ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

『聲の形』感想ー恋愛でも感動ポルノでもない

(2016/9/20投稿)

(2016/9/22追記)

  (2016/10/16追記)

 聲の形を見てきた。ここでは、本編を見た人を対象にネタバレを含んだ感想を書いていこうと思う。
 ちなみに、僕は漫画版は読んでいない。近いうちに読みたい思うけれど。だから、僕は聲の形を観たのはこの映画が初めてだ。
 はじめに言っておこう。僕はこの映画をすごく高評価する。そのうえで、初めにこの映画に対する批判を述べ、その後、この映画の分析、感想に移ろうと思う。
 ここでは、聲の形の字幕上映の有無の件については触れない。
 批判や感想を述べるが、僕は一度ではすべて理解しきれなかった。そして、見てからの記憶の減衰もあるため、この文章を書く頃にはけっこう忘れかけていることも多い。そこは、仕方がないこととあきらめる。
 
 ではまずは批判パート。
 この映画では、なぜ西宮硝子が石田のことを好きになったのかということが描写されていないのでわからない。突然好きになったのか。しかしそもそも、硝子がなぜ石田を敵認定しなかったのもわからない。想像するしかない。ここはご都合主義と言われてしまう可能性が凄く高い。
 そして、話の中心は、いじめっ子がいじめによって孤立した、という、いじめという罪に対する罰のようなものとして孤立した、といった描写のように思える。しかし、それはいじめられていた側からすれば「知らんがな」としか言いようがなく、それは自業自得で、罰にはなっていない、と言える。従って、石田がいじめという罪に対してふさわしい罰を受けたかというと、罰は受けていない、というべきだろう。石田が受けた罰は、軽はずみな行動に対する罰であり、いじめに対する罰ではない。しかし、労働によってお金を170万円集めたという点では、罪に対する償い、所謂賠償は行ったものと言えるかもしれない。
 また、いじめの描写がわざとらしかった。もしかしたら世間にはあんな王道なわかりやすいいじめの展開があるのだろうか?あんなわかりやすいいじめは見たことも聞いたこともなく、本来のいじめはもっとわかりにくくて複雑だと思う。いじめの描写が不自然に見えた。
 この三点に関しては、上映中もやもやがぬぐいきれなかった。
 

 では感想パートである。
 この映画は、観客に非常に、非常に人物の感情を洞察、推察する力、行間を読む力、そういったものが求められる作品だった。演出が非常に素晴らしい。まずはその点から映画のシーンを振り返ってみよう。
 まず、西宮がいじめられる前後のシーン。ここでまずは、西宮硝子が鈍感なところがある、ということが描かれる。植野が言っていたように、空気を読む、テンポ感を読むと言ったことが、硝子はできない。それは、聴覚障害故に難しいことなのかもしれない。聴覚障害で会話のテンポ感などわかるはずもない。それに、石田が黒板に落書きしたのを消した時も、ほんとうに石田が自分のために落書きを消してくれたのだと思って、「ありがとう」と書いていた。また、石田が硝子が植田に置いて行かれた時に石田が硝子に小石を投げたが、あれを自分にかまってくれたのだと勘違いして、「友達」と言ったのではないだろうか。そういった鈍感さによって生じた、挑発やからかいが空を切ったように感じてしまうようないらいらが西宮硝子のいじめを加速させることの要因となったことは否めない。また、西宮は、困ったことがあっても愛想笑いをしたり、ごめんなさい、と言ったりして丸く収めようとしていた。こんな風に、とりあえず反発せずに場を丸く収めよう、それによって円滑に事を運ばせようという意思が、余計にいじめ側の不完全燃焼感を生み、いじめを加速させたのだともいえる。
 余談にはなるが、物語シリーズに出てくる千石撫子も、困ったことがあったらすぐに「ごめんなさい。」ということで他の登場人物をいらいらさせる。同じように、西宮も、すぐにごめんなさい、というその上っ面な感じが周囲をいらいらさせたのだろう。
 しかし、この西宮の振る舞いの原因は推測が付く。聲の形の上映時に一緒に配られた描き下ろしのリーフレットでは、母親が、硝子を「普通の子供に近づけよう」、「厳しく育てよう」とする振る舞いが描かれる。これは子供のためを思っているようで子供を苦しめる悪い考え方だが、それによって硝子は、母親が求める「いい子」になろうとしていたのである。硝子の愛想笑いやごめんなさいは、いい子になろうという意思の表れだったと考えられる。硝子も何も考えずにそう行動していたのではなく、結果としてその硝子の上っ面の反発しない返答が周囲をいらつかせることになってしまったのだが、硝子自身はそれによって周囲となんとかやろうと頑張っていたのである。硝子の愛想笑いとごめんなさいは、硝子なりの処世術だったのである。(エヴァでこんなセリフあったな。)
 ちなみに硝子ががんばっていたというのは、石田と馬乗りになって喧嘩したときに表れている。あのとき硝子は、
「わたしだってがんばってる!」
といいながら石田と取っ組み合いの喧嘩していたのにお気づきだろうか。硝子は硝子で、自分の人付き合いの仕方が正しいのかわからないなりに模索してがんばっていたのであった。
 次に、石田が家で「怪獣のバラード」を歌っていたシーンがあったが、あれは石田の感情をうまく表現したシーンで会った。『怪獣のバラード』は僕が小学生の頃に音楽の教材に乗っていた合唱曲である。歌詞の内容を一部抜粋すると、人を愛したい、怪獣にも心はあるのさ、出かけよう、愛と海のあるところ、といったように愛を求める寂しい怪獣の歌のである。これは孤立した石田の心を非常にうまく表している。あえて小学生が歌ったような曲をここで歌うことによって、小学生のときの自分の罪を意識せざるを得なくなっているという演出もさすがである。ちなみに、小学生の国語の朗読で重松清の「カレーライス」の一説が出てくるが、これは国語の授業にこの小説を読んだ世代にとっては非常に懐かしいだろう。このように、小学校の学校文化の知識がよく描かれていた点も、いい演出だったといえる。
 西宮と石田が二人で出かけた先が養老天命反転地であったのは、知っている人にはにやけてしまうポイントだった。
 西宮が石田に「ちゅき!」と告白するシーンの前後も読解が難しいところだった。まず、告白の前に硝子は医者からの宣告で右耳がもう聞こえないということを告げられる。この医師の宣告内容は、硝子が右耳だけ補聴器を外したことから伺える。そして、その後硝子は髪をポニーテールにし、手話ではなく声で「好き」と伝えようとする。まず、ポニーテールにしたのは、告白ということを意識しての気合だろう。川井が髪型を変えたシーンがそのあと出てくるが、彼女はおそらく真柴(オレンジ頭)を意識したためだろう。川井が真柴に思いを寄せていることは映画のシーンからも、ホームページの記述からもわかる。それに対する対応と考えれば、硝子の髪型チェンジは川井の髪型チェンジに対応するような意図があったものと考えるべきだ。そして、なぜ硝子はあえて声の言葉で「好き」と言おうとしたのか。それはおそらく、自分の右耳が聞こえなくなってしまったことに対しての挑戦の意味を込めていたのだろう、と思う。私はまだ聞こえるはず。ほら、こんな風に声にして言葉もしゃべれる。まだ聞こえる!右耳が聞こえないと言われたけど大丈夫!という自分への言い聞かせと挑戦の意思があったのだろうと思われる。それに対する石田の言葉が「声おかしい。」だったのだから硝子が受けたであろうショックは計り知れないのだが。
 そして石田は「ちゅき!」を「月」と聞き間違えたのだが、「あ、月?きれいだな。」って言っていたので、「そうだよ!そういう意味だよ!」って心の中で突っ込んでしまった。夏目漱石は愛の告白は「月が綺麗ですね。」と表現すると言ったことが有名であり、もはや最近の日本では「月が綺麗」という文言は「好きです。」と同義語なのであるが、それにうまく掛けたのか偶然なのか、絶妙にすれ違う二人が見ていて歯がゆかった。
 また、遊園地でジェットコースターに乗るときに佐原が言っていたことはシンボルと取るかメタファーと取るか、僕にはよくわからないのだが、植野との関係をジェットコースターに喩えてうまく表現していた。
「怖いけれど乗ってから考えよう。やっぱりまだ怖いけどね。」といったようなことをジェットコースターに乗るときに言っていたが、これは
「植野と関わることは、関わることを怖がって避けるんじゃなくて関わってから本当の植野を知って考えよう。でもやっぱり関わるのは怖いけど。」
という佐原の感情を表現している。
 結弦がTwitterに石田の偽アカウントを作って投稿したと告げた時に、石田が「お前でよかった」と言ったのは、石田はてっきりクラスメイトの誰かが嫌がらせとしてそういうことをしたと思っていたからであり、クラスメイトの仕業ではなくガキの仕業だったのでまだマシだという安心の「よかった」である。
 また、顔の上に書かれる×印は、石田にとってのリスクファクター、自分を拒絶する可能性のある者、自分に危害を与える恐れのある者、である。一度植野や川井から外れたとき、石田は気を許していたが、再度その顔に×印が付くことで、再び危険認定したということがわかる。
 他にも、行間を読む力が必要なシーンというのは多くあったはずだ。しかし、全部の意味が分かったわけではないし、全部を覚えているわけでもないので、これくらいにしよう。
 次はそれぞれのキャラについて考えてみたい。登場人物はみな欠陥があるというところが共通している。そして、物語の進行上、適切な役割が振られていた。
 植野は思ったことをストレートに言い、偽善を嫌うわかりやすい性格だ。しかし、そのせいで相手を傷つけることも多い。植野はおそらく感動ポルノみたいな偽善企画が大嫌いだろう。
 川井は自分可愛さに、本当に自分は悪くないと思っていた。そして、石田のいじめのことも皆に暴露してしまった。天然なのか腹黒なのかわからないが、作中でもっとも陰湿なキャラである。
 永束はコミカルな存在であるが、あまりいいとは言えない見た目と体系、そして何かに陶酔したみたいなしゃべり方をしてくるところがあり、正直うっとおしいキャラである。石田も最後まで永束に本心から好意を示すことはなかった。どちらかというとありがた迷惑といった表情がよく見えた。
 石田の母親は子供のことを思っているが少々子供の心への理解が足りない。石田が池に濡れて帰ってきたときも事情は気付かなかったし、自殺しようとしていた石田に対してもあの止め方は荒療治すぎるだろう。本当に気を病んでいる人にあんな自殺の思いとどまらせ方(一方的な脅しのような方法)をするのは本当に危険である。それに自分でお金を燃やしといて、石田に対して「ゆっくりでいいからまた貯めてね。」とは何事か。
 西宮と西宮の母親については先に述べた。
 結弦は、本作で一番感情移入がしやすいよいキャラである。そして可愛い。登場シーンでは、石田に「いじめてた癖に償いして楽になろうとしてんじゃねえ」と現実を突きつける。正論である。そして、結弦は石田が自分の罪が許されることではないことを知っていることを知って、そんなに悪い奴ではないかもしれない、と敵認定を解除する。家出したのは、姉のことが大好きで守ろうとしていたのに突き放されてしまったからである。主に硝子と石田をつなげる上でいい仕事をしたキャラである。不登校でカメラが好きであるといったことなども考えて、おそらく集団の中でのコミュニケーションが苦手で、自分の中に世界を持っているタイプなのだろう。結弦がなぜ写真を捨てたのか、なぜ中学に復帰したのかの理由が僕にはよくわからなかった。読解力不足である。

(2016/10/追記部分)

 原作マンガを読んでわかったことであるが、結弦が写真を捨てたのは、結弦が写真をを通して硝子に伝えたかったメッセージが伝わらなかったと結弦が感じたからだろう。結弦は写真を通して何を伝えたかったのか。それは、結弦が何の写真を取っていたかを考えればわかる。結弦が取っていたのは動物たちの「死体」の写真である。結弦はそれを硝子に見せて硝子が「気持ち悪い」という反応をすることを確認して安心していた。これはいったいどういう意味か。

「死んだらこんな風に気持ち悪い死体になる。だから、死のうとするのはよくない。」

結弦はそう伝えたかったのである。しかし、硝子が自殺しようとしたことを知って、結弦は、自分のメッセージが届かなかったのだということを知り、写真でメッセージを表現するのをやめた。

(追記終わり)


 次に、特徴的だったシーンについて考えてみたい。
 まず、本編を通して、石田がウェイから物静かで臆病な青年に変化するのがすごくうまく描かれていた。
 なぜ、硝子が自殺しようとしたのかは、考察してみたが少し難しかった。僕が考える原因としては、植野に嫌い宣言されたことで、自分が周りに迷惑をかけてる、そんな自分が嫌いだと自覚したことと、石田が橋の上でみんなを突き放してしまって、友達になりかけていた関係が崩壊してしまったのは自分のせいだという責任感を感じたからだろう。それに対する植野の怒りはもっともだった。植野が西宮をぶちながら言っていたことは正論である。勝手に責任感を感じて死んで詫びようというのはおこがましく、迷惑であり、償いをしたいならばまっとうに生きて努力して償うべきである、というのが植野の主張だろう。被害者ぶってんな、とは痛い言葉だ。そのあと、西宮の母親と植野との殴り合いになるが、それを見てもっとも心に傷を受けていたのは結弦であろう。結弦は姉も、石田も、母親も、自分が好きな人たちが次々に傷ついていくのを目の当たりにしたのだから。
 硝子が、意識を覚ました石田に対して、「約束」と言うシーンが、手話だけで表現されていて素晴らしい演出だった。 
 石田の見ていた景色からなぜ×印が消えたのかも考えなくてはならない。あれは石田が過去のいじめの罪から解放された、というわけではない。あれは石田の軽率さという罪から生じた孤立という罰から解放される一歩を踏み出したに過ぎない。永束や硝子をはじめ、何人かに支えられ、自分が受け入れられているという実感を感じることができ、自分はいてもいいんだ、と自分の存在価値を復活させることができ、他者への信頼が回復したのだった。その直前の石田というのは、統合失調症回避性人格障害を発症してもおかしくはない精神状態だった。幻聴は聞こえていたし、他人への信頼が0に近かった。そういった不安、不信から最後は解放されたのだった。それは硝子に、「生きることを手伝ってもらった」からだった。
 結局、石田は最後まで、硝子に許されたとは思っていない。先ほど述べた結弦からの指摘、西宮の母親からの拒絶、遊園地の後に真柴からいじめするやつなんてありえない、と言われ、自分のことだと自分の罪を自覚、最後まで罪の意識が石田から消えることはなかった。何度でも現実が石田を打ちのめすのだった。最後に、自分が罪意識を持ち続けている相手の手を借りて、自分の孤独と不安と不信から解放されたに過ぎない。罪に恩を上乗せしてしまっただけなのだ。石田は最後まで罪からは開放されなかったのである。
 
 西宮が石田を好きになった原因は映画の中では語られなかったので推測するしかないのだが、西宮が鈍感だったので石田に敵意を抱きにくかったのもあるのかもしれないが(それに加えていい子になろうと自分の中の負の感情を抑圧していた)、西宮には友達がいなかったのだろう。再び西宮に石田が会いに来たときは、おそらく恐ろしくなって、敵だと思って逃げ出したのだろうが、石田が前の石田ではなく、友達になろうとしている石田であるということを感じて嬉しかったのだろう。石田が西宮をいじめていたというトラウマが消えたわけではないのだろうが、西宮と友達になりたいという意思を持ってやってきた石田が西宮にはすごく嬉しかったのだと思う。その後も、友達のいなかった自分をかまってくれた石田という存在が、孤独な西宮にはうれしくて、恋に発展したのだろう。この原因説明は少々無理があるが。しかし、西宮は独りで寂しくて、石田と友達になりたかったが石田が自分にひどいことをして、もう友達にはなってくれないんだと思って、孤独を噛み締めていたところに態度が変わった石田が来て友達になりたいといってくれたことが嬉しかったと感じたのだとすれば、あのときの涙の説明もつく。
 
 さて、最後に全体に関してコメントして終わりたい。この映画についての恋愛要素はあまり強くなかった。というか、恋愛は後付けのようなやっつけ感があった。それに関して、Twiiterであるつぶやきを見つけた。文面のニュアンスやアカウントは伏せるが、「原作マンガの読み切り版に恋愛要素はなく、聴覚障害への浅い善意が差別へとつながるが、連載版で恋愛要素が現れた。」というものである。ここから考えるに、恋愛要素は本来入れる予定はなく、編集部の意向で入れざるをえなかったのではないか。むしろ、作者は、恋愛要素を入れるとこんな風に歪んだことになるから恋愛要素を排除したいんだ、という抵抗を見せていると考えられるのではないか。これは推測の域を出るわけではないが、作者が好んで恋愛要素を入れたとは僕には考えにくいのである。
 障害者に対する物語の中の人々の行動も、障害者を甘やかしたり、過剰に優しくするものではなかった。むしろ西宮に対して人々は厳しかった。アファーマティブ・アクションのようなものに対する辛辣な描写もあった。その上で、障害を持つ人が自分の障害を抱えた上で困難を抱えて生きる様が描かれていた。
 今回の映画の功績をたたえるならば、まず間違いなく手話の普及、聴覚障害に対する認知を高めたことだろう。この功績は大きい。そして、手話の意味を観客が調べること前提で作られていたり、観客が行間を読んで意味を理解しなければならなかったり(これは原作漫画でこの傾向が強いが)、観客に能動的鑑賞を求めたこと、観客の解釈に物語がゆだねられたこと、だろうと思う。つまり、製作者によって完成させられた映画をただ鑑賞して消費するのではなく、観客が能動的に解釈しないと、この映画は成り立たないのである。そういった点で、この映画は高く評価できる。