読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

目をつぶして道を歩く怖さを知ってる?

 考えること、というのは結構体力を使う。体力勝負である。いや、この場合の体力というのは、肉体的な体力というのではなく、もちろん精神的な体力である。筋トレをしたからといって精神的な体力がつくというわけではない。ここでは、精神力といったほうがいいのかもしれない。しかし、それでは考えることの持久力といった言葉のニュアンスが伝わりにくいのではないかと思ってしまう。だから、僕の希望を言えば、どちらかといえば、ここは精神力というよりも精神的な体力という言葉を使いたい。考えることに精神的な体力がいるというのは、考えるのはなにせ疲れることだからである。僕のような変わった人は例外的に、好き好んで普段から考えているので、それについて考えるのしんどいからやめたいなあとかそういったことは思わないのだが、しかし、通常、一般人は、考えることは疲れるはずである。だから、すべての人に考えろ、考え続けろ、というのは酷である。考えろと言われなくても考え続けてしまう。常に考えていざるを得ない僕のような人間というのは一種の呪いにかかっているようなものである。一度装備したら外せない。考えるということを始めてしまっては、やめることができない。そんな、呪いのようなものなのである。

 しかし、僕は、「人々よ、考えろ。」と伝えたい。伝えるだけでなく、実際に、多くの人々に、今よりも考える時間を取ってほしいと思っている。考えることは苦痛で、自分のことを呪いのように考えなくてはいけなくてはならないと言っているのに、なぜそんなことを思ってしまうのか。たしかに、僕もこれは人々に今までよりもつらい労働のようなものを強いてしまうことになってしまうのはわかっている。しかし、それでも人々に考えて生きろと伝えたい。それはなぜなのか、それは後々語るとしよう。

 その前に、考えて生きることと考えないで生きることの功罪について語りたい。僕自身もそれほどにはっきりと確たる主張があるわけではない。だからここは、一緒に考えたい、というべきなのかもしれない。僕が読者の人に自分の考えを伝えたい、というより、僕が読者の人たちと一緒に考えたい、というべきなのかもしれない。

 それほど考えないで生きる、ということについてまずは考えてみたい。考えないで生きることを考えるという言葉に含まれている矛盾についてはここでは目をつぶろう。そこについてあれこれ議論をしていては、本筋の話が進まない。考えないで生きることのできる社会というのは幸せだと、僕は思っている。ぼーっとしていては誰かに捕食されるという危険はなく、気を抜けば誰かに殺されるということもなく、計画的に作物を栽培しなければ飢餓に陥るということもなく、ぼーっと生きていても、それなりに生きていける。そう簡単に死にはしない。何をしたらいいかわからなくなったら、人に聞けば何をすればいいか教えてくれる。特別、自分で生き残るために戦略を考えなくても、周りが生きるための王道ルートみたいなものを確立してくれていて、それに乗っかって生きていれば、そんなに深く考えなくても生きていける。殺されることも、餓死することもない、そんな安全ルートがあるというのはかなり幸せだ。

 そんな幸せなルートがあるなら、なるほど、深く考えて生きるというのは、そのコストに見合ったものが得られるとは限らない。深く考えなくても、よくあるルートをたどっていけば生きていけるのだから、考えることに労力をつぎ込むだけ無駄な仕事にも思えるかもしれない。それに、深く考えて、素通りすれば気付かない矛盾だとか、不条理だとか、そういったものにあえて目を向けることが幸せだとは限らない。目をつむっていればやり過ごせる。そして、それについてやり過ごしてしまっても、特段に自分を責める人がいない、ならば、それはやり過ごすのが賢いかもしれない。深く考えなければ目の前の幸せを謳歌できる。決まったルートを歩いて行って、決まったように幸せな人生を歩いて行ける。

 ただ、それは、本当に決まったルートを歩いて行った先に、幸せな生活が保障されている場合に有効だが、そうでなければ、この幸せは成り立たない。他者への信頼、ルートの先に生活が保障されているといった信頼の上に成り立っている生き方だ。しかし、信頼とはいっても責任者はいないのだから、その信頼が誰に対しての信頼なのか語るのは難しい。他者一般に対する信頼、もしくは、その決まったルートが正解だという世間に流れる噂への信頼なのかもしれない。巷説への信頼、というのかもしれない。ただ、やはり、そういったものを信頼して、疑うことをせず、決まったルートを歩いていると、例外には対処できない。例外エラーである。プログラムは停止する。エラーに対して対処するには、自分が歩いているルートの可能性を歩きながら吟味しなくてはならない。石橋を叩いて渡る、とまではいかなくても、歩きながらかかとで地面をたたきながら歩くぐらいはしたほうがいいのかもしれない。いいルートがある、という噂を信じて歩いて行って、もしもその先に思っていたような生活がなかったときに責任の所在というのは、かならずそのルートを歩いた人に求められるのだから。ルートは世間一般に言われているというのであって、だれかが故意にふいちょうしたというわけではない。仮にだれかにそそのかされたとしても、選んだのは自分だ、そう言われるのが世の中なんだから、何かあったときはすべて自分に責任を求められる。自分が選んだルート、自分が選んだ人生に対して、自分に責任を求められるのだったら、はじめから噂なんて信じずに、自分の考えるルートを選んで歩きたい、と僕なら思ってしまう。しかし、そんなことをいって、だれも歩いたことのないルートを歩こうとして、猛獣につかまったり、池に落ちたりしてたら、「やっぱり他の人の歩くルートを歩いとけばよかったなあ」なんて思うのだろうから、その判断は難しい。道があるから人が歩くのではなく、人が歩くから道ができるのだ、という言葉を聞いたことがある。なるほど、その通りかもしれない。多くの人が歩いているルート、というのはそれなりに理由があるのだ。そして、多くの人が歩いた後のルートというのは歩きやすい。歩いた後に道ができているのだから。道を歩くほうが歩きやすい。

 道があるから、どうとかこうとか、でもなく、そういったことを考えなかったとしても、やはり、普通の人は大勢の人が歩くところを歩きたがる。それが間違った道か正しい道かはともかく、である。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」

これはなかなか的を得た言葉だ。人は、自分の信念よりも周りの人との同調性を重んじるとはよく言われる。同調性の圧力というやつだ。その圧力によって、人は間違ったものでも、大勢の人が選んでいると選んでしまうことがある。しかし、さらに驚くべきことに、間違ったことであると最初は思っていても、大勢の人がその行為を選んでしまうと、それが正しいことに変わってしまうということがあるから世の中は恐ろしい。いわゆる数の暴力というやつである。世の中、正義は多数派なのである。先の赤信号をみんなで渡る話でも、もしもみんなが赤信号を渡っていたら、止まらぬ車が悪であり、一緒にわたらない歩行者が、協調性を乱す悪者になってしまうのである。これが民主主義の暴力なのかもしれない。絶対王政による権力の暴力が滅んだとしても、民主主義の数の暴力が台頭してくる。多いものが偉い。正しさ、というのはその際にはどこかに行ってしまうのである。いやいや、正しいものが何であるか、という概念すら、数の暴力は変えてしまう。多数派の意見が正しいのである、というのが今の民主主義なのだから。正しささえも変えられてしまう。数の暴力とは恐ろしいものである。しかし、もともと、数の暴力で正しさが捻じ曲げられる前の、「正しさ」すら本当に正しいのか怪しい。その「正しさ」だって誰かがそれが正しいと信じて作った「正しさ」なのである。考えてみれば、普遍的な正しさなんて、この世には存在するのだろうか、と不安になるのである。この世に普遍なんてものは存在するのか、「客観的」に見た正しさなんてものは存在するのだろうか。全ては「主観的」な正しさではないのだろうか。では正しさとは何だろうか、と考えてしまうのである。正しさはただの思想の暴力だと言われてしまえばおしまいである。それでも、本当の、できるだけ客観的正しさに近い正しさを探したい、という探求心を僕はまだ持ち続けているのだけど、それはなかなかに難しい道程だと言わざるを得ない。「客観」が存在するか怪しい世界で「客観的」に正しいものを見つけようとする無謀さを、僕は感じてしまう。だから、僕が目指すのは、できるだけ「客観」と思われるものに近いもの、言い換えると、「客観」だと言ってもあまり差し支えないようなもの、「客観」であるという確実性ではなく妥当性を重視したもの、そういった「客観」から見た正しさの追求なのである。

 しかし、数が正義であるという現実の事実には目をそらせない。直面しなければならない。しかし、人はなぜ、多数派に集まろうとするのか、というのは一つの謎である。同調性の圧力なるものはなぜ発生するのか。一つは、他の人と同じである、という同質性を感じることで、自分の存在が間違っていないということを感じたいのだろうか。自分の存在の揺らぎをなくすための同調性の圧力。間違ってはいないかもしれない。しかし、僕はもう少しわかりやすい理由があると思う。簡単にいうと、責任逃れだ。

 責任逃れ。人は皆、責任を負いたくない。自分の人生に対してすら責任を負いたくないと思う。自分が何か不幸な現実にぶつかったときは誰かのせいにしたい。神様を信じていれば、神のせいにできたのかもしれない。神が自分の人生をこう決めなさったのだから、これは仕方のないことだ。しかし、責任は私にあるのではなく、神にある。そんなことも言えたのかもしれない。しかし、僕は神を信じて、神の定めた運命だと生きているのではなく、自分自身が責任を負うべき人生だと、そんな風に考えて生きている。いや、それは虚言だ。神を全く信じていないとは僕は言えない。神がいるとも言えないし、いないとも言えない、それに関する判断はできない、というのが僕のスタンスだ。だから、僕はときどき運命論的なものも信じはするし、摩訶不思議なことも、起こるべくして起こったのだと考えたりする。歴史にifはないというが、現実にだってもちろんifはない。そんなものがあるとすれば、パラレルワールドだ。とまで言ったところで、僕はパラレルワールドの存在は割と肯定的にとらえていることに気付いたし、先ほどまでしゃべっていたことの着地点を見失ってしまった。

 話を戻そう。責任はだれも負いたくない。だから、多数派に混ざろうとするのだと僕は思う。多数派である以上、責任の糾弾は個人に対してはほとんど起こらない。多数派が正義で、多数派が社会をつくるのだから、その多数派を糾弾するというのは自らが自らを糾弾するという構図になる。多数派が正しいのだから、そんなことは起こらない。よって安全である。多数派の船に乗っていて何かにぶつかったとしたら、そのとき責められるのは乗っている人々ではない。なぜ、その船がぶつかったのか、その原因が調査され、再発防止につとめる、といった発言がなされるだけである。責任はだれにも追及されない。言うなれば社会の責任である。こうした責任逃れが可能だから、多数派に混じるというのは、ある意味、賢い選択である。

 だからこそ、深く考えずに、多数派に混ざってしまったほうが安全だ、と僕は思う。深く考えて、自分が正しいと思うことを選択したり、それは正しくないと意見をあげたりすることで少数派に回れば、自分が自分の行動に対して責任を負わなければならなくなるし、敵視されて攻撃されれば、それをかばってくれる隠れ蓑は存在しない。だから、深く考えて行動するなんていうのは、労力も必要で、責任も負う、そういったリスクがある。だから、深く考えないで、多数派に追従して生きていったほうが安全で楽で快適な人生なのではないか、と僕は思ってしまうのだ。

 しかし、それぞれが考えて生きているのと、多数派に追従して、安全と快適性を重視するのでは、本当に後者のほうが安全なのかと言われると疑問は残るのだ。多数派が乗っている船が沈没してしまえば、全員が死んでしまう。責任は自分になかったとしても、死んでしまってはおしまいである。そのときに、責任が誰にあるとか言っている余裕はない。死んでしまってはおしまい。これは間違いない。多数派に追従するというのは、そのルートの安全性を自分では判断しないということである。それによる危険性というものには自分ではもちろん気付けない。そのリスクを教えてもらえることも、その多数派に頼りっきりなのである。自分で考えて生きてることは、自分の行動を自分で責任を負うリスクがある。しかし、その分、自分で、自分の進むルートの危険性は吟味したうえで進むのだ。こちらのほうが、ポカミスによる死亡という可能性は少ない。多数派に追従して進むことを人を見て進むと表現するなら、自分で考えて進むことは前を見て進むと表現できる。僕は前を向いて進んでいきたい。自分に対して自分で責任を負わなければいけないとしても、他人のせいで死んでしまうのは御免である。

 僕が考えなければ生きていけないのは呪いのようなものだと思っている。一度、多数派に自分の責任とリスクを預けることの危険性を認識してしまった以上、もうそれはできない。自分で自分に対する責任を負おうと決めた。考えるのに必要な労力もいとわない。むしろ、今は、考えるといった労力も、自分で前を見て自分の進路を決めているといった自信になっている。そして、僕は自分の人生の進路だけでなく、多数派が乗っている船の進路に対しても、その進むルートが正しいのかどうか、警鐘を鳴らす役目を仕りたいと思っているのである。それが多数派に対する慈悲であるとか、優しさであるとか、そういった美しい言葉でまとめられるとよいのだが、結局は保身のため、というのが一番の大きな理由かもしれない。多数派から、少数派へ、自分で考えて、自分の人生に対して責任を負うといったものの、やはり多数派の波からは逃れられない。自分がどこかの社会に属して、その中でしか生きられない以上、少数派を気取っても、多数派の流れにはある程度従うしかないのである。そうしないと生きていけない。多数派の船から飛び降りたようで、実は自分が乗っている小舟は多数派の船とひもでつながっているのである。多数派の船が進む方向にはどうしても引っ張られて行ってしまう。やはり、保身のためにも、多数派の船には正しい方向に進んでいってもらわないと困る。自分の進路に対して責任を負うだけでは、自由にはなれないのだ。自由にはなれない以上、自分を縛っているものが進んでいく進路を自分で確認したい。その危険性、安全性、妥当性を考慮したうえで、間違っているなら警鐘を鳴らしたい。すべては保身のためといえるかもしれない。

 ただ、僕は思うのだ。警鐘を鳴らす役割の小舟が多ければ多いほど、多数派の船は容易に進路変更ができるはずだ。そう簡単には間違った進路を取らないだろうし、座礁して沈没したりもしないだろう。だから、できるだけ多くの人に、考えて、自分の人生に対して自分で責任を持って生きてほしいと願っている。多数派に追従するというのは怖い。自分の責任を軽くできる分、責任の所在がわからない。誰のせいで、どこに向かおうとしているのかわからない。沈没の危険性をはらんでいる。自分で進路の危険性を判断できる人が増えてほしい。だから、僕は人々に伝えたいのだ。

「人々よ、考えろ。」

と。