ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

人の足を引っ張ることの合理性

 なんでこんなことをわざわざ記事に、と思う人もいるかもしれないが、「人が人の足を引っ張る」というのは、どこにいっても結構深刻な問題なのである。会社員同士が、自分の評価のために足を引っ張り合ったりするのが生産性の低下を招くのはもちろんである。しかし、そういったことが目に見えてわかりやすいとは限らない。

 僕が問題視しているのは、相手の足を引っ張っているとは思わずに相手の足を引っ張っていることが多いということである。
 例えば、こんな例である。テストの点が悪かった生徒4人が、学校の教師に、
「テストの点が悪かった罰として、放課後に君たち掃除しなさい。」
と言われたとして、
「テストの点が悪かったからといって掃除させられるのは理不尽だ。余計勉強時間が減ることにつながる!」
と帰ろうとしたとする。
このときに、次のような発言をする生徒が出てくる。
「おい。俺達は掃除してるのにお前だけ帰るとかふざけんなよ!」
しかし、その生徒はそのまま押し通して帰ったとしよう。残りの生徒たちの会話では次のようなが言われているかもしれない。
「ほんとあいつないわー。協調性がないわー。」
 雰囲気最悪である。険悪なムードとはかくして生まれる。
 さて、この例において、本来生徒たちが抗議するべき相手は教師であり、テストの点が悪かった生徒たちはお互いに協力して抗議する仲間であるはずなのだが、お互いがお互いにずるを監視して、「足を引っ張り合う」という行動をとる。今回の場合の「教師の言うことが理不尽だとして命令を撤回させる」といった「根本的な解決策」の実行が難しいときほど、この傾向は顕著に現れると推測される。
 この心理傾向を活用(悪用?)すると、人間たちを「管理」するときには非常に有効な手段になる。管理者が直接管理しなくとも、構成員同士が勝手に牽制しあってくれるため、管理コストが下がるのである。そして、過去に実際にこの心理傾向を政治に活用したのが、かの有名な「五人組」である。五人まとめて連帯責任を負わせて、お互いに監視をさせるという巧妙な手段である。ほんとによく考えたものである。今でさえ、このときの文化が残っているから日本人は連帯責任とか集団の空気とか好きなんじゃないかと思ってしまう。いや、実際の事実関係は知らないが。

 同じように、「お互いがお互いを監視しあって足を引っ張り合う」というのは色んな所にある。わりと問題なのは、ブラック労働文化だろう。
「俺たち月100時間残業してるのに、月50時間残業でブラックとかいうの笑えるwww」
とか
「俺らが若いときはもっと残業してたのに、今の若いやつは…。」
とかである。こういったことを言う人は結構多いのである。
「何足引っ張りあってんだ。」
という感想しかない。
 そして、そういう発言をしている人たちが、足を引っ張り合ってブラック労働に励んでいる自覚があるのかは疑問である。
 こんな風に足を引っ張り合うことでブラック労働を行うことの問題は、ブラック労働禁止を訴えるためのメインターゲットの不在である。もしも企業の運営者が社員にブラック労働を強いていて、労働者同士が協力することでその運営者を打倒する、もしくはみんなで転職してブラック労働が解決するなら事は単純である。しかし、このようにお互いがお互いを監視することで生まれるブラック労働のようなものはメインターゲットが存在しない。言うなれば、足を引っ張る発言をする人全員がターゲットである。打倒は難しい。ブラック労働を解決しようにも、労働者自らがそれを生み出しているのでは、のれんに腕押しになりかねない。
 この例のように、無自覚のうちに、他の人の足を引っ張っている人というのは非常に多い。そして、メインターゲットがいないので質が悪い。集団の気質の問題というのは解決が難しいのである。無自覚に足を引っ張っている人たちが、自覚的になれば解決するが、それを群衆に求めるのはわりと無理がある。群衆にそこまでの力はないのである。

 こうした足の引っ張り合いも、もしかしたら「パノプティコン効果」の一種なのかもしれない。常に監視されているという意識からみずから好んで規律に従おうとする、というあれだ。さっきのブラック労働の例のような話では、実際に監視する人がいるので、厳密には違うのかもしれないが、しかし、
「お前だけブラック労働しないなんてずるいぞ!」
という趣旨の発言の可能性が監視的に働き、自ら進んでブラック労働を行い、その後自らブラック労働を推進する発言側に回っているという可能性である。

 今まで述べてきたように、足を引っ張り合う行動というのは、どうにもこうにも扱いが難しいのであるが、では、そもそも相手の足を引っ張ろうとする心理について次に考察してみよう。

 まずは生物学的見地から。
 詳しい種の名前は忘れてしまったのだが、スニーキングという行動を取る魚がいることが知られている。これは、メスの獲得競争に敗れた体の小さなオスが、他のオスがメスの卵を受精する前に、それを横取りして自分の精子を卵にふりかけて受精させるという行動である。
 この事実は、従来、生物は種の保存のために合理的な行動を取ると思われていたが、そうとも限らないのではないか、と疑問を提示した。
 この例で言えば、一般的には、体の大きい強いオスが子孫を残すほうが、種の保存にとっては有利だと考えられる。そのため、体の大きさなどにより自然淘汰が行われるかと思いきや、そうでもなかった、ということである。
体の小さい弱いオスが横取りをする。
 これは種の保存ではなく、個の保存と呼ばれる。種の保存よりも、個体自身が子孫を残すことを優先させているのではないか、という考え方である。
 これは、ハーレムを形成するライオンのような動物でも同じことがいる。他の群れを乗っ取ったオスは前のオスが残した子を殺す「子殺し」を行うことが知られている。これも個の保存の一つと見るべきだろう。
 これらのように、生物には種全体の保存よりも個の保存を優先する行動を取る傾向が推測される。人間同士の足の引っ張り合いも、このように、ヒトという種全体の保存や、自分が所属している集団の利益よりも、まずは「個人」の利益が優先されている可能性が高い、ということを指摘したい。可能性も何も、直感的に「それはそうだろう。」と思っている人も多いかもしれないが。

 次にゲーム理論の観点から考えてみよう。
 ちなみに、ゲーム理論とはテレビゲームの攻略法について考えた理論のことではない。ゲーム理論は、行動の合理性について考える学問といえるだろう。
 とは、言ったものも自分もナッシュ均衡とか、ミニマックス戦略についてはちゃんとわかっているとは言い難い。正直、さわりくらいしかわかっていない。
 それくらいの知識しかないのだが、協力したほうが利益が最大化する場合でも、個人の損失を抑えようとするように人は働く傾向があるということは、「足の引っ張り合い」にも応用できるのではないか、と私は考えた。
 個人的合理性は集団的合理性と一致しないことは往々にしてある。「足の引っ張り合い」なんてその最たる例である。相手が得をすることで自分が相対的に損をすることを抑える、といった行動はある種の合理性なのである。だから、「足を引っ張る」行為は、合理的な選択であるともいえる。ただ、ブラック労働やその他問題においては、相手と話し合いができるのだから、裏切る確率よりも協力できる確率が高いと言えるし、それならばお互いに協力したほうが利益を最大化できるではないか、と思うのだけれど。

 そして、政治的観点から、「足の引っ張り合い」について考えよう。
 おそらく、足を引っ張る心理としては、上に述べてきたように、個体の損失を最小に食い止める戦略だとみることができるだろう。では、実際の政治ではどのような問題が生まれるかということについてここでは考えてみたい。
 まず、足の引っ張り合いというのは格差社会でより強くなるであろう。格差社会では低賃金労働者は、社会の発展よりも、自らの生活の水準向上を願う。他の労働者がより高い収入を得ることを良しとしないし、お金持ちたちを目の敵にして攻撃しようとする。格差が広がるほどに、集団にとって合理的な選択よりも、自分個人にとって合理的な選択を取るようになる傾向があると考えられる。
 これは推測だが、人は、一般的に、自分の安全がある程度保証される状況に限って集団の利益が最大化するような協力姿勢を取ることができる、という性質を持っているように感じられる。
 マズローの欲求5段階説と比較して言えば生理的欲求や安全欲求が満たされた状況でのみ、自己実現の欲求が表に現れ、協力することができるということである。
 こうして考えると、アファーマティブ・アクションポリティカル・コレクトネスは、国民の生理的欲求や安全欲求が満たされない状況では反発されるだろうと推測される。

 以上、「足を引っ張る」という行為について分析して見てきたが、ここで、では「足を引っ張る」ことをどう防ぎ、お互いの利益が最大化するようにできるのかについて考えたい。
 方法は主に2つあるだろう。まずは、制度設計の段階で、お互いに足を引っ張らないように、むしろ協力的になれるように設計するということである。制度のデザインというのはかなり技術が要求される分野であるが、わりと軽視されているように思う。学校でのいじめ問題も制度設計の問題とも言えるだろう。制度設計が軽視されるのは悲しいことである。
 例えば、アメリカのある業界の企業では、同僚が出世することをよく思わない人がいることを考慮し、出世するなら他の会社に転職することがルールになっていることがある。また、このように人を流動的に移動させることは、悪しき伝統を集団内に形成させることを防ぐ狙いもあるらしい。どの論文だったか、探しても見つからなかったのだが、たしか、アメリカのある地方の心臓外科医を、一定期間流動的に移動させて交流させると治療成績が有意に、しかもかなり上がったという報告があったはずだ。
 このように、制度設計は大事なのである。
 「足を引っ張る」ことを防ぐ方法のもう一つは、個々人が、
「自分の行動や感情をメタ的に認知して、自分が妬みによって相手の足を引っ張っていないか意識する」
ことである。これは、個々人のメタ認知能力を上げることができれば可能なのだが、それは実際問題、結構難しい。できるに越したことはないのだが。

 以上、「足を引っ張ることの合理性」について、また、その解決方法について考えてみた。
 まとめると、足を引っ張ることは個人にとって合理的な選択である場合も多いが、協力するほうが利益は最大できることのほうが多く、制度設計の段階での努力が必要である、ということになるのだろうか。
 多くの人が、人の足を無自覚に引っ張っていることに気づき、制度設計の重要性を認識しくれること願う。

AviUtlでベクターの数式を使う方法

画像が表示できません

↑AviUtlで出力した数式が回転するGIF

(2016/10/13 投稿)

※この記事は、以下に述べる前提知識を持った人を対象にしています。内容がよくわからないと感じた場合は、前提知識、前提知識の説明のところを参照してみてください。

※筆者のパソコンは64bit Windows8.1/10です。他のサイトを見る限りMacでもできるようですが、古いOSのバージョンやUNIX系OSでできる方法かは確認していません。

 この記事で説明するのは、AviUtlで数式を取り扱う方法です。AviUtlでは、初期状態では分数や微分積分などの数式を扱うことができず、現在(2016/10/13)、数式が使えるようになるプラグインを探しても見つかりません。

 そこで、ここでは、他のソフトを使って数式の画像を作り、それをAviUtlに取り込んで表示するという方法を紹介します。この方法では、

  • スクリーンショットで数式を画像にするという手間がない
  • ベクター形式(後述)の画像なので、拡大しても画像が荒くなったりしない
  • 背景が透過されているので、動画の中で使いやすい

というメリットを得られます。

 一方デメリットとしては、この方法を実現するために使うソフトウェア導入がかなり難しいということです。

 具体的に説明していきましょう。

目次

  • 方法の概要
  • 前提知識
  • 前提知識の説明
  • ソフトウェアの導入
  • ソフトウェアの使い方

方法の概要

 以下のプログラムとプラグインを使って数式を画像にして、AviUtlに取り込みます。

画像が表示できません

 紹介しているソフトウェアはすべて無料で使用できるものです。有料版の機能制限版というわけでもありません。使うソフトウェアはTex2imgとInkscapeだけなのですが、Tex2imgを使おうと思えば、そもそもTeXの利用環境を整えるプログラム一式をインストールしておかなければ使えません。

 また、もともと、AviUtlはsvg形式の画像を読み込むことができません。そこで、Svg Custom Object For AviUtlというプラグインを使って、カスタムオブジェクトとしてsvg画像ファイルを読み込みます。

 

前提知識

 この記事は、だいたい以下のような前提知識、技術、経験がある人を想定しています。しかし、そのすべての条件に合致する人は少ないと思うので、この中のいくつかについては下で説明します。

     
  • AviUtlがある程度使える(拡張編集、カスタムオブジェクト、プラグインなどが使える)
  • ラスター画像とベクター画像の違いがわかっている
  • インストールとダウンロードの意味と違いがわかっている
  • TeXを使って文章を作ったことがある

知っていたら説明が理解しやすい知識

など

前提知識の説明

 ここでは、「ラスター画像とベクター画像の違い」、「TeXとは」について説明します。

 

ラスター画像とベクター画像の違い

画像 画像が表示できません 画像が表示できません 画像が表示できません
拡大画像 画像が表示できません 画像が表示できません 画像が表示できません
種類 svg png jpg
形式 ベクター ラスター ラスター
サイズ 8kB 2kB 2kB
背景透過 ×

 画像のサイズは、60×57pxのファイルでの比較です。svg画像は、ベクター画像なので拡大してもご覧の通り、目が荒くなりません。ベクター画像とラスター画像の違いについては色々な記事が説明してくれているので、詳しいことは他のサイトを参考にしてもらえばいいのですが、ラスター画像というのは、非常に細かい、色々な色がついた正方形が並んで集まって画像を形成しているのですが、ベクター画像は小さい正方形の粒が集まっているのではなく、どこどこからどこどこまで線を引きます、どこどこからどこどこまで塗りつぶします、といったような線とか数式の情報なので、拡大縮小しても、それに合わせて画像の表示が変わっているので拡大しても劣化しないのです。この例の画像サイズはsvg画像のサイズのほうが大きいですが、拡大縮小しても劣化しないので、小さいサイズの画像として読み込んでから大きくすれば、容量の節約は可能です。上の表ではわからないのですが、本来は、pngはjpgに比べると画像サイズがかなり大きいのです。だから透過png画像を作ってからAviUtlに取り込むと画像サイズがかなり大きくなってしまうのですが、ベクター画像ならば工夫次第で画像サイズを抑えることができます。

TeXとは

 正直、私もあんまりよくわかってません。もう少しよくわかったらTeXの解説記事も書こうかなと思っているのですが。

 とりあえず、簡単に説明すると、TeXは決まったコード(正しい表現ではないと思いますが、ここではコードと表現させてもらいます)を入力することで、文章、特にPDFを作ることができるプログラム言語みたいなものです。TeXも色々な人が改良版を作っているので一括りに説明することができないのですが。例えば、私が普段使っているのでTeXでは、

\int_{0}^{10} \frac{x}{2} dx

というテキストデータを、TeXのプログラムを使って変換すると、 画像が表示できません
と表示されます。これでだいたいどういったものかわかってもらえたでしょうか?詳しくは、自分でやってもらえば早いのですが。

ソフトウェアの導入

 では早速、必要となるソフトウェアたちをインストールしていきましょう。

TeXの利用環境を整えるプログラム一式

 実際に画像を作るのに使うのは、あとで紹介する、TeX2imgというプログラムなのですが、これは単体では動かないプログラムです。そこで、TeX2imgを動かすためのプログラムを先にインストールしてあげる必要があります。

 TeXのインストールはかなりパソコン関係の知識が必要なので、かなり難しいです。ボタン一つでインストールというわけにはいきません。そこで、TeXのインストールは簡単LaTeXインストールWindows編(2016年4月版)を参考にしてください。実際、これを使っても、なかなかダウンロードが成功しなかったりもするのですが、うまいこと調整して試すとプログラム一式がインストールできます。個別に自分でプログラムをインストールするよりはだいぶ楽なはずです。しかし、実は、ここでインストールしたプログラムすべてがTeX2imgに必要なわけではありません。個別に自分でインストールするのが難しいので、今回は使わないものも一緒に入っているけれど操作がわかりやすいTeXインストーラをここでは使ったというだけです。それに、今回使わないものも実際にTeXでPDFを作る機会があれば使うプログラムばかりでしょうし、損はないでしょう。具体的なインストール手順の説明は省略します。がんばってください。(筆者がダウンロードしたインストーラTeX Installer3 0.85r2です。)

TeX2imgの導入

 さて、次は実際に今回使うTeX2imgをインストールしましょう。実は、このソフト、元々はTeX2img配布サイトで、Mac用とWindows用のプログラムを配布していてくれたのですが、Windows用は開発者が他の人に引き継がれたため、今は、上記サイトでは、Mac用のTeX2imgのみが配布されています。Macの人はさっきのサイトからTeX2imgをインストールしてください。Windowsの人は、あべのりページ 作ったもの、とかからインストールしてください。こちらも、具体的なインストール手順の説明は省略します。(筆者がダウンロードしたのは、TeX2img2.0.1です。)

Inkscapeの導入

 次に、Inkscapeをインストールしましょう。Inkscapeベクター画像を編集できるフリーの画像編集ソフトです。ラスター画像を出力することもできます。ちなみに、フリーの画像編集ソフトとして有名なGIMPはラスター画像の編集ソフトです。基本的にGIMPではベクター画像の編集、出力ができません。

 InkscapeInkscape ダウンロードからインストーラをダウンロードしましょう。私は、windowsの64bitを使用しているので、installer(msi)をダウンロードしました。macとかLinuxの人は、ちょっとややこしそうですね。こちらも、具体的なインストール手順の説明は省略します。(筆者がダウンロードしたインストーラinkscape-0.91-x64.msiです。) 画像が表示できません

 

Svg Custom Object For AviUtlの導入

 最後にAviUtlでsvg画像を読み込むためのプラグインを導入します。船来ゴミ置き場からダウンロードしてください。導入の仕方がわからなければ、AviUtlの易しい使い方 【AviUtl】SVG(ベクター画像)を読み込む方法【プラグイン】を参考にしてください。こちらも、具体的な導入手順の説明は省略します。

 

ソフトウェアの使い方

 では早速、プログラムを使っていきましょう。導入の部分がうまくできているといいのですが。

 まずはTeX2imgを起動します。ショートカットか、もしくはTeX2img.exeをダブルクリックするなりして、起動しましょう。初回起動時は、TeXを動かすためのプログラム一式の場所を検索する仕様になっています。もし目的のプログラムの場所が違っていたら、設定し直してくださいと表示されますが、合っていることを祈るばかりです。もし違っていたらがんばって設定し直してみてください(設定方法は以下で述べます)。起動するとこんな画面になります(周りが黒いのは私のPCのデスクトップの背景色が黒に設定されているからです)。

画像が表示できません

次に、ツール>オプションを開いて現在の設定を確認してみましょう。

画像が表示できません

下の画像のようになります。

画像が表示できません

ここで、LaTeX、DVI Driver、Ghostscriptのパスを設定できます。もしも、設定が間違っていた場合はここで直してください。次に、タブ上にある、「出力画像設定」を選択します。

画像が表示できません

ここで、出力画像の背景色が透過になっていることを確認しておきましょう。とりあえずオプションメニューを閉じます。他にも詳しく設定を確認しておきたい人は色々確認してください。

次に、「TeXコードを直接入力」にチェックが入っていることを確認し、下の画像のように、TeXコードを入力してみましょう。(TeXコードについて、詳しくはLaTeXコマンド集を参考にしてください)

画像が表示できません

出力ファイル保存先と名前を決めます。参照ボタンを押して、適当な場所に、適当な名前で保存します。このとき、ファイルの種類をSVGファイルに指定します。

画像が表示できません

「画像ファイル生成」ボタンを押すと、画像が出力されます。出力中は右に処理中のプログラムコードが並びます。

画像が表示できません

はじめて使うときは結構出力に時間がかかります。出力が終われば、ブラウザかなにかが出力したSVG画像を表示してくれます。

 さて、TeX2imgの出番はここまでです。ちゃんと出力できたでしょうか?

 

 次に、Inkscapeを使って出力した画像を加工していきます。Inkscapeを起動しましょう。

画像が表示できません

続いて、ファイル>開くと選択します。

画像が表示できません

先ほど出力したSVGファイルを選択しましょう。すると、こんな風に表示されます。

画像が表示できません

Ctrl+Aを押して、画像を全選択しましょう。そのあと、下の方のカラーパレットにある赤い四角を選択します。

画像が表示できません 画像が表示できません

画像が赤くなりました。

もしも、サイズも変えたいというのであれば画像の周りの矢印をドラッグすることで変えられます。縦横比維持してサイズを変更したいならば、Ctrlを押しながらドラッグします。もしもサイズ変更をしたならば、「ファイル>ドキュメントのプロパティ>カスタムサイズ>ページサイズをコンテンツに合わせて変更>ページサイズを描画全体または選択オブジェクトに合わせる」をクリックします。
今回は画像のサイズ変更はしていません。

さて、ファイルを保存しましょう。ファイル>名前をつけて保存をクリックします。

画像が表示できません

このときに、読み込んだファイルと同じ名前で保存しようとすると、色を変える前の画像に上書きしてしまうので、名前を少し変えて保存します。ここでは、最後に「_red」をつけました。

画像が表示できません

 さて、ではAviUtlにこの画像を読み込みましょう。AviUtlを起動し、拡張編集で新規オブジェクトを作成してください。

 そのあと、拡張編集のところで右クリックして、メディアオブジェクトの追加>カスタムオブジェクトを選択します。

画像が表示できません

次に、カスタムオブジェクトのタイプを選択します。もしもプラグインがうまく導入できていれば、「AutoFit@svgrender-JP」というのがあるはずなので、それを選択します。なければ、プラグインの導入を見直してみてください。

画像が表示できません

このあと、読み込むsvg画像を読み込むために、参照ボタンをクリックしたいのですが、なぜかそのままクリックしてしまうと応答停止することがあるので、一度何もないところ(緑で囲んであるところとか)をクリックしておいて、応答停止を予防しておきましょう。

画像が表示できません

そして、参照ボタンをクリックし、先ほど用意したSVG画像を読み込みましょう。

そして、Scale%をいじってサイズをちょうどいいように調整します。(Scale%でサイズを変更すると拡大しても画像が荒くなりません)

画像が表示できません

ベクター画像の数式をAviUtlで読み込むことができました!
えっ、記事のはじめに用意していたGIFとなんか違う?
あれはこの記事の説明用とは別に出力した画像の使いまわしですすみません…。今回GIFを出力し直すのが面倒でした。

ちなみに、画像をくるくる回すのは、カメラ制御を使ってカメラ効果の回転を適応しています。

   

おわりに

 さてさて、AviUtlでベクター画像の数式を読み込むことができたでしょうか?導入が難しいので、なかなかうまくいかないとは思いますが、がんばってトライしてみてください。説明でわかりにくいところがあれば、コメント欄にでも書き込んでもらえれば、可能な限り説明し直します。

『聲の形』感想ー恋愛でも感動ポルノでもない

(2016/9/20投稿)

(2016/9/22追記)

  (2016/10/16追記)

 聲の形を見てきた。ここでは、本編を見た人を対象にネタバレを含んだ感想を書いていこうと思う。
 ちなみに、僕は漫画版は読んでいない。近いうちに読みたい思うけれど。だから、僕は聲の形を観たのはこの映画が初めてだ。
 はじめに言っておこう。僕はこの映画をすごく高評価する。そのうえで、初めにこの映画に対する批判を述べ、その後、この映画の分析、感想に移ろうと思う。
 ここでは、聲の形の字幕上映の有無の件については触れない。
 批判や感想を述べるが、僕は一度ではすべて理解しきれなかった。そして、見てからの記憶の減衰もあるため、この文章を書く頃にはけっこう忘れかけていることも多い。そこは、仕方がないこととあきらめる。
 
 ではまずは批判パート。
 この映画では、なぜ西宮硝子が石田のことを好きになったのかということが描写されていないのでわからない。突然好きになったのか。しかしそもそも、硝子がなぜ石田を敵認定しなかったのもわからない。想像するしかない。ここはご都合主義と言われてしまう可能性が凄く高い。
 そして、話の中心は、いじめっ子がいじめによって孤立した、という、いじめという罪に対する罰のようなものとして孤立した、といった描写のように思える。しかし、それはいじめられていた側からすれば「知らんがな」としか言いようがなく、それは自業自得で、罰にはなっていない、と言える。従って、石田がいじめという罪に対してふさわしい罰を受けたかというと、罰は受けていない、というべきだろう。石田が受けた罰は、軽はずみな行動に対する罰であり、いじめに対する罰ではない。しかし、労働によってお金を170万円集めたという点では、罪に対する償い、所謂賠償は行ったものと言えるかもしれない。
 また、いじめの描写がわざとらしかった。もしかしたら世間にはあんな王道なわかりやすいいじめの展開があるのだろうか?あんなわかりやすいいじめは見たことも聞いたこともなく、本来のいじめはもっとわかりにくくて複雑だと思う。いじめの描写が不自然に見えた。
 この三点に関しては、上映中もやもやがぬぐいきれなかった。
 

 では感想パートである。
 この映画は、観客に非常に、非常に人物の感情を洞察、推察する力、行間を読む力、そういったものが求められる作品だった。演出が非常に素晴らしい。まずはその点から映画のシーンを振り返ってみよう。
 まず、西宮がいじめられる前後のシーン。ここでまずは、西宮硝子が鈍感なところがある、ということが描かれる。植野が言っていたように、空気を読む、テンポ感を読むと言ったことが、硝子はできない。それは、聴覚障害故に難しいことなのかもしれない。聴覚障害で会話のテンポ感などわかるはずもない。それに、石田が黒板に落書きしたのを消した時も、ほんとうに石田が自分のために落書きを消してくれたのだと思って、「ありがとう」と書いていた。また、石田が硝子が植田に置いて行かれた時に石田が硝子に小石を投げたが、あれを自分にかまってくれたのだと勘違いして、「友達」と言ったのではないだろうか。そういった鈍感さによって生じた、挑発やからかいが空を切ったように感じてしまうようないらいらが西宮硝子のいじめを加速させることの要因となったことは否めない。また、西宮は、困ったことがあっても愛想笑いをしたり、ごめんなさい、と言ったりして丸く収めようとしていた。こんな風に、とりあえず反発せずに場を丸く収めよう、それによって円滑に事を運ばせようという意思が、余計にいじめ側の不完全燃焼感を生み、いじめを加速させたのだともいえる。
 余談にはなるが、物語シリーズに出てくる千石撫子も、困ったことがあったらすぐに「ごめんなさい。」ということで他の登場人物をいらいらさせる。同じように、西宮も、すぐにごめんなさい、というその上っ面な感じが周囲をいらいらさせたのだろう。
 しかし、この西宮の振る舞いの原因は推測が付く。聲の形の上映時に一緒に配られた描き下ろしのリーフレットでは、母親が、硝子を「普通の子供に近づけよう」、「厳しく育てよう」とする振る舞いが描かれる。これは子供のためを思っているようで子供を苦しめる悪い考え方だが、それによって硝子は、母親が求める「いい子」になろうとしていたのである。硝子の愛想笑いやごめんなさいは、いい子になろうという意思の表れだったと考えられる。硝子も何も考えずにそう行動していたのではなく、結果としてその硝子の上っ面の反発しない返答が周囲をいらつかせることになってしまったのだが、硝子自身はそれによって周囲となんとかやろうと頑張っていたのである。硝子の愛想笑いとごめんなさいは、硝子なりの処世術だったのである。(エヴァでこんなセリフあったな。)
 ちなみに硝子ががんばっていたというのは、石田と馬乗りになって喧嘩したときに表れている。あのとき硝子は、
「わたしだってがんばってる!」
といいながら石田と取っ組み合いの喧嘩していたのにお気づきだろうか。硝子は硝子で、自分の人付き合いの仕方が正しいのかわからないなりに模索してがんばっていたのであった。
 次に、石田が家で「怪獣のバラード」を歌っていたシーンがあったが、あれは石田の感情をうまく表現したシーンで会った。『怪獣のバラード』は僕が小学生の頃に音楽の教材に乗っていた合唱曲である。歌詞の内容を一部抜粋すると、人を愛したい、怪獣にも心はあるのさ、出かけよう、愛と海のあるところ、といったように愛を求める寂しい怪獣の歌のである。これは孤立した石田の心を非常にうまく表している。あえて小学生が歌ったような曲をここで歌うことによって、小学生のときの自分の罪を意識せざるを得なくなっているという演出もさすがである。ちなみに、小学生の国語の朗読で重松清の「カレーライス」の一説が出てくるが、これは国語の授業にこの小説を読んだ世代にとっては非常に懐かしいだろう。このように、小学校の学校文化の知識がよく描かれていた点も、いい演出だったといえる。
 西宮と石田が二人で出かけた先が養老天命反転地であったのは、知っている人にはにやけてしまうポイントだった。
 西宮が石田に「ちゅき!」と告白するシーンの前後も読解が難しいところだった。まず、告白の前に硝子は医者からの宣告で右耳がもう聞こえないということを告げられる。この医師の宣告内容は、硝子が右耳だけ補聴器を外したことから伺える。そして、その後硝子は髪をポニーテールにし、手話ではなく声で「好き」と伝えようとする。まず、ポニーテールにしたのは、告白ということを意識しての気合だろう。川井が髪型を変えたシーンがそのあと出てくるが、彼女はおそらく真柴(オレンジ頭)を意識したためだろう。川井が真柴に思いを寄せていることは映画のシーンからも、ホームページの記述からもわかる。それに対する対応と考えれば、硝子の髪型チェンジは川井の髪型チェンジに対応するような意図があったものと考えるべきだ。そして、なぜ硝子はあえて声の言葉で「好き」と言おうとしたのか。それはおそらく、自分の右耳が聞こえなくなってしまったことに対しての挑戦の意味を込めていたのだろう、と思う。私はまだ聞こえるはず。ほら、こんな風に声にして言葉もしゃべれる。まだ聞こえる!右耳が聞こえないと言われたけど大丈夫!という自分への言い聞かせと挑戦の意思があったのだろうと思われる。それに対する石田の言葉が「声おかしい。」だったのだから硝子が受けたであろうショックは計り知れないのだが。
 そして石田は「ちゅき!」を「月」と聞き間違えたのだが、「あ、月?きれいだな。」って言っていたので、「そうだよ!そういう意味だよ!」って心の中で突っ込んでしまった。夏目漱石は愛の告白は「月が綺麗ですね。」と表現すると言ったことが有名であり、もはや最近の日本では「月が綺麗」という文言は「好きです。」と同義語なのであるが、それにうまく掛けたのか偶然なのか、絶妙にすれ違う二人が見ていて歯がゆかった。
 また、遊園地でジェットコースターに乗るときに佐原が言っていたことはシンボルと取るかメタファーと取るか、僕にはよくわからないのだが、植野との関係をジェットコースターに喩えてうまく表現していた。
「怖いけれど乗ってから考えよう。やっぱりまだ怖いけどね。」といったようなことをジェットコースターに乗るときに言っていたが、これは
「植野と関わることは、関わることを怖がって避けるんじゃなくて関わってから本当の植野を知って考えよう。でもやっぱり関わるのは怖いけど。」
という佐原の感情を表現している。
 結弦がTwitterに石田の偽アカウントを作って投稿したと告げた時に、石田が「お前でよかった」と言ったのは、石田はてっきりクラスメイトの誰かが嫌がらせとしてそういうことをしたと思っていたからであり、クラスメイトの仕業ではなくガキの仕業だったのでまだマシだという安心の「よかった」である。
 また、顔の上に書かれる×印は、石田にとってのリスクファクター、自分を拒絶する可能性のある者、自分に危害を与える恐れのある者、である。一度植野や川井から外れたとき、石田は気を許していたが、再度その顔に×印が付くことで、再び危険認定したということがわかる。
 他にも、行間を読む力が必要なシーンというのは多くあったはずだ。しかし、全部の意味が分かったわけではないし、全部を覚えているわけでもないので、これくらいにしよう。
 次はそれぞれのキャラについて考えてみたい。登場人物はみな欠陥があるというところが共通している。そして、物語の進行上、適切な役割が振られていた。
 植野は思ったことをストレートに言い、偽善を嫌うわかりやすい性格だ。しかし、そのせいで相手を傷つけることも多い。植野はおそらく感動ポルノみたいな偽善企画が大嫌いだろう。
 川井は自分可愛さに、本当に自分は悪くないと思っていた。そして、石田のいじめのことも皆に暴露してしまった。天然なのか腹黒なのかわからないが、作中でもっとも陰湿なキャラである。
 永束はコミカルな存在であるが、あまりいいとは言えない見た目と体系、そして何かに陶酔したみたいなしゃべり方をしてくるところがあり、正直うっとおしいキャラである。石田も最後まで永束に本心から好意を示すことはなかった。どちらかというとありがた迷惑といった表情がよく見えた。
 石田の母親は子供のことを思っているが少々子供の心への理解が足りない。石田が池に濡れて帰ってきたときも事情は気付かなかったし、自殺しようとしていた石田に対してもあの止め方は荒療治すぎるだろう。本当に気を病んでいる人にあんな自殺の思いとどまらせ方(一方的な脅しのような方法)をするのは本当に危険である。それに自分でお金を燃やしといて、石田に対して「ゆっくりでいいからまた貯めてね。」とは何事か。
 西宮と西宮の母親については先に述べた。
 結弦は、本作で一番感情移入がしやすいよいキャラである。そして可愛い。登場シーンでは、石田に「いじめてた癖に償いして楽になろうとしてんじゃねえ」と現実を突きつける。正論である。そして、結弦は石田が自分の罪が許されることではないことを知っていることを知って、そんなに悪い奴ではないかもしれない、と敵認定を解除する。家出したのは、姉のことが大好きで守ろうとしていたのに突き放されてしまったからである。主に硝子と石田をつなげる上でいい仕事をしたキャラである。不登校でカメラが好きであるといったことなども考えて、おそらく集団の中でのコミュニケーションが苦手で、自分の中に世界を持っているタイプなのだろう。結弦がなぜ写真を捨てたのか、なぜ中学に復帰したのかの理由が僕にはよくわからなかった。読解力不足である。

(2016/10/追記部分)

 原作マンガを読んでわかったことであるが、結弦が写真を捨てたのは、結弦が写真をを通して硝子に伝えたかったメッセージが伝わらなかったと結弦が感じたからだろう。結弦は写真を通して何を伝えたかったのか。それは、結弦が何の写真を取っていたかを考えればわかる。結弦が取っていたのは動物たちの「死体」の写真である。結弦はそれを硝子に見せて硝子が「気持ち悪い」という反応をすることを確認して安心していた。これはいったいどういう意味か。

「死んだらこんな風に気持ち悪い死体になる。だから、死のうとするのはよくない。」

結弦はそう伝えたかったのである。しかし、硝子が自殺しようとしたことを知って、結弦は、自分のメッセージが届かなかったのだということを知り、写真でメッセージを表現するのをやめた。

(追記終わり)


 次に、特徴的だったシーンについて考えてみたい。
 まず、本編を通して、石田がウェイから物静かで臆病な青年に変化するのがすごくうまく描かれていた。
 なぜ、硝子が自殺しようとしたのかは、考察してみたが少し難しかった。僕が考える原因としては、植野に嫌い宣言されたことで、自分が周りに迷惑をかけてる、そんな自分が嫌いだと自覚したことと、石田が橋の上でみんなを突き放してしまって、友達になりかけていた関係が崩壊してしまったのは自分のせいだという責任感を感じたからだろう。それに対する植野の怒りはもっともだった。植野が西宮をぶちながら言っていたことは正論である。勝手に責任感を感じて死んで詫びようというのはおこがましく、迷惑であり、償いをしたいならばまっとうに生きて努力して償うべきである、というのが植野の主張だろう。被害者ぶってんな、とは痛い言葉だ。そのあと、西宮の母親と植野との殴り合いになるが、それを見てもっとも心に傷を受けていたのは結弦であろう。結弦は姉も、石田も、母親も、自分が好きな人たちが次々に傷ついていくのを目の当たりにしたのだから。
 硝子が、意識を覚ました石田に対して、「約束」と言うシーンが、手話だけで表現されていて素晴らしい演出だった。 
 石田の見ていた景色からなぜ×印が消えたのかも考えなくてはならない。あれは石田が過去のいじめの罪から解放された、というわけではない。あれは石田の軽率さという罪から生じた孤立という罰から解放される一歩を踏み出したに過ぎない。永束や硝子をはじめ、何人かに支えられ、自分が受け入れられているという実感を感じることができ、自分はいてもいいんだ、と自分の存在価値を復活させることができ、他者への信頼が回復したのだった。その直前の石田というのは、統合失調症回避性人格障害を発症してもおかしくはない精神状態だった。幻聴は聞こえていたし、他人への信頼が0に近かった。そういった不安、不信から最後は解放されたのだった。それは硝子に、「生きることを手伝ってもらった」からだった。
 結局、石田は最後まで、硝子に許されたとは思っていない。先ほど述べた結弦からの指摘、西宮の母親からの拒絶、遊園地の後に真柴からいじめするやつなんてありえない、と言われ、自分のことだと自分の罪を自覚、最後まで罪の意識が石田から消えることはなかった。何度でも現実が石田を打ちのめすのだった。最後に、自分が罪意識を持ち続けている相手の手を借りて、自分の孤独と不安と不信から解放されたに過ぎない。罪に恩を上乗せしてしまっただけなのだ。石田は最後まで罪からは開放されなかったのである。
 
 西宮が石田を好きになった原因は映画の中では語られなかったので推測するしかないのだが、西宮が鈍感だったので石田に敵意を抱きにくかったのもあるのかもしれないが(それに加えていい子になろうと自分の中の負の感情を抑圧していた)、西宮には友達がいなかったのだろう。再び西宮に石田が会いに来たときは、おそらく恐ろしくなって、敵だと思って逃げ出したのだろうが、石田が前の石田ではなく、友達になろうとしている石田であるということを感じて嬉しかったのだろう。石田が西宮をいじめていたというトラウマが消えたわけではないのだろうが、西宮と友達になりたいという意思を持ってやってきた石田が西宮にはすごく嬉しかったのだと思う。その後も、友達のいなかった自分をかまってくれた石田という存在が、孤独な西宮にはうれしくて、恋に発展したのだろう。この原因説明は少々無理があるが。しかし、西宮は独りで寂しくて、石田と友達になりたかったが石田が自分にひどいことをして、もう友達にはなってくれないんだと思って、孤独を噛み締めていたところに態度が変わった石田が来て友達になりたいといってくれたことが嬉しかったと感じたのだとすれば、あのときの涙の説明もつく。
 
 さて、最後に全体に関してコメントして終わりたい。この映画についての恋愛要素はあまり強くなかった。というか、恋愛は後付けのようなやっつけ感があった。それに関して、Twiiterであるつぶやきを見つけた。文面のニュアンスやアカウントは伏せるが、「原作マンガの読み切り版に恋愛要素はなく、聴覚障害への浅い善意が差別へとつながるが、連載版で恋愛要素が現れた。」というものである。ここから考えるに、恋愛要素は本来入れる予定はなく、編集部の意向で入れざるをえなかったのではないか。むしろ、作者は、恋愛要素を入れるとこんな風に歪んだことになるから恋愛要素を排除したいんだ、という抵抗を見せていると考えられるのではないか。これは推測の域を出るわけではないが、作者が好んで恋愛要素を入れたとは僕には考えにくいのである。
 障害者に対する物語の中の人々の行動も、障害者を甘やかしたり、過剰に優しくするものではなかった。むしろ西宮に対して人々は厳しかった。アファーマティブ・アクションのようなものに対する辛辣な描写もあった。その上で、障害を持つ人が自分の障害を抱えた上で困難を抱えて生きる様が描かれていた。
 今回の映画の功績をたたえるならば、まず間違いなく手話の普及、聴覚障害に対する認知を高めたことだろう。この功績は大きい。そして、手話の意味を観客が調べること前提で作られていたり、観客が行間を読んで意味を理解しなければならなかったり(これは原作漫画でこの傾向が強いが)、観客に能動的鑑賞を求めたこと、観客の解釈に物語がゆだねられたこと、だろうと思う。つまり、製作者によって完成させられた映画をただ鑑賞して消費するのではなく、観客が能動的に解釈しないと、この映画は成り立たないのである。そういった点で、この映画は高く評価できる。

 

Seesaaからお引越し

 Seesaaブログ「ロロの空想」からお引越ししてはてなの住民になりました。皆さま、なにとぞよろしくお願いいたします。

 引越しの理由というのは、わりと単純でして、Seesaaよりはてなのほうが記事が見やすいということと、利用者が多いので、自分の記事も読んでもらいやすくなるかもしれないという予想によります。

 このブログは、私が思ったことをつらつらと書き連ねる日記みたいなものになっていると思います。哲学が好きだったり、ほかにも色々な分野の知識を集めるのも好きなので、考察や意見、主張なんかが多いブログになっていると思います。

 自分の考えをまとめるという役割もこのブログには担ってもらっていますが、できればやはり、自分の考え、思っていることなんかが多くの人に読まれてほしいなあという希望も持っているのは確かです。それほど他の人が読みやすいような、興味をもつ分野のブログではないのかもしれません。しかし、私自身の魂をぶつけて書いている記事が多く、割と自分ではブログの記事の中身は気に入っています。

 これからは、前のブログを引き継ぎ、記事はこちらに投稿するつもりです。

 

 これから、このブログが成長しますように。

中二病でも恋がしたい! 感想「中二病とニヒリズム」

 (20171/11 修正・追記)

 

 まずは前置きから。

 『中二病でも恋がしたい!』は、誤解を恐れずにざっくり言えば、父の死を受け入れられないことから中二病を装う少女と元中二病の少年を中心とした恋愛青春群像劇と言えるだろう。

 中二病については、「こうあったらいいなという願望としての妄想」と「自分が特別でありたいという願望」の二つの観点から考えるべきなのだと思うが、ここでは「こうあったらいいなという願望としての妄想」の側面から中二病を語ろう。「自分が特別でありたいという願望」については、自分の存在価値、存在理由の問題として考えなければいけないので、今回はそれについては詳しくは語らない。

 なんとなく、読書感想文なんかでラノベとかを読んでこんな感じで感想文書いてくれる中高生いたらいいな、って思いながら感想書いてるので、もしこれを読んでる中高生いたら、参考にしてもらえたら嬉しいな。

 この記事については、哲学的観点から中二病について考えるので、哲学に馴染みの薄い人にはわかりにくい書き方になってるかもしれないけれど、そういう人にも読んでもらえるように、できるだけかみ砕いて書くように心がける。とは言うものの、自分もそんなに哲学について詳しくなく、むしろ素人であって、正確に理解しているわけではない。したがって、間違った解釈をしているところも多いかもしれない。そういうときは指摘をいただけると嬉しいな。

 

 中二病というのは、例えば、魔法が使えたらいいなとか、ビーム出せたらいいなとか、現実にはあり得なさそうなファンタジーの世界に空想を膨らませ、それにたっぷり浸っている状態だと思う。「組織に追われている」という設定なんかもわりとメジャーな中二病設定だから、ファンタジーに限らず、「こういう世界なら」という空想、妄想の世界に浸っている状態といってもいいだろう。中二病はそういった空想、妄想の最たる例だから、「そんなものは空想だ。」「現実にはありえないことを想像して遊んでる。」と言い捨てられやすい。でも、果たしてそれを中二病の問題だと呼んでいいのだろうか?

 「全ての物に魂が宿ると考えるアメニズム思想」とか「白馬の王子様に迎えに来てほしい。」とか「若くてイケメンで背が高くて家庭のことに協力的な年収2000万以上の男の人と結婚したい。」とか「宝くじ当たればなあ。」とか「神社やお寺で罰当たりなことはしてはいけない。」とか「お墓参りのときにお供え物をする」とか、そういったことと中二病の違いというのは何なのだろう。これらのことと中二病とは全く違うと言い切れるだろうか。どの問題にも共通しているのは、「現実には実現する、もしくはあり得る可能性が低いものに対してそれがあり得るという希望を抱いている」ということである。これらの問題と中二病とはそんなに違うものなのだろうか?中二病とこれらの事柄とは、そのあり得る可能性の多少の差異はあれ、本質的にはそんなに変わっていないんじゃないかと思う。中二病は社会にそれほど受け入れられていないのに対し、それ以外の事柄はわりと社会に受け入れられている妄想、であるといえるだけじゃないのじゃないだろうか。

 中二病が好きな魔法、呪術、錬金術、占いなんかは、今でこそその信憑性が低くなったとはいえ、昔は盛んな分野だったし、人々も信じていた。魔女狩りなんてこともあったわけだから、呪術は信じられ、恐れられていたのは確からしいし、錬金術だって多くの学者が挑んだはずだ。そう考えれば、中二病が扱うテーマが今の時代にはもう信じられなくなっているモチーフを扱っているというだけで、他の事柄とも、やはりそんなに変わらないのかもしれない。単に、中二病が痛い人を見る目で見られてしまうのは時代の問題と言えなくもない。

 宗教に関すること、霊的なもの、神の存在などは、人は知らずの内に信じている。宗教は信じない、神も幽霊もいない、なんて言ってる人でも、先ほどの神社やお寺、お墓のような、「こんなことをすると罰が当たる」と教えられてきたようなことは、知らずのうちに信じてしまっている。世間体というものもあって信じているふりをしているだけの人もいるのかもしれないが、どこかでかすかに、霊的なもの、神様の存在、そういったものの存在がいることに賭けている人が多いのではないか。世界には色々な宗教があるし、それらに対して、どれほど熱心に信仰しているかも人それぞれなのだけれど、世界はきっとこうなのだろう、ということについて、人それぞれに何かを信じている。それがその人の人生において、生きる意味を与え、人生を楽しく、豊かで意味のあるものにしてくれているのかもしれない。これらのことと中二病と同じように、「こうあってほしい」「こうありたい」という願望、空想は、人に生きる意味や希望を与えてくれる。その当人たちにとって、それらの空想が真実のように思えるならその人にとってはそれは真実なのである。なら、中二病を「そんなのあり得ない空想の話だ。」と否定し、言い捨ててしまうことはいいことなのだろうか。真実を突きつけることは本当に正しいことばかりだともいえまい。その「真実」と自分が思っていることが本当に真実なのかどうかすら疑わしいというのに。

 「神は死んだ」と「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でニーチェは言った。キリスト教的善は、弱者のルサンチマンが生み出した幻想だと斬り捨てた。キリスト教で語られることは、こうあったほうが都合がいいからという願望だと言っていると私は解釈した。人は、「これが正しいはずだ」と信じたいという気持ち、そういった「力への意志」に動かされて生きているともニーチェは言ったと思う。

 また、人間の心は、すべて神経の相互作用、物質的な動きだと考える唯物論的・人間機械論的な考え方は、解剖学や生理学の発展に伴ってより強くなっている。もしも、人間がそういった物質的な動きの集まりとするならば、人間は動く肉塊に過ぎない。人一人が死ぬことも、ただ、物質的に機能不全に陥っただけととらえることもできる。死人を蹴ったり弄んだりすることについても、ただ物質的な肉塊相手に遊んでいるに過ぎないと考えることもできてしまう。我々は、人間には精神があるもの、人格というものがあるもの、そんな風に信じているが、それも物質の動きの結果見える錯覚、妄想なのかもしれない、とも言える。人が死んで悲しむのに関しても、人がただの動く肉塊だとするならば、それほど悲しいことでもあるまい。ただ、動いていた肉塊が動かなくなったに過ぎない。そこに誰かの人格が見えていたとしても、それは錯覚に過ぎない。

 アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に登場するQべえはこんなことを言う。

「今現在で69億人、しかも、4秒に10人づつ増え続けている君たちが、どうして単一個体の生き死ににそこまで大騒ぎするんだい?」

それは、人間を物質的に見る言葉の最たる例である。

 では、果たして、人間は、自分が信じたいものが妄想だと斬り捨てられ、そんなものはないと言われて、現実を見ろと言われてどうなるのか?

 きっと人間は生きる意味を喪失するだろう。生きる目的を見失うだろう。何かに意味を見いだすことができなくなるかもしれない。自分は生きていても死んでも同じと思ってしまうかもしれない。自分が信じたいことを妄想と言い捨てられ、現実を突き付けられた結果、人はニヒリズムに陥る。そうして、人は絶望するのである。

 キルケゴールは、絶望を指して「死に至る病」と呼んだという。絶望は人に生きる意思さえ喪失させる可能性がある。

 しかし、現実で自分の願望がかなわないものとわかれば、それをあきらめ、むしろ自分の思想をコントロールして幸せに生きようとする人々もいた。ストア派と呼ばれる人々である。これらの人々は快楽を享受して幸せを目指そうとしたエピクロス派(単に快楽に溺れるという意味での快楽とは違う意味らしいが)の人々と対比したよく語られるが、ストア派の彼らは自分の願望、欲求を抑え、コントロールすることで幸せになろうと試みたのである。ニヒリズムから絶望に陥ることを回避するために、こういった態度を取ることも一つの選択肢なのかもしれないが、訓練なしに誰にでもできることではないし、それもショックを和らげるための緩和策にしかならないのかもしれない。

 神の否定、霊魂の否定、唯物論の勢力拡大は、科学の所産であると言えよう。科学が世界を明らかにするにつれて、今まで信じられていたものの存在は、瓦解していった。科学は人に夢のない世界、現実を突き付けたのであった。科学の歴史をたどっていえば、あらゆることを疑い、明らからしい根拠があるものだけを信じようとする懐疑主義の所産であるともいえる。現代は懐疑主義というイデオロギーによって支えられている科学の時代である。これによって、多くの夢や希望はその存在を打ちくだがれたのであった。

 中二病とは、そういった現代のイデオロギーに対するアンチテーゼと捉えることも可能かもしれない。中二病の世界というのは夢がある。こうあったらいいなという世界の中で暴れまわり、その中で自分の存在というのは際立っていて、自分の存在価値、存在理由なんかも、そこでは輝いている。生きる希望にあふれた世界なのである。壊されてしまったはずの夢が、そこにはある。

 ハイデガーは、「存在」というものについて、その存在と自分との関係、自分にとってその存在がどういう意味のある存在なのかということが大切だと説いたと私は解釈している。何も、それは現実に存在しているものに対してだけ考えなくてもいいのだろう。現実に存在していないかもしれないと思っていることでも、それをあると思うこと、それが存在すると思い、それが自分にとってどういう意味のあるものなのかということが大切なのではないか。中二病の中で自分は組織に追われる主人公で、呪術や魔法が使えて、剣や銃、ビームや気功弾なんかを使って戦う。そういった自分の夢や空想が、自分にとってどういった意味があるものなのかを考えることが重要なのではないだろうか。

 『中二病でも恋がしたい』の六花は、彼女の空想の世界では父の死は受け入れられていなかった。しかし、それは彼女にとっては希望になっていたわけでもあった。本来はこうありたい、あってほしいという願望を、自分の空想の中では信じることで、現実に向き合い、絶望に陥ることを回避していた。彼女にとって、不可視境界線は希望だったのである。

 別に、六花のような、不幸の出来事に合った者にしか中二病が意味を持たないわけではない。それぞれの中二病患者にとって、それは生きる楽しみであり、希望である。それは、現実の味気無さにニヒリズムに陥り、絶望することを回避し、生きる希望を見いだす行為でもある。自分が信じたいものを信じることで、生きる目的、生きる価値が見出せるならば、それを仮定し、信じることはいけないことなのだろうか?そんなことはないはずである。そう私は思っている。

 「主観」と「客観」の問題は、多くの人たちによって取り組まれてきた。我々の見ている世界は、我々個人が「主観的」に見る世界は「客観」とは一致しない、そういった「主観」と「客観」の不一致がある。例えば、リンゴが赤く見えるのも、人が赤の色を可視光として認識できるからであって、違う動物なら違う色に見えているだろうし、同じ人でも、赤緑色覚異常の人には同じように見えていない。それぞれの人によって主観的な世界があるわけだから世界をどうとらえているのかも違う。そもそもみんな見え方が違うなら、ほんとに「客観的な世界」が存在するのかどうか疑わしい。そんなものはないかもしれない。ただ、「客観的な世界」があるだろうという妥当性、確信みたいなのがあるだけである。

 中二病にとっての主観的な世界が、中二病患者にとっては意味があるものなのである。人が認識し、反応しえるのは自分が主観的にとらえている世界に対してのみである。だから、中二病患者が、自分の主観的世界に自分なりの意味を置いたのなら、それはその中二病患者にとっては意味のあることになり得る。

 

 さて、これまでの話を総括しよう。中二病は、科学によって壊された夢、生きる希望、目的を取り戻し、ニヒリズム、絶望に陥ることを回避する手段になりうる。そして、中二病は「こうありたい、こうあってほしい」という願望の体現の形で合って、本来、そういった願望や妄想は人がみな抱えているはずのものである。そういう願望や妄想が、希望となり、人々の生に希望を与えてくれている。中二病は生きる希望なのだ。

 

 さて、最後に科学に関して問題提起をしておきたい。神や霊魂、その他あらゆるものの存在を否定してきたように思われる科学だが、人は科学が生活を便利にするのと代償に、夢や希望を失ってしまうのだろうか。科学は、夢を壊すことしかできないのか。しかし、そうとも限らない。量子力学は異次元の存在の可能性を示唆している。遺伝子や生物学に関する研究は、全ての生物に対して新境地を切り開いたし、分子生物学的な研究によって解明された生物のあまりに精巧な機構については、こんなのは偶然の産物ではなく神のような存在の誰かがそれを仕組んだのではないかと疑ってしまう人さえいる。一度科学によって否定された人々の希望や夢は、最近の科学によって再びその存在が甦ろうとしている可能性がある。果たして、科学は人々の夢を壊すだけなのだろうか?それとも人々に夢を与えることができるのだろうか?

 

こちら、落ちたのは沼じゃない。―中二病でも恋がしたい! 感想「中二病とニヒリズム」でも同じ記事を載せています。

 

他人を拒絶したくなる訳

 何か目的を持った文章を書こうと思ったけどダメだった。書けない。頭が回らない。なんでだろうかと考えてみたけど、やっぱり、自分の考えていることを書くというのは、自分の内面をそとにさらけ出すということで、やはり、自分の内面を知られてしまうのではないかという不安と闘わなければいけない。そこで、自分でもわからないうちに、自分でストップがかかってしまうのだろう。「それ以上書くのはやめておこう。それ以上、自分の内側が知られるのは怖い。」といった具合に。しかし、なぜ、自分の本当に考えていること、自分の内面を知られることが怖いのだろうと考えてみたけれど、それほど納得のいくような、明晰な答えは自分の中には得られなかった。とはいっても、いくつか仮説のようなものがないではない。

 考えられうるのは以下のような場合だ。相手に知られているのは自分の本心である以上、それを拒絶、あるいは否定されたときに弁解が難しい。自分の本当の内面でないなら、例えば、自分のうわべの考えなんかが否定された場合は、

「否定はしてきたけど、それは僕の本当に考えていることじゃない。僕の本当の考えを、あいつはわかっちゃいない。」

なんて自己弁解することで、自分自身を肯定することができるんだけど、本当に自分が考えていることについて否定されると、それに対する弁解ができないのだ。自分自身で、これが自分の本当に考えていることだ、と認めてしまっている以上、自分自身に対するさっきのような逃げ道としての弁解はできない。だから、怖い。それは一つかもしれない。

 ほかに考えられる可能性というのは、自分が考えていることをさらけ出した時に、そんなおまえの考えなんて聞きたいわけじゃない、お前のストーリーが聞きたいんじゃない、と言われる不安である。これは、それがそのまま存在の否定につながってくる。書いていて、こっちの可能性のほうが大きいんじゃないかと思ってきた。自分をさらけ出して語るということは、自分自身について、知りたいと思ってくれる人に対しては聞いていて面白い話になるかもしれないが、そうじゃない人にとっては聞いていて苦痛な話になるだろう。そのときに突き放されるのが怖いのだ。

「お前の話なんて聞きたくない。」

と。そう突き放されるのが怖い。それは自分自身の存在の否定に近い。自分が自分の内側を話すときというのは、自分の存在を認めてほしい、自分を知ってもらうことで自分を愛してほしいと考えている時だ。だから、自分は、自分のことを語ろうとする。そこで、お前のことなんて知りたくない、と切り捨てられることで、自分が持っていた「わかってほしい、愛してほしい」という気持ちと相手との温度差を感じずにはいられなくなる。そうして、自分がしようとしていたことに恥ずかしくなるのだ。

「自分は距離感を間違えて接していた恥ずかしいやつなんだ。」

そう否が応でも思い知らされてしまう。日本だけなのだろうか。いや、そうでもないだろう。想像してほしい。自分のことを好きでもない相手に対して、その相手が自分のことが好きなんだろうと勘違いして、

「今日一緒に帰ろうよ。」

なんて言ってみたりして。自分は、相手も喜ぶはずだと思ってかけた声も、相手からしてみたら、別になんでも思ってない相手から「帰ろうよ」と声をかけられてしまった。

「別にうれしくもないし、むしろ煩わしいし迷惑だなあ」

なんて思われていたことを知ったとき、あなたはどう思うだろう。死にたくなるに違いない。

 つまり、自分の考えている内側を明かすというのはそういうことなのだ。自分の思考、感情を明かすということはそういう行為に等しい。だから、怖い。そういった距離の詰め方の間違いを想起させる。間合いを詰め込んで、至近距離でカウンターを食らうようなものだ。たまったものではない。即死のパンチである。

 愛の告白、というのは大きなハードルとなっているのは、こういった点にある。普通、人はみな、自分が誰に対してどう思っているのかは隠して生きている。常にフェイクである。常に距離感を隠し合っている。だましあいの戦いである。もし、仮に相手が、自分に対してある程度好意的感情を持ってくれているとわかったとしても、それがどれくらいの好意かはわからないのだ。月に一回ご飯にいくのがOKな仲だととらえてもらっているのか。三日に一度会いたいと思われているのか。一緒に暮らしたいくらいに思われているのか。基本的に相手の好意よりも、自分の好意が上回ってしまったとき、相手が求めている間合いよりも詰めてしまう可能性がある。そのときには

「うっとおしい。」

という強烈なパンチを食らってあえなく即死である。だから、相手との距離感を計るときには、相手がどれくらい好意的に思ってくれているか、というのを超えてしまってはいけない。つまり、相手が許容してくれている間合いより詰めてはいけないのである。こういった事情があるから、お互いに、相手を自分をどのように思っているかを悟られないようにしている。つまり、間合いを知られないようにしている。それを知られるということはすなわち、行動が相手優位になるということだからである。相手に自分の作戦、内部情報を知られることに近い。自分の相手に対する好意の度合いが漏れてしまえば、相手に好きに間合いを選択されてしまう。つまりは相手に翻弄されてしまう。しかも、自分の好意具合が知られてしまうというのは、相手に、自分の間合いはここまでです、と一度近寄ってみるようなことである。つまり、自分の好意の度合いを知られた時点で、「うっとおしい」と言われれば、すなわち自分は即死なのである。自分の好意具合を知られるというのは、相手に人間関係の優位に立たれてしまうこと、そして、カウンターを食らってしまうことの危険性、そのどちらも併せ持っている。しかし、実は人は、できるだけ、人と間合いを詰めることを許されたいと願っている。これは承認欲求ゆえである。孤独ゆえである。だましあいをしているが、それは自己保身のためであって、実際は自分を受け入れてほしい、間合いを詰めることを許されたい、と願っている。つまりは愛されたいと願っている。

 相手に自分の好意度合いを知られまいとするために人は人を拒絶する。フェイクをかけるわけである。または、自分から間合いを必要以上に詰めてしまうことを恐れて、カウンターをくらわないように、あえて必要以上に下がるのである。相手との距離を広げるのである。これが、自己保身のための拒絶といえる。

 信頼と裏切りのようなものだ。相手をどこまで信用できるか。自分がどこまで間合いを詰めていいと許されているかを信頼することで、相手への間合いが詰められる。しかし、相手が許容してくれる範囲が自分の想定より遠い間合いだという可能性がある。人は、それが想定よりも広かった場合、「裏切られた」と感じる。裏切りにあった場合、精神的傷、損失は大きい。だから、信頼できる人のところで、間合いを詰めるのが安全で安心なのだ。初対面の相手でも大っぴらに自分のことを広げられる人は、相手は自分を拒絶しないだろう、これくらい間合いを詰めても大丈夫だろう、という他者への信頼がある。一般的に他者への信頼度が高いのである。そして、他者への信頼度が低い人は、自分の内面を簡単には出したがらない。常に韜晦している。そういう人が、自分の内面を安全域以上に出してしまったと思い返して感じてしまったときには、夜も不安で眠れなくなる。やってしまった、という自責の念に駆られて、夜々呻吟することだろう。それくらいに、間合いを間違うというのはダメージが大きなことなのである。

 だから、そういったダメージを極力まで小さくするためには、他者を嫌うこと、他者を一切拒絶することが一番である。厭世的な気持ちになって、他者を拒絶する。他者に自分を見せることを拒絶する。そうして、自分が許容可能な間合いをできる限り小さくしてしまえば、自分から他者に間合いを詰めることはなくなり、間合いを間違えて詰めてカウンターを食らってダメージを負うことがない。傷つかなくて済む。自分を守れる。傷つきたくなければ、もっとも戦略的にはよい選択肢である。ただ、自分を認めてもらいたい、承認欲求、愛されたいという欲求は永久に満たされない。自分から他者を拒否するのだから、他者は近づいてこれない。当然である。だから、傷つかないことには成功しても、これでは愛されることはかなわない。一つの希望をかなえる代わりに、もう一つの希望を切り捨てるのである。また、他者を拒絶するというのは、他にも問題を抱えている。自分が傷つかない代わりに他者を傷つけてしまうのだ。自己保身に走ったための副産物である。利己的になった結果、他者を傷つけるのである。だから、本来、他者をまるっきり拒絶するという方法はとるべきではない。傷つかないかわりにデメリットが大きい。表面にとげを張り巡らした、非常食しか抱えていないシェルターに隠れるようなものである。近寄ってきた人を傷つけるし、おいしいもの(愛されるという経験)はそこでは得られない。

 愛の告白のハードルが高い理由についてようやく触れることができそうだ。愛の告白というのは、相手に、自分の好意の度合いを伝える行為である。そして、ゼロ距離まで相手に間合いを詰める行為である。愛の告白は、好意の度合いとしては最上級であり、間合いはゼロ距離までつめる。つまり、カウンターは食らえばもちろん即死だし、相手も最上級に自分を愛してくれていないと、自分のほうが相手の許容する間合いよりも詰めてしまうことになる。つまり、相手が自分と同じ好意度合いであることはあっても、自分より好意度合いが上になることはないという状況なのである。引き分けと負けはあっても、自分に勝ちはない。勝負としてはなかなか乗り気にはなれない。また、人は経験的に、一度最上級まで好きになった人は、その後も特別であり続けるということを知っている。自分の経験からも、他人の噂からも知っている。だから、普通の友達付き合いなら、三日前までならこの間合いまで詰めることが可能だったが、今日はどうかわからない、といったことが起こりうるが、最上級の好き、つまり愛の告白がなされた場合は、そう簡単に詰めてよい間合いが変わるということは少ない。いちいち、

「三日前に告白してくれたことについて、三日前から気が変わって今も好きでいてくれるかはわからないから、その告白に対して今返事をすることが妥当なのかどうかはわからないけど―。」

なんて切り出したりはしない。三日前好きと言ってくれたなら、今日も好きでいてくれるだろうという自信が持てる。

 こうしたように、愛の告白というのは、相手に自分の扱いの権利をすべて捧げることに等しい。生殺与奪権は相手に与えるということである。故に大きな冒険である。しかし、もしも、相手が最上級の好き、で応えてくれた場合、一気に詰めてより間合いが自由になる。そして、愛されているという感覚、認めてもらえるという感覚、そういった感覚がコンスタントに得られる。承認欲求が継続的に得られる。そういった見返りがある。だから、こういうこともできる。愛の告白は、ハイリスクハイリターンのギャンブルなのだと。

自発的に自宅に閉じ込められている人々。

 家にいると、思い圧迫感と束縛感を感じることがよくある。そして、どこかに出かけたくなる。解放感のようなものを求めて。しかし、用事がないのに出かけたところで、行く当てなどない。家から出てみたところで、目的地はない。だから、どこにもいけない。どこにもいけないといった束縛感からは逃れられない。そういうときでも、とりあえず、家から離れたりしてみる。自転車を走らせて、適当に、当てもなく、移動してみたりする。しかし、それによって得られる実感というのは、まるで、空を殴ったかのような、のれんに腕押しとでもいったような、まるで達成感も満足感もない、そういった感覚である。やることがない。外に出て、やることがない。たしかに、やることを作ろうと思えば、作れるのだ。家の中で、勉強とかでもしてればいいし。絵をかいたり、文章を書いたり、お金になるようなことを探したり。掃除をしたり、洗濯をしたり。そういったことがないわけではない。しかし、それはしてはしなくても、すぐに支障が生じるようなことではないし、最終放っておいても何とかなる。それによって、益を得るのは自分だけだし、自分の責任である。しかし、そういったことからも逃げたくなるのである。

 一人で何かをしたところで、それはほかの誰からも観測されない。観測されないので、何をやろうがやるまいが、他の人からすればどっちでもいいのである。自分の存在したという痕跡は、どっちにしろ観測されない。一人でいるときの、束縛感、圧迫感というのは、そういうところからしょうじるのかもしれない。家にいて何かをしたところで、そのときに自分の存在の証は刻まれない。自分が存在していようが、存在していまいが、世界からしてみればあまり変わりがないのである。そして、それが嫌だからといって、何かをしようとしたところで、考えてみれば、ぼくにできることは何もないのだ。何もしていない、ではなく、何もできない。さらに、僕のそのときの感覚をより伝わりやすく表現するならば、何もすることを許されていない。つまり、何もしてはならない、といったように、誰に命令されたでもないが、自分の家に拘束されているのである。休みの日に、仕事もしていない。学校でやることもない。そんなにお金も持ってない。特にやるべきことも持っていない。そういった状況さえあれば、別に錠もいらない。僕は勝手に、自発的に、家に閉じ込められることになる。出かけるのにもお金がいる。お金なくして、どこにもいけない。近場で、何か目的がある用事も存在しない。お金があれば、なんなと用事は作れるだろう。経済活動も、商業活動も、慈善活動だって、できる。しかし、お金がないというのは、それだけで行動制限になっていた。なら、働けばいいじゃないか、と人は言うかもしれない。しかし、自分の都合のいい日だけ働ける仕事というのはなかなか少ない。学校の授業が始まってから働かなくてはいけないのも、なかなか都合が悪い。お金がないとはいえ、自分の創作活動の時間は削りたくない。そう考えてしまう。宿題をやるかどうかはともかく、夏休みの後半に、宿題が終わっていない状態で、どこかに出かけることをよしとはしない子供のようなものである。

 時間があること、移動に権力的圧力がないことだけが自由とは言えない。身体の自由があるとはいっても、実際、現実世界、お金がないと自由に何かをできないことは多い。実質の自由の制限である。僕だって、やりたいことはたくさんある。しかし、お金がない以上、できないものはできない。たとえば、友達同士で集まるのだってお金がいる。公園でもいいじゃないか、と人は言うかもしれないが、炎天下の公園に友達で集まったところでできることは知れている。何か遊ぶにも、何か話すにも、屋内のちょっとしたスペースが必要なのが今の文化である。身近に会おうにも、自分の家か、相手の家くらいしかないような気がするが、この時代、家にお邪魔させてもらう、もしくは家に来てもらうというのはなかなか簡単にはいかない。家庭の事情もある。家族だっているわけだし、一人暮らしだとしても、門限があるところだってある。結構神経を使わなければいけない時代である。それに、交通の便が発達したということもあり、知人、友達が近場にいるという例は結構少ない。たいてい、会うのにも一時間くらいかかる。そう簡単には会えない。

 そういえば、小さい頃から、こういった束縛感は感じていたのかもしれない。しかし、自分で、この束縛感に名前を付けることはできなかった。今なら、まだ車があることで、移動可能な範囲はだいぶ広がった。しかし、幼いころ、といっても小学生の頃は高学年になってもずっとだった気がするから、あれを幼いころといえるのかは微妙だから、まあ子供のころ、僕は、自分の家から半径200mくらいから出ることができなかった。母親に禁じられていた。と、それだけを聞くと何やら危険な雰囲気を感じ取る人がいるかもしれない。たしかに、うちの母親は、かなりしつけが厳しい人である。それは今でも変わっていない。子供に対する信用はかなり低いし、過保護なところもあるだろう。僕の住む家の近くには、車の往来が激しい道路があったのだ。ほんとにすぐそばだった。100mもなかった。母親は、僕が小学生以下だったころ、その道路へと出ていくことを禁じていたのである。要するに安全性の確保である。そして、僕が住んでいた住宅街はコの字型の住宅街だった。だから、その道路と反対側に回ろうとしたところで、どっちみち同じ道路に出てしまう。小学生の僕にとっては袋小路だった。逃げられない。ゆえに、半径200m。僕は、そのエリアから出ることが許されていなかった。ほんとうに、具体的に、小学生の全期間にわたってその命令が敢行されていたのかどうかは、今思い出してみると怪しいのだが、しかし、僕は、小さい頃から家の周りにとらわれていたことは確かだった。その後、その往来の激しい道路を歩くことを許されるようになっても(それでも歩道上で歩いてよいエリアは、歩道を縦半分に分けたときの車道と反対側のエリアだった)、例えば、中学生になっても、僕は、近くのちょっとしたショッピングセンターに行くことさえしていなかった。僕にはできなかったというべきなのかもしれない。学校で、そういった商業施設の立ち入りを禁止していたのである。そういった商業施設にはゲームセンターなども入っていた。そういった現場などに溜まる、不埒な輩に絡まれたり、その他面倒なトラブルに巻き込まれたり、もしくは巻き起こしたりすることを未然に防ぎたかったものと考えられる。中学生が被害者になるだけとは言えない。中学生は加害者になる可能性も大いに持っている。特にガラの悪い中学生がいた中学校となればなおさらである。今思えば、生徒の私生活にまでその権限を伸ばす行為は越権行為と言えなくもないが、当時、規則を遵守することことを正義としていた僕にとっては、禁止された行為を行うことは、自らの正義心のもとにできなかった。もし、仮に、自分の正義心が許していたとしても、学校で禁止されていること、親に禁止されていることは決してできなかったであろう。当時にして、最大の脅威にして、最大のパトロンだったのは実の親であった。その親が、特に母親が、そういったことは許さなかった。考えてみれば、僕の「規則を守る」といった正義心は、自分の判断に由来するものではなかったように思う。母親に守れと言われていたから守っていた。ただそれだけのことだったのかもしれない。刷り込み、である。僕の正義心、良心は、母親からの刷り込みの側面があった。母親の言いつけに従わない場合、鉄拳制裁、あるいは兵糧攻め経済制裁などが敷かれていたように思う。幼いころの僕にとっては、母親は絶対的権威者だったのである。母親には逆らえなかった。もし、母親の言いつけを破る隙があったとしても僕にはできなかった。僕はそういった風に刷り込まれていたし、僕の良心も、そういった風に育てられていた。誘拐された被害者が、逃げる隙があっても逃げようとしないのと同じだったのかもしれない、などというと、母親の子供への対応がまるで誘拐犯かのような誤解を生むのでやめておこう。母親は、そういった厳しい処置に対応するかのように、母親としての仕事も全うしていた。過保護で、過干渉だった、というだけなのだろう。

 そのように、僕は小さいころから、自分の家を中心として、あまり、遠くへと出かけることも、どこかのお店へと出かけることはなかった。自発的に家に閉じ込められていたのであった。

 さらに、高校生になっても状況はそんなに変わらなかった。多少行動範囲は広がったとはいえ、僕が住んでいたのは田舎だったし、通っていた高校もまた田舎にあった。どこか、都会地域に出かけようとすると、山を越えなければいけなかった。車がないと、行けるところは、住宅地の近くの小さなショッピングセンター、スーパー、そういったところくらいしかなかったのである。車がない、それに電車にのるお金がない高校生(バイトは禁じられていたし、する余裕もなかった)には、やはり、どこにも行くことはできなかったのである。今と状況はかなり似ているかもしれないが、当時は、今よりもお金は圧倒的に少なかった。

 こうして考えると、僕はこれまでの生涯を通して、ずっと自分の家の近くに閉じ込められているのかもしれない。外に出る目的も、外に出るためのお金も、持ち合わせていない。そういった束縛感を僕は抱えていたのであった。そして、それは多くの人が抱えているのではないだろうか。自由であって、自由でない。身体的自由は何でもできる自由ではない、そういった束縛感。しかし、家ずっといると、自分の存在を他の人に認知してもらえない。それゆえの孤独、不安。そういった束縛感と孤独から逃れようと、多くの人は予定をスケジュール帳に詰め込むのではないか。バイトを入れたり、クラブの予定を入れたり、塾に行ったり、旅行に行ったり。自分の家に束縛されること、自分が一人でいることで、誰にも観測されないことが、怖いのだ。それに恐怖すら感じている。「自由の刑」ともまた違う。自由であるように見えて、どこかに幽閉されていて、孤独に震えていなければならない。そういったことが、交通網が発達し、都市の周りに住宅地ができ、地域の人とのつながりが薄れ、あらゆる他人への警戒が上がり続け、自由な公共の空間が減り、経済的格差の存在する社会での問題ではないのだろうか。

 都市の在り方、経済の在り方は、人々の生活スタイルを大きく変えてしまったが、その原動力となっているのは、人々の中の不安や恐怖なのではないか。働きづめな人、いつでも誰かと一緒にいる予定を入れている人、そういった人にはわかりづらい、見落としがちなポイントだ。しかし、そういった人ほど、こういった恐怖や不安に目を向けないようにするために、日々、忙しく生きている。日本の、クラブや学校の体育会系の悪しき文化、企業のブラック文化、こういったものも、この人々の恐怖や不安とは無関係ではないだろう。むしろ、かなり、密接に働いている。人々の動きを決める側は、どうせ休みにしたって家でだらだらするくらいしかやることはないんだろうから、クラブに、学校に、会社に、来い、といった感覚を持っている。自分の経験を、他者も同じように持っているものとして、無意識のうちに人々の動きを計画する。そして、召集される側も、それにより、不安や恐怖が解消されるならありがたい、とそれに応えて出かけてゆく。しかし、人々は、本当に自分が何を恐れているのか知らない。自分が、孤独感や束縛感に怯えていることを知らない。だから、この問題は、意識的に認知されない限り、解決することはないのだろう。皆、見えない何かにとらわれたままなのである。

 さて、ここが一つの話の切れ目である。前半部分、というか、訴え一は終了、続いて訴えニに入るといったわけなのだが。書いているほうは少々疲れてきたし、読んでいるほうも結構疲れてきたほうだろう。でも、せっかく話が今の続きになっているのだから、続けて書いてしまおう。

 さて、上に述べてきたように、人々が自分の家に縛られている状態というのを述べてきたが、これは趣味を持たない人間にとってはさらに苦痛なことになる。音楽を聴いたり、アニメを見たり、本を読んだり、そういったことも趣味にカウントできるのかもしれないが、そういった趣味はここではカウントしない。それは、あくまで受動的な趣味である。ここで言及したいのは、能動的趣味だ。釣り、楽器演奏、作曲、動画制作、絵を描く、本を書く、起業する、などなど。起業を趣味というかどうかは微妙なところだが、そういった、自分たちの力で何かを作ろう、というそういった趣味のない人にとって、するべきことがない、そして、移動も制限されている、といった時間は持て余してしまうこと限りない。先にも述べた通り、僕は、自分が家の周囲に閉じ込められているという感覚を持っている。たしかに、それは辛い感覚ではあるが、僕は何か創作するという意思、それに合わせた自分の行動計画を持っている。だから、僕は乗り切れる。長期休暇はむしろ、僕にとっては絶好の創作チャンスだ。そういった時間こそ待ち望んでいたものである。しかし、そういった創作などの能動的趣味を持たない人にとって、休暇とは、ただ娯楽を享受すること以外にするべきことがない。自分から、何かを動かせないでいるのだ。そうすると、どうだろう。休暇が長くなればなるほどに、飽きてくるだろう。そんなに休みはいらないと思い始めるだろう。休暇を、娯楽の消費でしか過ごす方法をしらないと、そうなってしまう。働く人、学生、何人かに聞いても、それを思うわせるような答えをする人がいる。働くのが、学校に行くのがめんどくさくなって、休みを数週間もらっても、すぐにやることがなくなって、退屈になってくる。そして、はやく仕事に行きたい、学校に行きたいと思いだしてくるのだ、という人を多く知っている。経済的な拘束だけでなく、自分に能動的趣味がないために、ほんとうにやるべきことが見つからない。自由の苦しみ。退屈に死にそうになっている人がいる。

 そういった人というのは、スケジュールが過密になり、人間が機械の歯車のように社会に組み込まれてしまっている現在社会の構造によるところが大きいと僕は思っている。しかし、これは、人が機械の歯車のように社会に組み込まれることによって、人は、自由な時間の過ごし方が全くもってわからなくなっており、再び、自らの意思で社会の歯車に組み込まれようとする、といった状態である。歯車が歯車になりたがるなんて、なんてよくできた機械だろうと思ってしまう。

 しかし、近いうちに、人工知能とロボットが今の人間に変わる時代が来るだろう。そのときに人間はロボットに仕事を奪われて、やることがなくなるだろう。しかし、広範な職業でロボットによって仕事を奪われた結果、失業した人々はお金を失って経済格差が広がる未来が来るかというとそうではないだろう。ロボットが発達するにつれて、ベーシックインカムの制度が現実味を帯びてくるだろう。月々、すべての国民に一定のお金が支給される制度。もし、それが実現すれば、資本主義の時代は終わりを迎える。共産主義に近い時代がやってくるかもしれない。こういった未来は、技術力の上昇による生産効率の上昇により、ほぼ間違いなくやってくるだろうと僕は考えている。

 しかし、そうなった社会で、人は自由に解き放たれるのである。言い換えれば、人はすべきことがなくなるのである。そのとき、人はいったい何をするのだろう?能動的な趣味を持っている人は、そういった人たちでお互いに集まって過ごすことができるだろう。しかし、それまで、休暇といえば娯楽を消費するだけの日々を過ごしていたような人たちはどうなるのだろう。退屈さに死ぬかもしれない。自発的に自分の生きる意味を見つけられなくなって葛藤に苦しむだろう。人々は生きる意味を探して葛藤するだろう。社会の歯車として生きてきたのだ。それまで、自分の人生に対して、自分で決めてきたというわけではない人たちである。その状態から、自分たちの人生に対して目的を見つけられる人は少ないだろう。

 考えられる未来はいくつかある。一つは、新たな集団の形成である。社会的慈善活動や、思想・宗教による集まりが増えるだろう。その数も、頻度も、である。

 そして、二つ目。文化の発展が考えられるようになる。それまで技術革新ばかりが注目されていた社会から、今度は、文化に目を向けられるようになるのである。

 そして、三つめ。争い行為である。もはや、十分な時間がある。上記のようなことに興味のない人たちによって、争いが頻発することだろう。お金をめぐる争いかもしれないし、土地をめぐる争いかもしれない。人をめぐる争いかもしれない。自分に余裕が出てくれば、利己的な人間は、さらなる利益を求めて、他人から略奪をもくろむものである。ベーシックインカムが保障されているなら、罪を犯して、会社を首になっても大して痛くはないのだから。

 こうしたように、現在の社会構造により作られている人々の精神的土壌は、次なる時代に対してはあまりにも不向きなものである。自由にはなれない。自ら自由になることができないように精神的土壌が作られている。しかし、そういったことについて、気付く人はほとんどいないだろう。