否定しとけば自己定義できる
私たちは、周りとの関係によって性質が定義される。
簡単に言えば、力が強い人がかっこいいとみなされる世界にいれば、力が強い人は好意的にみなされるが、力が強い人が野蛮だとみなされる世界にいれば、力が強い人は否定的にみなされるということである。
優しいとか、賢いとか、ハンサムだとか、かわいいだとか、そういった個人の性質のように思われていることも、実は個人が集団と無関係に備えているのではなく、集団との関係によって相対的に定義されているに過ぎない、と考える人もいる。
これは、つきつめて言えば、人は本質的には無である、ということになる。人が何かの性質を持つのは周りと関係を持った時である。
まあ、本質的なことはさておき、人は多かれ少なかれ、周りとの関わりに影響を受けているのは確かだろう。
多くの人は、無意識に以下のように自己定義している。
「○○な人は素晴らしい。」
「自分は○○な人である。」
「したがって、自分は素晴らしい。」
見事な三段論法である。
ちなみに、以下のような亜型もありだ。
「○○な人はダメである。」
「自分は○○な人ではない。」
「したがって、自分はダメではない。」
ちなみに、これは厳密には正しい論理展開ではない。論理と集合を勉強する人は声高に「ダウト!」と叫んでほしい。しかしながら、先に述べた形式よりも、日常的にはこちらの方がよく使われているように私は思う。
きっと、婉曲表現を好む心理が表れているのだろう。わざわざ、「自分は素晴らしい。」というのは嫌らしいので、「自分はダメではない。」と主張することで暗に「自分は素晴らしい。」と主張することができる。実に便利だ。
必ずしもこの論理展開がバックにあるというわけではないが、無意識に使っている人はけっこう多いんじゃないだろうか。
なぜならば、さりげなくマウントが可能だからである。
用例を見てみよう。
「市の絵画コンクール小学生の部で金賞受賞しました!」
解説:
「絵画コンクールで金賞受賞する人は絵画のセンスがある」
「自分は金賞を受賞した」
「したがって自分は絵画のセンスがある」
実にほほえましい。
「街中でモデル事務所にスカウトされたwwwモデルなんて承認欲求の塊みたいなのばっかりだし、普通に断ったけどwww」
解説:
「モデル事務所にスカウトされる人は魅力がある。」
「自分はスカウトされた。」
「自分は魅力がある。」
「モデルの仕事をするのは承認欲求の塊」
「自分はモデルの仕事を断った」
「自分は承認欲求の塊ではない」
二つの合わせ技である。強烈なマウントパワーを感じる。燃えてしまえ。
「うわっ、○○好きとかキモっ!!」
解説:
「○○が好きな人はキモイ」
「自分は○○が好きではない」
「自分はキモくない」
最も使いやすい汎用的表現である。このフレーズを使うときには、○○のことを知らなくてもオッケー。婉曲的に、自分は「キモくない→魅力的である」と表現できるキラーフレーズである。ぜひマスターしよう。
人間の行動は基本トレードオフ
欠点のあるキャラクターは魅力的に感じるけれど、それってどうしてなのかと考えていた。
明後日の方向に向かって全力疾走してしまうキャラとか、落ち着きがなくてぴょんぴょんしてしまうキャラとかいるけれど、そういうところがあったほうが魅力的になったりする。
現実においてもそうで、ちょっとくらい欠点がある方が、関わりやすい。
それがどうしてなんだろう、と思っていた。
そして、それって「トレードオフ」なのじゃなかろうか、と最近になって思った。
たいてい人は、何かしら欠点を抱えているもので、それが何かは人によって様々だけど、自分の欠点を認める以上、相手に欠点を見出したいと思う心理があるのではないかと思う。
自分よりも圧倒的に上位の存在というのは、癪に障るし、自分とは階層が違うということで敬遠してしまうけれど、同じように欠点のある、同じ階層の人間だと認識することで安心できるのではないか、と思う。
相手にも、自分にも欠点があると考えたときに、自分と相手はお互いに「欠点を差し出す行為」をトレードオフすることで相殺し、親しみやすい存在だと捉えることができるのではないだろうか。
また、相手に欠点が見いだせなかった場合は、「相手はむかつく存在である。」といった風に捉えることで、自分の欠点とトレードオフしているのかもしれないし、それもできなかった場合は、トレードオフできる関係にないので、親しみやすさを持てなかったりするのかもしれない。
あるいは、相手に欠点が見いだせなかった場合でも、相手を上位と認めて、「自分の欠点を相手に差し出す行為」と、「相手から何かを恵んでもらうこと」をトレードオフとして捉えるということもあるかもしれない。
どうであれ、トレードオフによって印象を説明できるのではないか、と思った。
この考えに基づくならば、人から反感を買わないようにするには、人がトレードオフしやすい欠点を作って置くというのが大事なのかもしれない。
こんなことを考えていると、こういった印象だけに限らず、人間のあらゆる行動は、「トレードオフ」の概念で上手く説明できるのではないかと思い始めた。
「労働」と「収入」のトレードオフ。
「労働」と「自己実現」のトレードオフ。
「労働」と「承認」のトレードオフ。
こう捉えることで、無償有償にかかわらず、人間の労働行為を説明できる。
中二病的な、「自分は選ばれた不幸な人間だ」というような思考も、「不幸」と「同情」のトレードオフだと捉えられる。
トレードオフの概念で考えることで、人の行為というのはたいていうまく説明できると感じる。
考えないといけないテーマリスト 20170408
いつもはある程度、書くテーマがまとまってから記事を書こうと思うのだけど、テーマは尽きることはない気がするし、個人的に、考えなければならないテーマについてリストを作ってみようかと思った。
どうせ時間がたったら、今思いつかなかったけど考えないといけないと思うこと、いくらでも思い出すんだろう。2017年4月8日版ということで。
格差関係
・KKO問題
通称、キモくて金のないおっさん問題。命名は私ではない。要するに、貧困で未婚で、世間からキモイと言われるので結婚の希望もなく、正社員にもなれない、そんなおじさんたちをいかにして救済できるかという問題。貧困女子が取り上げられ始めている一方、こちらはあまり取り上げられていない。
・貧困シングルマザー
低学歴・貧困・精神疾患・風俗での稼ぎというのがセットになっていることが多い。また、出産は10代であることも多い。貧困シングルマザーに関しては、
「なぜ馬鹿で性的に乱れた自業自得の人間に、計画性を持って勉強して、妊娠可能性のある性交渉を控えて収入を得ている自分たちの税金が使われないとダメなのか?」
「貧困シングルマザーの子供の人生をどう救済することができるのか」
という問題を解決しなければいけない。
・格差と暴力
お金・家族・友人など、失うものがある人は戦争や暴力事件をしたがらないが、失うものがなく、戦争や革命によって自分たちの地位が向上する人たちは暴力を求める。
・大卒と新卒の採用
「大卒しかとらないが、子供を大卒に行かせるだけの給料は出さない。」
「新卒しかとらないので、就職氷河期の時代の人たちは自分なりにがんばって生きてください。」
という企業と経済格差をどう扱うか。
社会負担
・自己責任論
自己責任論を主張するのは、自分の生活にもギリギリな人間も多い(自分が苦労して生きているのに支援を受けて楽しているのは許し難いという思考が生じる。これは格差関係の問題にも通ずる)。生活保護、医療費負担、在日外国人、その他支援をカットしろという要望に対して、抑圧とは違ったアプローチが取れるか。類似した問題として、自国第一主義。
国防と内政
・ミサイルや核の脅威、領土問題の国際情勢を踏まえた上で、現実的な平和の実現のために、「二項対立にこだわらない」政治の計画が必要となる。
教育
・大学の大衆化
大学の数、進学率が増えたことで、Fラン大学をいかにして扱うかという問題が表面化してきた。Fラン大学をどう扱うか。
また、
「大学でやったことと全く関係のない職務内容に就くなら大学に行く必要はない。」
という意見に対して、採用する側の企業の答えは。
・教育の効率化、多様化
能力別の階層化による効率化、脱講義形式による効率化、発達障害の生徒に最適化することによる効率化(教育の多様化)
・教師の負担軽減
教師がオーバーワークすぎるのをどうするか。教師の資格を分割するなり、学校の管理範囲(授業、生活指導、部活動、いじめ問題)を分割する必要があるのではないか。
・文化資本と経済格差と教育水準
子供の教育水準は、親の持つ文化資本や経済力に大きく影響されるという問題について
・教育カリキュラム
「学校では教えてくれない」
「○○も学校で教えてほしかった」
「何のためにやっているのかわからない」
といった声についてどう応えるか。
・政治との関係
「政治が何やってるかわからない」という人口を減少させるべきか。減少させるべきならば、いかにして行うか。
人間関係
・フェミニズム
女性の権利と責任。男性の権利と責任。性差を踏まえた上での平等とは。パワーカップルとKKO問題など、格差問題とも関連する。
・保護と抑圧、責任と自由のトレードオフ
フェミニズムと親子問題に関して、保護と責任がトレードオフであり、それに付随して抑圧と自由がトレードされるという概念について。
・被害者意識
被害者であろうとする意識、被害者が得られる同情や権利への欲求を高める人が多いことについて。
・孤独と承認欲求
孤独であるがために承認欲求を満たすために行われる種々の行動について。いかにして承認欲求を満たすか。
集団と個人との付き合い方について
集団と個人の付き合い方について、やや強引ではあるが、2つの概念をあげてみたい。
・集団の下位概念としての個人
集団が個人に先行する。集団によって個人が作られる。個人は集団のしもべである。個人の自我は制限される。
ほとんどの人間は、この個人として人生を始める。
・集団の上位概念としての個人
集団との関係は契約による。自我形成がなされた個人に起こる。後天的に形成される個人である。
これについて、補足していくことにする。
はじめ、個人は集団の中に芽生える弱い自我である。
この個人の中には、自我が強くなるものが存在する。その個人は「集団の上位概念としての個人」となる。この個人になることができるのは、一部の個人のみであり、多くの個人は下位概念としての個人として人生を終える。
上位概念の個人は、自分の人生について、思想を持ち、集団との契約によって人生を歩むものである。
「集団の上位概念としての個人」は、集団を否定するものではない。集団をコントロール可能なものとして考えることができるのである。契約様式によって、個人の利益を最大化するための集団について思考を巡らせることができる。
「集団の下位概念としての個人」は、集団それ自体について思考を巡らせることができない。集団の様式、集団の規則は決定事項として存在し、それを改変したりする思考はできない。
プログラムの言葉で言うならば、集団の下位概念としての個人は、集団という親クラスを継承したサブクラスであり、上位概念の個人は、集団をインポートするクラスとしての個人である。
集団の下位概念としての個人はもちろんのこと、上位概念の個人であっても、個人の存在は集団との関係性によって捉えられることは変わらない。つまり、集団の上位概念としての個人になれど、集団からフリーになることはなく、集団との関係性に個人の存在は縛られる。
集団の上位概念としての個人が下位概念としての個人と異なるのは、集団に存在を縛られながらも、その集団自体に思考を巡らせて、集団に干渉することができるという点である。
(実存主義と構造主義の両立と捉えることが可能)
現在、人口の多数を占めるのは「集団の下位概念としての個人」である。
下位概念から上位概念の個人になる方法としては、自己対話を通して自分の生き方についての思想を確立すること、自分が考える社会像を持つことが重要になる。
集団の下位概念としての個人は全体主義に傾斜し、上位概念としての個人になりそこなった個人はアナーキズムに傾斜する。
上位概念の個人になるためには、一定以上の思想と自我の器が必要である。
と集団と個人についてこんなことを考えた。
本来なら言い切るべきではないところも多いが、言い切った方が概念が分かりやすかったので言い切る形にしてみた。
すごいのです!紙にやるべきことを書いたらできるようになったのです!
すごいのです!紙にやるべきことを書いたらできるようになったのです!
誰かに連絡することが嫌すぎて、一文の連絡をするのに3日くらいかかっていたのが嘘のようなのです!
やらなければいけない仕事に取り掛かるまでに8時間くらいかかってたのが嘘のようなのです!
やらなければいけない…という嫌な気持ちがだいぶましになったのです!!
たぶん以下に書いていることが、楽になった理由。
・考えなきゃいけないことが減る
ただ淡々と紙に書いてあることをTo Doとして実行するという風に考える。
すると、頭の中で「○○しなきゃ…」「○○もしなきゃ…」「○○も…」といっぱいあった「しなきゃ」が、「紙に書いてあることをする」に一本化される。そのおかげでワーキングメモリが空く。メモリを開放できるということだ。
・やりたくない気持ちの減少
やりたくないことは、やるまでに色々考えなくてはいけなかったけど、紙に書いてあることをするとだけ考えていると、やりたくない気持ちが比較的弱い。
それはなぜか。
おそらく、紙に書いてあることを「上位からの指令」と捉えることで、自分の意思決定という作業を減らせたからだ。
「やらなければいけない…やらねば…」と、今まで意思決定するのがかなり負担だったが、紙に書いてあることを、「自分より上位の存在の指令」と捉えると意思決定の苦労が減る。ここが大切だ。
会社や学校でやってることが家ではだらけてできないという人は、「学校や会社ではやるべきことを命令されるからできている」という可能性が高い。つまり、家でだらけてしまうのは、行為ではなく意思決定が負担になっている可能性が高い。
今回したことをプログラムの概念で捉えるとするなら…
「紙にするべきことを書いた」というのは、C#でいうところのデリゲートをつくったという感じだ。
「誰々に何時に連絡をする、借りている本を読む、何々についてネットで調べる」という処理を、
→「紙に書いてあることをする。」
という処理に捉えている。
しかし、この方法にも課題がある。
一週間くらいしたらこの方法にも飽きてしまいそうだ。時間がたつと慣れてきてあまり効果がでなくなる可能性が高いので、また改良した方法を考えねば。
好きなこと、やりたいことがあるかないか。
好きなことを持ってると、人生が楽しくなる気がする。
趣味というのは大事だと思う。
でも、好きなもの、やりたいこと、というのを持っている人って結構好きなんじゃないかと感じる。
好きなものといってもいくつかある。
・マンガ、ネット、映画、アニメ、食事、舞台鑑賞
・サイクリング、ランニング、小物づくり、楽器演奏、勉強
・プログラム、小説やマンガを描く、機械を作る、研究
なんとなく3つに分けてみた。初めは、消費の趣味、二つ目は消費と生産の間の趣味、三つ目は生産の趣味、といった具合である。まあ、大体の分け方で。
基本的には娯楽というのは、消費するものが多いと思う。
たくさん、消費娯楽が世の中にはある。どれもおもしろい。
そういうのは、好きな人が多い。
でも、何かを生産するというのが好きな人は、それよりも少なくなってしまう気がする。
何かを生産しようとしなければちょっと苦労しなければいけないものが多い。
その苦労、をするのを避けてしまうのかもしれない。
では、そういった、「苦労が必要な生産的行為」が好きな人とそうでない人というのは何が違うのだろうかと私は思った。
好きなものというのは、やりたいことに裏打ちされているのではないかと私は思う。
「苦労が必要な生産的な行為」というのは特に、好きになる前に、何か「やりたいこと」があるんじゃないだろうか、と私は思う。
例えば、プログラミングが好きな人は、「こういったプログラムを作りたい!」といった動機に裏打ちされている場合が多いんじゃないだろうか。
ということは、そういった、好きなこと、特に生産的なことが好きな人とそうでない人の違いは、「やりたいこと」があるか、ないか、そして、あったとして、その情熱と苦労を天秤にかけたときに、情熱が勝つかどうか、そういった違いではないか。
と、私は思った。
「やりたいこと」というのがあり、それを実行できる環境があれば、幾分、豊かに暮らせると思う。意味のある日々を生きられる。日々の生活に意味を与えられるというのは幸せだと思う。
勉強にしたって、「やりたいこと」があって、そのために勉強するのは楽しいし、知識も身につきやすい。
逆に、やりたいことにつながらないことならば、好きにはなれなくて、やる気も出ないということも多い。
私は、勉強やら何やらは、「やりたいこと」があること、つまり勉強の動機があることが一番大事だと思う。動機があれば、好きになれる。
主体的に生きるというのは、やはり、「やりたいこと」があって、「好きなこと」があるからこそできることなのだろうと思う。
では、どうしたら。「やりたいこと」というのは見つけられるのだろうか
これまでの経験というのも大きいだろうし、自分と対話するというのも大事だと思う。
やりたいことを持っていると、色々調べたり練習するのに時間がかかるので、時間も足りなくなる。
そこで、やりたいことがある人と特にない人では生活スタイルにだいぶ差が出てくる。
やりたいこと、好きなことを持っている人が増えたらいいな、と私は思う
幼稚園時代の体重測定の話
私は、幼稚園に通っていた。もう、15~30年くらい前になる。(年齢をぼかすためにあえて、ぼかしてある。)
確か、一番下の学年だったので、3、4歳ごろだったと思う。
体重測定の時間があった。女児と男児が分かれていたのか、一緒だったのか。もう昔のことなので、覚えていない。
幼稚園児なので、一緒だったかもしれない。
パンツ一丁で、教室に集められて、教室に体育すわりをして順番が来るのを待っていた。順番に体重測定の台に乗って、体重をせんせいに記録してもらう。体重測定は、女性のせんせい二人がしていた。
私は、男児の列で、三角すわりをしておとなしく待っていた。寒いなあ、早く終わらないかなあ、なんて思って居たかもしれない。
私の前では、仲の良かったたかしくん(仮名)とじゅんくん(仮名)も同じように体育すわりをしていた。
ちょっと元気のいい二人である。せんせいからも可愛がられていたように思う。
順番は進み、たかしくんが、立ち上がって、体重計の上にのった。私は、たかしくんの背中を見ていた。
たかしくんは、せんせいが体重計を読み上げてくれるのを、気を付けをして待っていた。
次の瞬間、せんせいがたかしくんのパンツを下に勢いよくずり下げた。私の前には小さなたかしくんのお尻があらわになった。一瞬の出来事に私は驚くばかりである。たかしくんは慌ててパンツを元に戻した。せんせいは、楽しそうである。せんせいは、たかしくんと向かい合う姿勢で体重を測っていたので、私から見える景色とは違う景色が見えていたのだろう。
たかしくんは、その後、体重を読み上げてもらい、恥ずかしそうに帰ってきた。
幼稚園児にどれほど羞恥心があるのか。まあ、当時のことを思い出すに、羞恥心というのは、幼いなりにもそれなりにあった気がする。
その後、じゅんくんが体重計に上がった。緊張感があたりに張り詰める。そして、せんせいは、じゅんくんのパンツを下にずり下したのだった。わたしの前には、今度はじゅんくんの小さなお尻が現れた。
せんせいは楽しそうである。じゅんくんと遊んでいるみたいにも見える。じゅんくんは急いでパンツを元に戻した。じゅんくんは、恥ずかしそうに帰ってきた。
私は、立ち上がり、体重計へと向かった。当時、かなりおびえていた様な気がする。私は体重計に乗った。しかし、手は気を付けにしなくてはならない。警戒心を張り詰めていた。何かあればいつでも手を出せるように。
次の瞬間…。
何も起こらなかった。安全に体重測定は終わった。
びくびくして損した、と思いつつも、安心して私はまた、園児の列へと戻っていった。
今もなお、覚えている幼稚園時代の記憶の一つである。
下の記事を書いていて思い出した↓