ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

特別な人間じゃないと言われたい

 何か、自分の考えを、自分の感じていることを、自分とはいったい何者なのか、何がほしいのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、何をしたいのか、そういったことを書こうと思って書き始めてみたはいいけれど、何から書けばいいのかわからない。自分で自分のことは知っているみたいなことを口走りながら、文章を書くのが割と得意だと口走りながら、本当に自分が考えていること、伝えたいこと、感じていること、それが何なのか文章に起こそうとすれば、それがさあ、さっぱりわからなくなる。自分で自分のことをわかったつもりになっていて、それは錯覚だったのかもしれない。わかっているようで自分のことはまだまだ全然わかっていない。わかったようになっている、そういった勘違い、錯覚ほど惨めなものはない。それは僕が普段からよく糾弾していることだ。

「みな、自分のことを知らなすぎる。」

口癖のように、というと語弊があるかもしれないが、僕がよく言っている、いや、よく言ったつもりになっている言葉である。これは僕の一つの信念でもある言葉の裏返しだ。

「自分のことを知ればこの世の真理に近づける。」

あらゆることを自分の内側の違和感、葛藤を手掛かりに僕はあらゆることを考えてきた。だからこその考えなのかもしれない。僕は人間の内側に真理が眠っているとか、人間はみな心に真理の扉を持っているとかそういったことを言いたいわけではない。言いたいわけではないと言ったものの、心に真理の扉を持っているというフレーズの奥に広がる世界、かっこよすぎじゃないか。まったく厨二心をくすぐるぜ!

 脱線した。話を戻そう。自分のことを知ればこの世の真理に近づけるというのは、自らの心のうちにある真理を探せというわけではなく、自分を詳しく知ることで、真理を探求することが簡単になるだろうと言っているのだ。自分の心の動きに機敏になろう、とか、自分の持つ違和感や疑問に敏感になろう、とかそういうことである。真理への探求は違和感を捉えることがその第一歩である。自分が感じる違和感が一体何なのか、それを正確にとらえ、解き明かそうとすることで真理は我々の前に現れる。

 とまあ、僕の真理の探求スタンスはこんな感じだ。加えて、自分を知ることで起こるいいことというのは、別に真理探求だけに限ったことではない。自分を知るというのは、人間関係の悩みを考えるときも、自分の生き方を考えるときも、かなり有効な方法だ。まあ、それもそのはずで、自分を知るというのは自分の感情について詳しく知ることでもあるから、自分の悩みの根本たる感情の動きを詳しくしれば、悩みの解決にはそれは近づくのは当然であるともいえるだろう。他にも、自分を知ることで学業、芸事やスポーツの上達が早くなることとか、自分を知ることによっておこるいいことはたくさんあるけれど、そのすべてをここで書いてもボリューム過多になりそうなので、やめておこう。

 さて、ここからはそのようにして自分を知ろうとした結果、僕が僕について感じたことについて書いてみよう。しかし、僕が僕について知っていることも案外少ないのかもしれない。さあ、自分のことを語ってみて、と言われて自分のことをどれほど語れるだろうか。何々が好きで、自分はどういったことが得意で、自分はどういった組織に所属していて、といったような自分の輪郭をなぞるような話をしてしまうのではないかという不安がある。自分が何を考えているか、自分が何を感じているか、そういったことではなく、自分が何者であるかの説明。それでは自分のことを話したことになるのだろうか。そんなものは周囲との関係性でいくらでも変わる。自分を周囲との関係性でしか話せないというのは悲しい。自分は、どこに行こうと、どの組織にいようと、どんな趣味を持っていたり、どんなものが得意であったりしても、自分はこういった存在だ、といった変わることのない自分自身の存在の証明ができるといい。関係性でいくらでも流動的に変わる自分というのは、なんとも脆く、心もとなく、儚いのだろう。

 しかし、たいていの人は、―それは自分も例外ではないのだろうが、周囲との関係性でしか自分を規定できない。唯一の規定の方法とは言い切れないが、自分の規定とはだいたいが周囲との比較によるものでしかない。周りの人がご飯を食べないのが普通なら、「私はご飯を食べます」ということが自己紹介になるが、周りがみんなご飯を食べるなら、それは自己紹介としての意味をなさない。自分がどういった人間かを考えるときも同じで、自分がどういった存在なのかは周りとの差異でしか規定しえない。自分自身の考えとか、何が好きとか何が嫌いとか、何をよく考えるとかどうとか、周りとの比較、相対的に決定されるものでしかない。僕という人間は周りのあらゆる存在によってその存在が許されている。僕という人間は、何々である、といった表現よりも、何々ではない、といったことの集合なのかもしれない。つまり、周りとの差異が何なのかを集めていけば自分という存在が出来上がる。そう考えると、自分という存在は何とも存在感が薄い。周囲に何もなければ僕という存在は存在しえないのだから。考えてみれば、何もこれは僕だけの話ではない。この世の存在すべてがそうなのだ。お互いの存在によってのみお互いに存在しえる。それぞれが単独では存在しえないのに、それぞれが同じ空間、時間に存在することで、それぞれの存在が許される。僕たちの存在はみな相対的で、お互いに存在を助けあっている。言い換えてみると、僕が僕を作るのではなく、他の存在によって僕が作られている。

 自分の存在の揺らぎ、不安を語った。自分とは何かの差異でしかない。しかし、人はみな差異を求めているのだろうか。そうとも言えるし、そうでないともいえる。おそらくでしかないが、人はみな誰かと違うことを望む一方で、誰かと同じでいたいと強く願っている。みんなと一緒でありたくてみんなとは異なりたい。そうした矛盾の欲求、アンビバレンスを抱えて人は生きている。他の人と全く同じ服は嫌だからと言って、他の人が洋服を着ているのに自分だけ和服っていうのは嫌だ、みたいなものだ。ある程度寄り集まったところでばらけていたいというのが人の心理なのだろう。いわゆる厨二病というのは、自分には何か特別な力があると信じたい、いわば、人との差異を望む強烈な欲求の表れなのだ。世間では厨二病厨二病と揶揄される表現ではあるが、その本質は他の人との差異を望む、極普通の欲求なのだ。それはもちろん他人とは違う自分でありたい。しかし、他人と離れすぎるのはやはり不安である。厨二病というのはかなり強く差異を望む欲求だ。この世界で一人だけ魔法を使えるようになったり、神通力を使えるようになったとして、それは結構な優越感とか特別感に浸れるものであろうが、本当に幸せなのかどうかは考えものである。人と違うというのは、どんな優越であれ、孤独感にさいなまされる。特別な力というのもまた孤独を感じる原因になるだろう。

優越であるが故の孤独。

きっと多くの人には理解されないだろう。妬まれて終わるのが関の山である。どうせ理解や共感はしてもらえまい。さらに悪いことに、危険な人物として敵視されるかもしれない。他の人との異質性による孤独に悩むだけでなく、ほかの人から敵視される辛さも味わわねばならないなんて、特別な力なんて望むものじゃないのかもしれない。僕は、こういったことを考えた上で、特別な力というのはむしろないほうが幸せなんじゃないかなと思っている。僕は他人と一緒でありたい。

 考えてみれば、人の孤独感というのは、この人と人との違いを生む差異によるものなのかもしれない。差異というのは異なるものへの理解の可能性を妨げる。差異があるだけ理解してもらえなくなる可能性がある。では、孤独をなくすためには、一切の差異をなくせばいいのか、と考えると、それは人間個体のすべての個性と違いをなくすことであり、そういった同質性に人間が耐えられるとも思えない。そんなの人間じゃないと人々は言うだろう。差異こそが自分のプライドを保証するものであり、一方で自分の孤独を保証するものでもある。私たちは、孤独と向き合い続ける運命にあるのである。その孤独から逃れるすべとして、みなが同一個体になること、魂の統合という方法があるかもしれない。大きな流れへと変える。魂を生んだ母なる存在へと帰ること。それが孤独をなくす方法なのかもしれない。これが、人々が「人類補完計画」と呼ぶものなのだろう。

 しかし、そもそも、なぜ人はある程度の同質性を求めながらもその中でそれぞれの個体で異質性を求めるのだろう。謎である。なぜ同じでありたいと思うのか。そしてなぜ人は違う存在であろうとするのか。この謎が解けたとき、おそらく人類は大きく前進する。中途半端で、たよりない、まどろみだらけの僕の頭で途中まで考えてみよう。そもそも同質性を求めるというより、ある程度の同質性がない以上、ある集団として扱えないのだ。共通点がない集団など、ただの雑多な寄せ集めにすぎない。人は、自分がどの集団の一員なのかといった関係性で自分の存在を計る。だから自分の存在を確かめるために自分の存在をある特定の集団内に収めようとする。一方で、自分と全くかぶった存在というのは、自分との存在を揺らいだものにするから、他と区別したい。もしくは特定のだれかと同じというのは、その同質性から、その人と特別な関係であるとの誤った認識を生む。だからそういったものを避けるために差異を求める。差異とは個体の標識番号みたいなものなのか。

 すべては自分の存在の保証のためなのかもしれない。自分の存在を存在足らしめるために、同質性と異質性を求める。

 では、僕の悩みは、と考えたときに、それは僕自身の異質性なのかもしれない。笑わないでほしい。そして馬鹿にしないでほしい。僕は、「自分自信を特別な人間だ」と思っていた。そして今でも思っている。自分が特別な人間だという感覚が抜けない。いつまでたっても抜けない。よく人は言う。

「自分は特別だと思っていたけど、何のことはない、他の人たちと変わらない凡人だった。」

と。自分が他の人と違うと思っていたけど、実は他の人と同じだったんだ、なんだがっかり、というよくある文章。しかし、その言葉の裏にはがっかり感だけでなく、いくらかの安堵も実際はあったのではないだろうか、というのはただの僕の勘繰りなのかもしれない。自分が他の人と同じで大した才能は持ち合わせていないのだというがっかりと同時に、自分も他の人と同じ人間だったんだという安堵。それがあったのではないだろうか、と僕は思うのだ。

 世の中にはレジェンドと呼ばれる人がいる。その人たちは類まれな能力によって、他の人とは一線を画した、つまり、いつまでたっても異質だった存在である。他には、神童と呼ばれ、大人になってからも天才と呼ばれた人たちがいる。彼らに孤独はなかったか。あったのではないのだろうか。あってほしいという僕の願望なのかもしれない。しかし、他人とは一線を画す特別な力、異質性、そういったものを備えているほどに孤独感を感じずにはいられないのではないのか。優秀であるがゆえに、卓越しているがゆえに、わかってもらえない、理解してもらえない孤独があるのではないか。そう僕は思わずにはいられない。自分に特別な力があるというのは、一見幸せだ。自分にだけあるべき力がないことよりもはるかに幸せだ。しかし、その異質性ゆえに、他人から理解してもらえないという孤独がそれにはつきまとう。

 僕が何か、特別な力をもっているかと聞かれたら、どうだろう、まあ持っていないだろう。僕が持っているのは特別な力というわけではない。他人より優れた自己洞察力、思考力。ただちょっとばかり優れているだけならよかったのかもしれない。こんなことを言うと、慢心だとか言われても仕方がないが、僕には色んなものが見えすぎている。そして、それについて

「そんなものだれでも同じだよ。君が特別じゃないさ。君よりすごい人はたくさんいる。」

と言ってくれる人がいて、その人が僕を納得させてくれるだけの言葉で説得してくれたらよかった。しかし、そういった出来事には未だめぐり合っていない。自分の自尊心、自分の特別感を打ち砕いてくれる人、「ああ、自分はただの凡人なんだ」と思わせてくれる人に出会わない。自分から避けているのか?それはどうなのかわからない。色んな人と話をして、自分が凡人だということを感じるどころか、自分はもしかしたら特別な人間ではないのかという疑いばかりが深まる。自分が特別でない、ただの人間だと言ってほしい。そして自分を納得させてほしい。そうは思うものの、なかなかそういった機会にはめぐり合えない。

 自分はただ慢心している孤独な人間である、ただそれだけなのかもしれない。それなら、後でわかれば、自分が特別ではないか、と悩んでいるのはただ滑稽であるが、実際のところはわからない。自分が特別ではないということを突き付けられて、自分が周りと同じだという安心感に浸りたい。そう願っている自分がいる。その一方で、やはり自分は特別だったのだと認めてもらいたいという気持ちも捨てきれずにいる。結局は人に認めてもらいたいだけなのか?そうなのかもしれない。同じなら同じ人間として、違うなら違う人間としてでいい、自分の存在を認めてもらいたいのかもしれない。自分が特別なのか特別でないのかわからないまま、自分が何者なのかもわからず、宙ぶらりんの状態に自分は不安を感じているのだ。どこかに安定して存在したい。自分が何か他人と比べて特別だと感じつつ、自分がどういった点で特別なのか、本当に特別なのか、その確証が得れないでいる。その不安から僕は解放されたいのだろう。

 結局は、僕は自分の存在が、何かと同じであるとも、何かと違うであるとも規定されないままに宙ぶらりんで、自分で、自分自身がどれほど周りと同じなのか、どれほど周りと違うのかを見極められないまま、自分の存在が揺らいでいることに不安を感じ、周りから認められないことに孤独を感じているのである。

カントの純粋理性批判と神経解剖の共通点

 カントのいう感性、悟性、理性って脳の解剖学的な知識と合致するんです。だから、カントの純粋理性批判って神経解剖学の仮説とも考えられるんじゃないかと私は思います。  具体的に見ていきますと、カントのいう感性ってのは感覚器のことでいいと思います。世界の情報を受け取っているわけです。眼とか耳とかでね。    そしてそれが何かを認識しているのは視覚野とか聴覚野とかいう脳の分野です。視覚野について考えるとわかりやすいです。視覚野に送られた情報を処理する細胞には、視覚野の中でだったのか、ほかのところに送られてからだったのかは忘れましたが、縦線を見たときに反応する神経細胞とか、横線を見たときに反応する神経細胞とか、もしくは、マリリンモンローを見たときに反応する神経細胞とか、そういうのがあるんです。これってカントのいう悟性なんじゃないかと私は思います。受け取った情報が何なのか処理してるわけですし。    そして、カントのいう理性は他の高次精神機能なんじゃないかなと私は思っています。

私たちに本当のものは何も見えていない

 私たちの目に本当のものなんて見えてないんだろうなって私は思います。

 そもそも正三角形を書こうとしても、寸分たがわず、1nmもずれずに全て等しい辺を書こうとしてもほとんど無理なはずで、正三角形なんていうのは概念の話で、実際には正三角形は存在しないとも言えます。

 そんな風に、自分が本当のものを見てるつもりでも、それはあくまで概念をベースに作られたコピー、偽物でしかないのかもしれません。人間はほんとはみんな「ほんとう」の人間とは少し違っているかもしれないし、優しさだって「ほんとう」の優しさとはちょっと違っているかもしれません。

 実際にこの世界に存在しているものが本物か偽物かはさておくとしても、この世に存在しているものを私たちは正しく認識できているんでしょうか?

 人によって眼の良し悪し、耳の良し悪し、見える色の領域、聞こえる音域が違うように、自分が見ているもの、聞いているものが全てだとは言えません。実際に触ってみたとしても、それは自分が触角として感じられるものでしかありません。人間と犬、蝶々ではもっとこの世の捉え方は違いますし、一体どれが本物の世界なのかなんてのは言えません。それぞれが見ている世界がそれぞれにとっての世界としか言えません。主観は客観とは一致しないのです。

 物事の捉え方だって人によって違います。人は言葉で区切られた概念しか考えることができません。石と岩の概念の違いがなければ二つに違いなんて存在しません。言葉の数こそ概念の数といえるでしょう。使う言語、知っている語彙によって世界は違うように区切られ、違うように見えるのです。もし同じような目、耳、身体などをもって同じ情報を受け取っていても、それは受け手によって違う捉えられ方をするのです。

 

 私たちは世界の見方がみな違うんですから、考え方もそれに応じて異なるものになるのかもしれません。

 ほんとうのことを知れないという歯がゆさは何とも言えません。そもそもほんとうのものがあるのかということが不安になってくるくらいです。

 

 そういえば、先の目とか耳とかの話はカントのいう感性、言葉による概念の区切り方の話はカントのいう悟性のことに当てはまるのかもしれません。

 

歳をとって自分を肯定する人

歳をとると、前とは違う考え方をするようになりますが、そんな風に歳を取って新しく身に着けた考えのほうが正しいとは限らないと思いませんか?

新しい考え方をするときって、「今までの自分の考え方は間違っていた。こっちのほうが正しい考え方なんだ!」って思ってその考え方を受け入れるからこそ、新しい考え方のほうが正しいみたいに思ってしまいがちですが、それって錯覚だと思うんですよ。

具体的にあげられる例が親に対する感情とか、子育てとか教育に対する考え方です。歳をとって大人になると、

「親の苦労がわかった。」

とか

「子育てすごく大変なのにたくさん迷惑かけた。」

とか

「人に教えるって大変な仕事だと思ったし、授業中に寝てたけど失礼だったなと思って反省してる。」

とか、今思うと自分がダメだったな、みたいなことを言う人が多いんですよ。でもこれって、親とか教育者になった自分を肯定する言葉でしかないと私は思うんです。自分がいま大変だから、その大変さをわからない子供とか生徒が悪い、みたいな考え方をしてるんですよ。こういう考え方をする人は逆に、また今度逆に立場が子供とか教えられる側に回ったとき、

「子供の気持ちを汲まなかった親の自分はダメだった。」

とか、

「生徒に退屈な思いをさせていた自分はダメだった。」

とか言うと思います。

 こういう考え方って誇張すると、例えば自分が商品を作ったりすることがあったとすれば、自分の商品が買ってもらえないと、

「消費者だった自分は、商品開発してる人の気持ちも考えずに商品を買ってあげなかった。せっかくがんばって作ってくれた商品を買わないなんてなんて失礼だったんだろう。」

みたいなとんでも発言とおんなじだと思います。

他にも、お酒とかに関してもおんなじようなことが言えます。はじめは酔っ払いとかお酒に対する嫌悪感を持っていても自分がお酒にはまると、

「自分はお酒のことを間違って認識していた。思っていたほどにお酒は悪いものじゃない。お酒を禁止するなんてひどい考え方だ。」

とか言うようになる人多いんじゃないかと思います。

こんな風に、大概の人は自分を肯定するように考え方が変わってると思うんですよ。そして、変わった後の考え方のほうが正しい考え方をしてると思い込んでしまいます。これは自分の考えを意識して監視してないと簡単に見落としてしまいます。だから、これって怖いんですよね。特に大人とか年上のほうが権力を握っている社会だと、歳をとって考えが変わった人が権力を握るわけで、そういった人は自分の新しく変わった考えが、若い時や子供の時に持っていた考えよりも正しいと思い込んでしまうので、若輩者がしいたけられます、じゃなくて、虐げられます。

こういうのを防ぐためにも、自分が何を考えてるのかを自分で知って分析できること、要するにメタ認知の力が大事だと思います。

ヘーゲル弁証法の説明の中で、「世界は理性的に進化していく」といったようなことを言っていた気がしますが、今回のようなことを考えると、必ずしも理性的に進化していってるわけでもないと思います。

言葉にできない気持ち

もやもやした気持ち、胸が痛む、なんだか悲しい、なぜだかイライラする。


 そういった上手く言葉にできない感情というのは小説やマンガ、様々な物語でも心情として描かれる感情です。恋愛物ではとくに、上手く説明できない気持ちというのが描かれますね。


 私達は、よくわからない気持ち、というのをよく感じて生きているものだと思います。感情に限ったことではありません。自分が何をしたいか、何になりたいと思うのか、そういった行動の理由というのも、上手くは説明できないということはよくあることだと思います。

 私達はよくわからない感情、行動理由に従って生きているのかもしれませんね。


 

 私は、人間の思考や感情には、言葉にして考えていることや思っていることを説明できる領域、言葉にはできない、あるいは単にしていないけれど感覚的には把握している領域、感覚としても把握していないけれど持っている領域、の三つがあると考えています。前から順に、言語化認知領域、非言語化認知領域、非言語化非認知領域、と呼ぶことにします。

 例えば、言語化認知領域にあるのは、今日はお肉が食べたいという感情、非言語化認知領域にあるのは、何かジューシーなものが食べたいなという感情、非言語化非認知領域にあるのは、身体を作るにはタンパク質を食べたほうがいいという情報、などだと言えると思います。それぞれの領域は、相互に頭の中で行き来しています。基本的に、何か自分の感情や思考を自分自身が自覚するときは、非言語化認知領域から言語化認知領域にそれが移ってきているのだと私は考えています。それぞれの領域は連続的で、明確に区別ができるものではありません。それぞれの領域にある情報は相互に行き来していると考えています。


 具体的なものをいくつか他にも考えましょう。

 なんだかイライラする、でも理由がわからない、というときはそれは非言語化認知領域にある感情です。しかし、しばらく自分で考えてそれが欲しい商品を買うことができなかったからだ、とかそういった理由を自分で見つけることができれば、それは言語化認知領域に感情が移ったと言えるでしょう。

 思考の内容の場合でも同じようなことが言えると思います。例えば、何か問題の解決策を考えているときは、非言語化認知領域でたくさんの解決案を吟味しているはずなのです。何かいいアイデアを思いつくときというのは、何か直感的なものが言葉になったときなのだと思っています。つまり、非言語化認知領域か言語化認知領域に考えが移ってきたときに、アイディアが閃いたと感じているのではないかと思います。


 

 正直これはすべて私の経験に基づいた仮説に過ぎません。私の体験を話しますと、移動しているとき、寝る前やお風呂で考え事をするとき、いろんなことを考えているんですが、そのほとんどは表れては消え、ほとんどが言葉にならない、イメージのようなものを想像しているんです。実際に言葉で考えているということは少なくて、だいたい考え事をしているとき、思いふけっているときなどは、直感的イメージが表れたり消えたりとしています。連想ゲームみたいに、様々なイメージが飛び交っているのです。そして、それは自分自身も最近になって気づいたことでした。今まで、自分は言葉を使って考えていると思っていたんですが、思考はもっと直感的なイメージだったのです。だからこそ、人は自分の気持ちや考えをうまく言葉にできないのではないかと思っています。非言語化認知領域の感情を言語化認知領域に移動させるには、高い言語能力が必要ですから。何か言いたいことがあるけれど言えない、とか、言葉にして話しているんだけど自分の気持ちや考えを正しく伝えられていない気がする、といったことも、非言語化認知領域の情報を言語化認知領域に移行させられないこと、簡単に言い換えると「直感」をうまく言葉にできないからなのかなと思うのです。


 私は非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変えられること、つまりは直感を言葉に変えることのできる力はすごく大事だと思っています。あらゆる課題のキーはもしかしたらここにあるのではないかなと思ったりもします。

 一つ目の例として、勉強のできる人というのは、「直感を言葉にできる力」があるのだと思っています。そして、誰でもこの「直感を言葉にできる力」があれば勉強ができるようになるのではないかと思います。勉強は勉強量であるとか、面倒臭がらない性格であるとか、そういったものももちろん影響するので、直感を言葉にできる力だけで他には何もいらないというわけではないと思いますが、書いてあること、聞いていることを理解する力がまずはないといけません。何か新しいことを理解するときというのは、新しいイメージを言葉にできないといけません。何か自分の中で腑に落ちないことがあれば何がわからないか言葉にできないと、わからないところがどこかわからないという状況に陥っていしまいます。勉強ができる人、理解力がある人というのは、自分の中でイメージを言葉にしていくことができ、わからないところがあっても何がわからないか言葉にして把握できるから理解ができるのだと私は思っています。皆が皆そうではないのかもしれないので、そういった人が多いのではないかという推測です。自分が本当にわかっているのかどうかがわからない、という状況も、自分の直感を言葉にできないからなのかもしれません。


 直感を言葉にできる、というのは人に何かを伝える、教えるときにも非常に大切です。教える側が自分の頭の中の情報を言葉にできないと、受け手がそれを理解するのが非常に困難です。


 

 また、人間関係の上でも、自分の非言語化認知領域の情報を言語化認知領域に変える力というのは重要です。これはすなわち、自分の気持ちを言葉にできるということです。自分の気持ちがわかっていないと誰かに八つ当たりしたりしてしまうかもしれませんし、自分の気持ちがわかっていないということは自分の気持ちを相手に伝えられないということになります。自分の気持ちがわかっていると、それに対して理性を働かせることもできますが、自分でわからない気持ちに対しては理性での制御も難しくなります。


 

 さらに突きつめていけば、日常生活全般において非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変える力は重要です。自分の家で一人で休日を過ごすことが辛いという人が実は結構多くいます。しかし、なぜそれが辛いのかがわからない人というのはかなり多いのではないかと思うのです。寂しい、というのは一つの感情なのですが、おそらく、多くの人は寂しいというよりはむしろ不安というべなのだと私は思っています。不安の理由はいくつかあると思います。一つは、自分のやるべきことが見つからないから不安になっているのだと思うのです。やるべきことがない自由というのは生きる道標を見失うということにつながりますから不安になります。そして、一人でいて自分の存在を認識してくれる人がいないと、自分の存在が不安になってしまうのだと思います。また、話す相手がいないと自分の中でイメージがたくさん溢れ、一方でそれを言葉にできないため、自分の中で言葉にできないイメージが膨れ上がって気持ち悪いのだと思います。誰かと話したりしているときは、自分の中のイメージを言語化認知領域の情報に変えて捉えやすくなっていると思います。話す対象がいるときいうのは自分の中のイメージを言葉にしやすいものだと私は思っています。言い換えるなら、非言語化認知領域で様々な考えや気持ちのイメージが膨らみ、それを言語化認知領域の情報に変えられないために感じる不快感があると思うのです。


 上に述べてきたように、私は「非言語化認知領域の情報を言語化認知領域の情報に変える力」すなわち「直感を言葉にできる力」は有用なものだと思っています。そして、この力は、自分自信と向き合うことでつくものだと思っています。内省的思考が「直感を言葉にできる力」を養うのではないかと。実は、小学校からやっていた「作文」は、「直感を言葉にできる力」の養成に寄与していたのではないかと思っています。だからといって学校で作文の時間を増やせ、などというわけではないのですが。学校でやる作文は結構構文や文章構造にうるさいので、それよりは、日記や長文の手紙を書いたほうがよりいいかもしれません。ともあれ、自分の思うことを文章にするというのは、「直感を言葉にする力」を養成する上では重要だと思います。私は中学生以降作文があまり苦ではなくなりました。それと並行して、自分で思ったことをノートに書いたりするようになりましたね。おそらく、自分の直感を言葉にする力が少しずつついてきたのだと思います。歳を重ねて作文が苦手ではなくなる人というのは結構いると想像していますが、成長して「直感を言葉にできる力」というのが身についていくのだと私は考えています。悪口みたいになりますが、歳を重ねても小学生の作文のような文章しか書けない人は考えが浅い人が多いような印象を受けます。自分の直感を言葉にできないと、自分の中で考えを熟成させられないのではないかと私は考えています。


 

 さて、これまで「直感を言葉にできる力」があることの利点と、その力の養成環境について少し述べました。以下、もう少しこの力によってもたらされる利点を少し社会的な視点から述べたいと思います。


 

 人間疎外については、以前「「考えずに生きる」というのはありなのか。」で書いたのですが、直感を言葉にできることで、人間疎外による大衆化というのを抑えられるのではないかと私は考えています。大衆化というのは、情報を鵜呑みにして、吟味することができない、つまりリテラシーの低さと、個人の中の価値観の確立が不十分なために起こると私は考えています。自分の直感を言葉にするというのは、自分の考えを吟味しようとしないとできません。そこで自分の価値観の吟味が起きるため、人のいうことを鵜呑みにしたりすることが減るのではないかと思うのです。大衆化社会というのは民意による決定にやや不安要素が残ります。集団の正しい方向性のためにも、大衆化社会は脱するべきだと考えます。そこで、今述べたように、「直感を言葉にする力」が役に立つのではないかと思うのです。



 

 他には、何かの仕事において相手が求めている以上のことをする、というのは、相手の非言語化認知領域、あるいは非言語化非認知領域で求めていることをするということだと思うのです。相手の要求には、言葉にして伝えるものと、その裏にある直感的希望というものがあると思います。もしくは本人が直感的にも認知していない希望があるかもしれません。そういうものを叶えることができれば、仕事の出来としては、「相手が求めている以上の出来」になるのではないかと思っています。


 

 これまで、非言語化認知領域、言語化認知領域、などについて書いてきましたが、これらは、少し、ユングフロイトのいう無意識と、似ている話ではないか、と私自身は思っています。

 ここで、心理学の無意識について確認しておきましょう。ユングフロイトは、人の心理の無意識について詳しく記述しました。人の意識の構造は、意識、前意識、無意識があると考えたといいます。このあたり、私もまだちゃんとわかっているとは言い難いのですが、意識は「私」が何かを認知したり考えたりするときに働くもの、無意識は意識にのぼらない、普段は思い出さないような記憶、願望などの領域、前意識は通常は意識にのぼらないが、努力すれば意識にあげることのできる領域、というような理解をしています。厳密な定義ではありません。

 数学で具体例を考えるとするならば、意識にあるものは、今問題を解いている最中に考えている問題、無意識にあるものは、過去に習ったが目の前の問題には関係のない公式、前意識は目の前の問題を解くのに必要だがすぐには思いつかず、がんばって思い出そうとしている公式、といったようなことになるのではないかと考えています。


 

 フロイトはこの、意識、前意識、無意識の三段階の意識構造の理論をもとに神経症の治療法の理論を考えたと言います。他にも、夢に無意識が表れるとして、夢の内容からその人の無意識を知ろうとする夢分析などもユングフロイトは行っていたそうです。


 

 ユングフロイトは、主に記憶や体験、願望などについて意識構造を作っていたと考えています。しかし、私は、意識構造には「思考」、「信条」、「思想」などを考えるべきだと思っています。それらを含めたのが先に述べてきた、言語化認知領域、非言語化認知領域、非言語化非認知領域の話です。

 階層構造としては、意識が言語化認知領域、前意識が非言語化認知領域、無意識が非言語化非認知領域に対応すると思います。


 

 先に少し夢の話が出てきましたが、私は、夢は、非言語化認知領域や非言語化非認知領域がイメージとして見えたり感じたりしているのではないかと思います。これも私の経験談になってしまうのですが、私は、何かのイメージを非言語化認知領域で考えながら眠ってしまったときに、寝る前に考えていたことが連続的に夢へと変化していくのを感じたことがあります。

 夢を見ているときというのは寝ていて五感がかなり鈍化しているので、頭の中のイメージが相対的に鮮明に見えているのではないかと私は考えています。原理としては、遮音性を高めることで音がよく聞こえるようになるイヤホン似たような感じでしょうか。周囲がうるさいと小さい音は全然聞こえませんが、周囲の騒音をカットすると小さな音が聞こえるようになります。それと同じように、他の感覚を鈍らせることで、頭の中のイメージが鮮明に感じるのではないかと私は思うのです。この説の実証には、レム睡眠とノンレム睡眠の意味や、睡眠中の脳波の変化などをちゃんと説明したうえで、この説の証拠になる医学的根拠を見つけなくてはならないので、断定はできませんが。

選挙って結果もだけど過程が大事

 選挙に行こうとか、投票しようとか、あなたの一票が未来を決める、とかいうフレーズをたくさん見ます。

 今回の選挙はどこの党に票が集まった、とかそういう結果が選挙では多く語られます。

 どの年代が投票したのか、っていうのは政策に関わりますから大事でしょう。

 どこが票を取ったのかはこれからの政治の動きに大きな影響を与えますから大事でしょう。


 

 しかし。

 選挙という仕組み、選挙の過程に目を向けるのも大事だと思うんですよ。選挙が民主主義の仕組みとして作られていて、民意を表すもの、として機能しているのかどうか。選挙では、何を思い、何を吟味して、何を考え、投票したのか。選挙によって間接民主制が実現しているというなら、選挙で有権者はなにを考えてそのように投票したのか、それがすごく大事だと思います。


例えば、
「なんとなく与党だから投票した。」
「与党がなんか嫌だから野党に投票した。」
という投票の仕方と、
「戦争したくないから野党に投票した。」
「野党には政権任せられないから与党に投票した。」
という投票の仕方と、
「与党の経済政策は評価するが、与党の改憲案、全体主義は評価しない。しかし、野党の政権運営能力は不安が残るから与党に投票する。」
「与党の政権運営能力は評価する、経済政策については評価をつけがたい、与党の改憲案、全体主義は評価しない。野党に政権運営能力には不安は残るが、しかし、野党は格差是正、教育への資金分配を掲げており、また個人を尊重する理念を掲げていることを評価する。野党の政権運営能力は、経験を積んで上手くなることに期待するので、野党に投票する。」
という投票の仕方と、それぞれが、考えている項目の数、考えている深さは違います。


 選挙は、何を考えなければいけないのかをわかって、それについて考え、対立意見も吟味した上で、自分がどう考えるのかを選ぶ、そういう有権者が増えてほしい、と私は思います。選挙で、それぞれの有権者が考えるべきことを考え、その上で、個人主義を実現するのか、全体主義を実現するのか、大きい政府を実現するのか、小さい政府を実現するのか、決まるのであれば、なんであれ、それは民意を反映した政治と言えるでしょう。



   選挙で争点を隠して選挙で議席を獲得できるように有権者を誘導しようとする欺瞞に満ちた選挙戦略は、民主主義を実現するにはいただけません。

 考えるべきことを考えないで投票する有権者が多いというのが現実の実態としてあれば、それは選挙で間接民主制が実現していないと言えます。


 

 選挙では結果も大事ですが、選挙で、どういった経緯でその選択を選んだか、それが大事ではないですか?

「考えずに生きる」というのはありなのか。

「人間疎外」 という言葉、聞きなじみのある人にとってはよく聞く話だと思いますし、聞いた事がない人にとってはよくわからない言葉だと思います。


 人間疎外とは、
「社会の巨大化や複雑化とともに、社会において人間というのは機械を構成する部品のような存在となっていき人間らしさが無くなること」をいいます。これはWikipediaによると、ですが。


 初めてこの言葉とその意味を知ったときのことを今でもよく覚えています。高校二年生のころでした。そのときの衝撃といったらなかったですよ。それまで感じていたもやもやが言葉として、概念として既に世界に存在することの幸せったらなかったですね。それから、考えるあらゆる問題に人間疎外の問題が隠れていることをいつも感じていました。「人間疎外」。いい言葉です。

 具体的にはですね、人間疎外の内面的な影響はというと、今までの価値観を咀嚼して考えずにそのまま自分達の代にも適応したりとか、みんながやってるから自分もやるとか、とりあえず言われたことはやらないといけないから言われたままやるとか、働かなくちゃいけないから働く、学校行かなくちゃいけないから学校行く、まあそういったことですよね。行動原理、あるいは行動の根拠がトートロジー的なもので作られています。要するに、同じことを言ってるだけで根拠が根拠になってない行動。「やらなくちゃいけないからやらなくちゃいけない、なぜやらなくちゃいけないかというと、やらなくちゃいけないから。」

 もちろん、社会の歯車にはめ込まれていても、「なぜ自分は社会の歯車としていきなければいけないんだ、ああではなくこう、こうではなくああした方が、世の中上手く回るのに」といった風に、自分が社会の歯車になっていることを認識し、それを嘆く人も多くいます。それは、立場や行動は人間疎外の影響を受けつつも、内面までは人間疎外の影響を受けていない人と言えるでしょう。内面まで人間疎外の影響を受けている集団は、「大衆」と呼ぶのがふさわしいです。
「大衆」。
考えない人々。メディアとか人のいうことに簡単に煽られ、振り回される人々。社会的なシステムとしての人間疎外が起きたら、考える時間が奪われたりもしますし、考えなくてもそもそも生きて行けたりします。それに、自分の意思の介在の余地があまりないのに考えても仕方ないですから。「なんで自分は勉強してるんだろうか」とか、「なんで自分はこれを売る役をしているんだろうか。」とか、シンプルな答えで済ませるなら、他の人にやらされてるからそれをやっているわけで、その意味とかそんなこと考えるのはけっこう辛いので、それなら、考えなくてもいいじゃん、考えなくても言われたことをやってたら生活はできるわけだし、と考えることを放棄して、要請されることをしとけばいっか、となると心も人間疎外の影響を受けた大衆化された人間は半分完成といったところです。


 人間疎外の形成土台ってのは資本主義ですよね。いえ、少し補足をするとしたら、資本主義かつ全体主義の結果起こったのが人間疎外というべきでしょうか。資本主義においては利潤の最大化が追及されるわけで、そのために組織を形成し、人間にその組織のコマとして働いてもらう、そうして、「組織」として「利益」を追求していくという、「全体」で「資本」を追求する姿勢の結果、個としての人間の尊厳が失われていった、と。

 そして残念なことに、社会のコマとして、歯車に組み込まれることに慣らされた、いや訓練されたとも言えますか、そういった人たちは、今度は自由になることを恐れるようになってしまいます。自由にされたら何をやっていいのかわからない、自由にされても困る、だから、一度人間疎外によって社会の歯車となってしまった人は歯車に戻ろうとする、そのほうが落ち着くから、やることが明確だから、考えなくてもいいから、という理由でです。


   そういえば、チャップリンの「モダン・タイムス」という代表作では、チャップリンが歯車に乗って移動していくシーンがありますよね。私もあのシーンしか知らないので、あまり詳しいことは言えないんですが、あの映画は人間疎外の風刺映画だと言われています。

 そうそう、チャップリンといえば「独裁者」のスピーチも有名ですね、DODAのCMにも使われていましたね。
You are not machines!
You are not cattle!
You are men!
そして、
Fight for liberty!

 これも、きっと人間疎外のことを言ってるんだろうな、と私は思います。チャップリンは個人と自由を尊ぶ人です。


   さて、すこし話を戻して、社会の歯車になった人がその後も歯車でありつづけようとする、という話ですが、これって一度市民を歯車にしてしまえば集団に従属するようになるわけですから全体主義者にとってはかなりおいしい現象ですよね。一度やってしまえば、あとは自分たちで社会の歯車になろうとするわけですから。


   この現象って実際、自由の苦の表れなんだろうな、と私は見ています。私は自由であるというのは素晴らしいことだと思っています。自分がやりたいことに自分を使えますから。しかし、私のように、自由が素晴らしいと思う人ばかりではありません。自由であるということは、自分の意志によって自分の行動を選択できるということで、必然的に自分の選ぶ道について考えなくてはならなくなりません。空いた時間を何に当てるのか、自分は何をして生きていくのか、そういったことを考えなくてはなりません。考えるのは労力がいりますし、しかも、自分の意思決定の結果は自分で責任を負わなければならないのです。それなら組織のいうことに従っておけば、自由こそなくともその責任は組織がとってくれます。そっちのほうが楽だと思ってそっちに流れる人がいても仕方の無いことです。


   「人間は自由という刑に処せられている」

 これはサルトルが言ったとされる言葉です。これは神が人を作ろうとして作ったのではなく、神がいないとして、人間という存在が世界に存在するという事実だけがあるのだとしたらどうなるか、という話です。人間が生きる意味を持って生まれてくるのではなく、生まれてきたから仕方なく意味を見つける、といった存在ならば。人間は自由であらざるを得ず、人間は自分たちでなんでも選ぶことができますが、同時にその選択による責任も負わなければいけない、自由であるがゆえに行動の決定のための思考、その決定の結果の責任を負わなければならない、その苦痛を背負わなければならない、という内容が「人間は自由という刑に処せられている」という言葉には表されています。これも、人間疎外、それによる大衆化が起こってしまう土台だと考えていいでしょう。


 人間疎外の影響を強く受け、その人が自由を恐れて自由になっても困るようになった、それだけならまだ、そうなった人とそうはならなかった人が棲み分けをすればよかったのかもしれません。しかし、世の中にはそのように自由を恐れる人があまりにも増えてしまいました。
「土日とか休暇はやることもないし人にも会えないしつらいから、休み来てもあんまりうれしくない。」
「休みの日とか、空いてる時間があると落ち着かないから予定とかバイト入れちゃう。」
そういう人はたくさんいます。もはやそれがスタンダードだと思ってしまうほどに。すると、
「みんな組織とか社会からやること与えられないと暇になって困っちゃうんだ。じゃあ、みんながそんな風に困らないように社会をつくっちゃおう。」
と考える人が出てきてしまいます。学校とかクラブ活動とかで、そういう考えの人いませんでしたか?
「どうせみんな暇やろうから、みんな来い!」
「この行事みんな来るように!」
「休むときはちゃんと理由言ってな。」
「クラブないとやることなくて暇やわ~。」
そんな風に、縛ることで、人間の自由への恐れを意志の弱さを克服しようとする人々。そういう人々によって組織作られた、強制力の大きい集団。なぜ、強制力があるほうがいいと考えたのか、自分の意志だけでは弱くだらけてしまうから、やることがないと不安だから。そういった、人間疎外の結果、自由を恐れるようになってしまった人が増えると、そういった集団の強制力があった方がいいと思い込む人々が増え始めます。そして、そういう人々によって組織作られた組織というのが世の中にどれほどあるのでしょうか。


 しかし、これは
「みんな自分と同じように、自由になると不安だし、自分だけの意志だと弱くてちゃんとやれないだろうから。」
という思い込みの結果ではないでしょうかね。一人だと寂しいから群れいたいみたいな感情もあるでしょう。自分の経験、自分の感情を他の人もみんな持ってるだろう、人間の普遍的な感情なのだろうという思い込み。自分と同じように、みな自由が不安で、意志が弱い、という思い込み。実際、そういった人間が多くなってしまったのですから、そう思い込んでしまう人も増えてしまったのです。自分の時間を使って自分がやりたいことがしたい人にとってはありがた迷惑でしかないのですが。もし、全体主義がそういった思い込みの感情でできているのであれば、それは全体主義のように見えて、自分の不安を埋めたいという個人達のための組織です。全体のためのようで実質は個人たちのため、というのはなんだか歪んでいますね。そのように、人間疎外が進むと他の人まで巻き込んで人間疎外が進むという出来事が起きてきてしまったのが現在の社会と言えるでしょう。


   さて、歴史を見ると、封建的な独裁体制を打倒したフランスは、共和制によって自由を勝ち取ったと言えるわけですが、結局独裁体制に染まっていきました。これも自由による不安からなのでしょうね。自由になっても何をすればいいかわからない、それが不安で、絶対的な指導者を求めたという考えがあります。やはり世界の歴史でも、自由への恐れみたいなものはあったのだと考えられます。


   ここまで述べてきた自由への不安というのは、心理学的な観点からも、多くの人間に備わった感情だと言えるかもしれません。有名な「スタンフォードの監獄実験」をご存知でしょうか。被実験者を看守役と囚人役に分けてロールプレイの実験をすると、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしく行動するようになり、それが段々エスカレートし、囚人役の被実験者に精神的に大きなダメージを残したという、今は禁忌の実験です。人は役割を与えられて、その役割に沿うような行動をする、ということからこの実験の結果の一つとして考えられました。だからこそそれが自由への不安につながると安易には言えません。役割というのはもっと広義に、女性らしい行動、男性らしい行動、子供らしい行動、親らしい行動、そういったものも含まれますから、人は役割を演じているから自由を恐れるというのは論理の飛躍です。しかし、役割を演じることで安心感を得れるから、組織に隷属し、組織からの命令、要請に従うことで、自分の社会的立ち位置を確認し、その役割を遂行することで安心感を得ようとしているとも言えなくはないでしょう。


   さて、では、人間疎外によって組織に隷属し、考えることを放棄した、大衆化した人々と、個人としての尊厳を大切にし、自分の意思によって行動を決定したいとする人々、もう少し簡単に対比させると、考えない人と考える人、どちらがいいと言えるのか、と考えるという行動のほうが上位だと言えるのかどうか。


   満足な豚、不満足なソクラテスという例えがあります。ここからしばらくは、人間疎外や自由などの先の話を厳密に吟味するのではなく、単純に、考えること、考えないことについて考えます。

  「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」

これは、イギリスの哲学者、ミルの言葉をWikipediaから引用したものです。これは、ミルがベンサム功利主義の考えを一段階押し上げたと言われる由縁の文章です。まず、功利主義というのは、誤解を覚悟にかみ砕いて言うと、望ましい制度、行動などが何をもって望ましいとするかの基準は、それを実際に行って人々が幸せになるかどうかであり、最大多数の幸福が実現される制度、行動が社会的に望ましい、といった考えです。そこで、幸せの基準を図るために、従来、ベンサムが快楽と苦痛を定量化して計算すればいいと言っていたのですが、それに対しミルが述べたのが、深い思慮を持った人は、浅い思慮を持った人よりも、わからないことを知りたいと思ってもそれがわからない苦痛に苛まれたり、社会の問題点が多く見えてしまうが故に感じるやりきれなさを感じて苦痛を感じるが、それは思慮の浅く、現状の問題点や疑問点に気づかず現状に満足している人よりも不幸とは言えない、といった内容でした。単純には幸福度は、快楽と苦痛の「量」では測れないものがあり、思慮の深さに左右されるような幸福の「質」も考慮しなければならず、ある制度や行動を実施したときに人々が幸福かどうかは、快楽と苦痛の量だけでなく、幸福の質も踏まえて計算しなければならない、というのがミルの主張です。


 とは言え、最期まで現状に満足し、深い思慮を持たないまま生まれて死んでいく人にとっては、それが幸せだと言えます。あくまで、幸福の質というのは思慮ある人から見た捉え方であり、最期まで現状に満足して死んでいった人には、
「そんなこと知るか、難しいことわからんくても幸せやったらそれでいいんじゃ。」
と言うかもしれません。となれば、果たしてどっちが主観的に幸せかとは言い難いのではないのでしょうか。ならば、「考えない」というのも一つの選択であり、それによって幸せを得ようとするのを否定はできないでしょう。一度「考える」ことを始めてしまった人にとっては、「考えない」という選択に戻ることはできず、考え始めた人々は考えないよりは考えたほうが幸せであり、考え続けざるを得ないのです。考えるというより、「知る」「知らない」のほうがイメージがわきやすいかもしれませんね。例えばこんな世界があったとしましょう。
「人々はあまりあくせく働かなくてもみな幸せに生活できる国がありました。人口は2万人。みな、たくさんの食べ物、飲み物、高度な技術に恵まれて幸せでした。しかし、なぜ人々はみなあまり働かずとも幸せに暮らせているのでしょう。実は、それを支えていたのは地下に隠されていた30万の奴隷人口でした。2万の人々は30万の奴隷による労働、及びその中から選ばれる生贄による神のご加護のおかげで幸せに暮らしていたのでした。」


 さて、この事実を知って、後ろめたさを感じ、奴隷制をやめさせようと悩み、行動して国に粛清される人と、その事実を一切知らずに最期まで幸せに暮らした人、どちらが幸せなのでしょうか?


   このように、「考える」「考えない」に関しては、どちらが本当に幸せになれるとは言い難いところがあります。行動としては、考える人ほど、禁欲的に精進する傾向があり、考えない人ほど、享楽的で快楽を求める傾向があるといえるでしょう。ではそれが周囲に与える影響という点で考えてみるとどうでしょう。考える人は、組織、社会のためになること、自分に必要な物資や知識を先を見据えて用意をし、秩序の維持に寄与すると言えるでしょう。そして、考えない人のほうは、先を見据えないため、自分の考え不足によって周囲に迷惑をかけたりして秩序を乱すことのほうが多いのではないでしょうか。これは、すなわち、考えないほうが快楽が多いように思えて、考えない人が増えるとそれによって周りが迷惑を被り、秩序が乱れて、それぞれの幸福度が下がるということにつながると言えます。そう考えると、考えない人が多いより、考える人が多い方が、結果として快楽も増え、多くの人が幸福になれるのではないかと私は思います。


   しかし、やはり「考えない」という思想を否定することは私にはできません。それが「望ましくない」、とは言うことができても、それが「間違っている」とは言えません。これは、私が文化相対主義的な価値観あるいはニーチェのいう善と悪は何が正しいと思うかの信仰の違いでしかない、といった価値観を信じているが故です。しかし、「考えない」というのを、一つの価値観として、一つの信条・主義にしようとした段階で、「考えない人たちは、考えるか考えないか、どちらがいいかと考えた上で考えないという選択をした」と見なすことになり、「考えた結果、考えないという選択肢を取る」という、矛盾を含んだ命題になってしまうので頭がこんがらがります。中には、「考えた上で考えることをしない」という選択をする人もいるかもしれませんが、世の中の多数派は、「考えることができないから考えない」のほうだと思います。


   ちなみに、考えない人が多いと、人を使う側からしてみれば使いやすいコマと言えるでしょう。例えば、技術は知識に関しては優秀、そして会社の体制や理念について突っ込んだりせず従順に従うといったような社員は非常に使い勝手のいいコマです。政治の観点から考えると、うまく扇動すればそれに従ってついてきてくれる考えない国民ならば政治はやりやすいでしょう。本当にそれでいい集団になるかどうかは、先に述べたように、考えない人が周囲に与える迷惑、といった側面を考えるとわかりませんが。


 

   さて、ではまとめましょう。私は、資本主義と全体主義の同時発動により人間疎外が始まり、以降、人間疎外によって作られた人間が全体主義を作るといったことが広がり、人間疎外が加速していると考えています。人間疎外により、精神面、感情面も疎外され、大衆化が起こり、「考えない人」が増えました。私は、「考えない」というのも一つの価値観であり、否定はしません、しかし、それが望ましいとは思いません。「考える人」が多い方が幸福になると私は思っています。


 日本は全体主義の国だと思います。欧米が個人を重んじるならば、日本は集団を重んじる、とはよく言われます。個人主義全体主義の文化的な土台が違うと言えるでしょう。


   ちなみに、政治的な全体主義、いわゆるファシズム社会主義と、企業、学校やクラブ活動などでの全体主義ではその意味が違うと私は考えています。政治的な全体主義の目的はは、秩序の維持と平等、社会的弱者の救済を可能にすること、だと言えます。それに対し、企業、学校、クラブ活動にそういった目的がどれほどあるのか、それが、不明確なことが多いのです。わりとよくある目的は、「組織内の人に不平等意識を抱かせないため」といったようなことでしょうか。民間団体では、誰のために、何のためにやってるのかわからない全体主義というのがよくあります。何をしているのかわかっていないけれどやっている全体主義、これこそ人間疎外が人間疎外を生み出していると言えるでしょう。