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ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

中二病でも恋がしたい! 感想「中二病とニヒリズム」

日記 アニメ

 (20171/11 修正・追記)

 

 まずは前置きから。

 『中二病でも恋がしたい!』は、誤解を恐れずにざっくり言えば、父の死を受け入れられないことから中二病を装う少女と元中二病の少年を中心とした恋愛青春群像劇と言えるだろう。

 中二病については、「こうあったらいいなという願望としての妄想」と「自分が特別でありたいという願望」の二つの観点から考えるべきなのだと思うが、ここでは「こうあったらいいなという願望としての妄想」の側面から中二病を語ろう。「自分が特別でありたいという願望」については、自分の存在価値、存在理由の問題として考えなければいけないので、今回はそれについては詳しくは語らない。

 なんとなく、読書感想文なんかでラノベとかを読んでこんな感じで感想文書いてくれる中高生いたらいいな、って思いながら感想書いてるので、もしこれを読んでる中高生いたら、参考にしてもらえたら嬉しいな。

 この記事については、哲学的観点から中二病について考えるので、哲学に馴染みの薄い人にはわかりにくい書き方になってるかもしれないけれど、そういう人にも読んでもらえるように、できるだけかみ砕いて書くように心がける。とは言うものの、自分もそんなに哲学について詳しくなく、むしろ素人であって、正確に理解しているわけではない。したがって、間違った解釈をしているところも多いかもしれない。そういうときは指摘をいただけると嬉しいな。

 

 中二病というのは、例えば、魔法が使えたらいいなとか、ビーム出せたらいいなとか、現実にはあり得なさそうなファンタジーの世界に空想を膨らませ、それにたっぷり浸っている状態だと思う。「組織に追われている」という設定なんかもわりとメジャーな中二病設定だから、ファンタジーに限らず、「こういう世界なら」という空想、妄想の世界に浸っている状態といってもいいだろう。中二病はそういった空想、妄想の最たる例だから、「そんなものは空想だ。」「現実にはありえないことを想像して遊んでる。」と言い捨てられやすい。でも、果たしてそれを中二病の問題だと呼んでいいのだろうか?

 「全ての物に魂が宿ると考えるアメニズム思想」とか「白馬の王子様に迎えに来てほしい。」とか「若くてイケメンで背が高くて家庭のことに協力的な年収2000万以上の男の人と結婚したい。」とか「宝くじ当たればなあ。」とか「神社やお寺で罰当たりなことはしてはいけない。」とか「お墓参りのときにお供え物をする」とか、そういったことと中二病の違いというのは何なのだろう。これらのことと中二病とは全く違うと言い切れるだろうか。どの問題にも共通しているのは、「現実には実現する、もしくはあり得る可能性が低いものに対してそれがあり得るという希望を抱いている」ということである。これらの問題と中二病とはそんなに違うものなのだろうか?中二病とこれらの事柄とは、そのあり得る可能性の多少の差異はあれ、本質的にはそんなに変わっていないんじゃないかと思う。中二病は社会にそれほど受け入れられていないのに対し、それ以外の事柄はわりと社会に受け入れられている妄想、であるといえるだけじゃないのじゃないだろうか。

 中二病が好きな魔法、呪術、錬金術、占いなんかは、今でこそその信憑性が低くなったとはいえ、昔は盛んな分野だったし、人々も信じていた。魔女狩りなんてこともあったわけだから、呪術は信じられ、恐れられていたのは確からしいし、錬金術だって多くの学者が挑んだはずだ。そう考えれば、中二病が扱うテーマが今の時代にはもう信じられなくなっているモチーフを扱っているというだけで、他の事柄とも、やはりそんなに変わらないのかもしれない。単に、中二病が痛い人を見る目で見られてしまうのは時代の問題と言えなくもない。

 宗教に関すること、霊的なもの、神の存在などは、人は知らずの内に信じている。宗教は信じない、神も幽霊もいない、なんて言ってる人でも、先ほどの神社やお寺、お墓のような、「こんなことをすると罰が当たる」と教えられてきたようなことは、知らずのうちに信じてしまっている。世間体というものもあって信じているふりをしているだけの人もいるのかもしれないが、どこかでかすかに、霊的なもの、神様の存在、そういったものの存在がいることに賭けている人が多いのではないか。世界には色々な宗教があるし、それらに対して、どれほど熱心に信仰しているかも人それぞれなのだけれど、世界はきっとこうなのだろう、ということについて、人それぞれに何かを信じている。それがその人の人生において、生きる意味を与え、人生を楽しく、豊かで意味のあるものにしてくれているのかもしれない。これらのことと中二病と同じように、「こうあってほしい」「こうありたい」という願望、空想は、人に生きる意味や希望を与えてくれる。その当人たちにとって、それらの空想が真実のように思えるならその人にとってはそれは真実なのである。なら、中二病を「そんなのあり得ない空想の話だ。」と否定し、言い捨ててしまうことはいいことなのだろうか。真実を突きつけることは本当に正しいことばかりだともいえまい。その「真実」と自分が思っていることが本当に真実なのかどうかすら疑わしいというのに。

 「神は死んだ」と「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは言った。キリスト教的善は、弱者のルサンチマンが生み出した幻想だと斬り捨てた。キリスト教で語られることは、こうあったほうが都合がいいからという願望だと言っていると私は解釈した。人は、「これが正しいはずだ」と信じたいという気持ち、そういった「力への意志」に動かされて生きているともニーチェは言ったと思う。

 また、人間の心は、すべて神経の相互作用、物質的な動きだと考える唯物論的・人間機械論的な考え方は、解剖学や生理学の発展に伴ってより強くなっている。もしも、人間がそういった物質的な動きの集まりとするならば、人間は動く肉塊に過ぎない。人一人が死ぬことも、ただ、物質的に機能不全に陥っただけととらえることもできる。死人を蹴ったり弄んだりすることについても、ただ物質的な肉塊相手に遊んでいるに過ぎないと考えることもできてしまう。我々は、人間には精神があるもの、人格というものがあるもの、そんな風に信じているが、それも物質の動きの結果見える錯覚、妄想なのかもしれない、とも言える。人が死んで悲しむのに関しても、人がただの動く肉塊だとするならば、それほど悲しいことでもあるまい。ただ、動いていた肉塊が動かなくなったに過ぎない。そこに誰かの人格が見えていたとしても、それは錯覚に過ぎない。

 アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するQべえはこんなことを言う。

「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」

それは、人間を物質的に見る言葉の最たる例である。

 では、果たして、人間は、自分が信じたいものが妄想だと斬り捨てられ、そんなものはないと言われて、現実を見ろと言われてどうなるのか?

 きっと人間は生きる意味を喪失するだろう。生きる目的を見失うだろう。何かに意味を見いだすことができなくなるかもしれない。自分は生きていても死んでも同じと思ってしまうかもしれない。自分が信じたいことを妄想と言い捨てられ、現実を突き付けられた結果、人はニヒリズムに陥る。そうして、人は絶望するのである。

 キルケゴールは、絶望を指して「死に至る病」と呼んだという。絶望は人に生きる意思さえ喪失させる可能性がある。

 しかし、現実で自分の願望がかなわないものとわかれば、それをあきらめ、むしろ自分の思想をコントロールして幸せに生きようとする人々もいた。ストア派と呼ばれる人々である。これらの人々は快楽を享受して幸せを目指そうとしたエピクロス派(単に快楽に溺れるという意味での快楽とは違う意味らしいが)の人々と対比したよく語られるが、ストア派の彼らは自分の願望、欲求を抑え、コントロールすることで幸せになろうと試みたのである。ニヒリズムから絶望に陥ることを回避するために、こういった態度を取ることも一つの選択肢なのかもしれないが、訓練なしに誰にでもできることではないし、それもショックを和らげるための緩和策にしかならないのかもしれない。

 神の否定、霊魂の否定、唯物論の勢力拡大は、科学の所産であると言えよう。科学が世界を明らかにするにつれて、今まで信じられていたものの存在は、瓦解していった。科学は人に夢のない世界、現実を突き付けたのであった。科学の歴史をたどっていえば、あらゆることを疑い、明らからしい根拠があるものだけを信じようとする懐疑主義の所産であるともいえる。現代は懐疑主義というイデオロギーによって支えられている科学の時代である。これによって、多くの夢や希望はその存在を打ちくだがれたのであった。

 中二病とは、そういった現代のイデオロギーに対するアンチテーゼと捉えることも可能かもしれない。中二病の世界というのは夢がある。こうあったらいいなという世界の中で暴れまわり、その中で自分の存在というのは際立っていて、自分の存在価値、存在理由なんかも、そこでは輝いている。生きる希望にあふれた世界なのである。壊されてしまったはずの夢が、そこにはある。

 ハイデガーは、「存在」というものについて、その存在と自分との関係、自分にとってその存在がどういう意味のある存在なのかということが大切だと説いたと私は解釈している。何も、それは現実に存在しているものに対してだけ考えなくてもいいのだろう。現実に存在していないかもしれないと思っていることでも、それをあると思うこと、それが存在すると思い、それが自分にとってどういう意味のあるものなのかということが大切なのではないか。中二病の中で自分は組織に追われる主人公で、呪術や魔法が使えて、剣や銃、ビームや気功弾なんかを使って戦う。そういった自分の夢や空想が、自分にとってどういった意味があるものなのかを考えることが重要なのではないだろうか。

 『中二病でも恋がしたい』の六花は、彼女の空想の世界では父の死は受け入れられていなかった。しかし、それは彼女にとっては希望になっていたわけでもあった。本来はこうありたい、あってほしいという願望を、自分の空想の中では信じることで、現実に向き合い、絶望に陥ることを回避していた。彼女にとって、不可視境界線は希望だったのである。

 別に、六花のような、不幸の出来事に合った者にしか中二病が意味を持たないわけではない。それぞれの中二病患者にとって、それは生きる楽しみであり、希望である。それは、現実の味気無さにニヒリズムに陥り、絶望することを回避し、生きる希望を見いだす行為でもある。自分が信じたいものを信じることで、生きる目的、生きる価値が見出せるならば、それを仮定し、信じることはいけないことなのだろうか?そんなことはないはずである。そう私は思っている。

 「主観」と「客観」の問題は、多くの人たちによって取り組まれてきた。我々の見ている世界は、我々個人が「主観的」に見る世界は「客観」とは一致しない、そういった「主観」と「客観」の不一致がある。例えば、リンゴが赤く見えるのも、人が赤の色を可視光として認識できるからであって、違う動物なら違う色に見えているだろうし、同じ人でも、赤緑色覚異常の人には同じように見えていない。それぞれの人によって主観的な世界があるわけだから世界をどうとらえているのかも違う。そもそもみんな見え方が違うなら、ほんとに「客観的な世界」が存在するのかどうか疑わしい。そんなものはないかもしれない。ただ、「客観的な世界」があるだろうという妥当性、確信みたいなのがあるだけである。

 中二病にとっての主観的な世界が、中二病患者にとっては意味があるものなのである。人が認識し、反応しえるのは自分が主観的にとらえている世界に対してのみである。だから、中二病患者が、自分の主観的世界に自分なりの意味を置いたのなら、それはその中二病患者にとっては意味のあることになり得る。

 

 さて、これまでの話を総括しよう。中二病は、科学によって壊された夢、生きる希望、目的を取り戻し、ニヒリズム、絶望に陥ることを回避する手段になりうる。そして、中二病は「こうありたい、こうあってほしい」という願望の体現の形で合って、本来、そういった願望や妄想は人がみな抱えているはずのものである。そういう願望や妄想が、希望となり、人々の生に希望を与えてくれている。中二病は生きる希望なのだ。

 

 さて、最後に科学に関して問題提起をしておきたい。神や霊魂、その他あらゆるものの存在を否定してきたように思われる科学だが、人は科学が生活を便利にするのと代償に、夢や希望を失ってしまうのだろうか。科学は、夢を壊すことしかできないのか。しかし、そうとも限らない。量子力学は異次元の存在の可能性を示唆している。遺伝子や生物学に関する研究は、全ての生物に対して新境地を切り開いたし、分子生物学的な研究によって解明された生物のあまりに精巧な機構については、こんなのは偶然の産物ではなく神のような存在の誰かがそれを仕組んだのではないかと疑ってしまう人さえいる。一度科学によって否定された人々の希望や夢は、最近の科学によって再びその存在が甦ろうとしている可能性がある。果たして、科学は人々の夢を壊すだけなのだろうか?それとも人々に夢を与えることができるのだろうか?

 

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