ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

学校の人員配置を見直す

 

 ここでは、学校の人員配置について私から提案をしたい。
 ここで提案する配置方法は学校に限らず、様々な組織において導入が可能だと考えている。
 はじめに学校における諸問題について論じた後に、学校の人員配置について提案し、他の分野への導入についても提案したい。


・学校の人員配置諸問題

 まず、あらゆる組織において、上下関係というものは存在するが、上下関係にはフィードバック機構、あるいはセーフティーネットが必要である。
 上下関係というのは権力の不均衡であり、強者は弱者に対して理不尽な要求をすることも可能である。それから弱者を守るためにフィードバック機構あるいはセーフティーネットというものが必要なのである。

 現在は法、あるいは行政処分によって学校の教員を縛ることで生徒を守っている。
 わいせつや体罰は処分を受ける。
 しかしながら摘発されるのは一部であり、体罰なんかは当然のように見過ごされているのが実情であろう。

 他にも、教科担当の先生が明らかに生徒のキャパシティを超える課題を出したり、先生の好き嫌いで成績をつけるといったような横柄も存在はするが、よほどの苦情が集まらない限り処分には至らない。

 このように、現在の学校において、セーフティーネットが機能するまでには一定の閾値を超える必要があり、あまり上手く機能してないという感想を私は持っている。

 

 次に、学校といっても偏差値や地域によって大きく内情が異なるというのは広く知られていることだと思う。

 学校によっては、教師は教科指導よりも生活指導のほうに労力を割かれているということも多いだろう。
 クラスの不良の相手をしていて、授業が全くできないといったような状況では学校のカリキュラムを遂行できていないと言わざるを得ない。

 たしかに、学校の機能の一つとして「隠れたカリキュラム」といったものもあるが、授業ができないといった状況を是正し、明文化されたカリキュラムを遂行することが学校の期待される役割だと私は思う。

 このように、学校では教科指導の他にも生活指導をしなければならないといった実情がある。そして、その生活指導によって教科指導が機能してないといった学校も多くある。
 生活指導は「治安維持」とも言えるだろうから、学校は治安維持をしつつ教科指導を遂行することが期待していると考えられる。


 また、学校において、生徒は様々な悩みや不満を抱えているが、それらにスポットライトが当てられることは少ないと感じている。
 「教科指導がわかりにくい、もっとこうしたほうがわかりやすいのに。」といった生徒の声が教師にまで届いて授業が改善されるということはまれであろう。
 また、教育雑誌などにおいて論じられる主役が教師であることが多く、
「教師の業務負担軽減」や「悩みを抱えた生徒への教師の対応」などについて論じられることが多くとも、生徒自体が主役となっていることは少ないと感じている。
 これについては、生徒は未熟な人格者であり、生徒の考えは参考にはしても信頼には足らないとする傲慢さがあるように私自身は感じている。

 このように、生徒自身の不満や悩みは汲み取られることなく、見えないままになっていることが多いように私は思う。


・上下関係をめぐる組織設計
 学校に限らず、親と子、上司と部下といったように、上下関係は色々なところに存在するが、上下関係は上の者が下の者に対して危害を加える危険性を孕んでいる。

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 これを防ぐためには弱者からのフィードバック機構が必要である。

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 では、これをいかにして実現するかということであるが、単純に思いつくのはじゃんけんのように、上下関係をくるくると循環させるという方法である。

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 これは一見簡単そうに見えて実際に組織に導入することは難しい。
「自分の部下が自分の上司の上司であり、自分の上司は自分の部下の部下である」
 といった設計は多くの人に受け入れられないであろう。

 かといって、下の者が上の者に何かを直接進言することも難しい。

 そこで、下の者に対してクライアントとして接して意見を聞き、それを上の者に伝え改善させる。あるいは、クライアントの様子を察して上の者に諫言するといった役割の者がいればよい。

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 この仲介者は、指導者―生徒の上下関係のラインからは少し離れた存在である必要がある。

 

・学校の人員配置の提案

 さて、以上のようなことを踏まえて、学校の人員配置について考える。
 私が考える、学校の人員配置、あるいは組織設計において重視するポイントは以下の2つである。
・分業による教師の負担軽減と業務遂行の効率化
・フィードバック機構をしっかりさせることによって生徒の不満を解消する

要するに、分業とフィードバックをさせる人員配置にしようということである。

 私は、以下のような配置が望ましいと考える。

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 管理者は、教科担当にどのような内容の授業をし、どれほどの課題量にするのかを指定して依頼をする。生徒に対しては、教科担当の教員からどのような授業を受けているかを把握するとともに、授業の進行を妨害しているような生徒や教科以外において指導が必要と考えられる場合に指導をする。
 教科担当に対しては、他の教科との課題量の調整や授業スケジュールの立案、生徒に対しては状況把握と治安維持のための指導に当たるということである。
 現在の担任と生徒指導部、カリキュラム作成委員などを統合したような存在が管理者に当たる。

 教科担当は、管理者からの依頼を受けて授業を実施する。教科担当者は、わかりやすさと知識の正しさと豊富さが求められる。
 複数の学校を兼任したり、大学に所属する人による講義なども可能にすることで授業の質を保障することが可能となる。
 また、従来の教科に縛られず、
「自営業者や公務員によるキャリア教育」
感染症研究所職員による流行している伝染性感染症の予防について」
などといった講義も導入できる拡張性を備えることで、時代の流れに柔軟に対応が可能となる。
 塾との連携も可能であろう。


 相談役は、生徒の相談に乗ったり、管理者や教科担当のやり方についての不満や意見を聞き、管理者や教科担当にフィードバックする役割を持つ。
 生徒が管理者のやり方への不満をこぼしてから動くと、「チクった」などとして余計にひどい扱いを受ける可能性があるため、場合によっては能動的に動く必要がある。
 フィードバックにあたる相談役はあくまで、権力的に下の者を保護する立ち回りをしなければいけない。そうでなくてはフィードバックの意味がない。
 例えば、
「宿題多すぎてつらいよ。」
という生徒に対しては、
「それくらいやらないとできるようにならないから文句言わずにやりなさい」
とは言わず
「宿題多いのがつらいんだね。」
といったように共感的理解を示すことが必要である。医療面接や臨床心理士の面接方法を参考にしてほしい。
 相談役は、担任、カウンセラー、行政担当者、のような役割を統合した役割である。


 私が考える学校における人員配置はこのようなものである。ここには書かれていないが、事務や部活動などの他の部署も管理者からの依頼によって活動するようにすれば後で部署も簡単に追加できるという拡張性も保障されるし、「事務作業に終われて教科研究ができない」といったような状況も改善されるだろう。

 

これらの役割は現在の教員免許制度では対応しきれない可能性が高く、導入のためには新しい免許制度が必要となるだろう。

 

・他の組織への導入

 上記のような、「管理者」「担当者」「フィードバック役」の3役の配置というのは様々な組織においても適用が可能だと私は思う。
 職場においてはパワハラや離職、ブラック労働の予防にも効果的だと思う。

 

 設計思想については、過去にこのような記事を書いた。

 

 設計思想というのは多くの場面で応用が可能なものが多い。


 今回の学校の制度設計については、管理者やフィードバック役は人体のホメオスタシスを保つ生理学の仕組みや、イベントを監視しつつプログラムを実行するプログラムに発想の原点を得た。

 また、下の者がフィードバック役との間に結ぶ関係については、法における契約関係の種類、医師―患者関係のような契約方式などを参考にした。

 

 実際に今回提案した人員配置の設計がどれほど上手く機能するかはわからないが、身近なところに導入して今後効果を試してみたい。

幽奈さんを機にエロ表現の論点について整理する

・ゆらゆら大事件

 ジャンプの巻頭カラー(センターカラ―?)のゆらぎ荘の幽奈さんが問題だという発言に端を発して色々な議論が巻き起こっています。
 私はこの事件を、「ゆらゆららららゆらゆら大事件」と個人的に呼んでいます。

 私自身は当該ジャンプを読んでいないので、幽奈さんのカラー写真はネットで回っているのを見ただけですが、ゆらぎ荘の幽奈さんははじめの方は読んだことがあります。
 今はジャンプは購読していないのですが、まだジャンプを購読していたときに新連載として出てきた1話目からかなりハイクオリティなマンガだなと感じました。
 絵は上手いし、ベタな展開を面白く描いていて面白い作品だなとしばらく読んでいました。ポストToLoveるっぽいなと思います。
 残念ながらニセコイの最終回を機にジャンプの購読はやめてしまったので、途中までしか読んでません。ちなみに最後に買った巻に載っていたのは幽奈さんの26話でした。


・エロ表現の論点
 さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入りたいと思います。今回はゆらぎ荘の幽奈さん自体については議論するつもりはありません。
 今回の事件を機会に、エロ表現についての論点を整理、考察しようというのが今回の趣旨です。
 先に、私が考えるエロ表現についての論点を列挙しておきます。
・当該表現は女性の権利を実際に侵害しているか
・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
・子供への影響とR18の根拠

・禁止かゾーニング
内心の自由と規制活動

 それぞれについて以下で説明をしていきます。前3つがエロ表現について考える際の根拠となる概念について、後2つはエロ表現対策の活動方法についての項目として並べたつもりです。

・当該表現は女性の権利を侵害するか
 これは、「ある作品の中で女性を凌辱する場面の描写があった場合、それ自身が女性の権利を侵害するか」という問題です。
 これは女性に限ったことではありません。より抽象的に記述するならば、
「空想の人物への権利侵害は、現実において同じ属性を持つ人物への権利侵害に当たるか」
 ということになります。
 例えば、「空想の子供に労働させれば現実の子供への権利侵害になるか」
「空想の人間を監禁・拷問する場面の描写は人間自体への権利侵害になるか」
 ということです。

 これは、「私の身体はどこまでか」という議論につながります。よく、「道具は身体の延長である」と言われます。
 わかりやすい例かどうかはわかりませんが、背負っているかばんを誰かに叩かれたとき、「私が叩かれた」と思う人は多いと思います。「この人はかばんを叩くつもりであって私を叩くつもりはなかったからこの人の行動は私には無関係である」と思う人は少ないと思います。
 同様に、空想の中の人物という「概念」は私の身体の延長として捉えられるのかどうか、そしてそれへの権利侵害は実際の人物への権利侵害になるのかどうか、が一つの論点だと私は思います。

 ちなみに、「不快に感じること」と「権利侵害」は同一ではありません。

 

・当該表現は潜在的に女性の権利を侵害する可能性を有するか
 もう一つの論点が、実際に侵害しているかではなく、将来的に侵害する可能性を有するか、という話です。
 この前ヒルデガーの心理学を読んだときには、「暴力的なテレビ番組を観た子供はそれを観ていない子供たちよりも暴力的になる」といった旨のことが書かれていました。
 正直、この研究がどれだけ交絡因子を排除しているのか、またカタルシス効果についてはどれほど考慮されてのかといったことについてはわかりませんが、上のような記述を心理学の本にあったということを先に述べておきます。
 したがって、「エロ表現に多く触れた子供はエロになる。」という可能性はありますが、それが実際に「日本において」成り立つのか、そして「権利侵害としてのエロ行動に出るのか、権利を侵害しないエロ行動に出るのか」といったことなど、単純に当てはめられない点があるのも実際のところであろうと思います。

 このように、未だ潜在的な権利侵害の可能性についてはわからないことが多いと思います。したがって、潜在的な権利侵害の可能性について議論するためには、場合分けをするべきです。
 場合分けの仕方として、潜在的な権利侵害の可能性が
・有する場合
・有さない場合
・わからない場合
 とするのがよいでしょう。

潜在的な権利侵害の可能性を有する場合
 このとき、実際に権利侵害があるので規制をするのかどうか、ということが次の議論になってきます。
 権利侵害がある→即ち規制ともなり得ないのが実際です。
 そこは権利侵害と利益の天秤によって判断せざるを得ません。
 たばこは肺がんの可能性を多分に有していますが、その経済効果や依存性などからすぐに全面禁止に至るということはありません。
 また種々のワクチン接種は、副作用の可能性がないわけではありませんが、利益の可能性の高さから接種が推奨されます。

 以上のように害が少しでもある→規制となるわけではなく、害の大きさと可能性、益の大きさと可能性が天秤にかけられた上で次の行動へと移るであろうと思います。

潜在的な権利侵害の可能性を有さない場合
 特に問題ないといえるでしょう。

潜在的な権利侵害の可能性がわからない場合
 この場合についてがいわゆる見切り発車をするしかないわけです。可能性を有する場合、有さない場合、どちらも考えた上でわからないなりの最適解を探す努力をしなければなりません。


・子供への影響とR18の根拠
 女性への権利侵害と同時に論点となるのは子供への影響です。子供への影響とはよく言われますが、実際にどういった影響が考えられるのか、そしてその影響を防ぐために子供のアクセス権を制限することは妥当性があるのか、そしてその根拠とは何か、ということについて考えなければなりません。

 私は法律にはそれほど詳しくはありませんが、調べたところ、青少年保護育成条例、あるいは青少年健全育成条例というものがR18の法的根拠となっているようです。
 実際にこういった条例が制定されているならば、議論すべきかは当該表現が条例に抵触しているかどうかであり、抵触しているならば相当の処罰を受けるということになります。

 その際に条例が妥当かどうか、正しいのかどうかといったことは問題にはなりません。法に触れているかどうかということのみに判断するのが法治国家の原則だと私は考えています。

 しかし、ここでは、エロ表現の概念について考えるためには新しい法を作るべきか、あるいは既存の法を廃するべきかといった議論も含めてするトピックだと思います。

 そこで、青少年保護育成条例とR18の根拠とは何かについて考えるべきです。ここでは、条例とR18という概念の根拠は同一だという前提のもとで話を進めます。

 正直、私はR18の根拠が何なのかわかりません。何をもって18歳未満に有害なのか、どういった害があるのか、私にはわかりません。

 タバコなら肺がんといったように、わかりやすい「害」があります。R18の18歳未満への「害」とは何でしょうか。
 何かいい本があれば教えてください。


 ちなみに、子供への規制というのは子供への権利侵害だという概念が抜け落ちている人が多いように感じています。
 子供が働いてはいけないのは、子供の保護であると同時に権利侵害です。
 現在の多くの法は、子どもを保護する代わりに子どもから権利を奪っているということを忘れてはいけないと思います。保護と権利を常にトレードオフだと私は思います。

 

・禁止かゾーニング
 さて、ではエロ表現から子どもを遠ざけたほうがよい、ということになったとしましょう。
 あるいはエロ表現が女性の権利侵害になったとしましょう。
 その際に、ゾーニングをすれば問題ないのか、あるいはそもそも当該表現を禁止しなければならないのかということが問題になります。
 そして、ゾーニングを推奨にするのか、ゾーニングしないといけないという法を作ってゾーニングを義務にするのか、ゾーニングというのはどれほど効果があるのか、といったことを考えなければいけません。

 仮にエロ表現の対策をしようとしても、その方法は多岐にわたることでしょう。


内心の自由と規制活動
 最後に、「エロ表現が嫌いだ」と思う内心の自由と実際の規制活動とは区別すべきだということを述べたいと思います。

 私は、「エロ表現が嫌いだ」という内心の自由は保証されるべきだと思います。
例えば、Twitter
「このエロ表現まじムカつく。なんか馬鹿にされてる気がするし気持ち悪い~」
 みたいなツイートがあったとして、そう思う自由自体は保証されるべきだと思います。このツイートに対して、
「あなたは表現の自由を認めないというのですか??」
 と絡むべきではないと言うことです。上記のツイートでは、「表現の自由を規制すべきであり、実際に規制に向けて活動している」ということではありません。

 もっと言えば、「表現の自由を規制したい」と思う内心の自由は保証されるべきだと思います。
表現の自由を規制したい気持ちは山々だが、歴史的経緯から実際に規制してはいけない」
 ということもあります。

 「不快に思うこと」を許容する自由を保障すべきだと思います。

 

 

 今回はこれで終わりです。

 

技術の進歩の危険性

 技術が進歩することはいいことであると一般に考えられがちだが、技術の進歩は常に危険性を高めているともいえると私は思う。


 進歩によって、労働時間を短縮するべきであり、目指すべきは余暇を用いた人間の文化的活動に使えればよいと私は思う。

 しかし、技術の進歩は常に危険を孕んでいるとも思っている。来るべき技術の進歩に備えて先手を打って技術の進歩の危険性を考えておかなければいけない。

 果たして、技術の進歩はほんとうによいことなのか、と考えたときに、そうでもないことに気が付いた。これが文化相対主義の原点なのかもしれないし、脱構築なのかもしれない。(よくわからない)

 

 技術の進歩による武力的危険性

 まずは、技術の進歩による武力の危険性について書こう。

 技術の進歩は殺傷力を高める行為である。物理や化学などはもちろんのこと、情報処理技術の発展は、自動追従システム、インターネットを介した遠隔操作による攻撃など、最近の軍事技術において殺傷力を高めている。

 爆弾もないような時代はがんばってもせいぜい隣国を落とすことができるかといったくらいだったが、今なら数日で地球を滅ぼすことも技術的には可能である。

 技術の進歩は常に滅亡の可能性を高めている。

 

 労働が失われることの精神的危険性

 技術の進歩によって常に新たな職が作られてきたが、向こう数十年の情報処理技術の発展によって労働者が職を失う可能性が高いので、それについて考えておかなければいけない。労働を失うことについて、私が危惧しているのは経済面ではなく、精神面のほうである。

・まず、労働に向けられていた熱意が他の暴力的なことに行きかねない。何かやるべきこと、打ち込むべきことがあると、非行には走りにくい。部活動によって非行に走らせないようにするというのは学校でよく行われたことである。
 労働を失い、働かなくてもお金が入るようになったとしても、打ち込むべきものがなくなった人たちが非行に走らないかということを危惧している。


・次に、労働が減り、富が分配され、多くの人がそんなにがんばらなくても生活できるような余裕が社会にやってくると、人々から仕事を得るための努力が失われるだろう。
 生きていくために職が必要であったなら、職につくために学校に行かなくてはいけない、資格を取らなくてはいけない、悪いことをして捕まってはいけない、といったような、努力が要求された。それは生きていくために必須の努力とみなされていたからである。
 しかし、そんなにがんばらなくても暮らしていけるとなると、それまでの努力のインセンティブがなくなることになる。
 「こんなことをしたら雇ってもらえないから将来暮らしていけない。」
 という意識がなくなるのであれば、就職に有利だからとしていた慈善事業、クラブ活動、学問的努力、そういったものが失われ、国民のマナーは悪化し、研究や経済のあらゆる場面で成長が停滞する可能性もある。
 今までは、就職してお金を得るために良い人間でいなければいけないというパノプティコンの効果があったが、それが失われる危険性があるということである。

・そして、職を失うことで、労働によって得られていた承認欲求が満たされなくなるというのも大きい。存在意義の揺らぎが生じ、新たな存在意義を求めて、人は何をするだろうか。
 宗教活動に熱心な人が増えるかもしれないし、暴力的な抗争が増える可能性もある。
 余暇を使って文化的な活動が活発になればよいが、文化的活動にも一定の技術が必要とされるため、結局は宗教や構想が増えそうな気がしている。

 

 AIによる制度的危険性
 次にAIが発展したときの制度的危険性である。AIの技術ばかりが報道されているが、AIの到来に見合った法整備や、国家運営のあり方の話はそれほど取り上げられていないと思う。
 それは、まだ予想がしにくい未来だからというのもあるかもしれないが、技術ができてから制度の整備のしていたのでは遅い。
 あらかじめ、AIに関わる制度や概念について議論をしておく必要がある。

・AIの人権はどうなる。
 これはまだまだ先のことだろうと思っているが、AIが発展し、人との違いがほぼわからなくなったとき、あるいはAIのほうがより高度になったとき、AIの権利というのを認めずにいることはできるだろうか。
 おそらくそれは無理だろう。
 誕生の仕方は違えど、人もAIも中身は変わらないとなれば、なぜ人間にだけ権利を認めてAIには権利を認めるということが言えようか、いや言えない。ということになる。
 人種差別を撤廃するときに使った概念が、AIの制度設計に関しては仇となってしまう。

 AIはプログラムなので、おそらく任意に数を増やすことができる。大量生産できるAIを前にして、民主主義での人類の敗北は確実であろう。

 権利に関する新しい概念を作るか、民主主義に代わる新しい政治制度を作っておかなければいけない。


・AIに責任を求められるだろうか。
 事故が起こったときにだれが責任を取るのか。これは、人間の精神面に大きな影響を与える。相手が人間であるとき、相手を恨み、被害者になってしまった自分は可哀想だという風にして心を整理することができるが、AIが加害者になった場合、責任の所在がわからなくなり、被害者の心の整理が難しくなる。

 


 以上に述べてきたように、技術の進歩には色々な問題点があると思っている。


 しかし、技術の進歩がなくても、地球の気候変動や、小惑星の衝突なので地球の人類はいつか滅亡するだろう。
 技術の進歩があってもなくても人類は滅亡に近づくというのはなんだか切ない。

加害者と被害者の基準は無限遠に


 誰が加害者で誰が被害者という話はいつも議論になる。

 まず、この疑問について考えるときに留意しておくべきことについては、
「被害者になりたがる心理」
についてである。
 ほとんどの人が、加害者ではなく被害者になりたがる。「被害者意識」というのは現代社会においてキーとなる概念だと私は思っている。
 被害者は構ってもらえるし、失敗や非を咎められない。それに対して、加害者は非難されるばかりで、同情されない。

 そのために、「自分は被害者なのだ。」という主張が至る所でなされる。


 被害者・加害者議論はまずは、これに留意しておく必要がある。


 加害者・被害者議論では、
「加害者がいれば被害者がいて、被害者がいれば加害者がいる。あなたが被害者なら私は加害者であり、私が被害者ならあなたは加害者である。」
という風によく言われていると私は思っている。

 図にするとこうである。

 

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 この主張のポイントは、被害者か加害者かの基準は当事者の間にあるということである。
 そして被害者と加害者は同じ軸上にある。
 左が被害者ならば右は加害者であり、同時に二人が加害者だったり被害者だったりするというのは都合が悪い。


 私は、被害者・加害者の考え方について、
①基準は当事者間について考えるのではなく、無限遠を基準にして考えること
②被害者・加害者の軸は同一軸上に取るのではなく、独立した軸上に取ること

を推奨したい。
 それが、被害者になりたい人の救済でもある。

 図にするとこうである。

 

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 この図を簡単に説明するならば、
「人はみな常に加害者であり、また常に被害者である。」
 ということになる。


①加害者・被害者の基準
 万有引力のポテンシャルエネルギーというのは、注目している物体を無限遠を飛ばすのに必要な仕事量によって決められる。無限遠を基準に考えるというのは、物理学ではよく使われる考え方である。

 自分は100%被害者であり、相手は100%加害者である、と現実で言うことは難しい。
 そして、「被害者になりたがる心理」を考えれば、多くの人は、「自分は被害者」になりたがるので、自分に落ち度はあったなかった云々と議論が堂々巡りすることになる。

 落ち度はあったかなかったかの議論にこの考え方は終止符を打つ。
 基準を無限遠に取るということは、いついかなるときでも、どんなに純粋な被害者に見えても自分には確実に落ち度があり、加害者であると言うことを宣言することである。
 加害者の無限遠は、加害者要素を限りなく小さくした点、あるいは無限に強くした点を基準とする。どちらが無限遠として適切なのかは、どちらでもよいような気もする。

 息をしているだけで世界のエネルギーを使っている、世界を汚染している、存在するだけで誰かの気を苛立たせる可能性を持っている、それだけで罪であると考えるのである。
 いきなり空から隕石が落ちてきて、どう避けようもなく死んでしまったとしても、そこにいた自分が悪い、予測できないものであっても、その日その場所に居合わせたこと、それ自体が罪になる、と考えるのである。
 
 被害者の無限遠も同様にして考える。


 例えば、AがBにいきなり道端で殴られたとしよう。
 AはBに突然殴られたという点では被害者であるが、その場に居合わせてしまった、Bに殴らせたいという感情を抱かせてしまったという点で加害者であるとも言えるのである。
 同時に、BはAを殴ったという点で加害者であるが、Aを殴りたいという感情に襲われてしまった、その場でAに出会ってしまったという点で被害者でもあるといえる。

 AとBを相対的に比べれば相対的にAの方が被害者であるということである。
 Aが絶対的被害者でBが絶対的加害者であるということではない。


 たいていの場合、どちらが被害者でどちらが加害者か考えても仕方ないのである。

 私たちがすべきことは、加害者をあぶりだすことではなく、なぜ事件は起こったのか、を考え、再発防止に活かすことである。


 どちらが被害者でどちらが加害者かは、断罪のときにさえ必要ではない。

 法を破っていれば被害者だろうが加害者だろうが裁かれる。

 それだけのことである。

強者の条件の変遷

 まだ自分の中で全然まとまっていないことではあるが、
「何をもって強者とするか」
 という基準が、時代の変遷とともに変わってきたのではないかとほのかに思っている。
 そして、私の関心事は、なぜ強者の条件が変わったのか、ということである。これを、歴史学的に、社会学的に、心理学的に、そのいずれか、あるいはそのどれもを使ってうまく説明できればよいと考えている。

 以下、私の曖昧な知識に基づく認識で、私なりの仮説を展開したい。

 私の考える、強者の条件の変遷は以下のようなものである。

 武力 (古代~共同体の確立まで)
→血筋・地位 (封建的共同体の確立~資本主義の到来まで)
→経済力 (資本主義~教育機関の整備まで)
→学力 (教育機関の整備~消費社会の成立まで)
→恋愛的魅力 (自由恋愛・消費社会~)

 領土や食糧の争奪など、戦争が絶えない時代には、武力を有するものが強者として、権力を得て、集団を統率していたと考えられる。
 そして、ある程度あたり一帯が平定され、共同体の統治が必要になると、王やその血縁、有名貴族など、支配者側の血筋を持つ者が強者として権力を得たと考えられる。
 資本主義が到来すると、依然として血筋による支配は持続しているにしろ、莫大な富を持った商人による協力も不可欠となり、経済力を持つ者が次第に権力を得ていくだろう。
 技術が高度になり、学のある物が最新の技術を導入して資本主義世界で活躍するようになると、国家は教育機関の整備によって技術の革新を図るようになり、学力のあるものが強者となってゆく。
 そして、ある程度、技術の発展を遂げ、広く国民が豊かさを実感し、いわゆる国民総中流社会になると、特別な学や技術、経済力がなくとも幸せな暮らしができるようになり、また、結婚が家同士ではなく、自由恋愛に基づくものが主流になるにつれ、更なる幸せを求めて、恋愛的魅力の高い人への需要が高まる。そして、恋愛的魅力の大きい人が優遇されたり発言権を得るなどして、強者となってゆく一方、恋愛的魅力の低い人は、不遇な目に遭うことも多くなる。

 以上が、私の考える強者の条件の変遷である。

 これについて、
①本当に強者の条件は時代とともに変化したか?
②①が正しいとすれば、それはなぜ、どのように起こったか?

 ということについてより詳細に、説得力のある記述ができればと私は考えている。しかし、今のところ手詰まりである。

 どのようにして論を展開していけばよいかわからない。

 今後、考えが浮かび次第、論を進めることにしようと思っている…。

社内への市場原理の導入

 企業の中で市場原理を導入して仕事を割り振るという方法について考えてみたい。

まず、現在の企業の運営方法を知るために、現在の日本という国家とよくある企業の運営を比較しする。

支配体制
国家:間接民主制
企業:独裁制

支配者の選び方
国家:選挙
企業:指名、血縁、など

人の動かし方
国家:法と市場原理
企業:命令


 比較の結果は上記のようになる。ここで、「人の動かし方」について、社内に市場原理を導入できないかということが、今回の趣旨である。

 企業での人の動かし方は基本的に権力による命令である。権力による命令のメリットは、素早く、確実に命令を実現できることである。デメリットとしては、命令される側のモチベーションが低くなったり、権力の乱用が起きる可能性があることである。

 企業内で、市場経済を導入するのはどうか。
 基本的に、市場経済のメリットは、リソースを無駄なく利用することがメリットであり、空いてる人がいればその人が仕事ができるし、自ら仕事をするという意思があるので、モチベーションもそれなりに高いだろうと考えられる。

 ただ、市場経済は、そこそこの規模があるから実現できるし、必要とされない分野の市場が消滅することになる。
 規模が小さく、また、需要があれば誰もやりたがらないからといってその仕事を消滅させることもできない企業では、そのような市場原理のデメリットの管理が難しい。

 クラウドソーシングは、市場原理に基づく働き方に近いものがある。

 企業において、社内ルールと市場原理の導入により、市場原理のメリットを導入する一方でデメリットを抑えることも可能になるかもしれない。

 

 なお、独裁体制や権力の支配が遅れていて、民主制や市場原理が進んでいるというわけではないということを意識しなければならない。

生徒の課題スケジュールは誰が把握しているのか??

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 中学校と高校では各教科で別々の教科担当の人が授業を受け持ち、それぞれで課題を出します。

 また、進んでいる授業や遅れている授業など、教科ごと、クラスごとにバラバラです。


 ではそれを誰かが把握して管理しているのかといえば、私の中学や高校では誰もそういった業務はやっていなかったように思います。

 特に私が通っていた高校は課題の量がそれぞれの教科でかなり多く、生徒は常にパンク状態でした。
 一日2時間くらい課題に時間を費やせば課題は終わるが自分のしたい勉強はできない…何を捨てて何を拾うか…みたいな感じでした。


 中学や高校など、それぞれの授業を別の先生がいる場合、まとめ役がいないと、それぞれの先生が好きに生徒に対して課題を与えることができます。

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 しかし、これでは、生徒の負担を把握している教員がおらず、生徒はパンク状態になり、課題をやらない、とりあえず成績のために課題をするが時間がないので答えを写す、毎日深夜まで起きてなんとか課題を終わらせる、など、あまりよくない状況が生じてしまいます。


 私が思うに、これはだれか「まとめ役」が教科ごとの課題を調整するべきです。

 

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 ここで、例え話をはさみますが、パソコンに例えると、各々の教師が自由に生徒に課題を出すことができるというのは、OSの不在のようなもので、パソコンのメモリ管理をそれぞれのソフトが勝手にやっているような状態です。この場合、バッティングして不具合が生じます。

 まとめ役の導入というのはOSの導入のようなものです。これにより、生徒の時間、労力などのリソースを管理して、課題量などを調整し、より効率の良い運用ができるはずです。


 例え話はここまでです。

 では「まとめ役」は誰がするのがよいかということを考えてみようと思います。

 クラス委員、教務部などでもいいでしょうし、クラス担任がやってもいいでしょう。

 しかし、ここでは、私は、今のクラス担任とはまた違った「担任」という職を教師の専門職として置くべきだと考えている、と言っておきましょう。
 この「担任」の仕事としては、教科指導は行いませんが、それぞれの授業速度や課題量の管理、クラスの治安維持、生徒の心身の健康カウンセリングなどを想定しています。


 「担任」は、各クラス1人ではなく、学年で2~3人などの人数でもよいと思います。
 授業中にうるさい生徒がいれば、教師が注意するのではなく、「担任」が注意するようにする、生徒の相談事は担任が受ける、などすれば、教師は教科指導に集中でき、担任を置くことによるメリットは大いにあると私は思います。
 その分、「担任」という職は教科指導の仕事よりも高度な技術が要求されることになるとは思いますが。
 「担任」に教師の指導の仕方なども注意する権限を持たせれば、権力のバランスを取ることができ、教師の暴力などを未然に防ぎやすくもなりますし、わかりにくい授業の改善なども期待できます。


 今回の趣旨をまとめると、
「誰か、まとめ役が課題量や授業スケジュールを管理すべきである」
「担任という職を作ることで、権力の分散、教科指導への集中、授業の質の改善が可能になる」
 ということです。