ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

かおなしを「無職で孤独なおじさん」として解釈

 

ちょうど、昨日(2017年1月21日)、金曜ロードショー千と千尋の神隠しが放送されました。
久しぶりに観て、昔はカオナシがただの妖怪だと思っていたのですが、今回観て、カオナシに「無職で友達がいないおじさんが、キャバクラに行って問題を起こしたけれど職業訓練を受けて人生をリスタートする姿」を連想しました。
以下では、カオナシを現実世界でのおじさんに投影した場合にどうなるか、私なりのカオナシの解釈を述べます。
ここでは、油屋=キャバクラと置き換えています。


物語冒頭

カオナシおじさん「職もない。彼女もいないし、結婚もできない。友達もいない。寂しい。つらい…。」
そこに千(千尋)が通り過ぎる。
カオナシ「あの子かわいいな。ここで働いているのかな。」

カオナシ「ああ、あの子と喋りたいな。でも、とりあえずあの子を眺めるだけにとどめておこう。」

雨の中、千を眺めるカオナシ
千「そこに立ってると濡れませんか?開けときますね。」

カオナシ「こんな俺を入れてくれた。なんていい子なんだ。あの子と付き合いたい。あの子が欲しい。」

名のある川の主から出てきた砂金を集める人々を見たカオナシ
カオナシ「なるほど、こいつらは砂金が好きなのか。砂金持ってくれば客として扱ってくれるのか。それに、あの子は千というのか。千も砂金をあげたら喜んでくれるかな。」

カオナシ(あ、でも砂金ない…。作ればいいか。)

砂金…通貨偽造

千とはじめに鉢合ったカオナシ
カオナシ「千、ほらお金をあげよう。」


千「私、受け取れない。」

カオナシ(え、なんで。お金あったら喜んでくれるんじゃ…。)
カオナシ「あ…。あ…。」

踊ってたやつ「とんだご無礼を。」

カオナシ「ふっざけんなっ!!お前に俺の気持ちがわかるかよ。だまれ!」

カオナシ、自分が狙っていた嬢に拒絶されて暴れる客と化す。

しばらくたって、千がカオナシがいる部屋に呼ばれる。

カオナシ「千、ほらお前にもこんなにお金をやろう。好きなものを買ってあげよう。だから俺の女になれよ。」

千「私いらない。あなたには私が欲しいものを出せないわ。」

カオナシ(またもや、拒絶された。)
カオナシ「寂しい…。寂しい…。」

カオナシ、千からお団子もらう。お団子が吐くほどにまずかった。
(あるいは、アルコールを飲んでいたカオナシに対して嫌酒薬として作用した。)

カオナシ「くっそー。ふざけおって!!俺の女にしてやる。待てこら!」

千逃げる。カオナシ、吐きながら追いかける。

湯婆婆「お客様とて許せぬ!!」


海(?)にたどり着いた千。

千「こっちだよー。」
リン「呼んでどうすんだよ。」
千「あの人、ここ(キャバクラ)にいちゃいけない気がする。キャバクラに通わせるのやめさせなくちゃ。」

カオナシ、ゼニーバの元へ。
カオナシはそこで服飾の技術を教わる。
ゼニーバ「あんたはここで働いていきな。」

カオナシ(職もなかった、友達もいなかった。けれど、ここでやっと職業訓練を受けて働くことができる。)
カオナシ「俺も人生をここからやり直そう…。」


おわり

夢と無意識、明晰夢


 夢は無意識があらわれるというが、実際どうなのか。
 私は、夢分析には少し疑問を抱くが、夢自体が、無意識を表しているという意見にはある程度、賛同する。
 ある程度、といったのは、本当にそれが「無意識」なのかどうなのかは判断しかねるからである。意識と無意識の間かもしれない。

 私は、覚醒から眠りについて夢を見るまでを連続的に意識することがあるのだが、「夢が無意識を表しているのではないか。」というのは、その経験から考えている。所謂明晰夢というやつだろうか。
 意識してもやはり何の夢を見ていたかは忘れてしまうのであるが、これに関してはそれほど疑問視もしていない。
 
 順に、具体的に私の意見を述べよう。
 まず、私は、言葉を使って意識的に考える以外にも、我々はいろいろなことを考えていると思っている。
 とはいえ、私は、フロイトが言うような意識、前意識、無意識、といった意識構造の分け方には賛成しない。私が考えている人間の意識構造の一つのモデルは、以下の様なものである。
①言葉にでき、認知できるもの(言語化認知領域)
②言葉にはできないが、認知できるもの(非言語化認知領域)
③言葉にはできないし、認知もできないもの(非言語化非認知領域)
 私は、意識については、言葉にできるかどうか、また、言葉にできなくても感覚的に認知できるかどうかに注目して分けるべきだと考えている。とはいえ、これらは明確に区別されるものではなく、連続的なものだろう。

 恋心になぞらえて、具体例を挙げるなら、
 ①言語化認知領域は、「○○のことが好きだ。」と自覚している状態である。
 ②非言語化認知領域は、「なぜだかわからないけれど最近ぼーっとする」といった状態である。
 ③は、「恋していることにも気づかない」状態である(これを恋と呼ぶのかどうかはここでは議論しない)。

 認知において、私たちは言語に大きく依存しているため、言語化できるかどうかは、意識領域を分ける上で重要である。言語化できる領域までが、私達が認知可能な領域だという人もいる。私達の認知がどれだけ言語に依存しているのかについては、ソシュールやヴィントゲンシュタインなどの記述を一度探してもらうとわかりやすい。

 私の仮説としては、このように、私たちは自覚していないところで、何かを感じ、考えている。しかし、それは、普段は①言語化認知領域の感覚が強いので、意識的に探してもなかなかわかりにくいのである。

 基本的に、私達の感覚は、強い感覚が優先され、弱い感覚はマスクされる、といった傾向がある。
 聴覚で言えば、電車の中では小さい声が聞き取れなかったり、耳をふさげば自分の体を伝わってくる自分の声が聞き取れたりする経験や、視覚で言えば、明るいところでは星の光が見えないこと、触覚で言えば、0.000kgから0.050kgの変化には気づけても、10.000kgから、10.050kgには気づけなかったりする。
 自分の意識についても、私は同じだろうと考えている。

 夢を見ているときというのは、明晰夢の経験から言うと、①言語化認知領域の感覚が非常に弱い、またはなくなってしまっている。また、現実世界からの五感の刺激に対してもかなり鈍感になっている。
 したがって、私は、夢を見ているとき、②非言語化認知領域を強く感じるのである。
 目を覚ますと、夢を忘れてしまうのは、おそらく、②非言語化認知領域の感覚は元々弱く、しかも普段は言語化されない領域であるので、言葉として保持することが難しいからだろう、と思う。
 稀に、夢を覚えているのは、②非言語化認知領域をたまたま言語化することに成功した場合だと考えている。
 夢の中で誰かと喋った経験についても、あくまで、②非言語化認知領域は感覚を言語化できないだけで、誰かと何かを喋ると言った感覚自体を認知できないわけではないと私は考えている。
 例えば、誰かとこれからご飯を食べながら何か話すというとき、相手に話す内容を具体的に言葉にはしなくてもなんとなくイメージしている。それに近い。
 夢が脈絡がなかったりするのも、言語化して認知することができないので、理性的に整合性を取って思考するといったことができず、感覚の連鎖が起こっているのだと私は考えている。


要するに、私が考える夢とは、「覚醒時は現実にマスクされてしまっている意識領域」であり、以下のGIFのようなイメージである。

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・さいごに
 では、この私の仮説を、生物学的根拠を以って説明するにはどうしたらよいかについて考えてみる。

・実験的証明の計画
 眠っているときに、手を触ったりして触覚を刺激したときに、脳の中で手の体性感覚を司っている部分の血流量が覚醒時と比べて顕著に変化しなければ、外界からの刺激には鈍感になっており、現実世界の感覚の鈍麻が判断できる。また、ウェルニッケ野の血流量がレム睡眠時に低下していることがわかれば、①言語化認知領域が睡眠時に後退しているか可能性を指摘できるかもしれない。ただ、実際はそう短絡的にもいかないだろう。
 また、REM睡眠時に、脳の視覚や聴覚の部分の血流量が上昇していれば、実際に夢のなかで何かを体験していると言える。
 (どちらも、先行研究がありそうなので、それを調べればよいだろう)
 レム睡眠とノンレム睡眠は、レム睡眠を覚醒時に近いが、外界からの感覚の鈍麻や、①言語化認知領域の認知の後退、ノンレム睡眠は気絶状態、と考えれば説明はできる。
 脳波については、どのように説明するかはまだまだわからない。


 夢や睡眠、意識について、何か明らかにできればよいのだが…。

オタク批判について―日常系マンガやラノベ作品が理解されにくい理由

 最近(2017年1月1日現在から見て)は、アニメやマンガ文化は、多くの人に受け入れられつつあり、今回の冬コミ、C91には、叶姉妹が降り立ち、そのファビュラスな存在は、多数の話題を生んだ。星野源などの爽やか系タレントが、アニメオタクと公言するなど、アニメやマンガを取り巻く環境は、以前と比べて非常に良くなった。

 しかし、一方で、アニメやマンガ、ラノベ作品の一分野においては、未だ軽蔑的な態度で語られるものが多く存在する。

 

 そこで、ここでは、まんがタイムきららに代表される日常系マンガや、ラノベ作品がなぜ理解されにくいのか、考えたい。ここでは、ラノベ作品やきらら作品といった場合、書籍、及び、そのアニメ化作品どちらについても言及する。
 とはいえ、ここで戦う相手は、結局は藁人形になってしまうのだろう。藁人形。勝手に仮想的を作って戦う行為。
 しかし、ここではやむを得まい。具体名を出すわけにもいかない。妥協的措置である。

(2017/1/5追記)

 ここでは、腐好き、百合好きの女性などに対するオタク批判、といったものについてはあまり取り上げない。この記事内で、「オタク」といった場合には、主に「ヘテロシス男性」を想定されたい。

 

でははじめよう。

 まず、私は、きらら作品やラノベ作品に対して、こんな意見を実際ネットで目にしたことがある(ニュアンスだけを抽出)。

「現実では相手にされないオタクのこじれた性欲を感じる。」
「こんなキャラは現実にはいない。」
「オタクの妄想である。」


これに対する私の見解を、一言で表すとこうだ。


「(゚Д゚)ハァ~? 」


 危ない危ない、口調が崩れてしまった。しかし、これというのも、こういった発言をする人たちが、実際に、ラノベ作品やきらら作品を目にしたことがあるのかどうか疑問だからである。
 ラノベ作品やきらら作品と言うと、扱うのが広いので、一概に述べることは難しいのであるが。実際に観たこと・読んだことがないのではないだろうか?もしくは、エロ同人と公式作品を混同しているのではないか。


 他にも、ラノベ作品やきらら作品を嫌う人に多い誤解としては次のようなものもある。例えば、ラノベアニメ、萌系日常系が好きな人がどういうのが、好きかと聞いてみると、次のようなことを言う人がいるだろう。
・「○○たんだいしゅき!」と言った具合の口調でキャラを愛する。
・「メイド喫茶」みたいな、女性が媚を売ってくるのが好き。

 私は、これにたいしては、「一体、何を想像しているのだろう。」という感想を持つ。


 さて、ではこれらも踏まえて、具体的に批判者の層別に分けて、考えを進めていこう。

 

ラノベ作品やきらら作品を観たこと・読んだことがない人の批判
 要するに、ラノベ作品や、きらら作品を観たこともなく、また、それらを好きな人に対しても、実態は知らずに想像だけで語っている人というのが一定する想像する。
 この人達がやっていることは、
・日本人ということは、出っ歯で、自分の意見を言わず怖ず怖ずとした猿みたいな人種。
・中国人は、パクってばかりの民度が低い人種。
・韓国人は、暴力的で、日本人をこき下ろすことばかり考えている人種。
・海産物が好きだと言ったら、「じゃあ、きくらげとかも好き?」と言われた。

 と言うのと同じように、結局、詳しいことは知らずに偏見で語っているだけである。
 観たことあるのは、所詮CMくらいだろう。

つまり、これらの人たちから、ラノベ作品やきらら作品が毛嫌いされるのは、単に、作品や、それを鑑賞する人への偏見が強く、実情をよく知らないからである。
 これらの層については、正しい認識を広めていくことが重要となる。

 

・作品自体と、観客層を分離して考えられない人
 作品自体についてと、その作品を観ている観客層を混同して考えてしまっている人がいる。
 たとえば、「この作品を観るのは腐女子が多いから、この作品は嫌いだ。」とか、「EXILE好きには、パリピが多いから、EXILEを好きになろう。」とか、「このアニメ作品を好きな人は、見た目が気持ち悪い人が多いから、この作品は気持ち悪い。」とか。
 それは正しい認識とは言えない。バイアスがかなり強くなってしまって言る。こういった人たちが観ているのは、その物自体ではなく、「何が好きといえば、どういった属性の人種になれるか。」なのである。
 作品をグループに迎合する手段としてしか見ていない。
 本来は、「作品自体」ではなく、「その作品が好きな集団」について言及すべきであるのに、そこを取り違えてしまい、しかもその取り違えに気づかないというのは残念なことである。

 

・アニメオタク→根暗、陰キャラという論理を使ってしまう人
 根暗、陰キャラという言葉は、一般的な用語ではなく、西欧人が原住民をして「野蛮人」と呼んだように、西欧人がアジア人をして、「黄色い猿」と呼んだように、誰かを侮辱したくて暴力的な人間が生み出した概念であるので、別にクラスで無駄に明るく振る舞ったり、中身がスカスカの会話をしたり、意味もなく集まったりするような人と比べて、劣っているとかいった概念ではまるでないと私は考えていることを先に述べておこう。最近は、「陽キャラ」なる概念があるらしい。この言葉が、肯定的な意味を持つのか、否定的な意味を持つのか私は知らない。「パリピ」といった言葉が否定的な意味を持つ層と肯定的な意味持つ層があるように、もしかしたら集団によってその意味は変わるのだろうか。
 さて、本題であるが、基本的には、「アニメは開放的に人々を受け入れる。」といった事情と(別に会員登録して集まったりする必要はないので当然である)、「パーティーやその他会合は、排他的である。」といった事情を考えればよい。
 100人がいたとして、そのうち、20人が+、80人が±、20人が-といった属性を持つとして、「開放的活動」は、すべての符号を受け入れるとし、「排他的活動」は、+のみを受け入れるとする。すると、開放的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は0になり、排他的活動が受け入れることができる人たちの符号の総和は+20となり、相対的に、排他的活動のほうは、+に傾くのである。
 要するに、アニメオタクが「周囲と馴染めない人」、なのではなく、アニメは、受け入れる幅が広いので、結果、「周囲と馴染めない人」も人口の割合としては排他的な活動よりも多くなるのである。
(これについては、反論もあるかもしれない。ここでは、あくまで一つの仮説を述べた。)

 これについては、具体的にはこのような例が言える。
ごちうさ」を観ている人は、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている。」わけではない。
 実際には、「現実では女性に相手にされないから、そのアニメを観ている」人口が一定数いる可能性があるとはいえ、論理の方向としては間違っている。それは、作品とは別の問題である。

 

それでは、以下では、実際に作品を観た上で批判している人たちについて述べていきたい。

 

・「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」という人たち
 先程、こういった発言をする人たちは、実際に作品を知らないのではないか、と書いたが、実際には、作品を見た上で、こういった批判をする人たちも存在する。しかし、この場合は、先程とは違い、的を得ている意見も多い。詳らかに見ていこう。

 まず、触れなければいけないのは、物語が成立している「フレームワーク」を受け入れることができるかどうか、から物語の理解は始まる、ということである。

 一般的に、創作物語の中の登場人物は、現実とは違うフレームワークで動いていることが多い。具体的には、女性の口調が「~なのよ。」「~だわ。」となっていたり、現実ではなかなかありえない行動を取ったりする、または、世界設定が現実とはだいぶ違うSF世界、といったことである。これは、別にラノベ作品やマンガだけに当てはまらない。ほとんどの創作物語では、この傾向がある。ただ、現実のフレームワークとの差で言えば、マンガやラノベ作品が、他の創作物語よりもその差は大きくなりがちである。

 ラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実に近いにもかかわらず、フレームワークが現実とはだいぶ違っている、というのが、物語を受け入れる上では一つのハードルになっていると私は考える。

 これまでのSF作品や、マンガなどでは、世界設定が現実とは大きく違うことが多かった。その結果、読者は視聴者は、「この世界は現実とは違うフレームワークで動いている」ということが容易に理解できた。
 一方で、昨今のラノベ作品やきらら作品では、世界設定が現実を出発点、ベースにしているものが多い。ラノベ作品は異世界転生系が多いので、別に、現実を出発点とはいっても、他のSF作品と変わらないんじゃないか、というのはたしかにその通りなのだが、主人公は、現実世界の感覚を持ち続けるものが多く、やはり基準は現実世界の設定に従っている。また、学園ハーレム系なんかでも、設定は現実世界のものに従っている。
 そのため、視聴者や読者には、「この物語は違うフレームワークで動いている」ということが伝わりにくく、慣れていない読者・視聴者は、「こんなのは妄想だ!」「こんな女性は現実にはいない!」と言いたくなってしまう。
 例えば、巨乳キャラが出て来るアニメを観る男性に対して、
「こういう巨乳の女性が好きなんだろ?」
 というのは、まあ確かに好きな人は多いのだが、それは、俺様系が出て来る乙女ゲームをしている女性に対して、
「こういうのが好きなんだろ?オラオラ」
 とするような、あるいはエロ本を読んでいる女性に対して、
「こういうことされたいんだろ?」
 というような、少し的を外れた意見である。
 ラノベ作品やきらら作品に出てくる女性像は、「現実にいたらいいなという欲求の表れ」ではなく、創作物語の中の「キャラ」として作られていて、そのキャラについては、現実に投影して考えるのではなく、その物語のフレームワーク上で考えなくてはいけない。
 現実世界と大きく違うことがあらかじめわかっている「ワンピース」では、明らかに現実にはいなさそうな、超グラマラスな女性が描かれることが多いが、それについて、「こんな胸が大きい女性は現実にはいない!」という批判はそれほど聞かれないことからも、違う世界設定を作ると、違うフレームワーク上の物語だと伝わりやすいことがわかる。

 ラノベ作品やきらら作品を、現実と連続的な舞台で描かれた作品、として見てしまうと、このように、物語を受け入れることが難しくなる。

 しかし、例えば、きらら作品に対して、「女性ばかりが可愛く描かれるというフレームワークそのものが気に入らない。」、といった意見や、ハーレム系について、「そもそもハーレムという設定が気に食わない。」と言った感想を持つ人に関しては、何も反論することはできない。それは、スポーツマンガが嫌いだったり、バトル系が嫌いだったりするのと同じ様に、個人の趣味の問題なのである。
 私としても、ハーレム系であったとしても、SAOのキリトのような、それなりにモテる要素があるキャラがハーレムを形成するのはいいのだが、どう考えてもモテる要素がなさそうなキャラがモテるハーレム系は好きではない。主人公はかっこいい存在であってほしい。

 

・「きらら作品にはストーリーがない」という人たち
 この主張は、間違ってはいない。たしかに、きらら作品には、特にオチがなかったり、笑い要素がないものも多い。しかし、テーマ性がない、物語として欠陥である、というのはいささか尚早だといえる。

 少し、回り道になるが、物語とは何か、について考えることから始めたい。
 物語は、つまるところお話である。物語は、誰かが語ることを前提として成り立っている。日本の古典を見ればわかるが、元々は、「神の視点」のお話というのはなかったのである。お話というのは、誰かが誰かに語るという形態に乗っ取って発展してきた。そして、昔から現在に至るまで、物語には、教訓めいたこと、話のヤマやオチといったものが多く含まれるものが好まれてきた。
 しかし、実際は、物語の形態というのは、必ずしも、従来型の物語の枠組みに収まるものばかりとも限らないのである。
 従来型の話というのは、あえて、特徴づけるなら、笑い要素がある、オチやヤマがある話が多かった。例えて言うなら、複数人を前に、エピソードを演説のように語るのに向いた、面白い話というのが多かった。
 一方で、きらら作品の物語は、従来型の物語のポイントを踏襲していな鋳物が多い。例えて言うなら、「今日こんなことがあったんだー。」と語るような話が多い。こういった会話は、現実の女性に多く見られるタイプである。オチやヤマは特にないが、起こったことを話す。この形式は、実は日常会話では多く用いられている。

 つまり、今までの話は、演説型だったのに対して、日常系は、会話型ということができるのである。
 演説型は、聴衆を面白くさせることが目的だが、会話型は、話を聞いて、安心する、今日も平和で楽しい日だったと確認する、そういった目的がある。

 だから、日常系作品は、話のオチやヤマがなくても、テーマがないわけではない。物語性は弱いかもしれない。しかし、ラブ&ピースというテーマを伝えることができている。
ネットのノリで言えば、「守りたい。この笑顔。」と思わせることができる。
 たしかに、従来型の物語の枠組みで考えれば、物語の出来としては良くないものかもしれない。しかし、従来の物語とは違った形式の物語が、そこには成立している可能性が否めないわけである。

 とはいえ、聴衆の好みはあるわけである。日常生活でもそうだろう。何気ない会話が好きな人たちと、オチのある面白い話が好きな人たちがいる。
 だから、「日常系は全然、ストーリーないじゃん。」といって、あまり興味を示さない人がいるのはも当然である。
 しかし、日常系は、ストーリー物から、ストーリーを省いて、かわいい女の子を描いているだけで、テーマ性もない、というわけではないのである。
 やはり、ヤマやオチといったような物語性というのは、読者を楽しませる上では大事である。しかし、物語性を追求するのとは、別の方向で、ストーリーの新しい形態が進んでいるというのもまた事実ではないだろうか。

 

・まとめ

 この記事では、ラノベ作品やきらら作品のフレームワーク、物語の形式などについて考えた。
 私は、オタク批判については、正直やるせない気持ちを抱えている。一般的に、暴力的な発言、人を侮辱するような発言をする人が、内容や立場はどうであれ、優位にたってしまう、という現象があるように感じている。「暴力」を振るうものが「優れている」といった感覚を持っている人が多いのではないかと思うのである。例えば、学校の中で、クラスを仕切るのは暴力的な人間が多いし、法に基づいた暴力は正当化して考えてしまいがちな人が多い。しかも、オタク批判の場合は、オタク自らが、その批判に同調して自己批判、オタクグループ内での内部批判を起こしてしまう傾向がある。
 世間的には、オタク批判はアニメ・マンガ批判と密接に繋がっている用に感じている。そして、いつしか、アニメやマンガを規制しろ、といった方向へと傾倒してしまう人間もいる。
 しかし、実際、オタクやアニメ・マンガ文化について、ちゃんと分析を行った上で批判したり、規制しようとしたりしている人間は少数派だろうと感じる。
 それに対して、私は大きな懸念を抱いているのである。
 そもそも、表現の規制に関しては、ちゃんとアニメやマンガ文化の分析ができていたとしても私は反対であるが。いくら反社会的な表現であれ、表現の規制については私は反対である。とはいえ、政治家の家に火炎瓶を投げ込む行為を、「これは一種の表現であり、表現の自由は守られなければいけない!」といった主張や、夜間に爆音で街宣車を走行させる行為を「表現の自由だから守られなければいけない!」というのは、また表現の自由とは別の問題がありそうなので、ここで考えることは止めておく。表現の自由についての議論は、ここで行うにはスペースが足りない。


 また、物語の内容に関しては、おそらく、物語の構造、ストーリー性といった事柄に関しては、詳しく研究している人もいることだろう。これに関しては、文芸作品といった枠を超えて、都市社会学歴史学の分野などでも研究されることだろう。
 物語については、私自身も、これらの分野の研究内容などを調べ、見識を深めんとする所存である。

 

なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるのか考える。

 

 日本の学校文化に特有のものなのかどうかは分からないが、日本の学校では、スポーツができる人ほど優れているといった思想、文化が存在する。それはなぜなのか。ここで考えてみたい。それを明らかにすることができれば、現在のスクールカーストのような序列制度について、幾分明らかにすることができるようになるのではないかと期待している。
 実際、スポーツが将来のお金に結びつくことは少ない。しかし、依然として、スポーツができるかどうかで、優劣の概念をつけたがる人間は多く存在する。しかもそれは、学校の中でより色濃く現れる。

 はじめに断っておくと、私は、まだ現代スポーツの歴史などについて知識は持っていないし、この記事の中で、なぜ運動のできるものがカーストの上位者になるかの答えまではたどり着かない。

 この記事の中でするのは、考えること、に留まる。

 本来は、ある程度、有用な考察を行うべきではあるのだが、スポーツと政策などの歴史について調査をするには時間がかかりそうなため、とりあえず、問題提起だけでもできればという考えで、この記事を書く次第である。
 今後調査が進み次第、追記したい。


・スポーツの歴史と意味
 スポーツは本来、何として始まり、どのような経緯を経て現在の形になったのか。
 現段階では、まだ詳しくは調べることができていないが、スポーツの歴史は概観すると以下のようなものだろうか。
 まず、遊びや儀式として始まり、軍事訓練としての側面のあった体操が明治維新前後に輸入され、とスポーツが融合する。その後、第二次世界大戦前には、スポーツにも戦争の色が強くなる。戦後も、スポーツの国際大会は、各国の国力の象徴として競われている。

 要するに、スポーツは未だ戦争の代理としての色合いが強いのではないだろうか。
 暴力ではなく、平和的に力を誇示するための象徴としてスポーツが使われているのではないだろうか。

 学校同士の対抗、学校内での序列、それにおいても、スポーツの強さ、は大きな意味を持つ。
 スポーツのできるものは、人の上位に立つという傾向がある。

 この意味については、先述のように、スポーツが軍事力や暴力を代理的に象徴するものだという考えにたてば、ある程度納得がいく。
 軍事力が強いものが、人の上に立つというのは歴史的に観ても当然のことである。

 国家間の戦争の代理のためにスポーツが使われ、国を代表する選手を育成するため、学校間による競争、全国大会が開催されている。その結果、生徒にも、スポーツの持つ、戦争の代理という側面が意識しないうちに刷り込まれているのではないか、というのが私の仮説である。

 それは、スポーツの指導の仕方にも色濃く出ている。体育会系というと、軍隊式といったイメージが付いて回るが、現在の学校の運動部指導では、多くのところで軍隊式のトレーニングが行われているのではないだろうか。

 運動部においては、スポーツは、遊びといった側面よりも、競争としての側面が強調され、スポーツそれ自体は楽しむものよりも苦しむものとして受け取られがちなように思う。
 運動部でも、勝たなくては意味がない、強くなければ意味がない、というような思想が蔓延しているように思う。
 一方で、楽しむためのスポーツを行う場は不足しており、結果的に、楽しむためにスポーツをするといった文化はほとんど見ることができない。
 スポーツが楽しいといっても、競争に勝つ喜び、ではなく、スポーツそのものを楽しんでいる人口というのがどれほどいるのか気になる。

 学校の体育では、幾分競争のためのスポーツという側面は、運動部に比べれば弱まるかもしれないが、依然として、生徒を競争させ、順位付けするという文化が存在する。

 このように、現在のスポーツには、その行為を楽しむというより、スポーツを手段として、力を誇示、競争するという側面が強いのではないだろうか。その結果、スポーツのできるものが、人間関係の上位に立つという可能性を、私は一つの仮説として考えている。

 しかし、このようなスポーツ文化がなぜ今も続いているのか、についても考えてみたが、一つは国家の政策のせいであるとも言えるし、もう一つは、こう言ってしまうことが非常に失礼であるということを承知の上で言わせてもらうと、日本においてスポーツを指導する立場にある人間は、勉強があまり得意ではない人が多いからではないかと思う。
 勉強に苦手意識を持っている人は、スポーツについても、スポーツの歴史、スポーツがどのような象徴的な意味を持っているか、スポーツを健康のために役立てるためにはどのような指導制度が適切か、などについて考えることも苦手なのではないだろうか。
 その結果、スポーツ文化の発展は滞り、従来型の方法を継承し続けているのではないかと、私は推測している。
 スポーツ文化の発展には、スポーツを研究する人間が必要である。

 


以下、主題からは逸れるが、スポーツの将来について考える。

・スポーツをどういった方向へと転換することができればよいのか。
 では、スポーツをどういった目的にすることができればよいか、については、これからの医療の展開を考えると、健康寿命を長くするための健康増進のためのスポーツ、といった役割が考えられる。


・スポーツを楽しむ行為に変えれば、他のもので戦争の代理が行われるのか。
 とはいえ、スポーツから、競争としての側面を取り払ってしまえば、今度は何か他のもので戦争の代理が行われるのではないか、というのが一つの懸念である。
 例えば、単に暴力での競争になりはしないのか。または、バイクの競争のような、より危険な手段で闘争が起こりはしないのか。
 それについては十分な注意が必要なのである。

 しかし、スポーツをいつまでも、力の誇示・競争のための手段にしていれば、スポーツが健康の役に立つことができない。
 むしろ、スポーツのせいで健康を害するということにもなりかねない。

 したがって、スポーツから競争の側面をある程度取り払うことは必要である。もしくは、競争の側面を除いたスポーツコミュニティを、学校以外に作るべきなのである。
 そして、スポーツ以外の競争手段を注意深く監視しておかなくてはいけない。

 人同士は、どこかで闘争しなければ生きていけないのか、それについてはまた別の問題として検討が必要である。

 

 

「教材開発」の有用性と可能性

「教材開発をしてみよう。」

と私はついこの間思い立った。

いや、別にこれが初めての思いたちというわけでもないのであるが、教材開発でなんとか会社を作ったり、収入を得たりすることができるのではないか、という予感を最近感じ始めたのである。
 とはいえ、現状として、それほど自信もなければ、明確なビジョンがあるわけでもない。
 収入を得られて、会社を作れるようになるかも一切不透明だし、自分が飽きずに続けることができるかも未だ不明である。

 どのみち、自分の性格上、「これと決めたらもっぱらそればかりをやる」というたちでもないので、教材開発をしようと思い立ったとはいえ、作業量としては、多くても週一くらいになるだろうし、やる気が無いときは、月に一回も作業に取り掛からないかもしない。

 しかし、教材開発は、自分がしたいことを実現するための一つの有効な手段なのではないか、という予感めいたものをやはり感じているのである。
 もし、そうであれば、教材開発に力を入れてみるのもよいのかもしれない。

 

 私は、これまで、あっちに手を伸ばし、こっちに手を伸ばし、色んなことをやってきた。
 その理由というのも、一つというわけではないのだが、その理由の一つに、やりたいこと、現状への不満、こうしてみたいという未来は漠然とあるが、そこまでの具体的な道筋が想像できていなかったということがある。
 社会への影響力のある芸術作品を作ってみたかったり、評論を書いてみたかったり、マンガや小説、アニメ、ゲームといった娯楽作品を作って大人数へと影響を与えたかったり、学校教育を改善したかったり、親と子どもの関係を改善したかったり、国民の精神衛生を上げたかったり、と様々である。
 しかし、それらに共通することを挙げるとするなら、私は社会を自分が希望する方向へと変えていきたい、という欲求があったということである。

 具体的な道筋は決められなかったので、とりあえず、自分がしたいことに繋がりそうなことを私は色々と試すことにした。


・絵を描く
 自分の経験上、何かを説明するときに、文字ばかりというのは辛いという印象があった。また、Twitterでは、マンガや絵のほうが人気があるし、娯楽作品でも、マンガやアニメなんかが人気がある。自分もマンガとかアニメはすごく好きだった。
 また、勉強で使う教材でも、文字ばかりのものは理解が難しく、イラストや写真が多いほうが理解がしやすかった。テレビなどでの解説でも、イラストは多く使われている。

 そういったことを考慮して、私は、文字による情報伝達に加えて、絵による情報伝達の可能性に惹かれた。何かを人に伝えようとするときに、絵が描けるというのは大きな武器になるだろうと私は感じていた。
 そこで、コピー用紙を買ってきて、イラストの練習をちょくちょくやり始めた。
 美術部で油絵はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。


・動画を作る
 絵をつなぎ合わせて、アニメーションを作れば、動画ができるし、コマ送りのイラストでなくても、動画編集の技術があれば、表現したいことの幅は広がるだろうと私は考えた。
 テレビでも、わかりやすい図解は動画が使われているし、NHKスペシャルの学問系の番組や、医療番組なんかでも、わかりやすい動画がたくさん使われていた。
 動画は、非常にわかりやすく、情報をまとめることができる。
 また、アニメMAD動画なんかも観ていて結構面白いし、動画は、労力少なく観ることができて、得られる情報が多いという魅力がある。
 音楽を入れることもできる。
 アニメを作ろうと思っても、動画編集技術は必要になるだろう。
 そう考えて、AviUtlを使って、いろいろな動画を作る練習をした。


・HTMLやプログラミングを学ぶ
 情報を公開するためには、ホームページやブログが作れなくてはいけない。
 ブログでも情報は公開することができるが、より融通がきくサイトを作るためには、HTMLを理解しなくてはいけない。
 しかし、HTMLだけでは動的なサイトを作りにくいため、Javascriptをある程度扱える必要があった。
 さらに、ある程度、レベルの高い、Webサービスを作ろうとすれば、PHPPythonMySQLなどの操作についても学習しなければならなかった。
 使いやすいWebサービスを作ることができれば、いろいろな人に利用してもらえて、自分が望む社会へと少しずつ変えることができるのではないかと考えていたし、いいサイトができて、アフィリエイト収入を得ることができれば、空き時間を使って、お金を使って、自分がやりたい活動を進めることができると考えていた。何かをしようと思えば、時間とお金が必須なのである。

 また、ゲームを作るにも、プログラミングができなくてはいけない。動画は、あらかじめ作ったものを流すことしかできないが、ゲームであれば、ユーザーに合わせて、情報を選んで表示、再生できるし、場合によっては、動画よりもよい情報伝達ツールになるかもしれない、という予感があった。
 また、面白いゲームができれば、それだけで、やっていて楽しい。


・CGを扱う
 動画や絵といっても、やはり2Dばかりでは、表現できるものが限られてしまうし、3DCGが扱えなくてはいけない、と考えた。かっこいい解説動画はCGを使っていることが多いし、最近のアニメやTV番組も、たいていどこかでCGを使っている。
 ということで、Blenderとか、123Design、Fusion360なんかを、少しずつ扱う方法を習得中である。


・音楽を作る
 動画にしたって、ゲームにしたって、音楽がなければ成り立たない。そこで、音楽を作れるようにしようとした。
 軽音楽部で音楽はやっていたので、ある程度の基礎知識はあった。
 DominoやReaperを使って、打ち込みを作ってみたり、Swaveを使って、SEを作ってみたりした。


・知識を集める
 誰かに何かを伝えようとしても、人に何かを教えようとしても、結局は、その中身がなくてはいけない。
 そのためには、いろんな本を読んだりして知識を習得することが必要だと私は考えた。
 世界史、刑法、哲学、物理や数学、学問の歴史、材料工学、教育学、医学、といろいろな分野についての本を読んだ。乱読とも言えるかもしれない。


 とまあ、こんな具合で、いろんなことをしていた結果、「結構いい教材が作れるのではないか。」と思い始めたのである。
 きっかけは、Twitterで、数学Gifを作っているアカウントや、化学画像を作っているアカウントなどを見つけたからだろうか。

 東進やN高など、革新的なメディアコンテンツによって、教育業界を変えてきた取り組みはこれまでにもあった。

 いいメディアコンテンツを作ることができれば、教育環境を、自分の望む方向に変化させていけるのではないか、と私は考えたのである。


以下で、少し、私が考える教育の方向性について考えたい。

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 上の画像で、「しつけ」と述べた項目は、教育学の用語で言えば公民教育に該当する。一方、「知識の教授」と述べたところは、人権教育に該当する。
 コミュニティ、公民教育、人権教育、この三項目が、学校の役割の主要な三つであると考えている。
 もちろん、他にも、民族統合の機能としても学校は働いているし、学校には、「隠れたカリキュラム」と呼ばれる内容もある。
 しかし、これらを含めるとしたら、なお一層、いろいろな機能を一つにまとめすぎだと考えている。
 学校がショッピングモールみたいになっている。
 複合型教育施設として、学校は存在している。

 しかし、私は、それが様々な弊害を生んでいると考えている。
 それら全てをここで述べることができないので、いくつかだけ述べたい。
 まず、学校があまりにもたくさんの時間を子どもから奪っているということである。
 児童や生徒の中には、学校の授業はわかりにくく、授業を聞くより自分で本を読んだほうが早いと感じている者も少なくないし、興味のある分野を学びたくても、学校の制度が飛び級を認めてくれず、拘束時間も長いため、時間を十分に生かせない、と感じているもの多い。
 学問だけでなく、絵を描いたり、工作をしたりして、技術を伸ばしたい生徒の要望にも答えられておらず、かといって、学校で教えることが実生活に役に立っていると実感している者も少ない。
 現在の学校は、人権教育としての名目であるが、実際は公民教育を行っている側面も未だ強く、しかしかといって、公民教育も十分にできておらず、人権教育としても不十分といった有様である。
 また、先程挙げた「隠れたカリキュラム」であるが、必ずしもこれがよい内容であるとは限らない。
 例えば、軍隊の思想・慣習を学校は引き継いでいるし、体育会系の気質など、ブラック労働の温床となる思想も学校で培われている。日本人に強い同調圧力や空気を読むといった文化の強要により、十分に実力を発揮できない生徒も多い。

 これらの弊害は、ある程度、学校の機能を分解することで、学校の持つ権力を弱体化させれば軽減が可能だと私は考えている。
 私が考えているのは、学校の機能分散である。ショッピングモールのように一箇所にたくさんの機能を学校に集中させるのではなく、今の学校の機能を複数の施設、制度、集団に分散させることである。学校を廃止して、学校の機能を失くすということを意味しているのではない。政治でいうところの政教分離であって、無政府主義ではないということである。

 それの実現のために、良い教材の開発というのは、一つの良い方法だと私は思う。
 学校以外にも、十分な教材を提供してくれるところがあり、学校に行かなくても、知識の習得が可能だということが一般の認識になれば、学校の機能分散を進めやすくなる。


 こういった考えで、私は、教材開発の重要性を感じつつあるのである。
 また、学校の教師は日々の業務に追われ、教材研究が十分にできていないという。大学の講師も、業務が多く、自らの研究に支障が出ていると聞くため、教材開発をする人口は多くないだろう。

 だから、第三者の教材開発者が必要だ。

 出版社も力は入れているだろう。
 しかし、それは、あくまで出版物としてであって、メディアコンテンツではない。また、学校教育の代替として使えるものを作ろうという意図ではないはずだ。

 また、私が考えている教材というのは、学校のカリキュラムに従うものではない。
 量子力学に興味のある中学生が量子力学について学ぶことができ、数学に興味のある小学生が、数学の最先端について学ぶことができ、工業製品を作りたい高校生が、工業製品の作り方を学べる、そういった内容の教材である。
 学校が恣意的に定めたカリキュラムは、学習意欲を妨げ、著しく効率を低下させているものだと私は思う。学校は、要点の整理としては、非常に素晴らしいカリキュラムを作ってくれているし、教材も充実している。しかし、そこには学習意欲が考慮されていないのである。各々の興味に合わせたテーラーメイドの教材が必要である。学校の教材は、本来、辞書的に使うのがよい使い方だ。
 また、学校では、学問を誤った認識へと導いている。歴史は、本来、暗記科目ではなく、過去と現在の文化を比較し、どこでどのようなことが起こった結果、現在の文化が形成されたか、といったような、中身が最も重要なのである。ストーリー性とでもいうか。
 あるいは、数学は、数の学問であり、文化系科目とは対局な位置にあると考えられがちであるが、論理学と非常に親和性が高く、むしろ、数学と国語は非常に近い性質をもっている。
 あるいは、学校では、学問の歴史や、内容の意義については扱わないが、物理学や化学が哲学からどのように分岐したのか、その間に起こった宗教的闘争にはどのようなものがあったか、などといったことを知ることは、学問の有用性を知るためには効果的である。学問の学問のようなものは、学校では扱わない。
 また、学校教材は、公平で中立であるべきだと考えられ、個人の入り込む余地が存在しない。
 そういった事情で滅菌処理された教科書は、本当に言いたいことや知らなければいけないことはわかりづらく、読んでいて面白みにかけるところがある。これは、いくつかの立場から作った教材を複数作れば、ある程度解決できる問題である。

 このように、私が想定する教材というのは、現在の出版状況からはおそらく離れたものである。しかし、有用性の高いものになるだろう。


 以上のような経緯から、今後少しずつでも、教材を開発することができないかと私は考えているのである。
 うまく行けば、規模を拡大していけるのではないだろうか。


 

 

 

自分が「親」になることへの意識

 

 現在(2016年12月30日)の日本での親と子について考えよう。

 「母親ははじめの他人」という言葉があるが、私たちは、必ず誰かから生まれることで存在を始めることができる。故に、私たちにとって、親と子という関係から逃れることはできない。
 親は子にとって最も身近な存在であり、最も強い影響を受ける。親の教育なしに子は成長することができない。
 したがって、子にとって、親という存在は非常に大きい。子の人生は親に大きく左右される。

 しかしながら、私たちは、親と子の関係について深く考えることができているのか。
 子にとっての親。また、親にとっての子。子供を生み、育てるようになると、そのどちらも経験するようになる。
 子供を生むことができれば、誰でも親になれてしまう。親に国家資格などは必要ない。
 親のあり方、子との関係性、それについては個人にその裁量が委ねられている。

 親は、子にとって絶対的存在である。現在の法制度もとでは、親の庇護なしに子は生きることができない。それは、生活のための知恵や技術といったことは、もちろんであるが、経済的支援もまた含まれる。
 子は、法のもとで、制限行為能力者であるとして、いくつかの権利を剥奪されている。一方で、子の親には子を保護する義務が課せられているのである。
 しかし、現行制度では、親の保護義務を細かく監視することはできない。現状として、親は子の生殺与奪権を持った絶対的権力者として君臨することも可能である。実際に命を奪わなくとも、子の人生を捻じ曲げることは親としては可能なのである。

 保護を得るためには、一般に権利を放棄しなければならない。権利と保護をトレードオフである。子供は、権利と保護のトレードオフに同意するかどうかの意思表明をすることはできない。

 果たして、親は子に対して適切な保護を行えているのだろうか。それは私が長い間感じている疑問である。
 行政は親の教育の内容に対しては、虐待がない限りは介入することができない。しかし、最近は、心理的虐待といった概念を適応することで、その範疇を広げることが可能となり、介入はしやすくなった。これからも、ネグレクトの範疇や虐待の範疇が広がることで、行政の介入は大きくなっていくかもしれない。

 しかし、本来は、よくない親の行為の事後的解決ではなく、いい親が増えるほうがよいのである。
 では一体、どのようにすれば、虐待をしない、子にとってよい教育を施すことができる親となり、またパートナーとの関係も含め、よい家族関係を構築することができるのか。
 そのために、行政は何か対策を行っているのだろうか。
 私の感想としては、行政は、いい親の育成、いい家族関係の構築のための対策は行っていないように思える。多くの人が、誰かの親になる可能性を有しているにもかかわらず、そのほとんどが、親になるための教育を受けていないというのが実情ではないだろうか。

 となると、いい親になることができるかどうかは、個人の意識の問題となってしまう。
 そこで、日本人の「親」に対する意識を考察してみたい。ここでいう「親」とは、自分にとっての親のことでもあり、自分に子どもができて将来なるであろう親のことも指す。要するに、自分と親という役割の関わりについての意識の考察である。
 ここでは、年齢別にわけて意識を考えてみる。ここでは、あくまで一般的にありがちな意識を考える。


・就学以前
 親に、身の回りのあらゆることを世話してもらう。道徳心や行動規範を親から教育される。親は怒らせると怖い存在であると同時に、精神的拠り所としても重要な存在である。基本的に、親の言うことを疑うことはしない。親への態度・感情は、この時期の親との関係性が成長後も大きく影響する。


・小学校低学年
 親には依然として大きく依存しているが、自我がある程度成長する。自分の親以外にも、学校の教師、クラスメート、クラスメートの親など、意識しなくてはいけない他者が増えてくる。自分と他人の違いを認識し、親にも感情が存在することを意識する。


・小学校高学年
 親の言うことに対する疑問や、周囲と自分の違いなどを意識し、親から精神的に独立しようと試みる。親の気持ち、教師の気持ち、それらと自分の気持ちを比較し、他者との協調を意識する。


・中学生
 親の言うことよりも、自分の意識に重きを置き始める。親と意見のすれ違いが生じた場合は、従順に見せかけて、自分の意思を通せないかと画策したりする。精神的自立は進み、自分が将来親になる可能性についても考える。


・高校生
 親と対等に話ができるようになり、親と交渉をする力もついてくる。自分の将来、人生について考え、それについて親に同意を求める。
 自分が結婚、親になる可能性については、中学生の頃よりも現実味を帯びた問題として意識に浮上する。


・大学生
 自分の結婚と親になる可能性について、深く考える。卒業後どこに就職し、どのように結婚相手とは出会うのか、いつごろ結婚するか、いつごろ、何人子ども設けるかについて考えを巡らせる。
 人生プランを考えた上で、必要な給料と時間を計算し、仕事を探そうとする。


・高校卒業後就職
 自分の結婚と親になる可能性については、差し迫った問題となる。具体的に、いつごろ結婚するか、いつごろ子どもを設けるか、どれくらいの給料が必要で、どの辺りに住居を構えるかなどについて考える。


・大学卒業後
 仕事をしながら、結婚をするのかしないのか、するとしたらいつするのか、について考える。相手の職業や収入、結婚後うまく生活できるかについて考える。
 子どもができたら、どういった風に育てるか、考える。


 だいぶ偏見に満ちた推測ではあったが、おおよそこんな感じではないだろうか?
 小さいうちは、自分と自分の親の関係について考えることが多いが、成長するにつれて、少しずつ自分が親になったときのことを考えるようになる。
 とはいえ、これはあくまで推測ではあるが、結婚する以前には、一般的には自分が親になったことを考える時間よりは、自分が結婚する相手、そのパートナーについて考える時間のほうが多いのではないだろうか。
 誰をパートナーにするか、相手の職業は、性格は、といったことを考える人は多いように思う。
 また、何人くらいの子どもがほしいのか、男の子がいいのか、女の子がいいのかについて考える人もそれなりにいるだろう。
 しかし、将来、自分の子どもにどういった教育をして、どういった家族関係を築き、自分の子どもにどういった将来を辿ってほしいか、について考える人はそれほどいないだろう。
 それについては、深くは意識を巡らせることが少ないのではないか。
 それは、子どもについては、結婚の後の問題だから、結婚するより先に考えても仕方がない、結婚してから考えればいいという風に考えている人が多いからなのかもしれない。
 しかし、仕事やお金の工面に忙しい時期に、子どもの教育について十分な時間をかけて考えることができるかは不透明である。
 子どもの教育については、行き当たりばったりな対応の人も多いのではないか。
 そのために、子どもとの関係、子どもの教育についてないがしろにされている可能性を私は懸念している。


 ここからは少し私自身の話をしたい。
 私は、小学校高学年だったか中学生のときから、日記のようなものを時々つけるようになった。その動機は、「大人になってから子供のときの気持ちを思い出せるようにするため」であった。私は、小さい頃から、教育する側(教師や親)の要求の理不尽さ、その権力の乱用を感じることがあった。そして、なぜそのようなことになってしまうのか、考えを巡らせていた。
 自分もこれらの大人のように、子供に対して権力を振りかざして苦痛を与える大人になってしまうのだろうか、と考えることがよくあった。
「大人になったらわかるけど、子供のときは、自分は親とか先生の気持ちがわかってなかったなあ。」
 なんて言葉を、当時から聞く事があったように思う。しかし、私は、
「それは現在の自分の立場に近いから、親や先生の気持ちを感じるだけであって、小さい頃の気持ちを思い出せていないだけ、それを切り捨ててしまっているだけではないか。たとえ、親や教師の気持ちがわかっても、虐げられる側の辛い気持ちは変わらない。子供や児童・生徒だって、先生や親の気持ちが想像できないわけではない。それを想像した上で、虐げられる苦しみに憤っているんだ。結局、その時々の自分の辛さを優先して、他者の辛さを切り捨てているだけじゃないか。」
と考えていたと思う。
 だから、子供の時の自分の気持ちを思い出せるようにするため、感じたこと・思ったことを、時々日記に書くようになった。何があったとか何をしたとかはほとんど書いていなかったけれど、思ったことや感じたことはたくさん書いた。
 また、高校生以降は、将来自分が親になったとき、子どもに十分な教育ができるようにしよう、と考え、子どもに教えるための知識の習得を意識し始めた。子どもに与えることができる文化資本を蓄積しようと考え始めたのである。
 大学生以降は、さらに知識の習得については熱心に行うようになったが、より実務的なことについても考えるようになっていた。例えば、学校は私立がいいか、公立がいいか、どこに家を買うのが子どもの学校のためにも、自分の仕事のためにも便利なのか、親の収入がいくらある場合、子どもへ相続した時の税金はどれほどかかってしまうのか、家を建てたとして、固定資産税がいくらなのか、自分の老後に子どもへの介護の負担を減らすため、認知症予防や筋力低下に有効な方法はなんだろうか、などである。
 別に、自分が親にならないという可能性だって多く残っている。しかし、自分が親になったとき、子どもによい教育と暮らしをさせてあげたい、そのときに準備がなければ困る、と考えている。

 しかし、それでも、親や誰かを指導する側に私が回ってしまったとき、相手に苦痛を与えてしまうかもしれない。そういった懸念はある。努力しても失敗してしまう場合もあるだろう。だから、日記をつけ、色々と考え、工夫したってうまくいかない可能性は大きく残っている。しかし、少しでもうまくいく可能性が高くなればよいと私は思う。

 私の場合のように、親になるということ、指導をするということについて考えている人が世の中にどれほどの割合いるのか私にはわからない。しかし、同じように考えている人はそう多くはないのかもしれない。

 何かを考えるというのは結構な労力がいる。未来のこととか、世の中の事とか、人の気持ちとか、そういったことを考えなくても生きてはいけるし、それなりに幸せかもしれない。
 しかし、その一方で、それは誰か(それは自分の将来の子供かもしれない)に迷惑や危害を被らせる可能性を含んでいるということを私は感じている。

 私の懸念として、多くの人は、将来自分が親になるということについての思慮が深くない。自分が親とどういった関係を築くかについては考えても、親の資質については、個人の意識として不十分である。行政の支援も足りない。
 それが、多くの子どもに不幸を与えてしまっている。
 これをどうにかすることができないのか。
 いくつかの方法を考えてはいる。大学生や高校生による、同世代のための意識啓発。学校のカリキュラムに親の資質についての教育を入れる。いい親になるための意識啓発を社会全体に行うためのコンテンツを作る。
 色々考えているが、具体的で効果的な方法を示せないでいる。
 私は、現行の学校制度は問題があると考えていて、学校制度を大きく改めることで、いい親が育つ環境を作れるのではないかと考えているのだが、まだまだ遠い未来の話である。

 この記事のまとめを書く。

 一般的に、成長するに従って、自分と親との関係、自分が親になる可能性についての考えが遷移していく。
 しかし、自分が将来の子どもとどういった関係を築くか、どういった教育をすることができるか、については、十分に考えを巡らせることができている人はおそらく少ない。
 それによって、虐待を受けたり、十分な教育を受けられない子どもが多くなっているのではないだろうか。
 また、文化資本の蓄積をしていた親の子と、そうでない親の子に大きな格差が生じているのではないだろうか。

 私は、小さい頃から親になったときの考えを巡らせることや、親を育成するための行政的支援が必要だと考えている。

 

 

のんのんびよりを観て感じた都市と田舎の人間関係


2016年12月23日

 アニメ「のんのんびより」と「のんのんびより りぴーと」を最近になってようやく観た。
 4人の少女+αたちの、超田舎での生活を描いた作品である。原作は、コミックアライブ連載の「のんのんびより」、著者はあっと氏。
 時間がゆっくりと流れ、いろいろなしがらみを感じさせない、のんびりとした生活というのに憧れを感じさせる作品だった。

 のんのんびよりを観て、私はこの作品に、「都市にはないのどかさ」を感じ、それが何に由来するのかしばらく考えていた。そして、いくつかのポイントを見つけたような気がする。ここでは、それについて書きたい。一応、のんのんびよりを観たことがない人にも伝わるように、随所でシーンの解説を入れるつもりである。

・田舎と都市(郊外)のイメージモデル
 田舎について何か書くとき、それは都市と田舎との比較で書かれることが多い。私も、これからその比較の中で、のんのんびよりについて書くつもりだ。
 したがって、まずは、何が田舎で、何が都市なのか、について考えておかなくてはいけない。
 ここでは、あえて、「都会」ではなく、居住人口の密度について注目するため、「都市」という言葉を用いる。都市の対義語に「村落」ではなく、「田舎」という言葉を用いるのは、「のんのんびより」の作中で「いなか」という単語がよく使われていたためである。
 さて、田舎と言っても千差万別であるし、のどかに暮らせる治安のいい田舎もあれば、治安が悪く、住民の仲も悪い田舎もあるだろう。だから、とりあえず、モデルを決めることが大事だ。ここでは、のんのんびよりについて書くのだから、田舎についてのモデルはもちろん「のんのんびより」でいいだろう。
 一方、都市でのモデルとしては、ここでは、まんがタイムきららMAX連載、原悠衣氏の「きんいろモザイク」を基準にしてみようと思う。同じ日常系マンガとしては、ちょうどよいだろうという判断である。
 なお、ここでは、便宜上、「のんのんびより」と「きんいろモザイク」を目安にして語ることにするが、どちらも創作の物語であり、これらの比較のみに基づいて田舎と都市を論ずるのは多少無理があるという指摘もあることだろう。それに、語ろうとすることすべてにおいて、このモデルでの比較を用いるのも無理があるだろう。
 だから、あくまでこの2つは、あくまで「目安」としてのモデルだ。一応は、モデルを設定しておかないと、読み手によってイメージの齟齬が出て来ることは必至なので、とりあえず設定した基準、目安として考えてもらえるとよい。都市の生活と言ったときに、人によって「ルーキーズ」や「ごくせん」のような世界観を持ったり、「這いよれ!ニャル子さん」や「らき☆すた」のような世界観を持ったりと大きく違っては困るので、恣意的に、そして暫定的に決めたに過ぎない。
 なお、創作物語の世界観について語ることが現実の事情に結びつくは妥当なのか、という疑問も当然だと思うが、ここでは、創作物語も現実を反映したものであり、現実と創作の世界には一定の関連が観られるとし、創作物語の世界を通じて現実について語ることにも、「一定の」妥当性があると判断することにする。
 なお、「のんのんびより」「きんいろモザイク」のモデルとしては、基本的にはアニメ作品を優先とするが、マンガ作品についても、モデルとして考えてよいことにする。
 
・大きなコミュニティVS小さなコミュニティ
 都市と田舎の比較では、ビルや電気といった文明や技術が比較されることが多いが、ここでは、「コミュニティの大きさ」に注目したい。都市でのコミュニティは、大きなコミュニティであり、田舎でのコミュニティは小さなコミュニティと言える。これは単に人口密度の問題とも言えるが、それだけの問題だとも限らない。職住の一致と不一致という点にも注目しなければならない。それについては次のセクションで述べる。
 果たして、どれほどまでなら小さいコミュニティと言えるのかについては考えなくては行けないが、ここではとりあえず、「のんのんびより」くらいの規模を想定しよう。
 このコミュニティのサイズというのが、色々な人間関係の変化を生むことになる。

・職住別離VS職住近接
 職住が同じところにあるか、職住が違うところにあるか、これがコミュニティのサイズを決定する一つの因子でもあるように思う。学校の場合は、職住ではなく校住近接というべきか。
 近代化の流れを受けて、人々は交通手段の発達とともに、都市と郊外という都市構造を形成してきた。それによって、住居は郊外、仕事や学校は都市へと出かけるというスタイルがスタンダードとなったのである。
 「のんのんびより」の登場人物が主に中学生であり、高校生組は電車通学や下宿をしているので、「きんいろモザイク」と比較してもあまり顕著な違いは感じられないかもしれないが、職住が近接している人たちの暮らしは、比較的狭い範囲で完結する事ができるのに対し、職住別離型の生活をする人は、生活圏外がどうしても広くなってしまう。
 かつては、日本もイギリスの職住近接型都市としてのニュータウンをモデルにして都市計画を進めようとしたが、日本にニュータウンという概念が輸入されたときには、新規開発という部分だけを輸入し、職住近接の概念は抜け落ちてしまったと聞いたことがある(事実は知らない)。日本は、結果として大きな都市と、それを取り巻く大きな郊外という都市構造が生まれてしまった。そして、都市文化が日本に定着したのだと私は考えている(詳しいことはまだ勉強していない)。
 それによって起こるのが、人間関係の流動化と、仮面を使った交流である。

・流動的VS固定的
 職住近接の場合は、人が移動することが少なく、人間はある場所に固定化されやすい。一方で、職住別離型の人は、大いに動く。したがって、都市の人の場所というのは流動的なのである。
 流動的なのは、場所だけではない。人間関係も立場も流動的である。都市では、人々は大きなシステムの中で生きている。その中では、容易に人間関係や立場は再編成される。大きなコミュニティを管理するためには大きなシステムが付随してくるのである。
 田舎の農村地区では、お互いの人間関係はそんなに動くことはない。いつまでたっても、「近所の人」「同業者」くらいのものである。学校でもそうだ。「何歳か上のお兄さん、お姉さん」くらいの関係のまま固定される。
 しかし、都会では、システムが大きく、かつ複雑なため、「同僚」だったのが「上司」になったり、「同業者」が「仲間」だったり「商売敵」になったり、学校では、「近所のお姉さん」だったり、「クラブの先輩」だったり、「学校の先輩」だったり、「塾の先輩」だったり、立場が流動的に変化することで人間関係も流動的に変わってしまう。
 このように、都市では、大きな「構造の力」が働く。このために、人々は、「仮面」によって人間関係を行わなければいけなくなり、「キャラ闘争」も発生してくる。


・知らない人が普通VS知っている人が普通
 「のんのんびより」で田舎っぽさが現れていたのは、小学一年生の「れんげ」が、おばあちゃんの家に遊びに来ていた同じく小学一年生の「ほのかちん」に声をかけたシーンである。
 れんげの行動論理としては、「知らない人だったから声をかけてみた。」だったのだと思われる。れんげの住む小さなコミュニティでは、「知っている人」というのが普通であり、「知らない人」というのは特別なのである。したがって、興味がわいてれんげはほのかちんに声をかけてみた。
 ここに、都市との大きな違いを感じることだろう。都市では、普通「知らない人」には声をかけない。声をかけるのは「知っている人」である。
 つまり、田舎では、「知らない人だから(不思議に思い)声をかける。」のに対し、都市では、「知らない人だから(不審に感じ)声をかけない。」のである。これが一般化されることではないのはわかっているが、れんげの行動論理にはここに述べたようなものが隠れていると思われたのである。
 そして、この考えをさらに推し進めていくと、人間関係のはじめについて、意外な帰結にたどり着くことになる。
 田舎では、上記のように、知らない人に声をかけて知り合いになることに「特別な理由」はいらない。もっといえば、知らない人だということそれ自体が声をかける「理由」にもなっているのである。
 一方、都会では、「特別な理由」がない限り、知らない人には話しかけない。道端を歩いていて、知らない人に「どこから来たの?何してるの?」と問いかけることは不審な行動と受け止められる。これは、人々の暗黙の了解として、「知らない人に話しかけるときにはそれ相応の理由がある。」という意識が共有されているからである。田舎で知らない人に、「どこから来たの?何してるの?」と問うのでは全く意味が異なってくるのである。知らない人が普通だというコミュニティでは、人への不信感が増すのである。
 これはつまり、人が多い都市ほど、人と交流することが難しいといった事情を生み出している。皮肉なことである。人が多いゆえに、人と交流できない。人が少ない田舎に一人で引越したほうが、人の多い都市に引っ越すよりも孤立しにくいのではないだろうか。都市では、職場や何らかの目的を持ったコミュニティに入らないことには、人と交流する機会がなく孤立しやすい。
 これは一つに、都市のような大きなシステムの中では、人々が「個人」ではなく、「仮面」として人間関係を構築するという共有された意識があるからではないかと考える。知らない人と話をするときには、「道を訊く人」と「道を訊かれる人」、「落とし物を拾ってあげる人」と「拾われる人」といったように、いわゆるステージ上での役割のように、何かしらの仮面を演じることが求められている。それが、小さなシステムより大きなシステムの中ではより顕著になるのである。
(まだ詳しく調べたことはないが、シンボリック相互作用論やドラマツルギーといった言葉はこれと関係があるのだろうか?)

・歳の差による人間関係
 否かでは、多少都市が離れていようと、「だいたい同年代」という風に同じように接することができる。しかし、都市では、年齢ごとに「層別化」され「序列化」され、人間関係が規定される。これも大きな「構造の力」の一例である。
 「のんのんびより」での、東京から引っ越してきた「ほたる」とそれ以外の人たちの言葉遣いに注目するとわかりやすいかもしれない。
 ほたるは東京育ちなので、年齢別に厳格に層別化・序列化されることに慣れ親しんでいる。したがって、年上には敬語を使うし、年下には敬語は使わないといったように相手によって言葉遣いを変える。一方、他の人達は、年上だろうが年下だろうが同じ話し方である。
 年齢による序列化によって、都市では違う年齢同士の交流が阻害されているのである。


・構造の力
 大きなコミュニティでは、大きなシステムが必要とされ、小さなコミュニティでは小さなシステムが必要とされる。システムというのは「構造」であり、基本的にシステムの大きさが大きくなると、それだけ「構造の力」も大きくなる。どういうことかというと、システムが巨大になるほどに、「何時にどこどこに行かなければいけない」「何々という用事を何時何時までにおわらせなければいけない」といったような要求や、「組織の下っ端」「組織のトップ」「不毛な会議をする人」「約束を守らない人」などといった人に貼るレッテルの種類が大きくなるということである。つまり、大きな構造では、それだけその構成員を規定する力が強い、ということである。システムが大きくなるほどに、人間の存在意義は構造に依存するようになるのである。これは構造主義的な考え方である。
 田舎ののんびりさ、都市の息苦しさ、というのはこの「構造の力」の大小が大きく影響しているのではないだろうか。
 大きな「構造の力」は、構成員から「個人」同士の付き合いを禁じ、「仮面」同士の付き合いを強要するようになる。
 例えば、学校のクラブ活動について考えてみよう。部員数が2、3人のクラブでは、クラブ員であってもクラブ員でなくても、大きく人間関係が変わることはないだろう。「のんのんびより」の中で、中学二年の夏海が「クラブ作ろうぜ!」といっても、それによって大きな人間関係の変質はもたらされないのである。
 一方で、クラブ員が30人くらいの都市の学校のことを考えてみよう。ここでは、「クラブ員であること」が交流の条件になることも多い。
「クラブを辞めたら、元部員と気まずくなった。」
という話もよく聞くのではないのだろうか。「同じクラブ員である」から友達であったり、一緒に遊んだりするということも多いのではないだろうか。
 「きんいろモザイク」では、「同じクラスか否か」は人間関係にとって大きなファクターとなりうることがわかる。
 このように、システムが大きいと、システムが人間関係を規定する力はより強くなる。構造が人間関係を大きく変質させる力を持っているのである。

・仮面VS個人
 これまでに述べてきたように、大きなコミュニティでは、大きな「構造の力」が働き、それによって、人々は「個人」同士の付き合いではなく、「仮面」同士の付き合いを余儀なくされる。
 「個人」同士の付き合いというのは、その人の様々な人間像を含めた包括的な付き合いをするということである。その人を誰かに紹介するときには、「友達」などといったプライベートな人間関係の言葉で説明するときに、それは個人同士の付き合いだと言えよう。
 「仮面」同士の付き合いというのは、その人の社会的一面によって行われる付き合いである。その人を、「同級生」や「同僚」といったような社会的関係の言葉で説明するとき、それは仮面同士の付き合いだと言えよう。
 「のんのんびより」での生徒と先生の関係は、「生徒」と「先生」という仮面の関係である前に、「近所のよく知った人」なのである。
 一方で、「きんいろモザイク」では、やはり「生徒」と「先生」といった社会的な関係が個人的な関係に先行するのである。
 もちろん、田舎だからと言って、「個人」同士の付き合いを必ずするかといえば、そうでもない。ご近所さん同士の関係で終わることもしばしばだろう。しかし、個人同士の付き合いは、都市よりも行われやすいのではないか。
 東京から引っ越してきたほたるは、家では超あまえんぼうであるが、外ではしっかり者として見られている。ほたるは対極的な二面性を有した人物である。これも、ほたるが東京で育ったゆえのことだと考えることもできる。
 ほたるは、東京での人間関係のくせから、外では社会的一面である「仮面」を被って生活をしているのかもしれない。
 
 まとめると、田舎のような小さなコミュニティでは、「個人」の関係が「仮面」の関係に先行し、都市のような大きなコミュニティでは、「仮面」の関係が「個人」の関係に先行すると言える。

・キャラ闘争
 都市では、お互いが仮面同士の付き合いをすることが一般的である。そのため、組織の中で「キャラ闘争」が起こると考えられる。学校について考えるとわかりやすい。学校では会社のように役職が決まっていないので、お互いの立場というものは、「キャラ」によって決まる。
 番長系キャラ、文学少年系キャラ、委員長系キャラ、オタク、ヤンキーといった風に、どういった仮面を被るか、それによってどういった立ち回りをするかが決まってくる。このような、キャラの仮面による組織内での立ち振舞いをここでは「キャラ闘争」と呼ぶ。
 大きなコミュニティが、仮面の付き合いを生み、それがキャラ闘争を生み、それがスクールカーストをはじめ独特の学校文化を生み出しているのかもしれない。

・公共の目の存在
 羞恥心の歴史や恥の文化について確かいい本があったはずなのだがまだ読んでいない。だからここは私の個人的な推測による論理になるが、大きなコミュニティによって「公共の目」が誕生し、それが一つの羞恥心、恥を決めているのではないかと私は考える。
 「公共の目」というのは、あらゆる行為に羞恥心を付与する。知り合い同士では心理的ハードルが低いことでも、「公共の目」を意識すると恥ずかしくなるということはよくあるのである。
 例えば、少し変わったゴスロリファッションを着て街中を歩くというのは、「公共の目」によって奇異に思われるという羞恥心があるかもしれない(「きんいろモザイク」のしのが変な衣装を着て出かけるシーンがある。しのが羞恥心を感じているのかはわからないが。)。
 しかし、それが知っている人ばかりの田舎ならその羞恥心も多少は和らぐ…かどうかはわからないが、「公共の目」を意識しない分、多少楽になるかもしれない(余計辛くなる人もいるかもしれないが)。「のんのんびより」ではれんげがてるてる坊主の格好になって村を練り歩くシーンがあるが、あれは知っている人ばかりの田舎だからできることであって、知らない人ばかりの都市ではなかなかできないものである。
 つまり、知らない人ばかりが普通のコミュニティでは「公共の目」の存在により新たな行動規範が作られるのである。


パノプティコン
 「公共の目」によって作られるのは、羞恥心だけではない。上記に挙げたように、行動規範も作られる。これがパノプティコン効果といえるかもしれない。誰かから監視されているという意識が、人々に新しい倫理観をもたらすのである。このパノプティコン効果を「パノプティコンの力」というならば、これにより、「構造の力」はさらに大きくなるのである。


・都市の利便性と田舎の不便性
 ここまで、都市と田舎のコミュニティの違い、システムの違い、それによる人間関係の違いについて述べてきたが、しかしやはりなんといっても、都市と田舎の違いというのは生活の利便性といったことにあるだろう。水道、ガス、電気、電波、スーパーに本屋さん、その他もろもろ。そういった利便性抜きにはやはり田舎と都市を語ることはできない。
 問題は、都市化することで失われた田舎の良かった点をどう取り入れ、都市化の悪い点をどう減らすかにある。あるいは、都市と郊外の関係をどう見直し、どのような都市計画を立てるかといったことが重要なのである。

・何を目指すべきか
 古代中国には小国寡民、すなわち国民を少なくして小さい国家を作るのを是とする老荘思想があった。これは、このような都市化の問題点を排除しようとした結果だったのかもしれない(詳しいことは知らない)。
 また、仮面同士の人間関係、巨大な構造の力によって支配されることによって人間疎外が起きているとも考えられる。人間疎外は資本主義の結果の出来事だと語られがちだが、人間疎外は都市化による構造の問題だともいえるのではないだろうか。
 私たちは、田舎のいいところと都会のいいところを取り入れつつ、いい社会のあり方を模索しなければならない。
 のんびりとのんのんしながら、便利に暮らすことができれば幸せである。


・おまけ
 個人的なお気に入りのシーンを三つ挙げるなら、「蛍に大人っぽさで完全敗北するこまちゃん」、「家に帰ると急にあまえんぼうになるほたる」、「そ・すんさー」である。「のんのんびより」の8話と「のんのんびより りぴーと」の第11話は歴史に残る素晴らしい回だった。