ロロの空想

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サイゼリヤデートの話題をきっかけに、ジェンダー論の論点まとめてみる


 30代の初デートでサイゼリヤデートはありなのか。

 とかいうのがTwitterでは結構議論になっていましたね。

 これをきっかけにジェンダー論の主な論点整理でもしてみようかなって思ってこの文章を書くことにします。

 まずは、サイゼリヤデートの件なんですが、まあ、そもそもこの疑問自体が結構状況によりけりだと思いますね。

 30代って言っても年収も人によってかなり違いますし、初デートって言っても、すでにもう付き合っていて、付き合ってから初めてのデートなのか、付き合う前にデートに来ているのかでもニュアンス変わってきますし。

 細かいこと置いといて、これらの議論を眺めていて思ったのは、サイゼリヤは安くておいしいし、サイゼリヤ行って話題のほうれん草食べたいなってことです。

 さて、サイゼリヤデートにおける議論でも、様々な人が様々な理論をぶん回してバトルを展開していたわけですが、デートとかって身近にジェンダー論を意識しなければいけない場だと私は思います。

 最近のジェンダー論を考える上で、気にしなければいけないトピックとは何なのか。
 私は以下のような点が論点になってくると思います。

・生物学的性差と平等性・同質性

トレードオフ

労働市場のキャパシティ

・自由恋愛市場における魅力

・個別の扱いとマクロ的扱い

 

 それぞれについて話していきたいと思います。

・生物学的性差と平等性・同質性
 ご存知の通り、女性と男性は違います。生物学的性差が必然として存在し、出産や授乳は女性が行うものであり、現在男性にはどちらもできません。
 女性と男性では体格も違います。男性のほうが、平均的に背も高いですし、男性ホルモンの影響で筋肉量は女性にも多くなります。

 この差について、ジェンダー論を語る上でもやはり無視はできないだろうと私は考えています。

 そこで、男女平等論やフェミニズムはどこを目指すべきなのかということなのですが、私は、平等性と同質性という二つの異なる概念を使うべきだと考えています。
 平等性についてですが、例えば2者間の平等を考える際に、必ずしも2者がまったく同じ権利や義務を有している必要はありません。
 誰かが物を売り、誰かが物を買う時、この消費における契約は不平等なものかというとそうでもないと言えるでしょう。お金を払うという行為によって、お互いに平等な契約が結ばれていると考えることができると私は思います。(法学の素養がないので間違っていたらごめんなさい。)
 世の中には異質なもの同士が契約によって平等につながっているということは、よくあることだと私は考えています。

 したがって、男女平等論においても、必ずしも男女同権でなくても実現は可能ではないかと私は考えています。つまり、男女を無理に同質的に扱う必要はないと私は考えていますし、先に述べたように、男女には超えられない性差がある以上、完全に同質にすることは原理的に不可能だと私は考えます。

 現在、男女は同質ではありませんが、現在男女が不平等なのか平等なのか再考すべきだと思います。
 私は男女平等論を議論するならば、「どれほどまで男女の同質性を求めるべきか」といった同質性の程度の議論をすべきだと考えます。

トレードオフ
 さて、トレードオフというのは、あるものを得ればあるものを失うということ、単純に言えば、交換ということです。ジェンダー論の際には、権利と保護はトレードオフであるということを意識すべきだろうと私は考えます。

 未成年者は法的に権利が制限されていますが、その分保護を受けています。

 基本的に法は権利と保護がトレードオフされる形で制定されていると私は考えています。

 この権利と保護のトレードオフというのは至る所で意識されることなく実践されている原理だろうと私は推測しています。
 まだ一人で何もできない子は親の言うことに逆らえないなど権利は制限されているが、その分親から保護を得ているといったことは実感としてわかるのではないでしょうか。

 女性の権利を男性と同じにしようとした場合、そこには必然的に権利と保護のトレードオフが生じるだろうと私は考えています。
 例えば、女性は男性に奢ってもらいがちだったり、結婚した場合、専業主婦になることが社会的に認められやすいですが、男女が同じように労働する権利を有した場合、これらの慣習もまた変わる可能性が高いだろうと思います。

 女性が奢られやすかったり、専業主婦になりやすかったりするのは、女性が男性よりも経済力が弱いことを前提とした違いであり、女性と男性が同じ経済力を持つに至った場合、男性が女性に奢られることも、男性が専業主夫を選択する可能性も、格段に高くなるだろうと予測します。

 まあ、実際にそうなるかはさておき、権利と保護のトレードオフを考えればそういうことが起きるということを私は提唱したいわけです。

 大事なことなのでもう一度言っておきますが、「権利と保護はトレードオフ」だと私は考えています。


労働市場のキャパシティ
 さて、今のジェンダー論では、女性が働きやすい職場を、といったように女性が今より労働者として社会に参入させようとする意図がありますが、労働市場にもキャパシティがあるということを考えなくてはいけません。

 果たして現在の日本の経済において、希望すれば全員が労働に従事できるかどうか、と考えた場合、おそらくそれは不可能だと私は考えます。

 雇える人数の総数は社会全体で決まっており、それを超える人たちは、労働に従事したくとも、非自発的失業者として労働市場からはじき出されざるを得ないでしょう。

 ならば、それぞれの人の仕事量を半分にして雇用数を倍にすればいいと考えてしまうかもしれませんが、一般に雇用者数が増えるとその分管理費用がかさばるため、企業は同じ成果を上げられるならば少ない人数で業務を達成しようとします。


 つまり、今まで労働市場に参入していなかった女性が参入してくるということは、その分労働市場からはじき出される男性が増えるということです。

 実際には、高齢者に対して労働者人口は減っていますし、その解消のために女性も労働市場に参入させようとしているのが実際なので現実はそう単純ではないんですが。

 しかし、女性の労働市場参入によってはじき出されて無職になってしまった男性を救出する機構を今の社会は生活保護くらいしか持ち合わせていません。

 女性の場合は、労働市場からはじき出された場合は結婚して専業主婦という形が多かったですが、男性では結婚して専業主夫になるというのは、社会的に現在あまり受け入れられていませんし、恋愛市場の性差を考えると今後もそれほど増えることもないかもしれません。

 現在の社会では、やはり結婚におけるメリットは、お金も大きく関係しますので、女性が労働市場に参入し、自己実現が可能になった社会では、労働市場からはじき出されて、お金がなく、お金がないので結婚ができない男性というのが社会的に作られやすくなる、ということを考慮しなくてはならないと私は考えます。
 そのセーフティーネットをどうするかというのが一つの課題になります。

 


・自由恋愛市場における魅力
 男女が異質なものとして現在も維持されている原因とは何かと考えたとき、私は、男女の自由恋愛市場がそうなのではないかと考えました。
 社会の様々なことは男女の自由恋愛市場を基点として展開しているような気がしてなりません。

 男性が女性をデートにおいてエスコートしたほうがよい、とする考えや、女性は化粧などをして美しさを保つのがよい、とするような考えは、恋愛市場における「望ましさ」に由来すると私は考えます。

 いくら制度的に男女の権利を同質にしようとしても、男女はそれぞれ、恋愛市場における「望ましさ」を獲得するように動こうとするだろうと私は推測します。
 女性にも男性と同じようにリーダーシップを与えようとしても、恋愛市場において男性にリーダーシップを取ってもらいたいと願う女性が多くいた場合、社会的にもやはり男性がリーダーシップを取る機会が多くなるだろうと推察されます。

 現代の男女の役割の差異は自由恋愛市場の原理が反映されていると見るべきだと思います。
 したがって、恋愛市場での価値感が変わらない限り、社会における男女の役割の差異は依然として存在し続けるでしょう。

 

・個別の扱いとマクロ的扱い
 次のトピックが本当に難しいことなんですが、個別と全体では扱い方が違うだろうという考えについてです。

 例えば、女性でも男性より力が強い人や体格がいい人がいますし、実際にそういった女性が働いたほうが男性より圧倒的に成果を上げられることも少なくありません。

 しかし、これはミクロ的にみた場合、個別的事例の話です。

 マクロ的にみたばあい、つまり集団としてみた場合、やはり男女には差異があります。
 
 ミクロならば、力の強いAと力の強いBがいた場合、荷物の運搬などはAに任せた方がいいとなるでしょう。

 しかし、マクロの場合、集団ごとに違う役割を振るべきなのかといったことが問題になります。
 もちろん、個別事例を逐一見ることができればいいですが、個別の能力を逐一確認するにはコストがかかります。
 例えば、配達業務の場合、男女では、男性のほうが地図を読めるという傾向があるでしょう。
 採用の際に逐一地図がどれほど読めるかをチェックしてもいいですが、その分そのテストのためのコストがかかります。

 そのコストを上回るだけのメリットがあればいいですが、何も考えずに男性だけを300人雇ったほうが結果的に利益が出せることが統計的に分かった場合、どういった選択をすべきかということを考えなくてはいけません。

 実際には多少利益を犠牲にしても、男女が同じように働く権利を得られたほうがいいということになるでしょうが、なんらかの行政の誘導がなければ企業はコストがカットできるほうを選択するでしょう。

 これはあくまで労働の話でしたが、集団の扱いを考える場合には、常に、個別事例と集団の扱いのバランスをどのように取るかということが問題になります。

 特にこの問題は経済的余裕がない場合に切実になります。

 

 さて、今回は以上の論点についてまとめてみました。
 この記事ではあえて、男女同権を進めることへの疑問を呈する形として論点を提示しました。

 逆説的ですが、男女同権の問題点、疑問を投げかけることで男女同権、あるいは男女平等の流れを促進するために必要なこともわかると考えます。

 議論が平行線にならないために、論点を整理することは重要です。

 これだけが論点ではありませんが、まずは以上のようなことを踏まえたジェンダー論の議論ができればよいのではないかと考えます。