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ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

言葉にできない気持ち

もやもやした気持ち、胸が痛む、なんだか悲しい、なぜだかイライラする。


 そういった上手く言葉にできない感情というのは小説やマンガ、様々な物語でも心情として描かれる感情です。恋愛物ではとくに、上手く説明できない気持ちというのが描かれますね。


 私達は、よくわからない気持ち、というのをよく感じて生きているものだと思います。感情に限ったことではありません。自分が何をしたいか、何になりたいと思うのか、そういった行動の理由というのも、上手くは説明できないということはよくあることだと思います。

 私達はよくわからない感情、行動理由に従って生きているのかもしれませんね。


 

 私は、人間の思考や感情には、言葉にして考えていることや思っていることを説明できる領域、言葉にはできない、あるいは単にしていないけれど感覚的には把握している領域、感覚としても把握していないけれど持っている領域、の三つがあると考えています。前から順に、言語化認知領域、非言語化認知領域、非言語化非認知領域、と呼ぶことにします。

 例えば、言語化認知領域にあるのは、今日はお肉が食べたいという感情、非言語化認知領域にあるのは、何かジューシーなものが食べたいなという感情、非言語化非認知領域にあるのは、身体を作るにはタンパク質を食べたほうがいいという情報、などだと言えると思います。それぞれの領域は、相互に頭の中で行き来しています。基本的に、何か自分の感情や思考を自分自身が自覚するときは、非言語化認知領域から言語化認知領域にそれが移ってきているのだと私は考えています。それぞれの領域は連続的で、明確に区別ができるものではありません。それぞれの領域にある情報は相互に行き来していると考えています。


 具体的なものをいくつか他にも考えましょう。

 なんだかイライラする、でも理由がわからない、というときはそれは非言語化認知領域にある感情です。しかし、しばらく自分で考えてそれが欲しい商品を買うことができなかったからだ、とかそういった理由を自分で見つけることができれば、それは言語化認知領域に感情が移ったと言えるでしょう。

 思考の内容の場合でも同じようなことが言えると思います。例えば、何か問題の解決策を考えているときは、非言語化認知領域でたくさんの解決案を吟味しているはずなのです。何かいいアイデアを思いつくときというのは、何か直感的なものが言葉になったときなのだと思っています。つまり、非言語化認知領域か言語化認知領域に考えが移ってきたときに、アイディアが閃いたと感じているのではないかと思います。


 

 正直これはすべて私の経験に基づいた仮説に過ぎません。私の体験を話しますと、移動しているとき、寝る前やお風呂で考え事をするとき、いろんなことを考えているんですが、そのほとんどは表れては消え、ほとんどが言葉にならない、イメージのようなものを想像しているんです。実際に言葉で考えているということは少なくて、だいたい考え事をしているとき、思いふけっているときなどは、直感的イメージが表れたり消えたりとしています。連想ゲームみたいに、様々なイメージが飛び交っているのです。そして、それは自分自身も最近になって気づいたことでした。今まで、自分は言葉を使って考えていると思っていたんですが、思考はもっと直感的なイメージだったのです。だからこそ、人は自分の気持ちや考えをうまく言葉にできないのではないかと思っています。非言語化認知領域の感情を言語化認知領域に移動させるには、高い言語能力が必要ですから。何か言いたいことがあるけれど言えない、とか、言葉にして話しているんだけど自分の気持ちや考えを正しく伝えられていない気がする、といったことも、非言語化認知領域の情報を言語化認知領域に移行させられないこと、簡単に言い換えると「直感」をうまく言葉にできないからなのかなと思うのです。


 私は非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変えられること、つまりは直感を言葉に変えることのできる力はすごく大事だと思っています。あらゆる課題のキーはもしかしたらここにあるのではないかなと思ったりもします。

 一つ目の例として、勉強のできる人というのは、「直感を言葉にできる力」があるのだと思っています。そして、誰でもこの「直感を言葉にできる力」があれば勉強ができるようになるのではないかと思います。勉強は勉強量であるとか、面倒臭がらない性格であるとか、そういったものももちろん影響するので、直感を言葉にできる力だけで他には何もいらないというわけではないと思いますが、書いてあること、聞いていることを理解する力がまずはないといけません。何か新しいことを理解するときというのは、新しいイメージを言葉にできないといけません。何か自分の中で腑に落ちないことがあれば何がわからないか言葉にできないと、わからないところがどこかわからないという状況に陥っていしまいます。勉強ができる人、理解力がある人というのは、自分の中でイメージを言葉にしていくことができ、わからないところがあっても何がわからないか言葉にして把握できるから理解ができるのだと私は思っています。皆が皆そうではないのかもしれないので、そういった人が多いのではないかという推測です。自分が本当にわかっているのかどうかがわからない、という状況も、自分の直感を言葉にできないからなのかもしれません。


 直感を言葉にできる、というのは人に何かを伝える、教えるときにも非常に大切です。教える側が自分の頭の中の情報を言葉にできないと、受け手がそれを理解するのが非常に困難です。


 

 また、人間関係の上でも、自分の非言語化認知領域の情報を言語化認知領域に変える力というのは重要です。これはすなわち、自分の気持ちを言葉にできるということです。自分の気持ちがわかっていないと誰かに八つ当たりしたりしてしまうかもしれませんし、自分の気持ちがわかっていないということは自分の気持ちを相手に伝えられないということになります。自分の気持ちがわかっていると、それに対して理性を働かせることもできますが、自分でわからない気持ちに対しては理性での制御も難しくなります。


 

 さらに突きつめていけば、日常生活全般において非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変える力は重要です。自分の家で一人で休日を過ごすことが辛いという人が実は結構多くいます。しかし、なぜそれが辛いのかがわからない人というのはかなり多いのではないかと思うのです。寂しい、というのは一つの感情なのですが、おそらく、多くの人は寂しいというよりはむしろ不安というべなのだと私は思っています。不安の理由はいくつかあると思います。一つは、自分のやるべきことが見つからないから不安になっているのだと思うのです。やるべきことがない自由というのは生きる道標を見失うということにつながりますから不安になります。そして、一人でいて自分の存在を認識してくれる人がいないと、自分の存在が不安になってしまうのだと思います。また、話す相手がいないと自分の中でイメージがたくさん溢れ、一方でそれを言葉にできないため、自分の中で言葉にできないイメージが膨れ上がって気持ち悪いのだと思います。誰かと話したりしているときは、自分の中のイメージを言語化認知領域の情報に変えて捉えやすくなっていると思います。話す対象がいるときいうのは自分の中のイメージを言葉にしやすいものだと私は思っています。言い換えるなら、非言語化認知領域で様々な考えや気持ちのイメージが膨らみ、それを言語化認知領域の情報に変えられないために感じる不快感があると思うのです。


 上に述べてきたように、私は「非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変える力」すなわち「直感を言葉にできる力」は有用なものだと思っています。そして、この力は、自分自信と向き合うことでつくものだと思っています。内省的思考が「直感を言葉にできる力」を養うのではないかと。実は、小学校からやっていた「作文」は、「直感を言葉にできる力」の養成に寄与していたのではないかと思っています。だからといって学校で作文の時間を増やせ、などというわけではないのですが。学校でやる作文は結構構文や文章構造にうるさいので、それよりは、日記や長文の手紙を書いたほうがよりいいかもしれません。ともあれ、自分の思うことを文章にするというのは、「直感を言葉にする力」を養成する上では重要だと思います。私は中学生以降作文があまり苦ではなくなりました。それと並行して、自分で思ったことをノートに書いたりするようになりましたね。おそらく、自分の直感を言葉にする力が少しずつついてきたのだと思います。歳を重ねて作文が苦手ではなくなる人というのは結構いると想像していますが、成長して「直感を言葉にできる力」というのが身についていくのだと私は考えています。悪口みたいになりますが、歳を重ねても小学生の作文のような文章しか書けない人は考えが浅い人が多いような印象を受けます。自分の直感を言葉にできないと、自分の中で考えを熟成させられないのではないかと私は考えています。


 

 さて、これまで「直感を言葉にできる力」があることの利点と、その力の養成環境について少し述べました。以下、もう少しこの力によってもたらされる利点を少し社会的な視点から述べたいと思います。


 

 人間疎外については、以前「「考えずに生きる」というのはありなのか。」で書いたのですが、直感を言葉にできることで、人間疎外による大衆化というのを抑えられるのではないかと私は考えています。大衆化というのは、情報を鵜呑みにして、吟味することができない、つまりリテラシーの低さと、個人の中の価値観の確立が不十分なために起こると私は考えています。自分の直感を言葉にするというのは、自分の考えを吟味しようとしないとできません。そこで自分の価値観の吟味が起きるため、人のいうことを鵜呑みにしたりすることが減るのではないかと思うのです。大衆化社会というのは民意による決定にやや不安要素が残ります。集団の正しい方向性のためにも、大衆化社会は脱するべきだと考えます。そこで、今述べたように、「直感を言葉にする力」が役に立つのではないかと思うのです。



 

 他には、何かの仕事において相手が求めている以上のことをする、というのは、相手の非言語化認知領域、あるいは非言語化非認知領域で求めていることをするということだと思うのです。相手の要求には、言葉にして伝えるものと、その裏にある直感的希望というものがあると思います。もしくは本人が直感的にも認知していない希望があるかもしれません。そういうものを叶えることができれば、仕事の出来としては、「相手が求めている以上の出来」になるのではないかと思っています。


 

 これまで、非言語化認知領域、言語化認知領域、などについて書いてきましたが、これらは、少し、ユングフロイトのいう無意識と、似ている話ではないか、と私自身は思っています。

 ここで、心理学の無意識について確認しておきましょう。ユングフロイトは、人の心理の無意識について詳しく記述しました。人の意識の構造は、意識、前意識、無意識があると考えたといいます。このあたり、私もまだちゃんとわかっているとは言い難いのですが、意識は「私」が何かを認知したり考えたりするときに働くもの、無意識は意識にのぼらない、普段は思い出さないような記憶、願望などの領域、前意識は通常は意識にのぼらないが、努力すれば意識にあげることのできる領域、というような理解をしています。厳密な定義ではありません。

 数学で具体例を考えるとするならば、意識にあるものは、今問題を解いている最中に考えている問題、無意識にあるものは、過去に習ったが目の前の問題には関係のない公式、前意識は目の前の問題を解くのに必要だがすぐには思いつかず、がんばって思い出そうとしている公式、といったようなことになるのではないかと考えています。


 

 フロイトはこの、意識、前意識、無意識の三段階の意識構造の理論をもとに神経症の治療法の理論を考えたと言います。他にも、夢に無意識が表れるとして、夢の内容からその人の無意識を知ろうとする夢分析などもユングフロイトは行っていたそうです。


 

 ユングフロイトは、主に記憶や体験、願望などについて意識構造を作っていたと考えています。しかし、私は、意識構造には「思考」、「信条」、「思想」などを考えるべきだと思っています。それらを含めたのが先に述べてきた、言語化認知領域、非言語化認知領域、非言語化非認知領域の話です。

 階層構造としては、意識が言語化認知領域、前意識が非言語化認知領域、無意識が非言語化非認知領域に対応すると思います。


 

 先に少し夢の話が出てきましたが、私は、夢は、非言語化認知領域や非言語化非認知領域がイメージとして見えたり感じたりしているのではないかと思います。これも私の経験談になってしまうのですが、私は、何かのイメージを非言語化認知領域で考えながら眠ってしまったときに、寝る前に考えていたことが連続的に夢へと変化していくのを感じたことがあります。

 夢を見ているときというのは寝ていて五感がかなり鈍化しているので、頭の中のイメージが相対的に鮮明に見えているのではないかと私は考えています。原理としては、遮音性を高めることで音がよく聞こえるようになるイヤホン似たような感じでしょうか。周囲がうるさいと小さい音は全然聞こえませんが、周囲の騒音をカットすると小さな音が聞こえるようになります。それと同じように、他の感覚を鈍らせることで、頭の中のイメージが鮮明に感じるのではないかと私は思うのです。この説の実証には、レム睡眠とノンレム睡眠の意味や、睡眠中の脳波の変化などをちゃんと説明したうえで、この説の証拠になる医学的根拠を見つけなくてはならないので、断定はできませんが。