ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

しゃべるほどに嘘になる。

 しゃべればしゃべるほどに自分のしゃべることが嘘になる。そんな気がする。僕は、何一つ本当のことなんて言っていないのではないかという気になる。自分がしゃべっているのは、本当に自分が考えていることじゃないんじゃないか、と思う。自分は本当に考えていることをしゃべっているのか、しゃべっていることを自分の考えていることをように錯覚しているのか、どちらなのだろう、と不安になる。

 僕は、人の印象なんてのは、ほとんど癖で決まっているんじゃないかと思っている。印象といわず、もっと大胆に、性格、といってもいいかもしれない。多くの人の行動原理を考えてみてほしい。その行動の中で、自分の行動を実行に移した結果としての行動はどれほどあるだろう。実際のところ、あらゆる行動は、その人の癖なんじゃないかと思ってしまっている。いつもやっていることの繰り返し。その延長としての癖である。行動がわかりにくいというなら、話す内容について考えるとよりわかりやすい。誰かが誰かに話をするとき、それに対して相槌を打つとき、その話す内容のどれほどが、その人がほんとうに考えていたことなのだろう、と僕は思うのだ。思い出してみてほしい。あなたは、人と話すときに、ほんとに考えていることだけを話しているだろうか?おそらく違うと思う。人は話す内容に癖がある。よくしてしまう返しがある。相手がぼけたときのツッコミの仕方に癖がある。話す内容だって、きっとそれほど考えて話しているものじゃない。自分が誰かと話しているのを思い出してみて、どれほど、自分が話していた内容について思い出せるだろうか。おそらくはほとんど思い出せない。他の人みんなに聞いたわけではないから、みんながそうだとは断定できないが、少なくとも僕はそうである。会話は行き当たりばったりのアドリブである。アドリブでは、癖が出る。

 そう考えると、僕たちの人の性格の判断なんて言うのは曖昧なのだ。他の人の癖を性格だと思い込んでいる。よく、「大丈夫?」と声をかけてくれたりするのも、きっとその人の癖である。言葉の癖、思考の癖である。「ありがとう。」とよく言う人も癖である。そんな癖に対して、僕たちはその人の本質を覗いたような気持ちになっている。だから、僕は思うのだ。人の印象なんて、その人の本質を映してなどいない。

 しかし、どうだろう。話に出てくる言葉ややり取りが癖だとして、その癖がその人の一部ではないといえるのだろうか。もはや、その癖も含めてその人の性格なんじゃないだろうか、と思ってしまうのである。自分の意思の及ばないところで自分の性格が決まるとは何とも寂しい感じがする。

 そういったことを考えるに、本当に、自分で考えてしゃべっていることも、もしかしたら、ただの自分の癖なんじゃないかと思ってしまうのだ。自分ではほんとはちゃんと考えたことを言葉にできていないんじゃないか。あるいは、自分がそのときには自分が考えていると思っていたことを言葉にしてみたが、後から振り返るに、自分はそんなことを考えていなかったのではないか、と思ってしまう。自分でしゃべったことなのに、自分の考えていることと食い違う。僕にはよくある経験である。できるだけ、そういった食い違いがないようにはしたいと思っていても、やはり、完全に防ぐことはできない。

 第一、言葉が自分の考えていることを表現できるとは限らない。言葉とは曖昧な道具なのである。自分の頭の中のイメージを言葉にして伝えようとして、そのときに選ぶ言葉というのは、自分のイメージをそのまま表現してくれるわけではない。あくまで、自分のイメージに近い言葉を選ぶだけなのである。近似である。その時点で、言葉とイメージには齟齬が生じている。フィードバックを繰り返しながら、できるだけ自分の頭の中のイメージに近いものを言葉として表現しようと努力することしかできない。頭の中のイメージをそのまま言葉に変換するというのは無理な話なのである。

 言葉というのは、世界の概念を有限個に分節する道具なのだ。それはたしかに便利なのだが、やはり、限界がある。自分の考えていることをダイレクトに伝えることができない。イメージを言葉にしようとするときに変換が起きてしまうのである。そのときにいくらかのイメージは失われてしまう。ダイレクトに伝えたいならテレパシーくらいしか方法はない。

 だからこそ、既存の言葉で表現できる枠組みというのは限界がある。したがって、言葉にしたものが、本当に自分が伝えたいことなのかはわからない。言葉をたくさん発すれば発するほどにその不安は大きくなる。本当に今はなしていることが自分が伝えたいことなんだろうか。違うんじゃないか。こういったことが本当に自分が伝えたかったことなんだろうか。

 だから、僕は人の発言なんて不確実なものだと思っている。言葉は癖で発せられて、しかもイメージを決められた道具の中で変換したものでしかなくて、正確に、厳密に伝えることは困難である。だから、時間がたつにつれていうことが変わる、というのは仕方がないことだと思っている。時間がたてば、どういった言葉でイメージを伝えようとするのか、それが変わってくる。その結果、聞いている人にとっては逆のことを言っているように聞こえるかもしれない。それに、その時々の発言も、それが本当に正しいことを言っているとは思わないで聞いている。自分の発言に対してもそうである。本当に言葉で自分の伝えたいことが伝わっている確証はない。しゃべっている本人が、自分の考えていることを話しているつもりでも、実はそうじゃない可能性だってある。言葉はあやふやで、使うのが難しいものなのだ。