集団と個人との付き合い方について
集団と個人の付き合い方について、やや強引ではあるが、2つの概念をあげてみたい。
・集団の下位概念としての個人
集団が個人に先行する。集団によって個人が作られる。個人は集団のしもべである。個人の自我は制限される。
ほとんどの人間は、この個人として人生を始める。
・集団の上位概念としての個人
集団との関係は契約による。自我形成がなされた個人に起こる。後天的に形成される個人である。
これについて、補足していくことにする。
はじめ、個人は集団の中に芽生える弱い自我である。
この個人の中には、自我が強くなるものが存在する。その個人は「集団の上位概念としての個人」となる。この個人になることができるのは、一部の個人のみであり、多くの個人は下位概念としての個人として人生を終える。
上位概念の個人は、自分の人生について、思想を持ち、集団との契約によって人生を歩むものである。
「集団の上位概念としての個人」は、集団を否定するものではない。集団をコントロール可能なものとして考えることができるのである。契約様式によって、個人の利益を最大化するための集団について思考を巡らせることができる。
「集団の下位概念としての個人」は、集団それ自体について思考を巡らせることができない。集団の様式、集団の規則は決定事項として存在し、それを改変したりする思考はできない。
プログラムの言葉で言うならば、集団の下位概念としての個人は、集団という親クラスを継承したサブクラスであり、上位概念の個人は、集団をインポートするクラスとしての個人である。
集団の下位概念としての個人はもちろんのこと、上位概念の個人であっても、個人の存在は集団との関係性によって捉えられることは変わらない。つまり、集団の上位概念としての個人になれど、集団からフリーになることはなく、集団との関係性に個人の存在は縛られる。
集団の上位概念としての個人が下位概念としての個人と異なるのは、集団に存在を縛られながらも、その集団自体に思考を巡らせて、集団に干渉することができるという点である。
(実存主義と構造主義の両立と捉えることが可能)
現在、人口の多数を占めるのは「集団の下位概念としての個人」である。
下位概念から上位概念の個人になる方法としては、自己対話を通して自分の生き方についての思想を確立すること、自分が考える社会像を持つことが重要になる。
集団の下位概念としての個人は全体主義に傾斜し、上位概念としての個人になりそこなった個人はアナーキズムに傾斜する。
上位概念の個人になるためには、一定以上の思想と自我の器が必要である。
と集団と個人についてこんなことを考えた。
本来なら言い切るべきではないところも多いが、言い切った方が概念が分かりやすかったので言い切る形にしてみた。