ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

特別な人間じゃないと言われたい

 何か、自分の考えを、自分の感じていることを、自分とはいったい何者なのか、何がほしいのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、何をしたいのか、そういったことを書こうと思って書き始めてみたはいいけれど、何から書けばいいのかわからない。自分で自分のことは知っているみたいなことを口走りながら、文章を書くのが割と得意だと口走りながら、本当に自分が考えていること、伝えたいこと、感じていること、それが何なのか文章に起こそうとすれば、それがさあ、さっぱりわからなくなる。自分で自分のことをわかったつもりになっていて、それは錯覚だったのかもしれない。わかっているようで自分のことはまだまだ全然わかっていない。わかったようになっている、そういった勘違い、錯覚ほど惨めなものはない。それは僕が普段からよく糾弾していることだ。

「みな、自分のことを知らなすぎる。」

口癖のように、というと語弊があるかもしれないが、僕がよく言っている、いや、よく言ったつもりになっている言葉である。これは僕の一つの信念でもある言葉の裏返しだ。

「自分のことを知ればこの世の真理に近づける。」

あらゆることを自分の内側の違和感、葛藤を手掛かりに僕はあらゆることを考えてきた。だからこその考えなのかもしれない。僕は人間の内側に真理が眠っているとか、人間はみな心に真理の扉を持っているとかそういったことを言いたいわけではない。言いたいわけではないと言ったものの、心に真理の扉を持っているというフレーズの奥に広がる世界、かっこよすぎじゃないか。まったく厨二心をくすぐるぜ!

 脱線した。話を戻そう。自分のことを知ればこの世の真理に近づけるというのは、自らの心のうちにある真理を探せというわけではなく、自分を詳しく知ることで、真理を探求することが簡単になるだろうと言っているのだ。自分の心の動きに機敏になろう、とか、自分の持つ違和感や疑問に敏感になろう、とかそういうことである。真理への探求は違和感を捉えることがその第一歩である。自分が感じる違和感が一体何なのか、それを正確にとらえ、解き明かそうとすることで真理は我々の前に現れる。

 とまあ、僕の真理の探求スタンスはこんな感じだ。加えて、自分を知ることで起こるいいことというのは、別に真理探求だけに限ったことではない。自分を知るというのは、人間関係の悩みを考えるときも、自分の生き方を考えるときも、かなり有効な方法だ。まあ、それもそのはずで、自分を知るというのは自分の感情について詳しく知ることでもあるから、自分の悩みの根本たる感情の動きを詳しくしれば、悩みの解決にはそれは近づくのは当然であるともいえるだろう。他にも、自分を知ることで学業、芸事やスポーツの上達が早くなることとか、自分を知ることによっておこるいいことはたくさんあるけれど、そのすべてをここで書いてもボリューム過多になりそうなので、やめておこう。

 さて、ここからはそのようにして自分を知ろうとした結果、僕が僕について感じたことについて書いてみよう。しかし、僕が僕について知っていることも案外少ないのかもしれない。さあ、自分のことを語ってみて、と言われて自分のことをどれほど語れるだろうか。何々が好きで、自分はどういったことが得意で、自分はどういった組織に所属していて、といったような自分の輪郭をなぞるような話をしてしまうのではないかという不安がある。自分が何を考えているか、自分が何を感じているか、そういったことではなく、自分が何者であるかの説明。それでは自分のことを話したことになるのだろうか。そんなものは周囲との関係性でいくらでも変わる。自分を周囲との関係性でしか話せないというのは悲しい。自分は、どこに行こうと、どの組織にいようと、どんな趣味を持っていたり、どんなものが得意であったりしても、自分はこういった存在だ、といった変わることのない自分自身の存在の証明ができるといい。関係性でいくらでも流動的に変わる自分というのは、なんとも脆く、心もとなく、儚いのだろう。

 しかし、たいていの人は、―それは自分も例外ではないのだろうが、周囲との関係性でしか自分を規定できない。唯一の規定の方法とは言い切れないが、自分の規定とはだいたいが周囲との比較によるものでしかない。周りの人がご飯を食べないのが普通なら、「私はご飯を食べます」ということが自己紹介になるが、周りがみんなご飯を食べるなら、それは自己紹介としての意味をなさない。自分がどういった人間かを考えるときも同じで、自分がどういった存在なのかは周りとの差異でしか規定しえない。自分自身の考えとか、何が好きとか何が嫌いとか、何をよく考えるとかどうとか、周りとの比較、相対的に決定されるものでしかない。僕という人間は周りのあらゆる存在によってその存在が許されている。僕という人間は、何々である、といった表現よりも、何々ではない、といったことの集合なのかもしれない。つまり、周りとの差異が何なのかを集めていけば自分という存在が出来上がる。そう考えると、自分という存在は何とも存在感が薄い。周囲に何もなければ僕という存在は存在しえないのだから。考えてみれば、何もこれは僕だけの話ではない。この世の存在すべてがそうなのだ。お互いの存在によってのみお互いに存在しえる。それぞれが単独では存在しえないのに、それぞれが同じ空間、時間に存在することで、それぞれの存在が許される。僕たちの存在はみな相対的で、お互いに存在を助けあっている。言い換えてみると、僕が僕を作るのではなく、他の存在によって僕が作られている。

 自分の存在の揺らぎ、不安を語った。自分とは何かの差異でしかない。しかし、人はみな差異を求めているのだろうか。そうとも言えるし、そうでないともいえる。おそらくでしかないが、人はみな誰かと違うことを望む一方で、誰かと同じでいたいと強く願っている。みんなと一緒でありたくてみんなとは異なりたい。そうした矛盾の欲求、アンビバレンスを抱えて人は生きている。他の人と全く同じ服は嫌だからと言って、他の人が洋服を着ているのに自分だけ和服っていうのは嫌だ、みたいなものだ。ある程度寄り集まったところでばらけていたいというのが人の心理なのだろう。いわゆる厨二病というのは、自分には何か特別な力があると信じたい、いわば、人との差異を望む強烈な欲求の表れなのだ。世間では厨二病厨二病と揶揄される表現ではあるが、その本質は他の人との差異を望む、極普通の欲求なのだ。それはもちろん他人とは違う自分でありたい。しかし、他人と離れすぎるのはやはり不安である。厨二病というのはかなり強く差異を望む欲求だ。この世界で一人だけ魔法を使えるようになったり、神通力を使えるようになったとして、それは結構な優越感とか特別感に浸れるものであろうが、本当に幸せなのかどうかは考えものである。人と違うというのは、どんな優越であれ、孤独感にさいなまされる。特別な力というのもまた孤独を感じる原因になるだろう。

優越であるが故の孤独。

きっと多くの人には理解されないだろう。妬まれて終わるのが関の山である。どうせ理解や共感はしてもらえまい。さらに悪いことに、危険な人物として敵視されるかもしれない。他の人との異質性による孤独に悩むだけでなく、ほかの人から敵視される辛さも味わわねばならないなんて、特別な力なんて望むものじゃないのかもしれない。僕は、こういったことを考えた上で、特別な力というのはむしろないほうが幸せなんじゃないかなと思っている。僕は他人と一緒でありたい。

 考えてみれば、人の孤独感というのは、この人と人との違いを生む差異によるものなのかもしれない。差異というのは異なるものへの理解の可能性を妨げる。差異があるだけ理解してもらえなくなる可能性がある。では、孤独をなくすためには、一切の差異をなくせばいいのか、と考えると、それは人間個体のすべての個性と違いをなくすことであり、そういった同質性に人間が耐えられるとも思えない。そんなの人間じゃないと人々は言うだろう。差異こそが自分のプライドを保証するものであり、一方で自分の孤独を保証するものでもある。私たちは、孤独と向き合い続ける運命にあるのである。その孤独から逃れるすべとして、みなが同一個体になること、魂の統合という方法があるかもしれない。大きな流れへと変える。魂を生んだ母なる存在へと帰ること。それが孤独をなくす方法なのかもしれない。これが、人々が「人類補完計画」と呼ぶものなのだろう。

 しかし、そもそも、なぜ人はある程度の同質性を求めながらもその中でそれぞれの個体で異質性を求めるのだろう。謎である。なぜ同じでありたいと思うのか。そしてなぜ人は違う存在であろうとするのか。この謎が解けたとき、おそらく人類は大きく前進する。中途半端で、たよりない、まどろみだらけの僕の頭で途中まで考えてみよう。そもそも同質性を求めるというより、ある程度の同質性がない以上、ある集団として扱えないのだ。共通点がない集団など、ただの雑多な寄せ集めにすぎない。人は、自分がどの集団の一員なのかといった関係性で自分の存在を計る。だから自分の存在を確かめるために自分の存在をある特定の集団内に収めようとする。一方で、自分と全くかぶった存在というのは、自分との存在を揺らいだものにするから、他と区別したい。もしくは特定のだれかと同じというのは、その同質性から、その人と特別な関係であるとの誤った認識を生む。だからそういったものを避けるために差異を求める。差異とは個体の標識番号みたいなものなのか。

 すべては自分の存在の保証のためなのかもしれない。自分の存在を存在足らしめるために、同質性と異質性を求める。

 では、僕の悩みは、と考えたときに、それは僕自身の異質性なのかもしれない。笑わないでほしい。そして馬鹿にしないでほしい。僕は、「自分自信を特別な人間だ」と思っていた。そして今でも思っている。自分が特別な人間だという感覚が抜けない。いつまでたっても抜けない。よく人は言う。

「自分は特別だと思っていたけど、何のことはない、他の人たちと変わらない凡人だった。」

と。自分が他の人と違うと思っていたけど、実は他の人と同じだったんだ、なんだがっかり、というよくある文章。しかし、その言葉の裏にはがっかり感だけでなく、いくらかの安堵も実際はあったのではないだろうか、というのはただの僕の勘繰りなのかもしれない。自分が他の人と同じで大した才能は持ち合わせていないのだというがっかりと同時に、自分も他の人と同じ人間だったんだという安堵。それがあったのではないだろうか、と僕は思うのだ。

 世の中にはレジェンドと呼ばれる人がいる。その人たちは類まれな能力によって、他の人とは一線を画した、つまり、いつまでたっても異質だった存在である。他には、神童と呼ばれ、大人になってからも天才と呼ばれた人たちがいる。彼らに孤独はなかったか。あったのではないのだろうか。あってほしいという僕の願望なのかもしれない。しかし、他人とは一線を画す特別な力、異質性、そういったものを備えているほどに孤独感を感じずにはいられないのではないのか。優秀であるがゆえに、卓越しているがゆえに、わかってもらえない、理解してもらえない孤独があるのではないか。そう僕は思わずにはいられない。自分に特別な力があるというのは、一見幸せだ。自分にだけあるべき力がないことよりもはるかに幸せだ。しかし、その異質性ゆえに、他人から理解してもらえないという孤独がそれにはつきまとう。

 僕が何か、特別な力をもっているかと聞かれたら、どうだろう、まあ持っていないだろう。僕が持っているのは特別な力というわけではない。他人より優れた自己洞察力、思考力。ただちょっとばかり優れているだけならよかったのかもしれない。こんなことを言うと、慢心だとか言われても仕方がないが、僕には色んなものが見えすぎている。そして、それについて

「そんなものだれでも同じだよ。君が特別じゃないさ。君よりすごい人はたくさんいる。」

と言ってくれる人がいて、その人が僕を納得させてくれるだけの言葉で説得してくれたらよかった。しかし、そういった出来事には未だめぐり合っていない。自分の自尊心、自分の特別感を打ち砕いてくれる人、「ああ、自分はただの凡人なんだ」と思わせてくれる人に出会わない。自分から避けているのか?それはどうなのかわからない。色んな人と話をして、自分が凡人だということを感じるどころか、自分はもしかしたら特別な人間ではないのかという疑いばかりが深まる。自分が特別でない、ただの人間だと言ってほしい。そして自分を納得させてほしい。そうは思うものの、なかなかそういった機会にはめぐり合えない。

 自分はただ慢心している孤独な人間である、ただそれだけなのかもしれない。それなら、後でわかれば、自分が特別ではないか、と悩んでいるのはただ滑稽であるが、実際のところはわからない。自分が特別ではないということを突き付けられて、自分が周りと同じだという安心感に浸りたい。そう願っている自分がいる。その一方で、やはり自分は特別だったのだと認めてもらいたいという気持ちも捨てきれずにいる。結局は人に認めてもらいたいだけなのか?そうなのかもしれない。同じなら同じ人間として、違うなら違う人間としてでいい、自分の存在を認めてもらいたいのかもしれない。自分が特別なのか特別でないのかわからないまま、自分が何者なのかもわからず、宙ぶらりんの状態に自分は不安を感じているのだ。どこかに安定して存在したい。自分が何か他人と比べて特別だと感じつつ、自分がどういった点で特別なのか、本当に特別なのか、その確証が得れないでいる。その不安から僕は解放されたいのだろう。

 結局は、僕は自分の存在が、何かと同じであるとも、何かと違うであるとも規定されないままに宙ぶらりんで、自分で、自分自身がどれほど周りと同じなのか、どれほど周りと違うのかを見極められないまま、自分の存在が揺らいでいることに不安を感じ、周りから認められないことに孤独を感じているのである。