ばかりしかいないと『野郎ばっかり』と荒むのに、女性ばかりだと『女子会!』みたいに活気づくことがある」といったことを考えて、どうしてこういうことが起こるのか、と考え始めたからであった。

 男にとっての女は、女にとっての男と入れ替えれて語られるのではなく、女にとっての女と入れ替えれて語られるべきだ、女にとっての男の場合も然り、といったようなことを私は、そういった事例から思い始めたのだった。

 まあ、一番感覚として近いのは、「自分が男性になったら」「自分が女性になったら」と、性別を変更した自分が同じような状況に遭遇したときの気持ち、とかを想像するのがいいんだろうけどな、とは思う。