ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

加害者と被害者の基準は無限遠に


 誰が加害者で誰が被害者という話はいつも議論になる。

 まず、この疑問について考えるときに留意しておくべきことについては、
「被害者になりたがる心理」
についてである。
 ほとんどの人が、加害者ではなく被害者になりたがる。「被害者意識」というのは現代社会においてキーとなる概念だと私は思っている。
 被害者は構ってもらえるし、失敗や非を咎められない。それに対して、加害者は非難されるばかりで、同情されない。

 そのために、「自分は被害者なのだ。」という主張が至る所でなされる。


 被害者・加害者議論はまずは、これに留意しておく必要がある。


 加害者・被害者議論では、
「加害者がいれば被害者がいて、被害者がいれば加害者がいる。あなたが被害者なら私は加害者であり、私が被害者ならあなたは加害者である。」
という風によく言われていると私は思っている。

 図にするとこうである。

 

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 この主張のポイントは、被害者か加害者かの基準は当事者の間にあるということである。
 そして被害者と加害者は同じ軸上にある。
 左が被害者ならば右は加害者であり、同時に二人が加害者だったり被害者だったりするというのは都合が悪い。


 私は、被害者・加害者の考え方について、
①基準は当事者間について考えるのではなく、無限遠を基準にして考えること
②被害者・加害者の軸は同一軸上に取るのではなく、独立した軸上に取ること

を推奨したい。
 それが、被害者になりたい人の救済でもある。

 図にするとこうである。

 

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 この図を簡単に説明するならば、
「人はみな常に加害者であり、また常に被害者である。」
 ということになる。


①加害者・被害者の基準
 万有引力のポテンシャルエネルギーというのは、注目している物体を無限遠を飛ばすのに必要な仕事量によって決められる。無限遠を基準に考えるというのは、物理学ではよく使われる考え方である。

 自分は100%被害者であり、相手は100%加害者である、と現実で言うことは難しい。
 そして、「被害者になりたがる心理」を考えれば、多くの人は、「自分は被害者」になりたがるので、自分に落ち度はあったなかった云々と議論が堂々巡りすることになる。

 落ち度はあったかなかったかの議論にこの考え方は終止符を打つ。
 基準を無限遠に取るということは、いついかなるときでも、どんなに純粋な被害者に見えても自分には確実に落ち度があり、加害者であると言うことを宣言することである。
 加害者の無限遠は、加害者要素を限りなく小さくした点、あるいは無限に強くした点を基準とする。どちらが無限遠として適切なのかは、どちらでもよいような気もする。

 息をしているだけで世界のエネルギーを使っている、世界を汚染している、存在するだけで誰かの気を苛立たせる可能性を持っている、それだけで罪であると考えるのである。
 いきなり空から隕石が落ちてきて、どう避けようもなく死んでしまったとしても、そこにいた自分が悪い、予測できないものであっても、その日その場所に居合わせたこと、それ自体が罪になる、と考えるのである。
 
 被害者の無限遠も同様にして考える。


 例えば、AがBにいきなり道端で殴られたとしよう。
 AはBに突然殴られたという点では被害者であるが、その場に居合わせてしまった、Bに殴らせたいという感情を抱かせてしまったという点で加害者であるとも言えるのである。
 同時に、BはAを殴ったという点で加害者であるが、Aを殴りたいという感情に襲われてしまった、その場でAに出会ってしまったという点で被害者でもあるといえる。

 AとBを相対的に比べれば相対的にAの方が被害者であるということである。
 Aが絶対的被害者でBが絶対的加害者であるということではない。


 たいていの場合、どちらが被害者でどちらが加害者か考えても仕方ないのである。

 私たちがすべきことは、加害者をあぶりだすことではなく、なぜ事件は起こったのか、を考え、再発防止に活かすことである。


 どちらが被害者でどちらが加害者かは、断罪のときにさえ必要ではない。

 法を破っていれば被害者だろうが加害者だろうが裁かれる。

 それだけのことである。