ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

Seesaaからお引越し

 Seesaaブログ「ロロの空想」からお引越ししてはてなの住民になりました。皆さま、なにとぞよろしくお願いいたします。

 引越しの理由というのは、わりと単純でして、Seesaaよりはてなのほうが記事が見やすいということと、利用者が多いので、自分の記事も読んでもらいやすくなるかもしれないという予想によります。

 このブログは、私が思ったことをつらつらと書き連ねる日記みたいなものになっていると思います。哲学が好きだったり、ほかにも色々な分野の知識を集めるのも好きなので、考察や意見、主張なんかが多いブログになっていると思います。

 自分の考えをまとめるという役割もこのブログには担ってもらっていますが、できればやはり、自分の考え、思っていることなんかが多くの人に読まれてほしいなあという希望も持っているのは確かです。それほど他の人が読みやすいような、興味をもつ分野のブログではないのかもしれません。しかし、私自身の魂をぶつけて書いている記事が多く、割と自分ではブログの記事の中身は気に入っています。

 これからは、前のブログを引き継ぎ、記事はこちらに投稿するつもりです。

 

 これから、このブログが成長しますように。

中二病でも恋がしたい! 感想「中二病とニヒリズム」

 (20171/11 修正・追記)

 

 まずは前置きから。

 『中二病でも恋がしたい!』は、誤解を恐れずにざっくり言えば、父の死を受け入れられないことから中二病を装う少女と元中二病の少年を中心とした恋愛青春群像劇と言えるだろう。

 中二病については、「こうあったらいいなという願望としての妄想」と「自分が特別でありたいという願望」の二つの観点から考えるべきなのだと思うが、ここでは「こうあったらいいなという願望としての妄想」の側面から中二病を語ろう。「自分が特別でありたいという願望」については、自分の存在価値、存在理由の問題として考えなければいけないので、今回はそれについては詳しくは語らない。

 なんとなく、読書感想文なんかでラノベとかを読んでこんな感じで感想文書いてくれる中高生いたらいいな、って思いながら感想書いてるので、もしこれを読んでる中高生いたら、参考にしてもらえたら嬉しいな。

 この記事については、哲学的観点から中二病について考えるので、哲学に馴染みの薄い人にはわかりにくい書き方になってるかもしれないけれど、そういう人にも読んでもらえるように、できるだけかみ砕いて書くように心がける。とは言うものの、自分もそんなに哲学について詳しくなく、むしろ素人であって、正確に理解しているわけではない。したがって、間違った解釈をしているところも多いかもしれない。そういうときは指摘をいただけると嬉しいな。

 

 中二病というのは、例えば、魔法が使えたらいいなとか、ビーム出せたらいいなとか、現実にはあり得なさそうなファンタジーの世界に空想を膨らませ、それにたっぷり浸っている状態だと思う。「組織に追われている」という設定なんかもわりとメジャーな中二病設定だから、ファンタジーに限らず、「こういう世界なら」という空想、妄想の世界に浸っている状態といってもいいだろう。中二病はそういった空想、妄想の最たる例だから、「そんなものは空想だ。」「現実にはありえないことを想像して遊んでる。」と言い捨てられやすい。でも、果たしてそれを中二病の問題だと呼んでいいのだろうか?

 「全ての物に魂が宿ると考えるアメニズム思想」とか「白馬の王子様に迎えに来てほしい。」とか「若くてイケメンで背が高くて家庭のことに協力的な年収2000万以上の男の人と結婚したい。」とか「宝くじ当たればなあ。」とか「神社やお寺で罰当たりなことはしてはいけない。」とか「お墓参りのときにお供え物をする」とか、そういったことと中二病の違いというのは何なのだろう。これらのことと中二病とは全く違うと言い切れるだろうか。どの問題にも共通しているのは、「現実には実現する、もしくはあり得る可能性が低いものに対してそれがあり得るという希望を抱いている」ということである。これらの問題と中二病とはそんなに違うものなのだろうか?中二病とこれらの事柄とは、そのあり得る可能性の多少の差異はあれ、本質的にはそんなに変わっていないんじゃないかと思う。中二病は社会にそれほど受け入れられていないのに対し、それ以外の事柄はわりと社会に受け入れられている妄想、であるといえるだけじゃないのじゃないだろうか。

 中二病が好きな魔法、呪術、錬金術、占いなんかは、今でこそその信憑性が低くなったとはいえ、昔は盛んな分野だったし、人々も信じていた。魔女狩りなんてこともあったわけだから、呪術は信じられ、恐れられていたのは確からしいし、錬金術だって多くの学者が挑んだはずだ。そう考えれば、中二病が扱うテーマが今の時代にはもう信じられなくなっているモチーフを扱っているというだけで、他の事柄とも、やはりそんなに変わらないのかもしれない。単に、中二病が痛い人を見る目で見られてしまうのは時代の問題と言えなくもない。

 宗教に関すること、霊的なもの、神の存在などは、人は知らずの内に信じている。宗教は信じない、神も幽霊もいない、なんて言ってる人でも、先ほどの神社やお寺、お墓のような、「こんなことをすると罰が当たる」と教えられてきたようなことは、知らずのうちに信じてしまっている。世間体というものもあって信じているふりをしているだけの人もいるのかもしれないが、どこかでかすかに、霊的なもの、神様の存在、そういったものの存在がいることに賭けている人が多いのではないか。世界には色々な宗教があるし、それらに対して、どれほど熱心に信仰しているかも人それぞれなのだけれど、世界はきっとこうなのだろう、ということについて、人それぞれに何かを信じている。それがその人の人生において、生きる意味を与え、人生を楽しく、豊かで意味のあるものにしてくれているのかもしれない。これらのことと中二病と同じように、「こうあってほしい」「こうありたい」という願望、空想は、人に生きる意味や希望を与えてくれる。その当人たちにとって、それらの空想が真実のように思えるならその人にとってはそれは真実なのである。なら、中二病を「そんなのあり得ない空想の話だ。」と否定し、言い捨ててしまうことはいいことなのだろうか。真実を突きつけることは本当に正しいことばかりだともいえまい。その「真実」と自分が思っていることが本当に真実なのかどうかすら疑わしいというのに。

 「神は死んだ」と「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは言った。キリスト教的善は、弱者のルサンチマンが生み出した幻想だと斬り捨てた。キリスト教で語られることは、こうあったほうが都合がいいからという願望だと言っていると私は解釈した。人は、「これが正しいはずだ」と信じたいという気持ち、そういった「力への意志」に動かされて生きているともニーチェは言ったと思う。

 また、人間の心は、すべて神経の相互作用、物質的な動きだと考える唯物論的・人間機械論的な考え方は、解剖学や生理学の発展に伴ってより強くなっている。もしも、人間がそういった物質的な動きの集まりとするならば、人間は動く肉塊に過ぎない。人一人が死ぬことも、ただ、物質的に機能不全に陥っただけととらえることもできる。死人を蹴ったり弄んだりすることについても、ただ物質的な肉塊相手に遊んでいるに過ぎないと考えることもできてしまう。我々は、人間には精神があるもの、人格というものがあるもの、そんな風に信じているが、それも物質の動きの結果見える錯覚、妄想なのかもしれない、とも言える。人が死んで悲しむのに関しても、人がただの動く肉塊だとするならば、それほど悲しいことでもあるまい。ただ、動いていた肉塊が動かなくなったに過ぎない。そこに誰かの人格が見えていたとしても、それは錯覚に過ぎない。

 アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するQべえはこんなことを言う。

「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」

それは、人間を物質的に見る言葉の最たる例である。

 では、果たして、人間は、自分が信じたいものが妄想だと斬り捨てられ、そんなものはないと言われて、現実を見ろと言われてどうなるのか?

 きっと人間は生きる意味を喪失するだろう。生きる目的を見失うだろう。何かに意味を見いだすことができなくなるかもしれない。自分は生きていても死んでも同じと思ってしまうかもしれない。自分が信じたいことを妄想と言い捨てられ、現実を突き付けられた結果、人はニヒリズムに陥る。そうして、人は絶望するのである。

 キルケゴールは、絶望を指して「死に至る病」と呼んだという。絶望は人に生きる意思さえ喪失させる可能性がある。

 しかし、現実で自分の願望がかなわないものとわかれば、それをあきらめ、むしろ自分の思想をコントロールして幸せに生きようとする人々もいた。ストア派と呼ばれる人々である。これらの人々は快楽を享受して幸せを目指そうとしたエピクロス派(単に快楽に溺れるという意味での快楽とは違う意味らしいが)の人々と対比したよく語られるが、ストア派の彼らは自分の願望、欲求を抑え、コントロールすることで幸せになろうと試みたのである。ニヒリズムから絶望に陥ることを回避するために、こういった態度を取ることも一つの選択肢なのかもしれないが、訓練なしに誰にでもできることではないし、それもショックを和らげるための緩和策にしかならないのかもしれない。

 神の否定、霊魂の否定、唯物論の勢力拡大は、科学の所産であると言えよう。科学が世界を明らかにするにつれて、今まで信じられていたものの存在は、瓦解していった。科学は人に夢のない世界、現実を突き付けたのであった。科学の歴史をたどっていえば、あらゆることを疑い、明らからしい根拠があるものだけを信じようとする懐疑主義の所産であるともいえる。現代は懐疑主義というイデオロギーによって支えられている科学の時代である。これによって、多くの夢や希望はその存在を打ちくだがれたのであった。

 中二病とは、そういった現代のイデオロギーに対するアンチテーゼと捉えることも可能かもしれない。中二病の世界というのは夢がある。こうあったらいいなという世界の中で暴れまわり、その中で自分の存在というのは際立っていて、自分の存在価値、存在理由なんかも、そこでは輝いている。生きる希望にあふれた世界なのである。壊されてしまったはずの夢が、そこにはある。

 ハイデガーは、「存在」というものについて、その存在と自分との関係、自分にとってその存在がどういう意味のある存在なのかということが大切だと説いたと私は解釈している。何も、それは現実に存在しているものに対してだけ考えなくてもいいのだろう。現実に存在していないかもしれないと思っていることでも、それをあると思うこと、それが存在すると思い、それが自分にとってどういう意味のあるものなのかということが大切なのではないか。中二病の中で自分は組織に追われる主人公で、呪術や魔法が使えて、剣や銃、ビームや気功弾なんかを使って戦う。そういった自分の夢や空想が、自分にとってどういった意味があるものなのかを考えることが重要なのではないだろうか。

 『中二病でも恋がしたい』の六花は、彼女の空想の世界では父の死は受け入れられていなかった。しかし、それは彼女にとっては希望になっていたわけでもあった。本来はこうありたい、あってほしいという願望を、自分の空想の中では信じることで、現実に向き合い、絶望に陥ることを回避していた。彼女にとって、不可視境界線は希望だったのである。

 別に、六花のような、不幸の出来事に合った者にしか中二病が意味を持たないわけではない。それぞれの中二病患者にとって、それは生きる楽しみであり、希望である。それは、現実の味気無さにニヒリズムに陥り、絶望することを回避し、生きる希望を見いだす行為でもある。自分が信じたいものを信じることで、生きる目的、生きる価値が見出せるならば、それを仮定し、信じることはいけないことなのだろうか?そんなことはないはずである。そう私は思っている。

 「主観」と「客観」の問題は、多くの人たちによって取り組まれてきた。我々の見ている世界は、我々個人が「主観的」に見る世界は「客観」とは一致しない、そういった「主観」と「客観」の不一致がある。例えば、リンゴが赤く見えるのも、人が赤の色を可視光として認識できるからであって、違う動物なら違う色に見えているだろうし、同じ人でも、赤緑色覚異常の人には同じように見えていない。それぞれの人によって主観的な世界があるわけだから世界をどうとらえているのかも違う。そもそもみんな見え方が違うなら、ほんとに「客観的な世界」が存在するのかどうか疑わしい。そんなものはないかもしれない。ただ、「客観的な世界」があるだろうという妥当性、確信みたいなのがあるだけである。

 中二病にとっての主観的な世界が、中二病患者にとっては意味があるものなのである。人が認識し、反応しえるのは自分が主観的にとらえている世界に対してのみである。だから、中二病患者が、自分の主観的世界に自分なりの意味を置いたのなら、それはその中二病患者にとっては意味のあることになり得る。

 

 さて、これまでの話を総括しよう。中二病は、科学によって壊された夢、生きる希望、目的を取り戻し、ニヒリズム、絶望に陥ることを回避する手段になりうる。そして、中二病は「こうありたい、こうあってほしい」という願望の体現の形で合って、本来、そういった願望や妄想は人がみな抱えているはずのものである。そういう願望や妄想が、希望となり、人々の生に希望を与えてくれている。中二病は生きる希望なのだ。

 

 さて、最後に科学に関して問題提起をしておきたい。神や霊魂、その他あらゆるものの存在を否定してきたように思われる科学だが、人は科学が生活を便利にするのと代償に、夢や希望を失ってしまうのだろうか。科学は、夢を壊すことしかできないのか。しかし、そうとも限らない。量子力学は異次元の存在の可能性を示唆している。遺伝子や生物学に関する研究は、全ての生物に対して新境地を切り開いたし、分子生物学的な研究によって解明された生物のあまりに精巧な機構については、こんなのは偶然の産物ではなく神のような存在の誰かがそれを仕組んだのではないかと疑ってしまう人さえいる。一度科学によって否定された人々の希望や夢は、最近の科学によって再びその存在が甦ろうとしている可能性がある。果たして、科学は人々の夢を壊すだけなのだろうか?それとも人々に夢を与えることができるのだろうか?

 

こちら、落ちたのは沼じゃない。―中二病でも恋がしたい! 感想「中二病とニヒリズム」でも同じ記事を載せています。

 

他人を拒絶したくなる訳

 何か目的を持った文章を書こうと思ったけどダメだった。書けない。頭が回らない。なんでだろうかと考えてみたけど、やっぱり、自分の考えていることを書くというのは、自分の内面をそとにさらけ出すということで、やはり、自分の内面を知られてしまうのではないかという不安と闘わなければいけない。そこで、自分でもわからないうちに、自分でストップがかかってしまうのだろう。「それ以上書くのはやめておこう。それ以上、自分の内側が知られるのは怖い。」といった具合に。しかし、なぜ、自分の本当に考えていること、自分の内面を知られることが怖いのだろうと考えてみたけれど、それほど納得のいくような、明晰な答えは自分の中には得られなかった。とはいっても、いくつか仮説のようなものがないではない。

 考えられうるのは以下のような場合だ。相手に知られているのは自分の本心である以上、それを拒絶、あるいは否定されたときに弁解が難しい。自分の本当の内面でないなら、例えば、自分のうわべの考えなんかが否定された場合は、

「否定はしてきたけど、それは僕の本当に考えていることじゃない。僕の本当の考えを、あいつはわかっちゃいない。」

なんて自己弁解することで、自分自身を肯定することができるんだけど、本当に自分が考えていることについて否定されると、それに対する弁解ができないのだ。自分自身で、これが自分の本当に考えていることだ、と認めてしまっている以上、自分自身に対するさっきのような逃げ道としての弁解はできない。だから、怖い。それは一つかもしれない。

 ほかに考えられる可能性というのは、自分が考えていることをさらけ出した時に、そんなおまえの考えなんて聞きたいわけじゃない、お前のストーリーが聞きたいんじゃない、と言われる不安である。これは、それがそのまま存在の否定につながってくる。書いていて、こっちの可能性のほうが大きいんじゃないかと思ってきた。自分をさらけ出して語るということは、自分自身について、知りたいと思ってくれる人に対しては聞いていて面白い話になるかもしれないが、そうじゃない人にとっては聞いていて苦痛な話になるだろう。そのときに突き放されるのが怖いのだ。

「お前の話なんて聞きたくない。」

と。そう突き放されるのが怖い。それは自分自身の存在の否定に近い。自分が自分の内側を話すときというのは、自分の存在を認めてほしい、自分を知ってもらうことで自分を愛してほしいと考えている時だ。だから、自分は、自分のことを語ろうとする。そこで、お前のことなんて知りたくない、と切り捨てられることで、自分が持っていた「わかってほしい、愛してほしい」という気持ちと相手との温度差を感じずにはいられなくなる。そうして、自分がしようとしていたことに恥ずかしくなるのだ。

「自分は距離感を間違えて接していた恥ずかしいやつなんだ。」

そう否が応でも思い知らされてしまう。日本だけなのだろうか。いや、そうでもないだろう。想像してほしい。自分のことを好きでもない相手に対して、その相手が自分のことが好きなんだろうと勘違いして、

「今日一緒に帰ろうよ。」

なんて言ってみたりして。自分は、相手も喜ぶはずだと思ってかけた声も、相手からしてみたら、別になんでも思ってない相手から「帰ろうよ」と声をかけられてしまった。

「別にうれしくもないし、むしろ煩わしいし迷惑だなあ」

なんて思われていたことを知ったとき、あなたはどう思うだろう。死にたくなるに違いない。

 つまり、自分の考えている内側を明かすというのはそういうことなのだ。自分の思考、感情を明かすということはそういう行為に等しい。だから、怖い。そういった距離の詰め方の間違いを想起させる。間合いを詰め込んで、至近距離でカウンターを食らうようなものだ。たまったものではない。即死のパンチである。

 愛の告白、というのは大きなハードルとなっているのは、こういった点にある。普通、人はみな、自分が誰に対してどう思っているのかは隠して生きている。常にフェイクである。常に距離感を隠し合っている。だましあいの戦いである。もし、仮に相手が、自分に対してある程度好意的感情を持ってくれているとわかったとしても、それがどれくらいの好意かはわからないのだ。月に一回ご飯にいくのがOKな仲だととらえてもらっているのか。三日に一度会いたいと思われているのか。一緒に暮らしたいくらいに思われているのか。基本的に相手の好意よりも、自分の好意が上回ってしまったとき、相手が求めている間合いよりも詰めてしまう可能性がある。そのときには

「うっとおしい。」

という強烈なパンチを食らってあえなく即死である。だから、相手との距離感を計るときには、相手がどれくらい好意的に思ってくれているか、というのを超えてしまってはいけない。つまり、相手が許容してくれている間合いより詰めてはいけないのである。こういった事情があるから、お互いに、相手を自分をどのように思っているかを悟られないようにしている。つまり、間合いを知られないようにしている。それを知られるということはすなわち、行動が相手優位になるということだからである。相手に自分の作戦、内部情報を知られることに近い。自分の相手に対する好意の度合いが漏れてしまえば、相手に好きに間合いを選択されてしまう。つまりは相手に翻弄されてしまう。しかも、自分の好意具合が知られてしまうというのは、相手に、自分の間合いはここまでです、と一度近寄ってみるようなことである。つまり、自分の好意の度合いを知られた時点で、「うっとおしい」と言われれば、すなわち自分は即死なのである。自分の好意具合を知られるというのは、相手に人間関係の優位に立たれてしまうこと、そして、カウンターを食らってしまうことの危険性、そのどちらも併せ持っている。しかし、実は人は、できるだけ、人と間合いを詰めることを許されたいと願っている。これは承認欲求ゆえである。孤独ゆえである。だましあいをしているが、それは自己保身のためであって、実際は自分を受け入れてほしい、間合いを詰めることを許されたい、と願っている。つまりは愛されたいと願っている。

 相手に自分の好意度合いを知られまいとするために人は人を拒絶する。フェイクをかけるわけである。または、自分から間合いを必要以上に詰めてしまうことを恐れて、カウンターをくらわないように、あえて必要以上に下がるのである。相手との距離を広げるのである。これが、自己保身のための拒絶といえる。

 信頼と裏切りのようなものだ。相手をどこまで信用できるか。自分がどこまで間合いを詰めていいと許されているかを信頼することで、相手への間合いが詰められる。しかし、相手が許容してくれる範囲が自分の想定より遠い間合いだという可能性がある。人は、それが想定よりも広かった場合、「裏切られた」と感じる。裏切りにあった場合、精神的傷、損失は大きい。だから、信頼できる人のところで、間合いを詰めるのが安全で安心なのだ。初対面の相手でも大っぴらに自分のことを広げられる人は、相手は自分を拒絶しないだろう、これくらい間合いを詰めても大丈夫だろう、という他者への信頼がある。一般的に他者への信頼度が高いのである。そして、他者への信頼度が低い人は、自分の内面を簡単には出したがらない。常に韜晦している。そういう人が、自分の内面を安全域以上に出してしまったと思い返して感じてしまったときには、夜も不安で眠れなくなる。やってしまった、という自責の念に駆られて、夜々呻吟することだろう。それくらいに、間合いを間違うというのはダメージが大きなことなのである。

 だから、そういったダメージを極力まで小さくするためには、他者を嫌うこと、他者を一切拒絶することが一番である。厭世的な気持ちになって、他者を拒絶する。他者に自分を見せることを拒絶する。そうして、自分が許容可能な間合いをできる限り小さくしてしまえば、自分から他者に間合いを詰めることはなくなり、間合いを間違えて詰めてカウンターを食らってダメージを負うことがない。傷つかなくて済む。自分を守れる。傷つきたくなければ、もっとも戦略的にはよい選択肢である。ただ、自分を認めてもらいたい、承認欲求、愛されたいという欲求は永久に満たされない。自分から他者を拒否するのだから、他者は近づいてこれない。当然である。だから、傷つかないことには成功しても、これでは愛されることはかなわない。一つの希望をかなえる代わりに、もう一つの希望を切り捨てるのである。また、他者を拒絶するというのは、他にも問題を抱えている。自分が傷つかない代わりに他者を傷つけてしまうのだ。自己保身に走ったための副産物である。利己的になった結果、他者を傷つけるのである。だから、本来、他者をまるっきり拒絶するという方法はとるべきではない。傷つかないかわりにデメリットが大きい。表面にとげを張り巡らした、非常食しか抱えていないシェルターに隠れるようなものである。近寄ってきた人を傷つけるし、おいしいもの(愛されるという経験)はそこでは得られない。

 愛の告白のハードルが高い理由についてようやく触れることができそうだ。愛の告白というのは、相手に、自分の好意の度合いを伝える行為である。そして、ゼロ距離まで相手に間合いを詰める行為である。愛の告白は、好意の度合いとしては最上級であり、間合いはゼロ距離までつめる。つまり、カウンターは食らえばもちろん即死だし、相手も最上級に自分を愛してくれていないと、自分のほうが相手の許容する間合いよりも詰めてしまうことになる。つまり、相手が自分と同じ好意度合いであることはあっても、自分より好意度合いが上になることはないという状況なのである。引き分けと負けはあっても、自分に勝ちはない。勝負としてはなかなか乗り気にはなれない。また、人は経験的に、一度最上級まで好きになった人は、その後も特別であり続けるということを知っている。自分の経験からも、他人の噂からも知っている。だから、普通の友達付き合いなら、三日前までならこの間合いまで詰めることが可能だったが、今日はどうかわからない、といったことが起こりうるが、最上級の好き、つまり愛の告白がなされた場合は、そう簡単に詰めてよい間合いが変わるということは少ない。いちいち、

「三日前に告白してくれたことについて、三日前から気が変わって今も好きでいてくれるかはわからないから、その告白に対して今返事をすることが妥当なのかどうかはわからないけど―。」

なんて切り出したりはしない。三日前好きと言ってくれたなら、今日も好きでいてくれるだろうという自信が持てる。

 こうしたように、愛の告白というのは、相手に自分の扱いの権利をすべて捧げることに等しい。生殺与奪権は相手に与えるということである。故に大きな冒険である。しかし、もしも、相手が最上級の好き、で応えてくれた場合、一気に詰めてより間合いが自由になる。そして、愛されているという感覚、認めてもらえるという感覚、そういった感覚がコンスタントに得られる。承認欲求が継続的に得られる。そういった見返りがある。だから、こういうこともできる。愛の告白は、ハイリスクハイリターンのギャンブルなのだと。

自発的に自宅に閉じ込められている人々。

 家にいると、思い圧迫感と束縛感を感じることがよくある。そして、どこかに出かけたくなる。解放感のようなものを求めて。しかし、用事がないのに出かけたところで、行く当てなどない。家から出てみたところで、目的地はない。だから、どこにもいけない。どこにもいけないといった束縛感からは逃れられない。そういうときでも、とりあえず、家から離れたりしてみる。自転車を走らせて、適当に、当てもなく、移動してみたりする。しかし、それによって得られる実感というのは、まるで、空を殴ったかのような、のれんに腕押しとでもいったような、まるで達成感も満足感もない、そういった感覚である。やることがない。外に出て、やることがない。たしかに、やることを作ろうと思えば、作れるのだ。家の中で、勉強とかでもしてればいいし。絵をかいたり、文章を書いたり、お金になるようなことを探したり。掃除をしたり、洗濯をしたり。そういったことがないわけではない。しかし、それはしてはしなくても、すぐに支障が生じるようなことではないし、最終放っておいても何とかなる。それによって、益を得るのは自分だけだし、自分の責任である。しかし、そういったことからも逃げたくなるのである。

 一人で何かをしたところで、それはほかの誰からも観測されない。観測されないので、何をやろうがやるまいが、他の人からすればどっちでもいいのである。自分の存在したという痕跡は、どっちにしろ観測されない。一人でいるときの、束縛感、圧迫感というのは、そういうところからしょうじるのかもしれない。家にいて何かをしたところで、そのときに自分の存在の証は刻まれない。自分が存在していようが、存在していまいが、世界からしてみればあまり変わりがないのである。そして、それが嫌だからといって、何かをしようとしたところで、考えてみれば、ぼくにできることは何もないのだ。何もしていない、ではなく、何もできない。さらに、僕のそのときの感覚をより伝わりやすく表現するならば、何もすることを許されていない。つまり、何もしてはならない、といったように、誰に命令されたでもないが、自分の家に拘束されているのである。休みの日に、仕事もしていない。学校でやることもない。そんなにお金も持ってない。特にやるべきことも持っていない。そういった状況さえあれば、別に錠もいらない。僕は勝手に、自発的に、家に閉じ込められることになる。出かけるのにもお金がいる。お金なくして、どこにもいけない。近場で、何か目的がある用事も存在しない。お金があれば、なんなと用事は作れるだろう。経済活動も、商業活動も、慈善活動だって、できる。しかし、お金がないというのは、それだけで行動制限になっていた。なら、働けばいいじゃないか、と人は言うかもしれない。しかし、自分の都合のいい日だけ働ける仕事というのはなかなか少ない。学校の授業が始まってから働かなくてはいけないのも、なかなか都合が悪い。お金がないとはいえ、自分の創作活動の時間は削りたくない。そう考えてしまう。宿題をやるかどうかはともかく、夏休みの後半に、宿題が終わっていない状態で、どこかに出かけることをよしとはしない子供のようなものである。

 時間があること、移動に権力的圧力がないことだけが自由とは言えない。身体の自由があるとはいっても、実際、現実世界、お金がないと自由に何かをできないことは多い。実質の自由の制限である。僕だって、やりたいことはたくさんある。しかし、お金がない以上、できないものはできない。たとえば、友達同士で集まるのだってお金がいる。公園でもいいじゃないか、と人は言うかもしれないが、炎天下の公園に友達で集まったところでできることは知れている。何か遊ぶにも、何か話すにも、屋内のちょっとしたスペースが必要なのが今の文化である。身近に会おうにも、自分の家か、相手の家くらいしかないような気がするが、この時代、家にお邪魔させてもらう、もしくは家に来てもらうというのはなかなか簡単にはいかない。家庭の事情もある。家族だっているわけだし、一人暮らしだとしても、門限があるところだってある。結構神経を使わなければいけない時代である。それに、交通の便が発達したということもあり、知人、友達が近場にいるという例は結構少ない。たいてい、会うのにも一時間くらいかかる。そう簡単には会えない。

 そういえば、小さい頃から、こういった束縛感は感じていたのかもしれない。しかし、自分で、この束縛感に名前を付けることはできなかった。今なら、まだ車があることで、移動可能な範囲はだいぶ広がった。しかし、幼いころ、といっても小学生の頃は高学年になってもずっとだった気がするから、あれを幼いころといえるのかは微妙だから、まあ子供のころ、僕は、自分の家から半径200mくらいから出ることができなかった。母親に禁じられていた。と、それだけを聞くと何やら危険な雰囲気を感じ取る人がいるかもしれない。たしかに、うちの母親は、かなりしつけが厳しい人である。それは今でも変わっていない。子供に対する信用はかなり低いし、過保護なところもあるだろう。僕の住む家の近くには、車の往来が激しい道路があったのだ。ほんとにすぐそばだった。100mもなかった。母親は、僕が小学生以下だったころ、その道路へと出ていくことを禁じていたのである。要するに安全性の確保である。そして、僕が住んでいた住宅街はコの字型の住宅街だった。だから、その道路と反対側に回ろうとしたところで、どっちみち同じ道路に出てしまう。小学生の僕にとっては袋小路だった。逃げられない。ゆえに、半径200m。僕は、そのエリアから出ることが許されていなかった。ほんとうに、具体的に、小学生の全期間にわたってその命令が敢行されていたのかどうかは、今思い出してみると怪しいのだが、しかし、僕は、小さい頃から家の周りにとらわれていたことは確かだった。その後、その往来の激しい道路を歩くことを許されるようになっても(それでも歩道上で歩いてよいエリアは、歩道を縦半分に分けたときの車道と反対側のエリアだった)、例えば、中学生になっても、僕は、近くのちょっとしたショッピングセンターに行くことさえしていなかった。僕にはできなかったというべきなのかもしれない。学校で、そういった商業施設の立ち入りを禁止していたのである。そういった商業施設にはゲームセンターなども入っていた。そういった現場などに溜まる、不埒な輩に絡まれたり、その他面倒なトラブルに巻き込まれたり、もしくは巻き起こしたりすることを未然に防ぎたかったものと考えられる。中学生が被害者になるだけとは言えない。中学生は加害者になる可能性も大いに持っている。特にガラの悪い中学生がいた中学校となればなおさらである。今思えば、生徒の私生活にまでその権限を伸ばす行為は越権行為と言えなくもないが、当時、規則を遵守することことを正義としていた僕にとっては、禁止された行為を行うことは、自らの正義心のもとにできなかった。もし、仮に、自分の正義心が許していたとしても、学校で禁止されていること、親に禁止されていることは決してできなかったであろう。当時にして、最大の脅威にして、最大のパトロンだったのは実の親であった。その親が、特に母親が、そういったことは許さなかった。考えてみれば、僕の「規則を守る」といった正義心は、自分の判断に由来するものではなかったように思う。母親に守れと言われていたから守っていた。ただそれだけのことだったのかもしれない。刷り込み、である。僕の正義心、良心は、母親からの刷り込みの側面があった。母親の言いつけに従わない場合、鉄拳制裁、あるいは兵糧攻め経済制裁などが敷かれていたように思う。幼いころの僕にとっては、母親は絶対的権威者だったのである。母親には逆らえなかった。もし、母親の言いつけを破る隙があったとしても僕にはできなかった。僕はそういった風に刷り込まれていたし、僕の良心も、そういった風に育てられていた。誘拐された被害者が、逃げる隙があっても逃げようとしないのと同じだったのかもしれない、などというと、母親の子供への対応がまるで誘拐犯かのような誤解を生むのでやめておこう。母親は、そういった厳しい処置に対応するかのように、母親としての仕事も全うしていた。過保護で、過干渉だった、というだけなのだろう。

 そのように、僕は小さいころから、自分の家を中心として、あまり、遠くへと出かけることも、どこかのお店へと出かけることはなかった。自発的に家に閉じ込められていたのであった。

 さらに、高校生になっても状況はそんなに変わらなかった。多少行動範囲は広がったとはいえ、僕が住んでいたのは田舎だったし、通っていた高校もまた田舎にあった。どこか、都会地域に出かけようとすると、山を越えなければいけなかった。車がないと、行けるところは、住宅地の近くの小さなショッピングセンター、スーパー、そういったところくらいしかなかったのである。車がない、それに電車にのるお金がない高校生(バイトは禁じられていたし、する余裕もなかった)には、やはり、どこにも行くことはできなかったのである。今と状況はかなり似ているかもしれないが、当時は、今よりもお金は圧倒的に少なかった。

 こうして考えると、僕はこれまでの生涯を通して、ずっと自分の家の近くに閉じ込められているのかもしれない。外に出る目的も、外に出るためのお金も、持ち合わせていない。そういった束縛感を僕は抱えていたのであった。そして、それは多くの人が抱えているのではないだろうか。自由であって、自由でない。身体的自由は何でもできる自由ではない、そういった束縛感。しかし、家ずっといると、自分の存在を他の人に認知してもらえない。それゆえの孤独、不安。そういった束縛感と孤独から逃れようと、多くの人は予定をスケジュール帳に詰め込むのではないか。バイトを入れたり、クラブの予定を入れたり、塾に行ったり、旅行に行ったり。自分の家に束縛されること、自分が一人でいることで、誰にも観測されないことが、怖いのだ。それに恐怖すら感じている。「自由の刑」ともまた違う。自由であるように見えて、どこかに幽閉されていて、孤独に震えていなければならない。そういったことが、交通網が発達し、都市の周りに住宅地ができ、地域の人とのつながりが薄れ、あらゆる他人への警戒が上がり続け、自由な公共の空間が減り、経済的格差の存在する社会での問題ではないのだろうか。

 都市の在り方、経済の在り方は、人々の生活スタイルを大きく変えてしまったが、その原動力となっているのは、人々の中の不安や恐怖なのではないか。働きづめな人、いつでも誰かと一緒にいる予定を入れている人、そういった人にはわかりづらい、見落としがちなポイントだ。しかし、そういった人ほど、こういった恐怖や不安に目を向けないようにするために、日々、忙しく生きている。日本の、クラブや学校の体育会系の悪しき文化、企業のブラック文化、こういったものも、この人々の恐怖や不安とは無関係ではないだろう。むしろ、かなり、密接に働いている。人々の動きを決める側は、どうせ休みにしたって家でだらだらするくらいしかやることはないんだろうから、クラブに、学校に、会社に、来い、といった感覚を持っている。自分の経験を、他者も同じように持っているものとして、無意識のうちに人々の動きを計画する。そして、召集される側も、それにより、不安や恐怖が解消されるならありがたい、とそれに応えて出かけてゆく。しかし、人々は、本当に自分が何を恐れているのか知らない。自分が、孤独感や束縛感に怯えていることを知らない。だから、この問題は、意識的に認知されない限り、解決することはないのだろう。皆、見えない何かにとらわれたままなのである。

 さて、ここが一つの話の切れ目である。前半部分、というか、訴え一は終了、続いて訴えニに入るといったわけなのだが。書いているほうは少々疲れてきたし、読んでいるほうも結構疲れてきたほうだろう。でも、せっかく話が今の続きになっているのだから、続けて書いてしまおう。

 さて、上に述べてきたように、人々が自分の家に縛られている状態というのを述べてきたが、これは趣味を持たない人間にとってはさらに苦痛なことになる。音楽を聴いたり、アニメを見たり、本を読んだり、そういったことも趣味にカウントできるのかもしれないが、そういった趣味はここではカウントしない。それは、あくまで受動的な趣味である。ここで言及したいのは、能動的趣味だ。釣り、楽器演奏、作曲、動画制作、絵を描く、本を書く、起業する、などなど。起業を趣味というかどうかは微妙なところだが、そういった、自分たちの力で何かを作ろう、というそういった趣味のない人にとって、するべきことがない、そして、移動も制限されている、といった時間は持て余してしまうこと限りない。先にも述べた通り、僕は、自分が家の周囲に閉じ込められているという感覚を持っている。たしかに、それは辛い感覚ではあるが、僕は何か創作するという意思、それに合わせた自分の行動計画を持っている。だから、僕は乗り切れる。長期休暇はむしろ、僕にとっては絶好の創作チャンスだ。そういった時間こそ待ち望んでいたものである。しかし、そういった創作などの能動的趣味を持たない人にとって、休暇とは、ただ娯楽を享受すること以外にするべきことがない。自分から、何かを動かせないでいるのだ。そうすると、どうだろう。休暇が長くなればなるほどに、飽きてくるだろう。そんなに休みはいらないと思い始めるだろう。休暇を、娯楽の消費でしか過ごす方法をしらないと、そうなってしまう。働く人、学生、何人かに聞いても、それを思うわせるような答えをする人がいる。働くのが、学校に行くのがめんどくさくなって、休みを数週間もらっても、すぐにやることがなくなって、退屈になってくる。そして、はやく仕事に行きたい、学校に行きたいと思いだしてくるのだ、という人を多く知っている。経済的な拘束だけでなく、自分に能動的趣味がないために、ほんとうにやるべきことが見つからない。自由の苦しみ。退屈に死にそうになっている人がいる。

 そういった人というのは、スケジュールが過密になり、人間が機械の歯車のように社会に組み込まれてしまっている現在社会の構造によるところが大きいと僕は思っている。しかし、これは、人が機械の歯車のように社会に組み込まれることによって、人は、自由な時間の過ごし方が全くもってわからなくなっており、再び、自らの意思で社会の歯車に組み込まれようとする、といった状態である。歯車が歯車になりたがるなんて、なんてよくできた機械だろうと思ってしまう。

 しかし、近いうちに、人工知能とロボットが今の人間に変わる時代が来るだろう。そのときに人間はロボットに仕事を奪われて、やることがなくなるだろう。しかし、広範な職業でロボットによって仕事を奪われた結果、失業した人々はお金を失って経済格差が広がる未来が来るかというとそうではないだろう。ロボットが発達するにつれて、ベーシックインカムの制度が現実味を帯びてくるだろう。月々、すべての国民に一定のお金が支給される制度。もし、それが実現すれば、資本主義の時代は終わりを迎える。共産主義に近い時代がやってくるかもしれない。こういった未来は、技術力の上昇による生産効率の上昇により、ほぼ間違いなくやってくるだろうと僕は考えている。

 しかし、そうなった社会で、人は自由に解き放たれるのである。言い換えれば、人はすべきことがなくなるのである。そのとき、人はいったい何をするのだろう?能動的な趣味を持っている人は、そういった人たちでお互いに集まって過ごすことができるだろう。しかし、それまで、休暇といえば娯楽を消費するだけの日々を過ごしていたような人たちはどうなるのだろう。退屈さに死ぬかもしれない。自発的に自分の生きる意味を見つけられなくなって葛藤に苦しむだろう。人々は生きる意味を探して葛藤するだろう。社会の歯車として生きてきたのだ。それまで、自分の人生に対して、自分で決めてきたというわけではない人たちである。その状態から、自分たちの人生に対して目的を見つけられる人は少ないだろう。

 考えられる未来はいくつかある。一つは、新たな集団の形成である。社会的慈善活動や、思想・宗教による集まりが増えるだろう。その数も、頻度も、である。

 そして、二つ目。文化の発展が考えられるようになる。それまで技術革新ばかりが注目されていた社会から、今度は、文化に目を向けられるようになるのである。

 そして、三つめ。争い行為である。もはや、十分な時間がある。上記のようなことに興味のない人たちによって、争いが頻発することだろう。お金をめぐる争いかもしれないし、土地をめぐる争いかもしれない。人をめぐる争いかもしれない。自分に余裕が出てくれば、利己的な人間は、さらなる利益を求めて、他人から略奪をもくろむものである。ベーシックインカムが保障されているなら、罪を犯して、会社を首になっても大して痛くはないのだから。

 こうしたように、現在の社会構造により作られている人々の精神的土壌は、次なる時代に対してはあまりにも不向きなものである。自由にはなれない。自ら自由になることができないように精神的土壌が作られている。しかし、そういったことについて、気付く人はほとんどいないだろう。

今の自分は本当の自分じゃないんじゃないか

 今の自分が、本当の自分ではないんじゃないだろうかと不安になるときがある。僕を支える構成成分、何が好きとか、何が嫌いとか、何がしたいとか、何がしたくないとか、そういったもの。僕がどういった人間であるかというのは、そういった言葉でしか表せない。じゃあ、その「何」がない世界では僕はどういう存在なのだろう。  僕は、自分の考えていること、思っていることを言葉にして出す。でも、考えていることを言葉にして表現しようとすればするほど、逆に、自分が、自分が発した言葉によって規定されてしまうような気がしてしまう。自分を表現しようとしたものに自分を乗っ取られてしまうのじゃないかという感覚に陥ってしまう。僕は、言葉で何かを伝えたいんじゃなくて、言葉によって自分を定義しようとしてるのではないかとさえ、思ってしまう。  先ほどのことに関しても、本当に、自分が好きなもの、嫌いなもの、そういったものを選んでいるわけではないのかもしれない。そこに、それがあるから、それが好きとか嫌いとか言える。それがない世界では何も言えない。僕は、自分自身の存在を世界に示そうとして、逆に、世界によって自分自身の存在を規定されているのではないかと不安になるのである。この世に何も存在しなかった場合、僕は存在しえない。世界が無だった場合、僕も無である。だから、僕という人間は、本質的に無なのかもしれない。からっぽで、何もない。ただの容器に過ぎないのかもしれない。世界によって、僕は存在させられ、生かされているのに過ぎない。

しゃべるほどに嘘になる。

 しゃべればしゃべるほどに自分のしゃべることが嘘になる。そんな気がする。僕は、何一つ本当のことなんて言っていないのではないかという気になる。自分がしゃべっているのは、本当に自分が考えていることじゃないんじゃないか、と思う。自分は本当に考えていることをしゃべっているのか、しゃべっていることを自分の考えていることをように錯覚しているのか、どちらなのだろう、と不安になる。

 僕は、人の印象なんてのは、ほとんど癖で決まっているんじゃないかと思っている。印象といわず、もっと大胆に、性格、といってもいいかもしれない。多くの人の行動原理を考えてみてほしい。その行動の中で、自分の行動を実行に移した結果としての行動はどれほどあるだろう。実際のところ、あらゆる行動は、その人の癖なんじゃないかと思ってしまっている。いつもやっていることの繰り返し。その延長としての癖である。行動がわかりにくいというなら、話す内容について考えるとよりわかりやすい。誰かが誰かに話をするとき、それに対して相槌を打つとき、その話す内容のどれほどが、その人がほんとうに考えていたことなのだろう、と僕は思うのだ。思い出してみてほしい。あなたは、人と話すときに、ほんとに考えていることだけを話しているだろうか?おそらく違うと思う。人は話す内容に癖がある。よくしてしまう返しがある。相手がぼけたときのツッコミの仕方に癖がある。話す内容だって、きっとそれほど考えて話しているものじゃない。自分が誰かと話しているのを思い出してみて、どれほど、自分が話していた内容について思い出せるだろうか。おそらくはほとんど思い出せない。他の人みんなに聞いたわけではないから、みんながそうだとは断定できないが、少なくとも僕はそうである。会話は行き当たりばったりのアドリブである。アドリブでは、癖が出る。

 そう考えると、僕たちの人の性格の判断なんて言うのは曖昧なのだ。他の人の癖を性格だと思い込んでいる。よく、「大丈夫?」と声をかけてくれたりするのも、きっとその人の癖である。言葉の癖、思考の癖である。「ありがとう。」とよく言う人も癖である。そんな癖に対して、僕たちはその人の本質を覗いたような気持ちになっている。だから、僕は思うのだ。人の印象なんて、その人の本質を映してなどいない。

 しかし、どうだろう。話に出てくる言葉ややり取りが癖だとして、その癖がその人の一部ではないといえるのだろうか。もはや、その癖も含めてその人の性格なんじゃないだろうか、と思ってしまうのである。自分の意思の及ばないところで自分の性格が決まるとは何とも寂しい感じがする。

 そういったことを考えるに、本当に、自分で考えてしゃべっていることも、もしかしたら、ただの自分の癖なんじゃないかと思ってしまうのだ。自分ではほんとはちゃんと考えたことを言葉にできていないんじゃないか。あるいは、自分がそのときには自分が考えていると思っていたことを言葉にしてみたが、後から振り返るに、自分はそんなことを考えていなかったのではないか、と思ってしまう。自分でしゃべったことなのに、自分の考えていることと食い違う。僕にはよくある経験である。できるだけ、そういった食い違いがないようにはしたいと思っていても、やはり、完全に防ぐことはできない。

 第一、言葉が自分の考えていることを表現できるとは限らない。言葉とは曖昧な道具なのである。自分の頭の中のイメージを言葉にして伝えようとして、そのときに選ぶ言葉というのは、自分のイメージをそのまま表現してくれるわけではない。あくまで、自分のイメージに近い言葉を選ぶだけなのである。近似である。その時点で、言葉とイメージには齟齬が生じている。フィードバックを繰り返しながら、できるだけ自分の頭の中のイメージに近いものを言葉として表現しようと努力することしかできない。頭の中のイメージをそのまま言葉に変換するというのは無理な話なのである。

 言葉というのは、世界の概念を有限個に分節する道具なのだ。それはたしかに便利なのだが、やはり、限界がある。自分の考えていることをダイレクトに伝えることができない。イメージを言葉にしようとするときに変換が起きてしまうのである。そのときにいくらかのイメージは失われてしまう。ダイレクトに伝えたいならテレパシーくらいしか方法はない。

 だからこそ、既存の言葉で表現できる枠組みというのは限界がある。したがって、言葉にしたものが、本当に自分が伝えたいことなのかはわからない。言葉をたくさん発すれば発するほどにその不安は大きくなる。本当に今はなしていることが自分が伝えたいことなんだろうか。違うんじゃないか。こういったことが本当に自分が伝えたかったことなんだろうか。

 だから、僕は人の発言なんて不確実なものだと思っている。言葉は癖で発せられて、しかもイメージを決められた道具の中で変換したものでしかなくて、正確に、厳密に伝えることは困難である。だから、時間がたつにつれていうことが変わる、というのは仕方がないことだと思っている。時間がたてば、どういった言葉でイメージを伝えようとするのか、それが変わってくる。その結果、聞いている人にとっては逆のことを言っているように聞こえるかもしれない。それに、その時々の発言も、それが本当に正しいことを言っているとは思わないで聞いている。自分の発言に対してもそうである。本当に言葉で自分の伝えたいことが伝わっている確証はない。しゃべっている本人が、自分の考えていることを話しているつもりでも、実はそうじゃない可能性だってある。言葉はあやふやで、使うのが難しいものなのだ。

目をつぶして道を歩く怖さを知ってる?

 考えること、というのは結構体力を使う。体力勝負である。いや、この場合の体力というのは、肉体的な体力というのではなく、もちろん精神的な体力である。筋トレをしたからといって精神的な体力がつくというわけではない。ここでは、精神力といったほうがいいのかもしれない。しかし、それでは考えることの持久力といった言葉のニュアンスが伝わりにくいのではないかと思ってしまう。だから、僕の希望を言えば、どちらかといえば、ここは精神力というよりも精神的な体力という言葉を使いたい。考えることに精神的な体力がいるというのは、考えるのはなにせ疲れることだからである。僕のような変わった人は例外的に、好き好んで普段から考えているので、それについて考えるのしんどいからやめたいなあとかそういったことは思わないのだが、しかし、通常、一般人は、考えることは疲れるはずである。だから、すべての人に考えろ、考え続けろ、というのは酷である。考えろと言われなくても考え続けてしまう。常に考えていざるを得ない僕のような人間というのは一種の呪いにかかっているようなものである。一度装備したら外せない。考えるということを始めてしまっては、やめることができない。そんな、呪いのようなものなのである。

 しかし、僕は、「人々よ、考えろ。」と伝えたい。伝えるだけでなく、実際に、多くの人々に、今よりも考える時間を取ってほしいと思っている。考えることは苦痛で、自分のことを呪いのように考えなくてはいけなくてはならないと言っているのに、なぜそんなことを思ってしまうのか。たしかに、僕もこれは人々に今までよりもつらい労働のようなものを強いてしまうことになってしまうのはわかっている。しかし、それでも人々に考えて生きろと伝えたい。それはなぜなのか、それは後々語るとしよう。

 その前に、考えて生きることと考えないで生きることの功罪について語りたい。僕自身もそれほどにはっきりと確たる主張があるわけではない。だからここは、一緒に考えたい、というべきなのかもしれない。僕が読者の人に自分の考えを伝えたい、というより、僕が読者の人たちと一緒に考えたい、というべきなのかもしれない。

 それほど考えないで生きる、ということについてまずは考えてみたい。考えないで生きることを考えるという言葉に含まれている矛盾についてはここでは目をつぶろう。そこについてあれこれ議論をしていては、本筋の話が進まない。考えないで生きることのできる社会というのは幸せだと、僕は思っている。ぼーっとしていては誰かに捕食されるという危険はなく、気を抜けば誰かに殺されるということもなく、計画的に作物を栽培しなければ飢餓に陥るということもなく、ぼーっと生きていても、それなりに生きていける。そう簡単に死にはしない。何をしたらいいかわからなくなったら、人に聞けば何をすればいいか教えてくれる。特別、自分で生き残るために戦略を考えなくても、周りが生きるための王道ルートみたいなものを確立してくれていて、それに乗っかって生きていれば、そんなに深く考えなくても生きていける。殺されることも、餓死することもない、そんな安全ルートがあるというのはかなり幸せだ。

 そんな幸せなルートがあるなら、なるほど、深く考えて生きるというのは、そのコストに見合ったものが得られるとは限らない。深く考えなくても、よくあるルートをたどっていけば生きていけるのだから、考えることに労力をつぎ込むだけ無駄な仕事にも思えるかもしれない。それに、深く考えて、素通りすれば気付かない矛盾だとか、不条理だとか、そういったものにあえて目を向けることが幸せだとは限らない。目をつむっていればやり過ごせる。そして、それについてやり過ごしてしまっても、特段に自分を責める人がいない、ならば、それはやり過ごすのが賢いかもしれない。深く考えなければ目の前の幸せを謳歌できる。決まったルートを歩いて行って、決まったように幸せな人生を歩いて行ける。

 ただ、それは、本当に決まったルートを歩いて行った先に、幸せな生活が保障されている場合に有効だが、そうでなければ、この幸せは成り立たない。他者への信頼、ルートの先に生活が保障されているといった信頼の上に成り立っている生き方だ。しかし、信頼とはいっても責任者はいないのだから、その信頼が誰に対しての信頼なのか語るのは難しい。他者一般に対する信頼、もしくは、その決まったルートが正解だという世間に流れる噂への信頼なのかもしれない。巷説への信頼、というのかもしれない。ただ、やはり、そういったものを信頼して、疑うことをせず、決まったルートを歩いていると、例外には対処できない。例外エラーである。プログラムは停止する。エラーに対して対処するには、自分が歩いているルートの可能性を歩きながら吟味しなくてはならない。石橋を叩いて渡る、とまではいかなくても、歩きながらかかとで地面をたたきながら歩くぐらいはしたほうがいいのかもしれない。いいルートがある、という噂を信じて歩いて行って、もしもその先に思っていたような生活がなかったときに責任の所在というのは、かならずそのルートを歩いた人に求められるのだから。ルートは世間一般に言われているというのであって、だれかが故意にふいちょうしたというわけではない。仮にだれかにそそのかされたとしても、選んだのは自分だ、そう言われるのが世の中なんだから、何かあったときはすべて自分に責任を求められる。自分が選んだルート、自分が選んだ人生に対して、自分に責任を求められるのだったら、はじめから噂なんて信じずに、自分の考えるルートを選んで歩きたい、と僕なら思ってしまう。しかし、そんなことをいって、だれも歩いたことのないルートを歩こうとして、猛獣につかまったり、池に落ちたりしてたら、「やっぱり他の人の歩くルートを歩いとけばよかったなあ」なんて思うのだろうから、その判断は難しい。道があるから人が歩くのではなく、人が歩くから道ができるのだ、という言葉を聞いたことがある。なるほど、その通りかもしれない。多くの人が歩いているルート、というのはそれなりに理由があるのだ。そして、多くの人が歩いた後のルートというのは歩きやすい。歩いた後に道ができているのだから。道を歩くほうが歩きやすい。

 道があるから、どうとかこうとか、でもなく、そういったことを考えなかったとしても、やはり、普通の人は大勢の人が歩くところを歩きたがる。それが間違った道か正しい道かはともかく、である。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」

これはなかなか的を得た言葉だ。人は、自分の信念よりも周りの人との同調性を重んじるとはよく言われる。同調性の圧力というやつだ。その圧力によって、人は間違ったものでも、大勢の人が選んでいると選んでしまうことがある。しかし、さらに驚くべきことに、間違ったことであると最初は思っていても、大勢の人がその行為を選んでしまうと、それが正しいことに変わってしまうということがあるから世の中は恐ろしい。いわゆる数の暴力というやつである。世の中、正義は多数派なのである。先の赤信号をみんなで渡る話でも、もしもみんなが赤信号を渡っていたら、止まらぬ車が悪であり、一緒にわたらない歩行者が、協調性を乱す悪者になってしまうのである。これが民主主義の暴力なのかもしれない。絶対王政による権力の暴力が滅んだとしても、民主主義の数の暴力が台頭してくる。多いものが偉い。正しさ、というのはその際にはどこかに行ってしまうのである。いやいや、正しいものが何であるか、という概念すら、数の暴力は変えてしまう。多数派の意見が正しいのである、というのが今の民主主義なのだから。正しささえも変えられてしまう。数の暴力とは恐ろしいものである。しかし、もともと、数の暴力で正しさが捻じ曲げられる前の、「正しさ」すら本当に正しいのか怪しい。その「正しさ」だって誰かがそれが正しいと信じて作った「正しさ」なのである。考えてみれば、普遍的な正しさなんて、この世には存在するのだろうか、と不安になるのである。この世に普遍なんてものは存在するのか、「客観的」に見た正しさなんてものは存在するのだろうか。全ては「主観的」な正しさではないのだろうか。では正しさとは何だろうか、と考えてしまうのである。正しさはただの思想の暴力だと言われてしまえばおしまいである。それでも、本当の、できるだけ客観的正しさに近い正しさを探したい、という探求心を僕はまだ持ち続けているのだけど、それはなかなかに難しい道程だと言わざるを得ない。「客観」が存在するか怪しい世界で「客観的」に正しいものを見つけようとする無謀さを、僕は感じてしまう。だから、僕が目指すのは、できるだけ「客観」と思われるものに近いもの、言い換えると、「客観」だと言ってもあまり差し支えないようなもの、「客観」であるという確実性ではなく妥当性を重視したもの、そういった「客観」から見た正しさの追求なのである。

 しかし、数が正義であるという現実の事実には目をそらせない。直面しなければならない。しかし、人はなぜ、多数派に集まろうとするのか、というのは一つの謎である。同調性の圧力なるものはなぜ発生するのか。一つは、他の人と同じである、という同質性を感じることで、自分の存在が間違っていないということを感じたいのだろうか。自分の存在の揺らぎをなくすための同調性の圧力。間違ってはいないかもしれない。しかし、僕はもう少しわかりやすい理由があると思う。簡単にいうと、責任逃れだ。

 責任逃れ。人は皆、責任を負いたくない。自分の人生に対してすら責任を負いたくないと思う。自分が何か不幸な現実にぶつかったときは誰かのせいにしたい。神様を信じていれば、神のせいにできたのかもしれない。神が自分の人生をこう決めなさったのだから、これは仕方のないことだ。しかし、責任は私にあるのではなく、神にある。そんなことも言えたのかもしれない。しかし、僕は神を信じて、神の定めた運命だと生きているのではなく、自分自身が責任を負うべき人生だと、そんな風に考えて生きている。いや、それは虚言だ。神を全く信じていないとは僕は言えない。神がいるとも言えないし、いないとも言えない、それに関する判断はできない、というのが僕のスタンスだ。だから、僕はときどき運命論的なものも信じはするし、摩訶不思議なことも、起こるべくして起こったのだと考えたりする。歴史にifはないというが、現実にだってもちろんifはない。そんなものがあるとすれば、パラレルワールドだ。とまで言ったところで、僕はパラレルワールドの存在は割と肯定的にとらえていることに気付いたし、先ほどまでしゃべっていたことの着地点を見失ってしまった。

 話を戻そう。責任はだれも負いたくない。だから、多数派に混ざろうとするのだと僕は思う。多数派である以上、責任の糾弾は個人に対してはほとんど起こらない。多数派が正義で、多数派が社会をつくるのだから、その多数派を糾弾するというのは自らが自らを糾弾するという構図になる。多数派が正しいのだから、そんなことは起こらない。よって安全である。多数派の船に乗っていて何かにぶつかったとしたら、そのとき責められるのは乗っている人々ではない。なぜ、その船がぶつかったのか、その原因が調査され、再発防止につとめる、といった発言がなされるだけである。責任はだれにも追及されない。言うなれば社会の責任である。こうした責任逃れが可能だから、多数派に混じるというのは、ある意味、賢い選択である。

 だからこそ、深く考えずに、多数派に混ざってしまったほうが安全だ、と僕は思う。深く考えて、自分が正しいと思うことを選択したり、それは正しくないと意見をあげたりすることで少数派に回れば、自分が自分の行動に対して責任を負わなければならなくなるし、敵視されて攻撃されれば、それをかばってくれる隠れ蓑は存在しない。だから、深く考えて行動するなんていうのは、労力も必要で、責任も負う、そういったリスクがある。だから、深く考えないで、多数派に追従して生きていったほうが安全で楽で快適な人生なのではないか、と僕は思ってしまうのだ。

 しかし、それぞれが考えて生きているのと、多数派に追従して、安全と快適性を重視するのでは、本当に後者のほうが安全なのかと言われると疑問は残るのだ。多数派が乗っている船が沈没してしまえば、全員が死んでしまう。責任は自分になかったとしても、死んでしまってはおしまいである。そのときに、責任が誰にあるとか言っている余裕はない。死んでしまってはおしまい。これは間違いない。多数派に追従するというのは、そのルートの安全性を自分では判断しないということである。それによる危険性というものには自分ではもちろん気付けない。そのリスクを教えてもらえることも、その多数派に頼りっきりなのである。自分で考えて生きてることは、自分の行動を自分で責任を負うリスクがある。しかし、その分、自分で、自分の進むルートの危険性は吟味したうえで進むのだ。こちらのほうが、ポカミスによる死亡という可能性は少ない。多数派に追従して進むことを人を見て進むと表現するなら、自分で考えて進むことは前を見て進むと表現できる。僕は前を向いて進んでいきたい。自分に対して自分で責任を負わなければいけないとしても、他人のせいで死んでしまうのは御免である。

 僕が考えなければ生きていけないのは呪いのようなものだと思っている。一度、多数派に自分の責任とリスクを預けることの危険性を認識してしまった以上、もうそれはできない。自分で自分に対する責任を負おうと決めた。考えるのに必要な労力もいとわない。むしろ、今は、考えるといった労力も、自分で前を見て自分の進路を決めているといった自信になっている。そして、僕は自分の人生の進路だけでなく、多数派が乗っている船の進路に対しても、その進むルートが正しいのかどうか、警鐘を鳴らす役目を仕りたいと思っているのである。それが多数派に対する慈悲であるとか、優しさであるとか、そういった美しい言葉でまとめられるとよいのだが、結局は保身のため、というのが一番の大きな理由かもしれない。多数派から、少数派へ、自分で考えて、自分の人生に対して責任を負うといったものの、やはり多数派の波からは逃れられない。自分がどこかの社会に属して、その中でしか生きられない以上、少数派を気取っても、多数派の流れにはある程度従うしかないのである。そうしないと生きていけない。多数派の船から飛び降りたようで、実は自分が乗っている小舟は多数派の船とひもでつながっているのである。多数派の船が進む方向にはどうしても引っ張られて行ってしまう。やはり、保身のためにも、多数派の船には正しい方向に進んでいってもらわないと困る。自分の進路に対して責任を負うだけでは、自由にはなれないのだ。自由にはなれない以上、自分を縛っているものが進んでいく進路を自分で確認したい。その危険性、安全性、妥当性を考慮したうえで、間違っているなら警鐘を鳴らしたい。すべては保身のためといえるかもしれない。

 ただ、僕は思うのだ。警鐘を鳴らす役割の小舟が多ければ多いほど、多数派の船は容易に進路変更ができるはずだ。そう簡単には間違った進路を取らないだろうし、座礁して沈没したりもしないだろう。だから、できるだけ多くの人に、考えて、自分の人生に対して自分で責任を持って生きてほしいと願っている。多数派に追従するというのは怖い。自分の責任を軽くできる分、責任の所在がわからない。誰のせいで、どこに向かおうとしているのかわからない。沈没の危険性をはらんでいる。自分で進路の危険性を判断できる人が増えてほしい。だから、僕は人々に伝えたいのだ。

「人々よ、考えろ。」

と。