ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるのか考える。

 

 日本の学校文化に特有のものなのかどうかは分からないが、日本の学校では、スポーツができる人ほど優れているといった思想、文化が存在する。それはなぜなのか。ここで考えてみたい。それを明らかにすることができれば、現在のスクールカーストのような序列制度について、幾分明らかにすることができるようになるのではないかと期待している。
 実際、スポーツが将来のお金に結びつくことは少ない。しかし、依然として、スポーツができるかどうかで、優劣の概念をつけたがる人間は多く存在する。しかもそれは、学校の中でより色濃く現れる。

 はじめに断っておくと、私は、まだ現代スポーツの歴史などについて知識は持っていないし、この記事の中で、なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるかの答えまではたどり着かない。

 この記事の中でするのは、考えること、に留まる。

 本来は、ある程度、有用な考察を行うべきではあるのだが、スポーツと政策などの歴史について調査をするには時間がかかりそうなため、とりあえず、問題提起だけでもできればという考えで、この記事を書く次第である。
 今後調査が進み次第、追記したい。


・スポーツの歴史と意味
 スポーツは本来、何として始まり、どのような経緯を経て現在の形になったのか。
 現段階では、まだ詳しくは調べることができていないが、スポーツの歴史は概観すると以下のようなものだろうか。
 まず、遊びや儀式として始まり、軍事訓練としての側面のあった体操が明治維新前後に輸入され、とスポーツが融合する。その後、第二次世界大戦前には、スポーツにも戦争の色が強くなる。戦後も、スポーツの国際大会は、各国の国力の象徴として競われている。

 要するに、スポーツは未だ戦争の代理としての色合いが強いのではないだろうか。
 暴力ではなく、平和的に力を誇示するための象徴としてスポーツが使われているのではないだろうか。

 学校同士の対抗、学校内での序列、それにおいても、スポーツの強さ、は大きな意味を持つ。
 スポーツのできるものは、人の上位に立つという傾向がある。

 この意味については、先述のように、スポーツが軍事力や暴力を代理的に象徴するものだという考えにたてば、ある程度納得がいく。
 軍事力が強いものが、人の上に立つというのは歴史的に観ても当然のことである。

 国家間の戦争の代理のためにスポーツが使われ、国を代表する選手を育成するため、学校間による競争、全国大会が開催されている。その結果、生徒にも、スポーツの持つ、戦争の代理という側面が意識しないうちに刷り込まれているのではないか、というのが私の仮説である。

 それは、スポーツの指導の仕方にも色濃く出ている。体育会系というと、軍隊式といったイメージが付いて回るが、現在の学校の運動部指導では、多くのところで軍隊式のトレーニングが行われているのではないだろうか。

 運動部においては、スポーツは、遊びといった側面よりも、競争としての側面が強調され、スポーツそれ自体は楽しむものよりも苦しむものとして受け取られがちなように思う。
 運動部でも、勝たなくては意味がない、強くなければ意味がない、というような思想が蔓延しているように思う。
 一方で、楽しむためのスポーツを行う場は不足しており、結果的に、楽しむためにスポーツをするといった文化はほとんど見ることができない。
 スポーツが楽しいといっても、競争に勝つ喜び、ではなく、スポーツそのものを楽しんでいる人口というのがどれほどいるのか気になる。

 学校の体育では、幾分競争のためのスポーツという側面は、運動部に比べれば弱まるかもしれないが、依然として、生徒を競争させ、順位付けするという文化が存在する。

 このように、現在のスポーツには、その行為を楽しむというより、スポーツを手段として、力を誇示、競争するという側面が強いのではないだろうか。その結果、スポーツのできるものが、人間関係の上位に立つという可能性を、私は一つの仮説として考えている。

 しかし、このようなスポーツ文化がなぜ今も続いているのか、についても考えてみたが、一つは国家の政策のせいであるとも言えるし、もう一つは、こう言ってしまうことが非常に失礼であるということを承知の上で言わせてもらうと、日本においてスポーツを指導する立場にある人間は、勉強があまり得意ではない人が多いからではないかと思う。
 勉強に苦手意識を持っている人は、スポーツについても、スポーツの歴史、スポーツがどのような象徴的な意味を持っているか、スポーツを健康のために役立てるためにはどのような指導制度が適切か、などについて考えることも苦手なのではないだろうか。
 その結果、スポーツ文化の発展は滞り、従来型の方法を継承し続けているのではないかと、私は推測している。
 スポーツ文化の発展には、スポーツを研究する人間が必要である。

 


以下、主題からは逸れるが、スポーツの将来について考える。

・スポーツをどういった方向へと転換することができればよいのか。
 では、スポーツをどういった目的にすることができればよいか、については、これからの医療の展開を考えると、健康寿命を長くするための健康増進のためのスポーツ、といった役割が考えられる。


・スポーツを楽しむ行為に変えれば、他のもので戦争の代理が行われるのか。
 とはいえ、スポーツから、競争としての側面を取り払ってしまえば、今度は何か他のもので戦争の代理が行われるのではないか、というのが一つの懸念である。
 例えば、単に暴力での競争になりはしないのか。または、バイクの競争のような、より危険な手段で闘争が起こりはしないのか。
 それについては十分な注意が必要なのである。

 しかし、スポーツをいつまでも、力の誇示・競争のための手段にしていれば、スポーツが健康の役に立つことができない。
 むしろ、スポーツのせいで健康を害するということにもなりかねない。

 したがって、スポーツから競争の側面をある程度取り払うことは必要である。もしくは、競争の側面を除いたスポーツコミュニティを、学校以外に作るべきなのである。
 そして、スポーツ以外の競争手段を注意深く監視しておかなくてはいけない。

 人同士は、どこかで闘争しなければ生きていけないのか、それについてはまた別の問題として検討が必要である。