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ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

「考えずに生きる」というのはありなのか。

「人間疎外」 という言葉、聞きなじみのある人にとってはよく聞く話だと思いますし、聞いた事がない人にとってはよくわからない言葉だと思います。


 人間疎外とは、
「社会の巨大化や複雑化とともに、社会において人間というのは機械を構成する部品のような存在となっていき人間らしさが無くなること」をいいます。これはWikipediaによると、ですが。


 初めてこの言葉とその意味を知ったときのことを今でもよく覚えています。高校二年生のころでした。そのときの衝撃といったらなかったですよ。それまで感じていたもやもやが言葉として、概念として既に世界に存在することの幸せったらなかったですね。それから、考えるあらゆる問題に人間疎外の問題が隠れていることをいつも感じていました。「人間疎外」。いい言葉です。

 具体的にはですね、人間疎外の内面的な影響はというと、今までの価値観を咀嚼して考えずにそのまま自分達の代にも適応したりとか、みんながやってるから自分もやるとか、とりあえず言われたことはやらないといけないから言われたままやるとか、働かなくちゃいけないから働く、学校行かなくちゃいけないから学校行く、まあそういったことですよね。行動原理、あるいは行動の根拠がトートロジー的なもので作られています。要するに、同じことを言ってるだけで根拠が根拠になってない行動。「やらなくちゃいけないからやらなくちゃいけない、なぜやらなくちゃいけないかというと、やらなくちゃいけないから。」

 もちろん、社会の歯車にはめ込まれていても、「なぜ自分は社会の歯車としていきなければいけないんだ、ああではなくこう、こうではなくああした方が、世の中上手く回るのに」といった風に、自分が社会の歯車になっていることを認識し、それを嘆く人も多くいます。それは、立場や行動は人間疎外の影響を受けつつも、内面までは人間疎外の影響を受けていない人と言えるでしょう。内面まで人間疎外の影響を受けている集団は、「大衆」と呼ぶのがふさわしいです。
「大衆」。
考えない人々。メディアとか人のいうことに簡単に煽られ、振り回される人々。社会的なシステムとしての人間疎外が起きたら、考える時間が奪われたりもしますし、考えなくてもそもそも生きて行けたりします。それに、自分の意思の介在の余地があまりないのに考えても仕方ないですから。「なんで自分は勉強してるんだろうか」とか、「なんで自分はこれを売る役をしているんだろうか。」とか、シンプルな答えで済ませるなら、他の人にやらされてるからそれをやっているわけで、その意味とかそんなこと考えるのはけっこう辛いので、それなら、考えなくてもいいじゃん、考えなくても言われたことをやってたら生活はできるわけだし、と考えることを放棄して、要請されることをしとけばいっか、となると心も人間疎外の影響を受けた大衆化された人間は半分完成といったところです。


 人間疎外の形成土台ってのは資本主義ですよね。いえ、少し補足をするとしたら、資本主義かつ全体主義の結果起こったのが人間疎外というべきでしょうか。資本主義においては利潤の最大化が追及されるわけで、そのために組織を形成し、人間にその組織のコマとして働いてもらう、そうして、「組織」として「利益」を追求していくという、「全体」で「資本」を追求する姿勢の結果、個としての人間の尊厳が失われていった、と。

 そして残念なことに、社会のコマとして、歯車に組み込まれることに慣らされた、いや訓練されたとも言えますか、そういった人たちは、今度は自由になることを恐れるようになってしまいます。自由にされたら何をやっていいのかわからない、自由にされても困る、だから、一度人間疎外によって社会の歯車となってしまった人は歯車に戻ろうとする、そのほうが落ち着くから、やることが明確だから、考えなくてもいいから、という理由でです。


   そういえば、チャップリンの「モダン・タイムス」という代表作では、チャップリンが歯車に乗って移動していくシーンがありますよね。私もあのシーンしか知らないので、あまり詳しいことは言えないんですが、あの映画は人間疎外の風刺映画だと言われています。

 そうそう、チャップリンといえば「独裁者」のスピーチも有名ですね、DODAのCMにも使われていましたね。
You are not machines!
You are not cattle!
You are men!
そして、
Fight for liberty!

 これも、きっと人間疎外のことを言ってるんだろうな、と私は思います。チャップリンは個人と自由を尊ぶ人です。


   さて、すこし話を戻して、社会の歯車になった人がその後も歯車でありつづけようとする、という話ですが、これって一度市民を歯車にしてしまえば集団に従属するようになるわけですから全体主義者にとってはかなりおいしい現象ですよね。一度やってしまえば、あとは自分たちで社会の歯車になろうとするわけですから。


   この現象って実際、自由の苦の表れなんだろうな、と私は見ています。私は自由であるというのは素晴らしいことだと思っています。自分がやりたいことに自分を使えますから。しかし、私のように、自由が素晴らしいと思う人ばかりではありません。自由であるということは、自分の意志によって自分の行動を選択できるということで、必然的に自分の選ぶ道について考えなくてはならなくなりません。空いた時間を何に当てるのか、自分は何をして生きていくのか、そういったことを考えなくてはなりません。考えるのは労力がいりますし、しかも、自分の意思決定の結果は自分で責任を負わなければならないのです。それなら組織のいうことに従っておけば、自由こそなくともその責任は組織がとってくれます。そっちのほうが楽だと思ってそっちに流れる人がいても仕方の無いことです。


   「人間は自由という刑に処せられている」

 これはサルトルが言ったとされる言葉です。これは神が人を作ろうとして作ったのではなく、神がいないとして、人間という存在が世界に存在するという事実だけがあるのだとしたらどうなるか、という話です。人間が生きる意味を持って生まれてくるのではなく、生まれてきたから仕方なく意味を見つける、といった存在ならば。人間は自由であらざるを得ず、人間は自分たちでなんでも選ぶことができますが、同時にその選択による責任も負わなければいけない、自由であるがゆえに行動の決定のための思考、その決定の結果の責任を負わなければならない、その苦痛を背負わなければならない、という内容が「人間は自由という刑に処せられている」という言葉には表されています。これも、人間疎外、それによる大衆化が起こってしまう土台だと考えていいでしょう。


 人間疎外の影響を強く受け、その人が自由を恐れて自由になっても困るようになった、それだけならまだ、そうなった人とそうはならなかった人が棲み分けをすればよかったのかもしれません。しかし、世の中にはそのように自由を恐れる人があまりにも増えてしまいました。
「土日とか休暇はやることもないし人にも会えないしつらいから、休み来てもあんまりうれしくない。」
「休みの日とか、空いてる時間があると落ち着かないから予定とかバイト入れちゃう。」
そういう人はたくさんいます。もはやそれがスタンダードだと思ってしまうほどに。すると、
「みんな組織とか社会からやること与えられないと暇になって困っちゃうんだ。じゃあ、みんながそんな風に困らないように社会をつくっちゃおう。」
と考える人が出てきてしまいます。学校とかクラブ活動とかで、そういう考えの人いませんでしたか?
「どうせみんな暇やろうから、みんな来い!」
「この行事みんな来るように!」
「休むときはちゃんと理由言ってな。」
「クラブないとやることなくて暇やわ~。」
そんな風に、縛ることで、人間の自由への恐れを意志の弱さを克服しようとする人々。そういう人々によって組織作られた、強制力の大きい集団。なぜ、強制力があるほうがいいと考えたのか、自分の意志だけでは弱くだらけてしまうから、やることがないと不安だから。そういった、人間疎外の結果、自由を恐れるようになってしまった人が増えると、そういった集団の強制力があった方がいいと思い込む人々が増え始めます。そして、そういう人々によって組織作られた組織というのが世の中にどれほどあるのでしょうか。


 しかし、これは
「みんな自分と同じように、自由になると不安だし、自分だけの意志だと弱くてちゃんとやれないだろうから。」
という思い込みの結果ではないでしょうかね。一人だと寂しいから群れいたいみたいな感情もあるでしょう。自分の経験、自分の感情を他の人もみんな持ってるだろう、人間の普遍的な感情なのだろうという思い込み。自分と同じように、みな自由が不安で、意志が弱い、という思い込み。実際、そういった人間が多くなってしまったのですから、そう思い込んでしまう人も増えてしまったのです。自分の時間を使って自分がやりたいことがしたい人にとってはありがた迷惑でしかないのですが。もし、全体主義がそういった思い込みの感情でできているのであれば、それは全体主義のように見えて、自分の不安を埋めたいという個人達のための組織です。全体のためのようで実質は個人たちのため、というのはなんだか歪んでいますね。そのように、人間疎外が進むと他の人まで巻き込んで人間疎外が進むという出来事が起きてきてしまったのが現在の社会と言えるでしょう。


   さて、歴史を見ると、封建的な独裁体制を打倒したフランスは、共和制によって自由を勝ち取ったと言えるわけですが、結局独裁体制に染まっていきました。これも自由による不安からなのでしょうね。自由になっても何をすればいいかわからない、それが不安で、絶対的な指導者を求めたという考えがあります。やはり世界の歴史でも、自由への恐れみたいなものはあったのだと考えられます。


   ここまで述べてきた自由への不安というのは、心理学的な観点からも、多くの人間に備わった感情だと言えるかもしれません。有名な「スタンフォードの監獄実験」をご存知でしょうか。被実験者を看守役と囚人役に分けてロールプレイの実験をすると、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしく行動するようになり、それが段々エスカレートし、囚人役の被実験者に精神的に大きなダメージを残したという、今は禁忌の実験です。人は役割を与えられて、その役割に沿うような行動をする、ということからこの実験の結果の一つとして考えられました。だからこそそれが自由への不安につながると安易には言えません。役割というのはもっと広義に、女性らしい行動、男性らしい行動、子供らしい行動、親らしい行動、そういったものも含まれますから、人は役割を演じているから自由を恐れるというのは論理の飛躍です。しかし、役割を演じることで安心感を得れるから、組織に隷属し、組織からの命令、要請に従うことで、自分の社会的立ち位置を確認し、その役割を遂行することで安心感を得ようとしているとも言えなくはないでしょう。


   さて、では、人間疎外によって組織に隷属し、考えることを放棄した、大衆化した人々と、個人としての尊厳を大切にし、自分の意思によって行動を決定したいとする人々、もう少し簡単に対比させると、考えない人と考える人、どちらがいいと言えるのか、と考えるという行動のほうが上位だと言えるのかどうか。


   満足な豚、不満足なソクラテスという例えがあります。ここからしばらくは、人間疎外や自由などの先の話を厳密に吟味するのではなく、単純に、考えること、考えないことについて考えます。

  「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」

これは、イギリスの哲学者、ミルの言葉をWikipediaから引用したものです。これは、ミルがベンサム功利主義の考えを一段階押し上げたと言われる由縁の文章です。まず、功利主義というのは、誤解を覚悟にかみ砕いて言うと、望ましい制度、行動などが何をもって望ましいとするかの基準は、それを実際に行って人々が幸せになるかどうかであり、最大多数の幸福が実現される制度、行動が社会的に望ましい、といった考えです。そこで、幸せの基準を図るために、従来、ベンサムが快楽と苦痛を定量化して計算すればいいと言っていたのですが、それに対しミルが述べたのが、深い思慮を持った人は、浅い思慮を持った人よりも、わからないことを知りたいと思ってもそれがわからない苦痛に苛まれたり、社会の問題点が多く見えてしまうが故に感じるやりきれなさを感じて苦痛を感じるが、それは思慮の浅く、現状の問題点や疑問点に気づかず現状に満足している人よりも不幸とは言えない、といった内容でした。単純には幸福度は、快楽と苦痛の「量」では測れないものがあり、思慮の深さに左右されるような幸福の「質」も考慮しなければならず、ある制度や行動を実施したときに人々が幸福かどうかは、快楽と苦痛の量だけでなく、幸福の質も踏まえて計算しなければならない、というのがミルの主張です。


 とは言え、最期まで現状に満足し、深い思慮を持たないまま生まれて死んでいく人にとっては、それが幸せだと言えます。あくまで、幸福の質というのは思慮ある人から見た捉え方であり、最期まで現状に満足して死んでいった人には、
「そんなこと知るか、難しいことわからんくても幸せやったらそれでいいんじゃ。」
と言うかもしれません。となれば、果たしてどっちが主観的に幸せかとは言い難いのではないのでしょうか。ならば、「考えない」というのも一つの選択であり、それによって幸せを得ようとするのを否定はできないでしょう。一度「考える」ことを始めてしまった人にとっては、「考えない」という選択に戻ることはできず、考え始めた人々は考えないよりは考えたほうが幸せであり、考え続けざるを得ないのです。考えるというより、「知る」「知らない」のほうがイメージがわきやすいかもしれませんね。例えばこんな世界があったとしましょう。
「人々はあまりあくせく働かなくてもみな幸せに生活できる国がありました。人口は2万人。みな、たくさんの食べ物、飲み物、高度な技術に恵まれて幸せでした。しかし、なぜ人々はみなあまり働かずとも幸せに暮らせているのでしょう。実は、それを支えていたのは地下に隠されていた30万の奴隷人口でした。2万の人々は30万の奴隷による労働、及びその中から選ばれる生贄による神のご加護のおかげで幸せに暮らしていたのでした。」


 さて、この事実を知って、後ろめたさを感じ、奴隷制をやめさせようと悩み、行動して国に粛清される人と、その事実を一切知らずに最期まで幸せに暮らした人、どちらが幸せなのでしょうか?


   このように、「考える」「考えない」に関しては、どちらが本当に幸せになれるとは言い難いところがあります。行動としては、考える人ほど、禁欲的に精進する傾向があり、考えない人ほど、享楽的で快楽を求める傾向があるといえるでしょう。ではそれが周囲に与える影響という点で考えてみるとどうでしょう。考える人は、組織、社会のためになること、自分に必要な物資や知識を先を見据えて用意をし、秩序の維持に寄与すると言えるでしょう。そして、考えない人のほうは、先を見据えないため、自分の考え不足によって周囲に迷惑をかけたりして秩序を乱すことのほうが多いのではないでしょうか。これは、すなわち、考えないほうが快楽が多いように思えて、考えない人が増えるとそれによって周りが迷惑を被り、秩序が乱れて、それぞれの幸福度が下がるということにつながると言えます。そう考えると、考えない人が多いより、考える人が多い方が、結果として快楽も増え、多くの人が幸福になれるのではないかと私は思います。


   しかし、やはり「考えない」という思想を否定することは私にはできません。それが「望ましくない」、とは言うことができても、それが「間違っている」とは言えません。これは、私が文化相対主義的な価値観あるいはニーチェのいう善と悪は何が正しいと思うかの信仰の違いでしかない、といった価値観を信じているが故です。しかし、「考えない」というのを、一つの価値観として、一つの信条・主義にしようとした段階で、「考えない人たちは、考えるか考えないか、どちらがいいかと考えた上で考えないという選択をした」と見なすことになり、「考えた結果、考えないという選択肢を取る」という、矛盾を含んだ命題になってしまうので頭がこんがらがります。中には、「考えた上で考えることをしない」という選択をする人もいるかもしれませんが、世の中の多数派は、「考えることができないから考えない」のほうだと思います。


   ちなみに、考えない人が多いと、人を使う側からしてみれば使いやすいコマと言えるでしょう。例えば、技術は知識に関しては優秀、そして会社の体制や理念について突っ込んだりせず従順に従うといったような社員は非常に使い勝手のいいコマです。政治の観点から考えると、うまく扇動すればそれに従ってついてきてくれる考えない国民ならば政治はやりやすいでしょう。本当にそれでいい集団になるかどうかは、先に述べたように、考えない人が周囲に与える迷惑、といった側面を考えるとわかりませんが。


 

   さて、ではまとめましょう。私は、資本主義と全体主義の同時発動により人間疎外が始まり、以降、人間疎外によって作られた人間が全体主義を作るといったことが広がり、人間疎外が加速していると考えています。人間疎外により、精神面、感情面も疎外され、大衆化が起こり、「考えない人」が増えました。私は、「考えない」というのも一つの価値観であり、否定はしません、しかし、それが望ましいとは思いません。「考える人」が多い方が幸福になると私は思っています。


 日本は全体主義の国だと思います。欧米が個人を重んじるならば、日本は集団を重んじる、とはよく言われます。個人主義全体主義の文化的な土台が違うと言えるでしょう。


   ちなみに、政治的な全体主義、いわゆるファシズム社会主義と、企業、学校やクラブ活動などでの全体主義ではその意味が違うと私は考えています。政治的な全体主義の目的はは、秩序の維持と平等、社会的弱者の救済を可能にすること、だと言えます。それに対し、企業、学校、クラブ活動にそういった目的がどれほどあるのか、それが、不明確なことが多いのです。わりとよくある目的は、「組織内の人に不平等意識を抱かせないため」といったようなことでしょうか。民間団体では、誰のために、何のためにやってるのかわからない全体主義というのがよくあります。何をしているのかわかっていないけれどやっている全体主義、これこそ人間疎外が人間疎外を生み出していると言えるでしょう。