ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

自由に生きるということと自給自作。

 

 私は、自由に生きることができたらいいなあと思っている。
 自分が好きな本を読んで、自分が好きなことを研究して、自分の好きな機械やプログラムなんかを作って、自分が好きな作物を育てるようなことがしたいなあ、と思う。

 私は、基本的には、このように、自由に過ごして、自分が必要なものをできるだけ自分で作ることができたらいいなあと思っている。

 それが私の希望であり、一つの夢である。プラスチックを自分で作ることができたら楽しいだろうなあ、とか、まあそんなことも思ったりする。
 実現できるかは微妙、というか、まあおそらくはそれはできないのだろう。家に実験室も成型機もないし。今の段階の技術力は難しそうだ。フェノール樹脂とかだったらもしかして作れるかもしれないけれど、実用品レベルにまでするのはやっぱり今の技術では個人では難しいかもしれない。

 とはいえ、今はメーカーズムーブメントというのが流行りらしい。

 個人が、何かを作るという時代である。

 今までの産業は労働集約型だったりしたけれど、3Dプリンターができたり、一人一台パソコンを持って、プログラムが作れるようになったりして、一人で結構ものづくりができるようになった。

 文献研究に関しても、インターネットが資料の検索を非常に簡単にしてくれたし、海外の文献だって、クリックしたら届くような時代である。

 一人でできることが非常に幅広くなった。

 昔のことを思うと、かつては農村なんかでは、個人の産業として農業を営んでいたけれど、労働集約的な産業が趨勢を誇るようになり、一人一人の人間は、社会に大きく依存した暮らしを送らざるを得なくなって、そしてそれは今も続いているのだろうと思う。

 便利にはなったけれど、それは社会に依存することでのみ維持できる生活である。

 今は。

 しかし、より時代が進み、技術が発展すると、一人ができることの範囲内でより高い水準の維持ができるようになるのではないか、と私は期待を抱いている。

 さきほど言ったように、個人がものづくりができるようになったように、初めの開発環境を整えることができれば、いろんなものを自分で作れるようになったりするんじゃないか。

 もしくは、下水処理だって、今は下水道に頼っているけれど、家庭内で浄化できる装置がもしかしたらできるかもしれない、とか。
 

 一度集約的になった産業が、また個人が営む産業になったりするのじゃないか、と思ったりする。

 そうなれば、私としてはうれしい。
 多くの人の意思に従って生きる必要がなくなって、自由に生きることができる。

 そうなったら、もはや現在の都市構造というのは解体する可能性もあるし、田舎に引っ越してもそれなりに便利に暮らしていけるようになるかもしれない。ドローンが欲しいものは運んでくれるかもしれないし。

 田舎に住んで、土地が余っていれば、畑を持てるといい。

 自分の食べるものは自分である程度自給できればいい。肉や魚なんかは、時給は無理かもしれないけれど、野菜や果物なら自給できるかもしれない。

 そんな風に、社会への依存度を小さくした生き方ができればうれしい。
 生きるのに必須ではないけれど、あったらよいもの(娯楽作品や嗜好品、小道具など)は社会に依存する、という風に暮らせればいいと思っている。

 

 自分の生活基盤をできるだけ自分で支えることができれば自由に暮らせるのじゃないか、と私は期待しているのだ。
 それはまあ、実際には、いろいろと考えなければいけないことはや克服しなければいけない課題は多いだろうが、人一人が生きていくのが、今よりもっとイージーになればいいと私は思う。
 他の人も、できるだけ生活用品や食料を自給できればよいと思う。自分一人ではなくて。人一人が生きるのに、学校を途中でやめたら終わりとか、社会的信頼を失ったら終わりとか、人より何かに優れていないと生きられないとか、そういったことなく、もっと生きるのがイージーな世の中になればいいと私は思う。

 一人が生きるためのハードルが高いんじゃないだろうか。
 どこかに雇われないと生きていけない。自分が食べるものも、着るものも、住むところも、自分たちでは手に入れられなくて、一定の能力を身につけてお金をもらってから交換しなければならない、というのは生きるハードルとしては結構高い気がする。

 まあ、そうしないと生きられない、という風に追い込むことで、一定の学習意欲を生み出したり、礼儀や従順さを生み出せるということで、治安維持には貢献しているのかもしれない。

 社会に依存しなければいけなくなったら、また今とは違う争いが起きそうだ。


 まあ、その辺りは課題があるのだが、しかし、もっと一人一人が楽に、そして自由に生きることができるようになっても、いいんじゃないかと私は思う。

 


 世の中には、「自由に生きる」というのを、不労所得を得ることで実現しようという人が多い気がする。
 しかし、そういう不労所得というのは、他の誰かが社会を回してくれることが多かったり、結局はゼロサムゲームになっていて、勝てた人しか自由にはなれなかったりする。
 だから、それをもって、「みんなも自由になろうよ。」とは言えないのである。結局は、誰かに支えられた上で少数の人間だけが享受できる自由と幸せになってしまう。

 だから、私は、多くの人が自由に、幸せに過ごせる方法として、さっきまで述べていたような方法がうまくいけばいいなと、淡い期待を抱いているのである。
 それでも、やはり全員が、そういう風に暮らすことができるわけではないのだろう。
 しかし、生きるのが簡単になって、生きる方法を選ぶことができればよいな、と私は思うのである。

 

 

無知の政治論争ばかり

 民主主義というと、平和や平等を表すマジックワードのように使う人がいるけれど、本当に民主主義っていうのはそんなにいいものなんだろうか、と私は思うことがある。

「民主主義ならオッケー。民主主義以外はダメ。」と安易に持ち上げるのはよくない。
 そもそも、民主主義が最良の政治システムだというのは、全員に共通の認識ではない。
 民主主義がよく機能するにはいくつかの成立要件があるはずだ。その成立要件を欠いている状態では、民主主義がいい政治システムにはなり得ない。

 それに、今の政治的論争というのは、対立する主張同士の争いというより、その前提レベルでの論争ばかりな気がする。

「○○について知っているか、知っていないか。」

多くの人が、

「そもそも○○について知ってない人々同士が主張している。」

ということにうんざりしているんじゃないかと私は想像する。


・修学旅行の行き先決定
 民主主義について考えるために、ここで、一つの例を挙げてみたい。

 あるクラスの高校生たちが、修学旅行の行き先を自分たちで決めようということになったとしよう。行き先の候補は以下の通りである。
・「ニューヨーク」
・「シンガポール
・「シドニー

 こういう候補があったとして、高校生たちが以下のように、自分たちの主張をしたとする。
・ニューヨーク組「世界随一の大都会を見に行きたい!!」
シンガポール組「シンガポールは複数の文化が共存していて、多文化理解について考えられ、修学旅行として適切。今のシンガポールドルと円のレートは○○なので、シンガポールの物価を考えると、○○○○。英語の練習にもなる。」
シドニー組「シドニーは日本との時差が○○なので、比較的時差ボケが少なく、日中の班別研修がやりやすい。オーストラリアの英語というのが聴けて、英語の多様性を理解するのに役立つ。」

 それぞれが色々な意見を言う。
 しかし、それぞれの主張は共通の基盤の元に行われているわけではない。ニューヨーク組は、「ニューヨークが見たい!」しか言っていないが、他の二組は、実際の活動内容について言及している。そもそも、このクラスの高校生たちは、海外に行ったことがない人がほとんどで、旅行については、具体的なイメージができていない人が多いようだ。

 多数決をとる前の段階では、「ニューヨーク」を希望する人が一番多かった。多数決ならば、このままだとニューヨークに決定しそうである。

 しかし、そこで担任の教諭の介入が入った。
「現地の治安と、フライト時間、飛行機代とホテル代、現地の物価や、現地で何ができるかは調べた?そもそも、修学旅行での目的については確認した?」
 


・民主主義は十分な情報が全員に共有され、共通の基盤に立ってのみ成立する。
 多数決は、一番多くの人が希望するものが何かということに基づいて意思決定するので、集団の意思決定としては、いい方法のように思われる。
 簡単な問題なら、これで決定してしまったら良いことがほとんどだ。5人グループで、
「今日のおやつはクッキーか、大福か。」
とか。

 しかし、多少問題が複雑になってくると、また違ってくる。

「おやつに今月はお金を使いすぎていることに一人が気づいた。このままでは、5人とも月末の3日間ほど、食事が取れなくなってしまう。今日は元々ケーキをおやつにしようとしていたけれど、安いものに変えるかどうか。」
 これが、5人全員に共有されている情報なら、「月末の3日間、食べるものが無くても今ケーキを食べるか。」、「月末の3日間、ご飯がないと困るから、値段を抑えようとするか。」といった議論が可能だ。
 しかし、「お金が足りない」といった情報が2人にしか共有されないとすると、5人組の残り3人はお金が足りないことを知らないので、
「ケーキを安いのにするのなんて嫌だ!ケーキを食べたい!」
というかもしれない。「ケーキを食べるか。」「ケーキを食べないか。」の議論になってしまう。多数決ならケーキを買うことになってしまうので、5人とも月末の3日間はご飯を食べられなくなってしまうが、そのときになってようやくその3人は、「お金がなかったならケーキを食べなきゃよかった。」と思うかもしれない。
 多数決であっても、5人の希望とは違う意思決定をしてしまう例である。


 多数決というのは、多数決の有権者が、判断に十分な情報を持っていて、それが共有されている、という状態でないと、議論もできないし、有権者たちの希望を反映することもできない。

 これは、経済政策、軍備、雇用問題、教育制度、などの分野でも同じだろう。


 先の修学旅行での例においては、十分な下調べをせず、情報を十分に得ていない高校生たちよりも、旅行会社と相談したり、下調べを念入りに行った担任教諭が独断的に判断した方が、結果的に高校生たちが一番満足できるプランを練ることができるかもしれない。

 

チャーチルの言葉
「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。」
 さっき見つけた。鋭いこというもんだな。


・「である」ことと「する」こと
丸山眞男 『日本の思想』 岩波新書 1961
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%80%8C%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8

 丸山眞男は、「である」ことと「する」ことについて、もうずいぶん前について考察をしている。
 民主主義「である」社会の上で、民主主義を享受することはできない。民主主義は、そのメンテナンスを「する」上にのみよく機能するのであろう。
 私はそう思っている。

 

 ここまで述べてきたように、そもそも、「知っている人」と「知らない人」の主張を比べてもそれは民意の反映にはならない。
 今は、政治主張を冷ややかな目で見る人が多いと思う。いや、前からかもしれないが。
「そもそも、○○について知らないから、こんなこと言ってるんだろうな~。ちゃんと勉強しようね~。」
みたいな意見をよく見る。
 主張と主張の議論にはほとんどの場合、なっていない。
「ちゃんと調べろよ!」
 というところで喧嘩になって、そもそも議論にならない。

あるいは、主張内容よりは、その方法ばかりが問題になったりする。
 やり方が暴力的だとか、報道が偏向的だとか。

あえてどこのグループがとは言わない。明言すると問題がありそうだから。

「そもそも情報が十分でない。」
「主張以前にやり方がおかしい。」

 そんな話ばかりだ。


有権者に努力を要求できるか
 じゃあ、有権者に、情報集めを要求することできるか、というと、実際問題それは難しいだろうなあ、と思う。
 任意では、自分たちで情報を収集するというような労力をとる人は増えないだろう。何か、市場原理に乗っとった仕組みや、制度的な介入、あるいはメディアの努力がないと、有権者は情報を自ら集めようとはしないだろう。


・過去の話
岩波新書 『シリーズ日本近現代史⑥ アジア・太平洋戦争』 吉田裕 2007
というのを最近読んでいる。
 ちょうど、アジア・太平洋戦争前あたりだと、25歳以上の男性が選挙権を持つ時代なのだと思うが、この時代の世論についていくつか引用したい。

”重要なことは、知識人の反発にもかかわらず、一般の国民が東条を強く支持していたことである。”(p81、第2章 初期作戦の成功と東条内閣‐民衆の東条支持熱)

これは、自由主義的な外交評論家、清沢きよしの42年12月9日、44年7月22日の日記を引用して本文では論じられている。敗戦後も一定の人気はあったようだ。しかし、1943年10月以降、44年1月までの検閲では、

”毎日腹がへつて腹の虫がグウグウ言つて、気持ちが悪くて眠れません。早く戦争が終わって呉れなくては、国民は飢餓のため皆病気になつて、精神的にも駄目になつてしまひます。ツクヅク生きることが嫌になつて仕舞ひます。(東京・男)”(p130、第3章 戦局の転換‐生活の悪化と国民意識)

 といったような厭世的記述が国民の間で増えてくる。
 また、1943年12月には、
”四三年十二月四日、小畑敏四郎中将は、細川護貞に対し、「国内の政治については、民心はもう全く、東条内閣からは離れて居る様だ。最近迄は、比較的上層の知識階級のみの様にも思つて居たが、今日は上下を通じて離れて居る」と語っている(『細川日記』)。”(p151、第4章 総力戦の遂行と日本社会‐東条離れ)

 と国民意識が変化していく様が見て取れる。


 これは憶測だが、上層の知識階級は、アメリカの戦力について情報を持っていたのではないか。
 情報が十分にない状態で一般の国民が自ら不幸な選択をしてしまったのではないか。

稀勢の里と日本人の民族意識


 日本は国民国家なので、日本人の多くは民族問題には疎いところがあると思う。
 アメリカなんかよりも、民族問題が身近にあるとは思わない。

 周りは大体日本人って人が多いし。

 しかし、やはり在日朝鮮人やその他外国人の問題は依然としてある。自分が在日朝鮮人として暮らしていることを隠している人も私の身近にはいる。
 苗字も名前も日本風なので、本人から言われないと気づかない。


 在日外国人問題というのは、政治的問題という側面が結構強い。

 一方で政治的問題とはまた違った場面で民族意識を意識する場面が、日常には存在する。

 私が最近感じたのは、稀勢の里が、2017年初場所で優勝、その後横綱へと全会一致で推薦されたときのことである。

毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20170124/spn/00m/050/016000c
「1998年の3代目若乃花以来、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。」

THE PAGEのYahooヘッドラインニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170123-00000002-wordleafs-fight
「待望の19年ぶりの日本人横綱が誕生する。」

NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170123/k10010849951000.html
稀勢の里横綱に推薦決定 横綱審議委 19年ぶり日本出身横綱

 稀勢の里については、「19年ぶりの日本人横綱」以外にも、「30歳、遅咲きの横綱」、「悲願の初優勝」など、他にも話題になるトピックはあるし、それぞれの報道が、「19年ぶりの日本人横綱」を前面に押し出してばかりいるわけではない。
 元々の人気もあっただろうし、これだけ世間では騒ぎになっているともいえる。

 ただ、私の身近な人に、初場所中、以下のような発言をしている人がいた。
「やっぱり、優勝は、日本人の稀勢の里にしてほしいなー。」
 なるほど、たしかに、その通りだ、と私も思ったものだった。

 そして、稀勢の里は優勝した。
 その人も大喜びである。

 やったー。やったー。

 

 しかし。

 果たして、これでいいののだろうか、と私は思った。

 兼ねてより、稀勢の里を応援していた人もいる。しかし、稀勢の里が「日本人」だから、応援していた人もいる。

 白鳳だってモンゴル人だけれど、日本の相撲界での活躍はすごいし、日本に来て活躍しているモンゴル人力士に対してひどいんじゃないかなー、と思う。

 今までの外国人横綱は、元々、モンゴル人だった外国人だったから外国人力士と呼ばれていたし、その外国人力士に対して、日本人力士を応援するのは、スポーツの国際大会で日本を応援するのと似たような心情なのかもしれない。

 ただ、日本の相撲は国内大会であるという点で、他のスポーツの国際大会とは異なる。

 では、もしも、稀勢の里のような純系日本人ではなく、両親が日本に帰化した元外国人の子供だった場合、その子供は国籍上は、生まれも育ちも日本人になる(?)だろうが、そういった人間が、こういった国内大会で優勝争いした場合、
「日本人だから応援したい」
という気持ちが、純系日本人の場合と比べて変わるか、変わらないか。

「日本人って言っても、元々の血は外国人だし、ほんとの意味での日本人じゃないよなー。」
と言う人が一定数いそうな気がする。

 スポーツの国際大会に、日本代表として出場しているハーフの外国人選手もいる。
 あえて名前を上げないが、そのハーフの外国人には、見た目が日本人っぽくなく、黒人っぽい見た目の人などもいる。そういった人が活躍したときに、何か煮え切れない、盛り上がりきらない雰囲気を私は感じるのだが、それは私の周りにいる人が偏っているからなのだろうか。


 やはり、人々の間にあるのは、同じ国民としての一体感情ではなく、同じ民族としての民族意識なのだろうな、と私は想像する。


 自分の中に、自分の民族は応援したいし、自分の民族が他の民族にやられてしまうというのは嫌だ、という感情がある、ということに気づくことから始まるんだろうな。

 その感情が自分の中にあることを気づかないで、
「他の民族を差別するなんてひどい!なんでみんなで仲良くできないの!?」
なんて言っちゃダメなんだろう。
 自分の民族への意識に気づいたうえで、さて差別という行動に出るか、理解し合うという行動に出るか、という違いである。


 はたして、世界の争いというのは、本当に国家間の争いなんだろうか、と私は思うのだ。
『結物語』作・西尾維新
を最近読んだ。ここでは、平和活動として、国境を消して行く行為が描かれている。国境が消えて、国が消滅して世界統一政府ができれば本当に争いがなくなるのか、というと全然そんなことはないのだろう。
 

 また、移民政策についても、民族意識のことを考えなくてはいけないんだろうな、と思う。
 日本は、EUに比べれば、全然移民を受け入れていない。
 この移民については難しい。
 やっぱり、自分の国は、自分の民族がの国であってほしいと私は思ってしまうし、他の多くの人もそうだろう。
 移民を受け入れるときに、前提として、その移民が自分の国の隅っこのほうで暮らしてくれるんだろうということを想像してしまってはいけない。
「移民としては受け入れるけど、あんたもあんたの”子孫”も国の政治に関わったり、日本の中心となってはいけないんだぜ」
 というのはやはり無理がある。子孫までコントロールすることはできない。

 移民としてくる以上、その子孫たちが日本人となって生きていく可能性があるし、もしも、移民がたくさんの子供を産み、日本国民の過半数を移民が占めるようになり、日本の主要企業や政治家が移民の子孫ばかりになってしまったら、
「日本が乗っ取られてしまった。」
と感じる人もいるだろう。


 日本は、民族についてアメリカほど意識する必要がないので、民族問題の議論は遅れてるんじゃないだろうか。

 国家と民族は、どのように存在すればいいんだろうか。
 どこの民族を国民国家を形成すればいいというのは無理がある。

 民族ごとの統治機構を作り、思想ごとに国としての統治機構を作り、二重統治機構というのはどうだろう、と思ったけど色々課題がありそうだ。


 日本人の民族意識っていうのをもう少し考えてみないといけなさそうだ。

 

電車でのスマホの話とか


私がこの前、電車に乗っていたときの話である。
 その時間帯は、ちょうど電車が混む時間帯だった。電車が来たときには、車内にはやはり、それなりに人がたくさんいた。とはいえ、その日は、普段よりも人の量はましだった。
 電車に乗る前、駅のホームから車内を見渡した時には、結構空きスペースがあるように見えた。ホームに並んでいる人たちを見渡しても、これくらいの人数なら、まだ余裕を乗って乗れそうだと思った。
 しかし、電車のドアが開き、いざ、電車に乗り込もうとしたら、これがなかなか乗れない。扉のところぎりぎりまで、人が迫っていた。あれ、おかしいな、と車内をもう一度、窓を通して見ると、やはりそれなりにスペースはある。通路のところはまだ空いている。
 おかしいな、と思いながら、そのときは、なんとか人を押し込むようにして乗れた。
 その後、電車が発車してから、車内を見渡して気づいた。
 空きスペースを前にして、不動の人がいることに。
 しかも、その人は、両耳にイヤホンを当てて、スマホを見ていた。

 おいおい、こいつは…。

 なんとか、その人に前に進んではもらえないかと思ったが、顔は手元のスマホに向かったままであり、顔を上げる気配がなかった。
 どうやら、わざと空きスペースを前にして動かないというわけではなく、そもそも、後ろに人の山が控えているということに気がついていないようだった。

 その後、しばらく、私は、人の山の中で電車に揺られていたが、その人は、人の山がなくなるまで、顔を上げることはなかった。


 スマホを扱う時、あるいは、読書している時、あるいは、友人としゃべっているときなどもだが、何もせずに突っ立っているのではなく、あることをしていると周囲への注意は低下するだろう。
 電車の中で、座っていたり、壁際にいたりするのではなく、通路に立っている場合は、駅の到着前後は、
「近くの乗客に降りる人がいないか、その人の邪魔になっていないか。」
「新しく乗ってくる乗客はどのスペースに入ろうとしているか、自分がスペースの通り道を邪魔していないか。」
といったことを気にして、一度顔を上げ、周囲に注意を払ってほしいと思うのだ。
 他の乗客の移動がひと段落して、移動する人がいなくなればまた自分の作業に戻ればいいだろう。

 電車の停車の少し前から、電車が再び動き出すときまでの間は、通路に立っているなら、一度、スマホ操作、読書、おしゃべり、そういったことを中断する、といったことをマナーとして弁えてはくれないものだろうか。

「電車の停車発車前後は顔を上げやがれ!」

 私は、その日、そう思った。

 

余談:
 スマホの登場前、人びとは、電車の中で何をしていたんだろうか。本を読む人が多かっただろうか。そんなこともないかもしれない。
 スマホがないころは、待ち時間や電車の時間は時間を持て余していたことが多かった気がする。
 別に今も、皆がスマホを触っているというわけではないのだが、若年層の、電車や待ち時間の過ごし方としては、スマホを扱うといった選択が多い。
 スマホのおかげで、今まで持て余してしまっていた時間を楽しく過ごしたり、有意義に過ごすことができるようになった。スマホSNSもできれば、PDFや電子書籍を読むこともできるし、インターネットを使って調べ物をすることもできる。
 パソコンを誰でも簡単に持ち運べるようになったと考えてよいだろう。
 
 スマホは、一人で何かを待っていなければならなかった時間を埋めるのに大きく役に立つ。


 とはいえ。

 主作用として、スマホが一人の時の時間の消費の仕方を提供したのなら、その副作用として、周囲への注意力の低下などももたらす。

 スマホの普及というのは、それ自体は、活動形態の変化であり、その活動形態の変化は、一つの影響を持つのではなく、色々な方向に影響を持つ。
 たいてい、新しい技術の普及、新しい制度への移行といったことが、ある一つの影響のみを持つということはない。活動形態の変化は、複数の影響を持つものである。

 インターネットの普及は、世界中の情報へのアクセスを可能にしたが、同時にプライバシーの問題も深刻になったし、車の普及は長距離の移動を可能にしたけれど、屋外で遊ぶことの危険が増した。

 主作用には副作用が伴う。

 主作用のみに注目して、変化を推進するのでもなく、副作用のみに注目して変化を拒むでもなく、両方について考えて変化を捉えないとだめだなーと自分にも言い聞かせておこう。

 

 そして、物事を一面的にばかり捉えている人には、もっと多面的に捉えろと言いたい。

 

かおなしを「無職で孤独なおじさん」として解釈

 

ちょうど、昨日(2017年1月21日)、金曜ロードショー千と千尋の神隠しが放送されました。
久しぶりに観て、昔はカオナシがただの妖怪だと思っていたのですが、今回観て、カオナシに「無職で友達がいないおじさんが、キャバクラに行って問題を起こしたけれど職業訓練を受けて人生をリスタートする姿」を連想しました。
以下では、カオナシを現実世界でのおじさんに投影した場合にどうなるか、私なりのカオナシの解釈を述べます。
ここでは、油屋=キャバクラと置き換えています。


物語冒頭

カオナシおじさん「職もない。彼女もいないし、結婚もできない。友達もいない。寂しい。つらい…。」
そこに千(千尋)が通り過ぎる。
カオナシ「あの子かわいいな。ここで働いているのかな。」

カオナシ「ああ、あの子と喋りたいな。でも、とりあえずあの子を眺めるだけにとどめておこう。」

雨の中、千を眺めるカオナシ
千「そこに立ってると濡れませんか?開けときますね。」

カオナシ「こんな俺を入れてくれた。なんていい子なんだ。あの子と付き合いたい。あの子が欲しい。」

名のある川の主から出てきた砂金を集める人々を見たカオナシ
カオナシ「なるほど、こいつらは砂金が好きなのか。砂金持ってくれば客として扱ってくれるのか。それに、あの子は千というのか。千も砂金をあげたら喜んでくれるかな。」

カオナシ(あ、でも砂金ない…。作ればいいか。)

砂金…通貨偽造

千とはじめに鉢合ったカオナシ
カオナシ「千、ほらお金をあげよう。」


千「私、受け取れない。」

カオナシ(え、なんで。お金あったら喜んでくれるんじゃ…。)
カオナシ「あ…。あ…。」

踊ってたやつ「とんだご無礼を。」

カオナシ「ふっざけんなっ!!お前に俺の気持ちがわかるかよ。だまれ!」

カオナシ、自分が狙っていた嬢に拒絶されて暴れる客と化す。

しばらくたって、千がカオナシがいる部屋に呼ばれる。

カオナシ「千、ほらお前にもこんなにお金をやろう。好きなものを買ってあげよう。だから俺の女になれよ。」

千「私いらない。あなたには私が欲しいものを出せないわ。」

カオナシ(またもや、拒絶された。)
カオナシ「寂しい…。寂しい…。」

カオナシ、千からお団子もらう。お団子が吐くほどにまずかった。
(あるいは、アルコールを飲んでいたカオナシに対して嫌酒薬として作用した。)

カオナシ「くっそー。ふざけおって!!俺の女にしてやる。待てこら!」

千逃げる。カオナシ、吐きながら追いかける。

湯婆婆「お客様とて許せぬ!!」


海(?)にたどり着いた千。

千「こっちだよー。」
リン「呼んでどうすんだよ。」
千「あの人、ここ(キャバクラ)にいちゃいけない気がする。キャバクラに通わせるのやめさせなくちゃ。」

カオナシ、ゼニーバの元へ。
カオナシはそこで服飾の技術を教わる。
ゼニーバ「あんたはここで働いていきな。」

カオナシ(職もなかった、友達もいなかった。けれど、ここでやっと職業訓練を受けて働くことができる。)
カオナシ「俺も人生をここからやり直そう…。」


おわり

夢と無意識、明晰夢


 夢は無意識があらわれるというが、実際どうなのか。
 私は、夢分析には少し疑問を抱くが、夢自体が、無意識を表しているという意見にはある程度、賛同する。
 ある程度、といったのは、本当にそれが「無意識」なのかどうなのかは判断しかねるからである。意識と無意識の間かもしれない。

 私は、覚醒から眠りについて夢を見るまでを連続的に意識することがあるのだが、「夢が無意識を表しているのではないか。」というのは、その経験から考えている。所謂明晰夢というやつだろうか。
 意識してもやはり何の夢を見ていたかは忘れてしまうのであるが、これに関してはそれほど疑問視もしていない。
 
 順に、具体的に私の意見を述べよう。
 まず、私は、言葉を使って意識的に考える以外にも、我々はいろいろなことを考えていると思っている。
 とはいえ、私は、フロイトが言うような意識、前意識、無意識、といった意識構造の分け方には賛成しない。私が考えている人間の意識構造の一つのモデルは、以下の様なものである。
①言葉にでき、認知できるもの(言語化認知領域)
②言葉にはできないが、認知できるもの(非言語化認知領域)
③言葉にはできないし、認知もできないもの(非言語化非認知領域)
 私は、意識については、言葉にできるかどうか、また、言葉にできなくても感覚的に認知できるかどうかに注目して分けるべきだと考えている。とはいえ、これらは明確に区別されるものではなく、連続的なものだろう。

 恋心になぞらえて、具体例を挙げるなら、
 ①言語化認知領域は、「○○のことが好きだ。」と自覚している状態である。
 ②非言語化認知領域は、「なぜだかわからないけれど最近ぼーっとする」といった状態である。
 ③は、「恋していることにも気づかない」状態である(これを恋と呼ぶのかどうかはここでは議論しない)。

 認知において、私たちは言語に大きく依存しているため、言語化できるかどうかは、意識領域を分ける上で重要である。言語化できる領域までが、私達が認知可能な領域だという人もいる。私達の認知がどれだけ言語に依存しているのかについては、ソシュールやヴィントゲンシュタインなどの記述を一度探してもらうとわかりやすい。

 私の仮説としては、このように、私たちは自覚していないところで、何かを感じ、考えている。しかし、それは、普段は①言語化認知領域の感覚が強いので、意識的に探してもなかなかわかりにくいのである。

 基本的に、私達の感覚は、強い感覚が優先され、弱い感覚はマスクされる、といった傾向がある。
 聴覚で言えば、電車の中では小さい声が聞き取れなかったり、耳をふさげば自分の体を伝わってくる自分の声が聞き取れたりする経験や、視覚で言えば、明るいところでは星の光が見えないこと、触覚で言えば、0.000kgから0.050kgの変化には気づけても、10.000kgから、10.050kgには気づけなかったりする。
 自分の意識についても、私は同じだろうと考えている。

 夢を見ているときというのは、明晰夢の経験から言うと、①言語化認知領域の感覚が非常に弱い、またはなくなってしまっている。また、現実世界からの五感の刺激に対してもかなり鈍感になっている。
 したがって、私は、夢を見ているとき、②非言語化認知領域を強く感じるのである。
 目を覚ますと、夢を忘れてしまうのは、おそらく、②非言語化認知領域の感覚は元々弱く、しかも普段は言語化されない領域であるので、言葉として保持することが難しいからだろう、と思う。
 稀に、夢を覚えているのは、②非言語化認知領域をたまたま言語化することに成功した場合だと考えている。
 夢の中で誰かと喋った経験についても、あくまで、②非言語化認知領域は感覚を言語化できないだけで、誰かと何かを喋ると言った感覚自体を認知できないわけではないと私は考えている。
 例えば、誰かとこれからご飯を食べながら何か話すというとき、相手に話す内容を具体的に言葉にはしなくてもなんとなくイメージしている。それに近い。
 夢が脈絡がなかったりするのも、言語化して認知することができないので、理性的に整合性を取って思考するといったことができず、感覚の連鎖が起こっているのだと私は考えている。


要するに、私が考える夢とは、「覚醒時は現実にマスクされてしまっている意識領域」であり、以下のGIFのようなイメージである。

f:id:rorokuusou:20170104232735g:plain

 

・さいごに
 では、この私の仮説を、生物学的根拠を以って説明するにはどうしたらよいかについて考えてみる。

・実験的証明の計画
 眠っているときに、手を触ったりして触覚を刺激したときに、脳の中で手の体性感覚を司っている部分の血流量が覚醒時と比べて顕著に変化しなければ、外界からの刺激には鈍感になっており、現実世界の感覚の鈍麻が判断できる。また、ウェルニッケ野の血流量がレム睡眠時に低下していることがわかれば、①言語化認知領域が睡眠時に後退しているか可能性を指摘できるかもしれない。ただ、実際はそう短絡的にもいかないだろう。
 また、REM睡眠時に、脳の視覚や聴覚の部分の血流量が上昇していれば、実際に夢のなかで何かを体験していると言える。
 (どちらも、先行研究がありそうなので、それを調べればよいだろう)
 レム睡眠とノンレム睡眠は、レム睡眠を覚醒時に近いが、外界からの感覚の鈍麻や、①言語化認知領域の認知の後退、ノンレム睡眠は気絶状態、と考えれば説明はできる。
 脳波については、どのように説明するかはまだまだわからない。


 夢や睡眠、意識について、何か明らかにできればよいのだが…。

オタク批判について―日常系マンガやラノベ作品が理解されにくい理由

 最近(2017年1月1日現在から見て)は、アニメやマンガ文化は、多くの人に受け入れられつつあり、今回の冬コミ、C91には、叶姉妹が降り立ち、そのファビュラスな存在は、多数の話題を生んだ。星野源などの爽やか系タレントが、アニメオタクと公言するなど、アニメやマンガを取り巻く環境は、以前と比べて非常に良くなった。

 しかし、一方で、アニメやマンガ、ラノベ作品の一分野においては、未だ軽蔑的な態度で語られるものが多く存在する。

 

 そこで、ここでは、まんがタイムきららに代表される日常系マンガや、ラノベ作品がなぜ理解されにくいのか、考えたい。ここでは、ラノベ作品やきらら作品といった場合、書籍、及び、そのアニメ化作品どちらについても言及する。
 とはいえ、ここで戦う相手は、結局は藁人形になってしまうのだろう。藁人形。勝手に仮想的を作って戦う行為。
 しかし、ここではやむを得まい。具体名を出すわけにもいかない。妥協的措置である。

(2017/1/5追記)

 ここでは、腐好き、百合好きの女性などに対するオタク批判、といったものについてはあまり取り上げない。この記事内で、「オタク」といった場合には、主に「ヘテロシス男性」を想定されたい。

 

でははじめよう。

 まず、私は、きらら作品やラノベ作品に対して、こんな意見を実際ネットで目にしたことがある(ニュアンスだけを抽出)。

「現実では相手にされないオタクのこじれた性欲を感じる。」
「こんなキャラは現実にはいない。」
「オタクの妄想である。」


これに対する私の見解を、一言で表すとこうだ。


「(゚Д゚)ハァ~? 」


 危ない危ない、口調が崩れてしまった。しかし、これというのも、こういった発言をする人たちが、実際に、ラノベ作品やきらら作品を目にしたことがあるのかどうか疑問だからである。
 ラノベ作品やきらら作品と言うと、扱うのが広いので、一概に述べることは難しいのであるが。実際に観たこと・読んだことがないのではないだろうか?もしくは、エロ同人と公式作品を混同しているのではないか。


 他にも、ラノベ作品やきらら作品を嫌う人に多い誤解としては次のようなものもある。例えば、ラノベアニメ、萌系日常系が好きな人がどういうのが、好きかと聞いてみると、次のようなことを言う人がいるだろう。
・「○○たんだいしゅき!」と言った具合の口調でキャラを愛する。
・「メイド喫茶」みたいな、女性が媚を売ってくるのが好き。

 私は、これにたいしては、「一体、何を想像しているのだろう。」という感想を持つ。


 さて、ではこれらも踏まえて、具体的に批判者の層別に分けて、考えを進めていこう。

 

ラノベ作品やきらら作品を観たこと・読んだことがない人の批判
 要するに、ラノベ作品や、きらら作品を観たこともなく、また、それらを好きな人に対しても、実態は知らずに想像だけで語っている人というのが一定する想像する。
 この人達がやっていることは、
・日本人ということは、出っ歯で、自分の意見を言わず怖ず怖ずとした猿みたいな人種。
・中国人は、パクってばかりの民度が低い人種。
・韓国人は、暴力的で、日本人をこき下ろすことばかり考えている人種。
・海産物が好きだと言ったら、「じゃあ、きくらげとかも好き?」と言われた。

 と言うのと同じように、結局、詳しいことは知らずに偏見で語っているだけである。
 観たことあるのは、所詮CMくらいだろう。

つまり、これらの人たちから、ラノベ作品やきらら作品が毛嫌いされるのは、単に、作品や、それを鑑賞する人への偏見が強く、実情をよく知らないからである。
 これらの層については、正しい認識を広めていくことが重要となる。

 

・作品自体と、観客層を分離して考えられない人
 作品自体についてと、その作品を観ている観客層を混同して考えてしまっている人がいる。
 たとえば、「この作品を観るのは腐女子が多いから、この作品は嫌いだ。」とか、「EXILE好きには、パリピが多いから、EXILEを好きになろう。」とか、「このアニメ作品を好きな人は、見た目が気持ち悪い人が多いから、この作品は気持ち悪い。」とか。
 それは正しい認識とは言えない。バイアスがかなり強くなってしまって言る。こういった人たちが観ているのは、その物自体ではなく、「何が好きといえば、どういった属性の人種になれるか。」なのである。
 作品をグループに迎合する手段としてしか見ていない。
 本来は、「作品自体」ではなく、「その作品が好きな集団」について言及すべきであるのに、そこを取り違えてしまい、しかもその取り違えに気づかないというのは残念なことである。

 

・アニメオタク→根暗、陰キャラという論理を使ってしまう人
 根暗、陰キャラという言葉は、一般的な用語ではなく、西欧人が原住民をして「野蛮人」と呼んだように、西欧人がアジア人をして、「黄色い猿」と呼んだように、誰かを侮辱したくて暴力的な人間が生み出した概念であるので、別にクラスで無駄に明るく振る舞ったり、中身がスカスカの会話をしたり、意味もなく集まったりするような人と比べて、劣っているとかいった概念ではまるでないと私は考えていることを先に述べておこう。最近は、「陽キャラ」なる概念があるらしい。この言葉が、肯定的な意味を持つのか、否定的な意味を持つのか私は知らない。「パリピ」といった言葉が否定的な意味を持つ層と肯定的な意味持つ層があるように、もしかしたら集団によってその意味は変わるのだろうか。
 さて、本題であるが、基本的には、「アニメは開放的に人々を受け入れる。」といった事情と(別に会員登録して集まったりする必要はないので当然である)、「パーティーやその他会合は、排他的である。」といった事情を考えればよい。
 100人がいたとして、そのうち、20人が+、80人が±、20人が-といった属性を持つとして、「開放的活動」は、すべての符号を受け入れるとし、「排他的活動」は、+のみを受け入れるとする。すると、開放的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は0になり、排他的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は+20となり、相対的に、排他的活動のほうは、+に傾くのである。
 要するに、アニメオタクが「周囲と馴染めない人」、なのではなく、アニメは、受け入れる幅が広いので、結果、「周囲と馴染めない人」も人口の割合としては排他的な活動よりも多くなるのである。
(これについては、反論もあるかもしれない。ここでは、あくまで一つの仮説を述べた。)

 これについては、具体的にはこのような例が言える。
ごちうさ」を観ている人は、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている。」わけではない。
 実際には、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている」人口が一定数いる可能性があるとはいえ、論理の方向としては間違っている。それは、作品とは別の問題である。

 

それでは、以下では、実際に作品を観た上で批判している人たちについて述べていきたい。

 

・「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」という人たち
 先程、こういった発言をする人たちは、実際に作品を知らないのではないか、と書いたが、実際には、作品を見た上で、こういった批判をする人たちも存在する。しかし、この場合は、先程とは違い、的を得ている意見も多い。詳らかに見ていこう。

 まず、触れなければいけないのは、物語が成立している「フレームワーク」を受け入れることができるかどうか、から物語の理解は始まる、ということである。

 一般的に、創作物語の中の登場人物は、現実とは違うフレームワークで動いていることが多い。具体的には、女性の口調が「~なのよ。」「~だわ。」となっていたり、現実ではなかなかありえない行動を取ったりする、または、世界設定が現実とはだいぶ違うSF世界、といったことである。これは、別にラノベ作品やマンガだけに当てはまらない。ほとんどの創作物語では、この傾向がある。ただ、現実のフレームワークとの差で言えば、マンガやラノベ作品が、他の創作物語よりもその差は大きくなりがちである。

 ラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実に近いにもかかわらず、フレームワークが現実とはだいぶ違っている、というのが、物語を受け入れる上では一つのハードルになっていると私は考える。

 これまでのSF作品や、マンガなどでは、世界設定が現実とは大きく違うことが多かった。その結果、読者は視聴者は、「この世界は現実とは違うフレームワークで動いている」ということが容易に理解できた。
 一方で、昨今のラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実を出発点、ベースにしているものが多い。ラノベ作品は異世界転生系が多いので、別に、現実を出発点とはいっても、他のSF作品と変わらないんじゃないか、というのはたしかにその通りなのだが、主人公は、現実世界の感覚を持ち続けるものが多く、やはり基準は現実世界の設定に従っている。また、学園ハーレム系なんかでも、設定は現実世界のものに従っている。
 そのため、視聴者や読者には、「この物語は違うフレームワークで動いている」ということが伝わりにくく、慣れていない読者・視聴者は、「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」と言いたくなってしまう。
 例えば、巨乳キャラが出て来るアニメを観る男性に対して、
「こういう巨乳の女性が好きなんだろ?」
 というのは、まあ確かに好きな人は多いのだが、それは、俺様系が出て来る乙女ゲームをしている女性に対して、
「こういうのが好きなんだろ?オラオラ」
 とするような、あるいはエロ本を読んでいる女性に対して、
「こういうことされたいんだろ?」
 というような、少し的を外れた意見である。
 ラノベ作品やきらら作品に出てくる女性像は、「現実にいたらいいなという欲求の表れ」ではなく、創作物語の中の「キャラ」として作られていて、そのキャラについては、現実に投影して考えるのではなく、その物語のフレームワーク上で考えなくてはいけない。
 現実世界と大きく違うことがあらかじめわかっている「ワンピース」では、明らかに現実にはいなさそうな、超グラマラスな女性が描かれることが多いが、それについて、「こんな胸が大きい女性は現実にはいない!」という批判はそれほど聞かれないことからも、違う世界設定を作ると、違うフレームワーク上の物語だと伝わりやすいことがわかる。

 ラノベ作品やきらら作品を、現実と連続的な舞台で描かれた作品、として見てしまうと、このように、物語を受け入れることが難しくなる。

 しかし、例えば、きらら作品に対して、「女性ばかりが可愛く描かれるというフレームワークそのものが気に入らない。」、といった意見や、ハーレム系について、「そもそもハーレムという設定が気に食わない。」と言った感想を持つ人に関しては、何も反論することはできない。それは、スポーツマンガが嫌いだったり、バトル系が嫌いだったりするのと同じ様に、個人の趣味の問題なのである。
 私としても、ハーレム系であったとしても、SAOのキリトのような、それなりにモテる要素があるキャラがハーレムを形成するのはいいのだが、どう考えてもモテる要素がなさそうなキャラがモテるハーレム系は好きではない。主人公はかっこいい存在であってほしい。

 

・「きらら作品にはストーリーがない」という人たち
 この主張は、間違ってはいない。たしかに、きらら作品には、特にオチがなかったり、笑い要素がないものも多い。しかし、テーマ性がない、物語として欠陥である、というのはいささか尚早だといえる。

 少し、回り道になるが、物語とは何か、について考えることから始めたい。
 物語は、つまるところお話である。物語は、誰かが語ることを前提として成り立っている。日本の古典を見ればわかるが、元々は、「神の視点」のお話というのはなかったのである。お話というのは、誰かが誰かに語るという形態に乗っ取って発展してきた。そして、昔から現在に至るまで、物語には、教訓めいたこと、話のヤマやオチといったものが多く含まれるものが好まれてきた。
 しかし、実際は、物語の形態というのは、必ずしも、従来型の物語の枠組みに収まるものばかりとも限らないのである。
 従来型の話というのは、あえて、特徴づけるなら、笑い要素がある、オチやヤマがある話が多かった。例えて言うなら、複数人を前に、エピソードを演説のように語るのに向いた、面白い話というのが多かった。
 一方で、きらら作品の物語は、従来型の物語のポイントを踏襲していな鋳物が多い。例えて言うなら、「今日こんなことがあったんだー。」と語るような話が多い。こういった会話は、現実の女性に多く見られるタイプである。オチやヤマは特にないが、起こったことを話す。この形式は、実は日常会話では多く用いられている。

 つまり、今までの話は、演説型だったのに対して、日常系は、会話型ということができるのである。
 演説型は、聴衆を面白くさせることが目的だが、会話型は、話を聞いて、安心する、今日も平和で楽しい日だったと確認する、そういった目的がある。

 だから、日常系作品は、話のオチやヤマがなくても、テーマがないわけではない。物語性は弱いかもしれない。しかし、ラブ&ピースというテーマを伝えることができている。
ネットのノリで言えば、「守りたい。この笑顔。」と思わせることができる。
 たしかに、従来型の物語の枠組みで考えれば、物語の出来としては良くないものかもしれない。しかし、従来の物語とは違った形式の物語が、そこには成立している可能性が否めないわけである。

 とはいえ、聴衆の好みはあるわけである。日常生活でもそうだろう。何気ない会話が好きな人たちと、オチのある面白い話が好きな人たちがいる。
 だから、「日常系は全然、ストーリーないじゃん。」といって、あまり興味を示さない人がいるのはも当然である。
 しかし、日常系は、ストーリー物から、ストーリーを省いて、かわいい女の子を描いているだけで、テーマ性もない、というわけではないのである。
 やはり、ヤマやオチといったような物語性というのは、読者を楽しませる上では大事である。しかし、物語性を追求するのとは、別の方向で、ストーリーの新しい形態が進んでいるというのもまた事実ではないだろうか。

 

・まとめ

 この記事では、ラノベ作品やきらら作品のフレームワーク、物語の形式などについて考えた。
 私は、オタク批判については、正直やるせない気持ちを抱えている。一般的に、暴力的な発言、人を侮辱するような発言をする人が、内容や立場はどうであれ、優位にたってしまう、という現象があるように感じている。「暴力」を振るうものが「優れている」といった感覚を持っている人が多いのではないかと思うのである。例えば、学校の中で、クラスを仕切るのは暴力的な人間が多いし、法に基づいた暴力は正当化して考えてしまいがちな人が多い。しかも、オタク批判の場合は、オタク自らが、その批判に同調して自己批判、オタクグループ内での内部批判を起こしてしまう傾向がある。
 世間的には、オタク批判はアニメ・マンガ批判と密接に繋がっている用に感じている。そして、いつしか、アニメやマンガを規制しろ、といった方向へと傾倒してしまう人間もいる。
 しかし、実際、オタクやアニメ・マンガ文化について、ちゃんと分析を行った上で批判したり、規制しようとしたりしている人間は少数派だろうと感じる。
 それに対して、私は大きな懸念を抱いているのである。
 そもそも、表現の規制に関しては、ちゃんとアニメやマンガ文化の分析ができていたとしても私は反対であるが。いくら反社会的な表現であれ、表現の規制については私は反対である。とはいえ、政治家の家に火炎瓶を投げ込む行為を、「これは一種の表現であり、表現の自由は守られなければいけない!」といった主張や、夜間に爆音で街宣車を走行させる行為を「表現の自由だから守られなければいけない!」というのは、また表現の自由とは別の問題がありそうなので、ここで考えることは止めておく。表現の自由についての議論は、ここで行うにはスペースが足りない。


 また、物語の内容に関しては、おそらく、物語の構造、ストーリー性といった事柄に関しては、詳しく研究している人もいることだろう。これに関しては、文芸作品といった枠を超えて、都市社会学歴史学の分野などでも研究されることだろう。
 物語については、私自身も、これらの分野の研究内容などを調べ、見識を深めんとする所存である。