幽奈さんを機にエロ表現の論点について整理する
・ゆらゆら大事件
ジャンプの巻頭カラー(センターカラ―?)のゆらぎ荘の幽奈さんが問題だという発言に端を発して色々な議論が巻き起こっています。
私はこの事件を、「ゆらゆららららゆらゆら大事件」と個人的に呼んでいます。
私自身は当該ジャンプを読んでいないので、幽奈さんのカラー写真はネットで回っているのを見ただけですが、ゆらぎ荘の幽奈さんははじめの方は読んだことがあります。
今はジャンプは購読していないのですが、まだジャンプを購読していたときに新連載として出てきた1話目からかなりハイクオリティなマンガだなと感じました。
絵は上手いし、ベタな展開を面白く描いていて面白い作品だなとしばらく読んでいました。ポストToLoveるっぽいなと思います。
残念ながらニセコイの最終回を機にジャンプの購読はやめてしまったので、途中までしか読んでません。ちなみに最後に買った巻に載っていたのは幽奈さんの26話でした。
・エロ表現の論点
さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入りたいと思います。今回はゆらぎ荘の幽奈さん自体については議論するつもりはありません。
今回の事件を機会に、エロ表現についての論点を整理、考察しようというのが今回の趣旨です。
先に、私が考えるエロ表現についての論点を列挙しておきます。
・当該表現は女性の権利を実際に侵害しているか
・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
・子供への影響とR18の根拠
それぞれについて以下で説明をしていきます。前3つがエロ表現について考える際の根拠となる概念について、後2つはエロ表現対策の活動方法についての項目として並べたつもりです。
・当該表現は女性の権利を侵害するか
これは、「ある作品の中で女性を凌辱する場面の描写があった場合、それ自身が女性の権利を侵害するか」という問題です。
これは女性に限ったことではありません。より抽象的に記述するならば、
「空想の人物への権利侵害は、現実において同じ属性を持つ人物への権利侵害に当たるか」
ということになります。
例えば、「空想の子供に労働させれば現実の子供への権利侵害になるか」
「空想の人間を監禁・拷問する場面の描写は人間自体への権利侵害になるか」
ということです。
これは、「私の身体はどこまでか」という議論につながります。よく、「道具は身体の延長である」と言われます。
わかりやすい例かどうかはわかりませんが、背負っているかばんを誰かに叩かれたとき、「私が叩かれた」と思う人は多いと思います。「この人はかばんを叩くつもりであって私を叩くつもりはなかったからこの人の行動は私には無関係である」と思う人は少ないと思います。
同様に、空想の中の人物という「概念」は私の身体の延長として捉えられるのかどうか、そしてそれへの権利侵害は実際の人物への権利侵害になるのかどうか、が一つの論点だと私は思います。
ちなみに、「不快に感じること」と「権利侵害」は同一ではありません。
・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
もう一つの論点が、実際に侵害しているかではなく、将来的に侵害する可能性を有するか、という話です。
この前ヒルデガーの心理学を読んだときには、「暴力的なテレビ番組を観た子供はそれを観ていない子供たちよりも暴力的になる」といった旨のことが書かれていました。
正直、この研究がどれだけ交絡因子を排除しているのか、またカタルシス効果についてはどれほど考慮されてのかといったことについてはわかりませんが、上のような記述を心理学の本にあったということを先に述べておきます。
したがって、「エロ表現に多く触れた子供はエロになる。」という可能性はありますが、それが実際に「日本において」成り立つのか、そして「権利侵害としてのエロ行動に出るのか、権利を侵害しないエロ行動に出るのか」といったことなど、単純に当てはめられない点があるのも実際のところであろうと思います。
このように、未だ潜在的な権利侵害の可能性についてはわからないことが多いと思います。したがって、潜在的な権利侵害の可能性について議論するためには、場合分けをするべきです。
場合分けの仕方として、潜在的な権利侵害の可能性が
・有する場合
・有さない場合
・わからない場合
とするのがよいでしょう。
・潜在的な権利侵害の可能性を有する場合
このとき、実際に権利侵害があるので規制をするのかどうか、ということが次の議論になってきます。
権利侵害がある→即ち規制ともなり得ないのが実際です。
そこは権利侵害と利益の天秤によって判断せざるを得ません。
たばこは肺がんの可能性を多分に有していますが、その経済効果や依存性などからすぐに全面禁止に至るということはありません。
また種々のワクチン接種は、副作用の可能性がないわけではありませんが、利益の可能性の高さから接種が推奨されます。
以上のように害が少しでもある→規制となるわけではなく、害の大きさと可能性、益の大きさと可能性が天秤にかけられた上で次の行動へと移るであろうと思います。
・潜在的な権利侵害の可能性を有さない場合
特に問題ないといえるでしょう。
・潜在的な権利侵害の可能性がわからない場合
この場合についてがいわゆる見切り発車をするしかないわけです。可能性を有する場合、有さない場合、どちらも考えた上でわからないなりの最適解を探す努力をしなければなりません。
・子供への影響とR18の根拠
女性への権利侵害と同時に論点となるのは子供への影響です。子供への影響とはよく言われますが、実際にどういった影響が考えられるのか、そしてその影響を防ぐために子供のアクセス権を制限することは妥当性があるのか、そしてその根拠とは何か、ということについて考えなければなりません。
私は法律にはそれほど詳しくはありませんが、調べたところ、青少年保護育成条例、あるいは青少年健全育成条例というものがR18の法的根拠となっているようです。
実際にこういった条例が制定されているならば、議論すべきかは当該表現が条例に抵触しているかどうかであり、抵触しているならば相当の処罰を受けるということになります。
その際に条例が妥当かどうか、正しいのかどうかといったことは問題にはなりません。法に触れているかどうかということのみに判断するのが法治国家の原則だと私は考えています。
しかし、ここでは、エロ表現の概念について考えるためには新しい法を作るべきか、あるいは既存の法を廃するべきかといった議論も含めてするトピックだと思います。
そこで、青少年保護育成条例とR18の根拠とは何かについて考えるべきです。ここでは、条例とR18という概念の根拠は同一だという前提のもとで話を進めます。
正直、私はR18の根拠が何なのかわかりません。何をもって18歳未満に有害なのか、どういった害があるのか、私にはわかりません。
タバコなら肺がんといったように、わかりやすい「害」があります。R18の18歳未満への「害」とは何でしょうか。
何かいい本があれば教えてください。
ちなみに、子供への規制というのは子供への権利侵害だという概念が抜け落ちている人が多いように感じています。
子供が働いてはいけないのは、子供の保護であると同時に権利侵害です。
現在の多くの法は、子どもを保護する代わりに子どもから権利を奪っているということを忘れてはいけないと思います。保護と権利を常にトレードオフだと私は思います。
・禁止かゾーニングか
さて、ではエロ表現から子どもを遠ざけたほうがよい、ということになったとしましょう。
あるいはエロ表現が女性の権利侵害になったとしましょう。
その際に、ゾーニングをすれば問題ないのか、あるいはそもそも当該表現を禁止しなければならないのかということが問題になります。
そして、ゾーニングを推奨にするのか、ゾーニングしないといけないという法を作ってゾーニングを義務にするのか、ゾーニングというのはどれほど効果があるのか、といったことを考えなければいけません。
仮にエロ表現の対策をしようとしても、その方法は多岐にわたることでしょう。
・内心の自由と規制活動
最後に、「エロ表現が嫌いだ」と思う内心の自由と実際の規制活動とは区別すべきだということを述べたいと思います。
私は、「エロ表現が嫌いだ」という内心の自由は保証されるべきだと思います。
例えば、Twitterで
「このエロ表現まじムカつく。なんか馬鹿にされてる気がするし気持ち悪い~」
みたいなツイートがあったとして、そう思う自由自体は保証されるべきだと思います。このツイートに対して、
「あなたは表現の自由を認めないというのですか??」
と絡むべきではないと言うことです。上記のツイートでは、「表現の自由を規制すべきであり、実際に規制に向けて活動している」ということではありません。
もっと言えば、「表現の自由を規制したい」と思う内心の自由は保証されるべきだと思います。
「表現の自由を規制したい気持ちは山々だが、歴史的経緯から実際に規制してはいけない」
ということもあります。
「不快に思うこと」を許容する自由を保障すべきだと思います。
今回はこれで終わりです。