勉強ってなんでするの?―真理知るためじゃん。
私という存在は何?
物を取ろうとしたら、手が伸びる。
走ろうと思えば、足が地面を蹴る。
この身体を動かしているのは、だれ?
私?それとも、私の身体?
わからない。
私は、なぜ、考えるの?
考えている私とはいったい何なの?
私という存在は、ただの物質の集まり?
この肉体が尽きれば、私が考えたことも、私という存在も消えてしまう、そういった物質の塊でしかないの?
それとも。
私という存在は、魂?
この肉体が尽きて尚、私という存在は消えることはないの?
わからない。
私が見る世界ってほんとに実在するの?
家族が、友達が、街往く人々が、自分とおんなじように考えて、自分とおんなじように存在してるの?
それって不思議な気分。ほんとにそうなのかな?
実は、この世界って自分以外みんな、ただの動く物体でしかないんじゃないか?
自分は、無数の人間の中で、なぜこの自分なのだろう。
自分以外の誰かに、「自分」の意識が宿っていてもおかしくない。
なぜ、自分は、「自分」の意識を持っているんだろう?
自分って特別なのだろうか。
神が存在するならば、神の移し身が自分なのだろうか。
わからない。
世界って何なのだろう。
なぜ、私は空を飛べないのだろうか。
なぜ、私は手から火を出せないのだろうか。
なぜ、私は時間を旅できないのだろうか。
なぜ、この世界はこの世界なのだろうか。
魔法が使える世界があってもいいはずである。
全く違う仕組みでできた世界がいいはずである。
でも、この世界はこうあるわけで、それがいったいなぜなのか。
世界って何なのか。
私は、何でこの世界で生きているんだろうか。
この世界で生きる私という存在って何なのだろう。
わからない。
しかし―。
人類は長い年月にわたり、頭を悩ませ、仮説を打ち立て、理論を練り、実験をして、世界とは何たるか、「私」という存在は何なのか、という問題に取り組んできた。
これまでの人類の積み上げてきた知の蓄積にアクセスすることで、私を悩ませる謎は、少しずつ、少しずつ、解決に近づける気がするのである。
故に、私は思う。
「勉強せねば。」
勉強をすれば、世界の真理に近づける。私は世界の真理を知りたい。故に学ぶ。そして、人類の知の先端まで学んでも、きっと世界とは何かはわからない。そのときはどうすればいいのか。―そのときは、自分で人類の知を切り開けばいい。
これが、私の知的探求心、知的欲求の根幹です。果たして、世の中に、勉強のモチベーションとして、「世界の真理を知りたい」と掲げる人は多くないかもしれません。ほんとは、これ以外にもまあ、色々ありますが、それでも、こういう気持ちが第一にありたいなと思うわけです。でも、身の回りには不思議がいっぱいじゃないですか。なんで、今、私は学校に行かなくてはならないの、働かなくてはいけないの、とか、なんで、結婚するの、とか、他にも疑問はいっぱいあります。あれも、これも、わからないことだらけ。そのわからないことを知ろうと思うのは、少なくともみんな思うようなことなのじゃないかなと私は思うのです。もしかしたら、これは私の願望なのかもしれませんが。
勉強って聞くと、すぐに拒絶してしまうような、耳を塞ぎたくなるよう、そういう人も世の中多いでしょう。勉強って聞いても、嫌なイメージしかない。嫌々やらされてた。それに、勉強の成績もよくなかった。教える側も、教えなきゃいけないから教えるけど、なぜ、それを教えなければいけないのか、までは考えていなかったり。そういう人って多いでしょう。
なぜ、勉強するか、それに関しては、なかなかすぐに考えてもわからないんですよね。だから、わからないことは考えても仕方ない、と思考を放棄したり、間に合わせの理由を作り出したりします。実際、社会的背景の色々な変遷を見なければいけないわけで、単純にはわりきれません。今は、かなり実学主義です。技術力、経済力が国家間の競争力を決めるようになりましたからね。その目先の競争力を上げるために、育てられるコマが子供たちのなんですよね。別に、教育は全部が子供たちのためじゃないですよね。ふるいにかけられているってのほうが実質メインかもしれません。社会に対して成果を挙げられるものを集団から選び出すっていうような、「試練」としての側面が結構強いと思います。
まあ、それを逆手にとって、裾野を広げてきたのは、学習支援産業なわけです。社会からの態度としては、優秀な人材を発掘するために、勉強のふるいにかけて、それなりに優秀な成績を収めた人には、好待遇を用意しようってものですが、ふるいにかけられる側からすれば、とりあえず、勉強のふるいの中で成績さえ取れば、好成績とれば、社会からの待遇が良くなるってことで、それなら、単純にそれを目指そうとする人がいるのは必然です。それを支援するための学習塾とか、あれやこれやですが。学習塾って、だから本質は、子供たちの社会的地位向上、なりたい職につかせる、ってのが目的であって、そのためにあくまで、ツール、手段として勉強を教えているだけなわけです。だから、勉強を教えて、それで世界の真理を考えよう、なんて目的のためにやってるわけじゃないんです。勉強を教えるのはあくまで手段であって、目的ではありません。
そう考えると、学問を取り巻く社会的環境って殺伐としていますよね。学問を学ばせるのは、人材発掘のため、そして、子供たちが勉強するのは、社会的な立場のため、学問がツールとしてしか使われていません。悲しいことです。当然ながら、そういった態度では、勉強に対して忌避感を感じて当然なのですが。学問を学ぶこと自体が目的じゃないんだから、モチベーションはあんまり上がりませんよね。
でも、やっぱり、そういった勉強の仕方ではなく、世界を知るために勉強するという姿があってほしい、私はそう思うわけです。そういう態度で勉強するほうが楽しいじゃないですか。それで、受験とかがどうこうなるかは別として、学問は、真理の探求としてやりたい、とそういう願いがあります。
世界を知るために物理学の量子力学と相対性理論を学ぼうとしたら、数学の行列とか積分とか理解してないとダメだった、じゃあ数学の行列やろう。それでいいじゃないですか、と思うのです。私って何なんだ、私が見てる世界は本当に存在するのか、それを知るために哲学の存在論、認知論を学ぶ。集団運営としてのよい方法、集団の中での身の置き方に迷って、社会契約論や、善と悪の定義とは何なのか、人の心理のあり方を学ぶ。それもいいじゃないですか。なぜ、自分が会社にいくはめになってるのか、なぜ、こんな政治的なシステムの中で生きてることになってるのか、それを知るために、歴史を学ぶ。そういうものでしょう。自分の知的欲求に従って勉強するというのは。
もっとそういうのが許される社会になってほしいと私は思います。そして、そういう思いを持つ人が増えればいいとも。少なくとも、勉強の態度として、知的欲求心に基づいた姿勢を持った人が世の中に増えればいいなと思います。
学校の勉強ってやってることが末端なんですよ。それは実学主義の影響を受けまくっているから、実際の社会に役立つこと、技術になること、そんなことばっかりやろうとしてしまう。よく聞きませんか?
「それがわかって社会の何の役に立つの?」
ってセリフ。それで、それに関して何にも疑問を持たない人が多いわけですよね。実学じゃなければ学問じゃないとまでいいそうな勢いです。はて、いつからこういった態度が世間に根付いてしまったんでしょうか。この前、ジャポニウム発見のニュースのときに、京都大学の数学の研究所にいって、「今やってられる研究は社会のどういったところに役に立つんですか?」ってリポーターが質問するシーンありましたよ。あれこそ、実学ばっかり求めてる社会の態度を反映していますね。
でも、学問を通して世界を知ろうと思えば、そんな末端ばっかりやってもだめなんです。学問の歴史、始まりを知らなければ。そういった講義や授業をやっているところを寡聞にして聞いた事が有りません。物理学と哲学ち宗教って始まりはおんなじなんです。世界を知ろうというところからどれも始まりました。それが、途中で袂をわかって現在の形になってますが。丸山眞男さんが言うところの、ササラ型の学問とはこういったことを言います。丸山眞男さんの「日本の思想」を読んだ方にしかわからない話題かもしれません。
学問が、そもそもどういったところから始まったのか、その学問の成果によって、どういったものがわかってきたのか、そういった、学問自体について学ぶ機会がないのが残念なことです。学問史なるものを誰か作ってくれないでしょうか。
話が散らかってきましたので、まとめますが、勉強のモチベーションとして、世界を知りたいという知的欲求心から始まる勉強があればいいな、ということがここでは述べたかったことです。でも、それって今の学校教育でも高等教育でも、ましてや学習塾でも、実現は難しいことです。社会的要求とは一致しませんから。でもね、競争力の充実ばっかり急いで、学問をツールとして使って、学問自体をないがしろにしてるから、結局勉強嫌いになって、学問離れが起こって、結果として、社会全体の教育レベルが落ちて、競争力は衰えていると、私は思いますよ。目先ばっかりのことやってて、国民のの幸福度も下がれば、競争力も下がる、いいことないですね。だからこそ、もっと、学問の本質をとらえた学習会が全国で展開されるべきだと思います。それが、公教育に勢力的に勝てば、学校教育を変えることもできるでしょうから。