ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

他人を拒絶したくなる訳

 何か目的を持った文章を書こうと思ったけどダメだった。書けない。頭が回らない。なんでだろうかと考えてみたけど、やっぱり、自分の考えていることを書くというのは、自分の内面をそとにさらけ出すということで、やはり、自分の内面を知られてしまうのではないかという不安と闘わなければいけない。そこで、自分でもわからないうちに、自分でストップがかかってしまうのだろう。「それ以上書くのはやめておこう。それ以上、自分の内側が知られるのは怖い。」といった具合に。しかし、なぜ、自分の本当に考えていること、自分の内面を知られることが怖いのだろうと考えてみたけれど、それほど納得のいくような、明晰な答えは自分の中には得られなかった。とはいっても、いくつか仮説のようなものがないではない。

 考えられうるのは以下のような場合だ。相手に知られているのは自分の本心である以上、それを拒絶、あるいは否定されたときに弁解が難しい。自分の本当の内面でないなら、例えば、自分のうわべの考えなんかが否定された場合は、

「否定はしてきたけど、それは僕の本当に考えていることじゃない。僕の本当の考えを、あいつはわかっちゃいない。」

なんて自己弁解することで、自分自身を肯定することができるんだけど、本当に自分が考えていることについて否定されると、それに対する弁解ができないのだ。自分自身で、これが自分の本当に考えていることだ、と認めてしまっている以上、自分自身に対するさっきのような逃げ道としての弁解はできない。だから、怖い。それは一つかもしれない。

 ほかに考えられる可能性というのは、自分が考えていることをさらけ出した時に、そんなおまえの考えなんて聞きたいわけじゃない、お前のストーリーが聞きたいんじゃない、と言われる不安である。これは、それがそのまま存在の否定につながってくる。書いていて、こっちの可能性のほうが大きいんじゃないかと思ってきた。自分をさらけ出して語るということは、自分自身について、知りたいと思ってくれる人に対しては聞いていて面白い話になるかもしれないが、そうじゃない人にとっては聞いていて苦痛な話になるだろう。そのときに突き放されるのが怖いのだ。

「お前の話なんて聞きたくない。」

と。そう突き放されるのが怖い。それは自分自身の存在の否定に近い。自分が自分の内側を話すときというのは、自分の存在を認めてほしい、自分を知ってもらうことで自分を愛してほしいと考えている時だ。だから、自分は、自分のことを語ろうとする。そこで、お前のことなんて知りたくない、と切り捨てられることで、自分が持っていた「わかってほしい、愛してほしい」という気持ちと相手との温度差を感じずにはいられなくなる。そうして、自分がしようとしていたことに恥ずかしくなるのだ。

「自分は距離感を間違えて接していた恥ずかしいやつなんだ。」

そう否が応でも思い知らされてしまう。日本だけなのだろうか。いや、そうでもないだろう。想像してほしい。自分のことを好きでもない相手に対して、その相手が自分のことが好きなんだろうと勘違いして、

「今日一緒に帰ろうよ。」

なんて言ってみたりして。自分は、相手も喜ぶはずだと思ってかけた声も、相手からしてみたら、別になんでも思ってない相手から「帰ろうよ」と声をかけられてしまった。

「別にうれしくもないし、むしろ煩わしいし迷惑だなあ」

なんて思われていたことを知ったとき、あなたはどう思うだろう。死にたくなるに違いない。

 つまり、自分の考えている内側を明かすというのはそういうことなのだ。自分の思考、感情を明かすということはそういう行為に等しい。だから、怖い。そういった距離の詰め方の間違いを想起させる。間合いを詰め込んで、至近距離でカウンターを食らうようなものだ。たまったものではない。即死のパンチである。

 愛の告白、というのは大きなハードルとなっているのは、こういった点にある。普通、人はみな、自分が誰に対してどう思っているのかは隠して生きている。常にフェイクである。常に距離感を隠し合っている。だましあいの戦いである。もし、仮に相手が、自分に対してある程度好意的感情を持ってくれているとわかったとしても、それがどれくらいの好意かはわからないのだ。月に一回ご飯にいくのがOKな仲だととらえてもらっているのか。三日に一度会いたいと思われているのか。一緒に暮らしたいくらいに思われているのか。基本的に相手の好意よりも、自分の好意が上回ってしまったとき、相手が求めている間合いよりも詰めてしまう可能性がある。そのときには

「うっとおしい。」

という強烈なパンチを食らってあえなく即死である。だから、相手との距離感を計るときには、相手がどれくらい好意的に思ってくれているか、というのを超えてしまってはいけない。つまり、相手が許容してくれている間合いより詰めてはいけないのである。こういった事情があるから、お互いに、相手を自分をどのように思っているかを悟られないようにしている。つまり、間合いを知られないようにしている。それを知られるということはすなわち、行動が相手優位になるということだからである。相手に自分の作戦、内部情報を知られることに近い。自分の相手に対する好意の度合いが漏れてしまえば、相手に好きに間合いを選択されてしまう。つまりは相手に翻弄されてしまう。しかも、自分の好意具合が知られてしまうというのは、相手に、自分の間合いはここまでです、と一度近寄ってみるようなことである。つまり、自分の好意の度合いを知られた時点で、「うっとおしい」と言われれば、すなわち自分は即死なのである。自分の好意具合を知られるというのは、相手に人間関係の優位に立たれてしまうこと、そして、カウンターを食らってしまうことの危険性、そのどちらも併せ持っている。しかし、実は人は、できるだけ、人と間合いを詰めることを許されたいと願っている。これは承認欲求ゆえである。孤独ゆえである。だましあいをしているが、それは自己保身のためであって、実際は自分を受け入れてほしい、間合いを詰めることを許されたい、と願っている。つまりは愛されたいと願っている。

 相手に自分の好意度合いを知られまいとするために人は人を拒絶する。フェイクをかけるわけである。または、自分から間合いを必要以上に詰めてしまうことを恐れて、カウンターをくらわないように、あえて必要以上に下がるのである。相手との距離を広げるのである。これが、自己保身のための拒絶といえる。

 信頼と裏切りのようなものだ。相手をどこまで信用できるか。自分がどこまで間合いを詰めていいと許されているかを信頼することで、相手への間合いが詰められる。しかし、相手が許容してくれる範囲が自分の想定より遠い間合いだという可能性がある。人は、それが想定よりも広かった場合、「裏切られた」と感じる。裏切りにあった場合、精神的傷、損失は大きい。だから、信頼できる人のところで、間合いを詰めるのが安全で安心なのだ。初対面の相手でも大っぴらに自分のことを広げられる人は、相手は自分を拒絶しないだろう、これくらい間合いを詰めても大丈夫だろう、という他者への信頼がある。一般的に他者への信頼度が高いのである。そして、他者への信頼度が低い人は、自分の内面を簡単には出したがらない。常に韜晦している。そういう人が、自分の内面を安全域以上に出してしまったと思い返して感じてしまったときには、夜も不安で眠れなくなる。やってしまった、という自責の念に駆られて、夜々呻吟することだろう。それくらいに、間合いを間違うというのはダメージが大きなことなのである。

 だから、そういったダメージを極力まで小さくするためには、他者を嫌うこと、他者を一切拒絶することが一番である。厭世的な気持ちになって、他者を拒絶する。他者に自分を見せることを拒絶する。そうして、自分が許容可能な間合いをできる限り小さくしてしまえば、自分から他者に間合いを詰めることはなくなり、間合いを間違えて詰めてカウンターを食らってダメージを負うことがない。傷つかなくて済む。自分を守れる。傷つきたくなければ、もっとも戦略的にはよい選択肢である。ただ、自分を認めてもらいたい、承認欲求、愛されたいという欲求は永久に満たされない。自分から他者を拒否するのだから、他者は近づいてこれない。当然である。だから、傷つかないことには成功しても、これでは愛されることはかなわない。一つの希望をかなえる代わりに、もう一つの希望を切り捨てるのである。また、他者を拒絶するというのは、他にも問題を抱えている。自分が傷つかない代わりに他者を傷つけてしまうのだ。自己保身に走ったための副産物である。利己的になった結果、他者を傷つけるのである。だから、本来、他者をまるっきり拒絶するという方法はとるべきではない。傷つかないかわりにデメリットが大きい。表面にとげを張り巡らした、非常食しか抱えていないシェルターに隠れるようなものである。近寄ってきた人を傷つけるし、おいしいもの(愛されるという経験)はそこでは得られない。

 愛の告白のハードルが高い理由についてようやく触れることができそうだ。愛の告白というのは、相手に、自分の好意の度合いを伝える行為である。そして、ゼロ距離まで相手に間合いを詰める行為である。愛の告白は、好意の度合いとしては最上級であり、間合いはゼロ距離までつめる。つまり、カウンターは食らえばもちろん即死だし、相手も最上級に自分を愛してくれていないと、自分のほうが相手の許容する間合いよりも詰めてしまうことになる。つまり、相手が自分と同じ好意度合いであることはあっても、自分より好意度合いが上になることはないという状況なのである。引き分けと負けはあっても、自分に勝ちはない。勝負としてはなかなか乗り気にはなれない。また、人は経験的に、一度最上級まで好きになった人は、その後も特別であり続けるということを知っている。自分の経験からも、他人の噂からも知っている。だから、普通の友達付き合いなら、三日前までならこの間合いまで詰めることが可能だったが、今日はどうかわからない、といったことが起こりうるが、最上級の好き、つまり愛の告白がなされた場合は、そう簡単に詰めてよい間合いが変わるということは少ない。いちいち、

「三日前に告白してくれたことについて、三日前から気が変わって今も好きでいてくれるかはわからないから、その告白に対して今返事をすることが妥当なのかどうかはわからないけど―。」

なんて切り出したりはしない。三日前好きと言ってくれたなら、今日も好きでいてくれるだろうという自信が持てる。

 こうしたように、愛の告白というのは、相手に自分の扱いの権利をすべて捧げることに等しい。生殺与奪権は相手に与えるということである。故に大きな冒険である。しかし、もしも、相手が最上級の好き、で応えてくれた場合、一気に詰めてより間合いが自由になる。そして、愛されているという感覚、認めてもらえるという感覚、そういった感覚がコンスタントに得られる。承認欲求が継続的に得られる。そういった見返りがある。だから、こういうこともできる。愛の告白は、ハイリスクハイリターンのギャンブルなのだと。