ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

社内への市場原理の導入

 企業の中で市場原理を導入して仕事を割り振るという方法について考えてみたい。

まず、現在の企業の運営方法を知るために、現在の日本という国家とよくある企業の運営を比較しする。

支配体制
国家:間接民主制
企業:独裁制

支配者の選び方
国家:選挙
企業:指名、血縁、など

人の動かし方
国家:法と市場原理
企業:命令


 比較の結果は上記のようになる。ここで、「人の動かし方」について、社内に市場原理を導入できないかということが、今回の趣旨である。

 企業での人の動かし方は基本的に権力による命令である。権力による命令のメリットは、素早く、確実に命令を実現できることである。デメリットとしては、命令される側のモチベーションが低くなったり、権力の乱用が起きる可能性があることである。

 企業内で、市場経済を導入するのはどうか。
 基本的に、市場経済のメリットは、リソースを無駄なく利用することがメリットであり、空いてる人がいればその人が仕事ができるし、自ら仕事をするという意思があるので、モチベーションもそれなりに高いだろうと考えられる。

 ただ、市場経済は、そこそこの規模があるから実現できるし、必要とされない分野の市場が消滅することになる。
 規模が小さく、また、需要があれば誰もやりたがらないからといってその仕事を消滅させることもできない企業では、そのような市場原理のデメリットの管理が難しい。

 クラウドソーシングは、市場原理に基づく働き方に近いものがある。

 企業において、社内ルールと市場原理の導入により、市場原理のメリットを導入する一方でデメリットを抑えることも可能になるかもしれない。

 

 なお、独裁体制や権力の支配が遅れていて、民主制や市場原理が進んでいるというわけではないということを意識しなければならない。

生徒の課題スケジュールは誰が把握しているのか??

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 中学校と高校では各教科で別々の教科担当の人が授業を受け持ち、それぞれで課題を出します。

 また、進んでいる授業や遅れている授業など、教科ごと、クラスごとにバラバラです。


 ではそれを誰かが把握して管理しているのかといえば、私の中学や高校では誰もそういった業務はやっていなかったように思います。

 特に私が通っていた高校は課題の量がそれぞれの教科でかなり多く、生徒は常にパンク状態でした。
 一日2時間くらい課題に時間を費やせば課題は終わるが自分のしたい勉強はできない…何を捨てて何を拾うか…みたいな感じでした。


 中学や高校など、それぞれの授業を別の先生がいる場合、まとめ役がいないと、それぞれの先生が好きに生徒に対して課題を与えることができます。

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 しかし、これでは、生徒の負担を把握している教員がおらず、生徒はパンク状態になり、課題をやらない、とりあえず成績のために課題をするが時間がないので答えを写す、毎日深夜まで起きてなんとか課題を終わらせる、など、あまりよくない状況が生じてしまいます。


 私が思うに、これはだれか「まとめ役」が教科ごとの課題を調整するべきです。

 

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 ここで、例え話をはさみますが、パソコンに例えると、各々の教師が自由に生徒に課題を出すことができるというのは、OSの不在のようなもので、パソコンのメモリ管理をそれぞれのソフトが勝手にやっているような状態です。この場合、バッティングして不具合が生じます。

 まとめ役の導入というのはOSの導入のようなものです。これにより、生徒の時間、労力などのリソースを管理して、課題量などを調整し、より効率の良い運用ができるはずです。


 例え話はここまでです。

 では「まとめ役」は誰がするのがよいかということを考えてみようと思います。

 クラス委員、教務部などでもいいでしょうし、クラス担任がやってもいいでしょう。

 しかし、ここでは、私は、今のクラス担任とはまた違った「担任」という職を教師の専門職として置くべきだと考えている、と言っておきましょう。
 この「担任」の仕事としては、教科指導は行いませんが、それぞれの授業速度や課題量の管理、クラスの治安維持、生徒の心身の健康カウンセリングなどを想定しています。


 「担任」は、各クラス1人ではなく、学年で2~3人などの人数でもよいと思います。
 授業中にうるさい生徒がいれば、教師が注意するのではなく、「担任」が注意するようにする、生徒の相談事は担任が受ける、などすれば、教師は教科指導に集中でき、担任を置くことによるメリットは大いにあると私は思います。
 その分、「担任」という職は教科指導の仕事よりも高度な技術が要求されることになるとは思いますが。
 「担任」に教師の指導の仕方なども注意する権限を持たせれば、権力のバランスを取ることができ、教師の暴力などを未然に防ぎやすくもなりますし、わかりにくい授業の改善なども期待できます。


 今回の趣旨をまとめると、
「誰か、まとめ役が課題量や授業スケジュールを管理すべきである」
「担任という職を作ることで、権力の分散、教科指導への集中、授業の質の改善が可能になる」
 ということです。

役割分担と利益相反

 役割分担をすることで作業の効率化が進むというのはある面で正しいことだと思うけれど、役割分担のデメリットについてはそれほど語られていない気がする。

 私は、日頃から役割分担のデメリットをよく感じている。
 そのことについて少し書きたい。

 役割分担は社会で、家庭で、至るところでなされている。ここでは、役割分担という意味をやや広義に捉えることにする。
 例えば、技術部と営業部といったような役割分担ではなく、教師と生徒、親と子、といったような立場の違いも含めて役割分担という言葉を使うことにする。そして、ここで語りたいのは、むしろ「立場の違い」という意味での役割分担である。


 はじめに、実際に具体例を挙げてみよう。

 親「世話みてやってるんだからいうこと聞きなさい。」
 子「頼んだ覚えはない。自由にさせてくれ。」

 この例は、保護者、被保護者という役割分担によって起こる対立である。
 
 もう一つ例を挙げよう。

 妻「家事と育児してもらってるんだから文句言うな」
 夫「人のお金使っているくせに偉そうにするな」

 これは、扶養者、被扶養者の役割分担によって起こる対立である。


 これらの例は家庭内の役割分担によって生じる対立である。
 家庭内の構成員が皆同じ役割を持っていた場合はこのような対立自体が起こらないだろうと推測される。


 私が思うに、役割分担というのはたいてい利益相反関係を生み出す。したがって、対立も必然的に起こる。


 だから、私はできるだけ役割分担をしない方がいいと思っている。

 可能な限り自分が全てできるようにすればよい。
 さっきの親と子の対立ならば、子供の食事、洗濯などを親だけがするのではなく、子供と親で同じように家事をするようにすればあのような対立は減る。

 二つ目の例は、現在の社会では解決が難しいが、両方が何らかの収入を得ていればあのような対立は減る。


 さっきの例では家庭内だけの例を見たが、社会についても同様である。
 生徒に勉強させたい教師と勉強したくない生徒、みたいな対立は、お互いに教え合って勉強するという環境が作られれば、対立が減るだろう。
 技術部や経理部と営業部が一緒ならば、
「くそ営業が無茶な受注してきたせいでこちとら地獄だ!」
 みたいな対立も減る。
 文系と理系で、「文系はクソ」「理系はクソ」などという対立も、文理どっちもできていればそんな対立は起こらない。

 もっと身近な例でいえば、
 スポーツでのポジション分け、楽器のパート分けなども役割分担である。

 

 世の中、役割分担のせいで起こる対立が非常に多い。

 そして、それらは、どうしようもなくて役割分担をしていることもあれば、役割分担をしたほうが少しだけ効率が上がることや、むしろ役割分担をしないほうが効率も生産性も上がるのに役割分担をしているものなど、様々である。


 役割分担のデメリットを知ってほしい。


 役割分担について私が思うのは、
「全部できるようになった上で必要になったときにだけ役割分担すればよい。極力役割分担はすべきではない。」
 ということである。

「全部はできないから役割分担してんだよ。」
 みたいな声も飛んできそうだが、まあ、一人が技術のエキスパートかつ経営のエキスパートかつ営業のエキスパートみたいなのになろうと思えばたしかに難しいかもしれないが(とはいえ一通りできたほうがいいとは思っている)、親と子で同じ家事をするとか、スポーツで一通り全てのポジションを経験してみるとか、そういったことならとりあえず役割分担する前にできるだろうと思う。


「全部できるようになってしまえ!」
 は確かに暴論ではあるが、これは私自身が一人でだいたい何でもできるようになってしまおうという性格のせいだからである。


 でも、ほんとに、役割分担はできるだけ減らした方がいいと思う。

 最終的には役割分担をするときが来るにしても、その気になればいつでも役割を交代できる、くらいに全部できたほうが対立が少ないと思う。

 とりあえず、一通りできるようになった上で、実際の役割分担は、比較優位の法則にしたがって決めればいい。
 


 私が思うに、役割分担によってタコツボ化した役割による対立、弊害、というのはかなり大きいと思うし、それを知って
「とりあえず一通りできるように」
 という思想で制度が組まれている世界もある。

 例えば大学の一般教養。自分の専門に進む前に、そこそこ幅広く学ぶことで周辺知識を取り込んで学際的な考え方ができるようになる(ことを期待されているが、実際はどうなのかは知らない)。

 あるいは、医学部卒業後の初期研修医のスーパーローテート。これも、とりあえず一通り内科と救急やいくつかの診療科の診療ができるようになるように制度化されている。


 他の世界にも役割分担してタコツボ化しないようにする制度や工夫があったほうがいいと思う。


 さっきもあげたが、スポーツと音楽は、もっと幅広くやってもいいと思う。ポジションごと、パートごとの対立を減らすために、まずは全ポジション、全パートを一通りできるようにすればよい。そっちのほうが、実際に上達もしやすいだろう。

 これは役割分担からやや話が逸れるかもしれないが、スポーツに関しては、野球、サッカー、バスケ、テニス、卓球、バレー、陸上、など、全スポーツをローテートして、すべての種目をそこそこできるようにする、みたいなスポーツクラブがあってもいいと思う。そっちのほうが様々なスポーツ技術を体得したいい先生も育つし、生涯を通していいスポーツ人生を送れるだろう。

 音楽に関しても、鍵盤、弦、パーカッション、管、声楽、みたいにすべての領域をまず一通りできるようになれば後々の成長もしやすいと思う。

 ちなみに、美術はたいてい油絵、水彩、彫刻、塑像と全てやるし、全てやることでよりよい立体把握能力や色彩感覚が身につくみたいなところがある。

 

 


 途中から話が逸れてしまったが、もう一度今回の趣旨を述べておくと、

 「立場の違いによる利益相反が様々な対立を引き起こす。役割分担しなくてもよいならしないほうがよい。」

 というのが私の思うところである。

自我境界線がとける―アンチA.T.Fieldの展開

 

 他人と話していると幸せな気持ちになり、自分と他者を隔てる境界線、言うなれば自我の境界線が溶けるような感覚を感じたことがあるだろうか?

 私はある。よくある。しかし、同じようなことを誰かが言っているのを見たり聞いたりしたことがない。

 私はその感覚を「自我境界線がとける」とでも表現しようと思う。
 私はこの概念をどうにかして確立したい。そのためにここで少し考えを深める。

 自我境界線がとけるという感覚を認識し始めたのは最近である。
 それまでは、ただ人と喋り足りないだとか、もう少し喋りたい気持ちだとか、そんな風に思っていた。
 人と長時間しゃべり終わった後の空虚な感覚。満たされない感覚。そういった感覚自体は前からあったはずなのだけれど、それはなんとも言えない感覚としか自分自身表現ができなかった。
 しかし、最近は、自我境界線がとけるといったほうが自分の中ではしっくりくることに気が付いた。

 私自身の感覚では、自我境界線がとけてしまった後の症状としては、誰かとしゃべりたい気持ちが依然として強く残ること、作業にいまいち身が入らないことがよくある。他にも内省的思考があまりできなくなってしまう。私が自我境界線がとけたと感じるのは、この内省的思考の困難さからである。
 そしてそれは2~3日続く。その間はとてもつらい。何か有意義なことに打ち込みたいと思っても、打ち込むことができず、ただ物足りない、満たされない気持ちだけが続き、それに苦しむことが多いからである。
 しばらくすると自我境界線は回復する。内省的思考も可能となり、何かについて考えたり作業したりすることも可能となる。主体的に有意義な行動を遂行することができるようになる。

 もしかして、
「休みの日に家にいて、しゃべる相手もいないとき、何とも言えないつらさに襲われる」
 という人がいれば、それはもしかしたら自我境界線がとけてしまった状態なのかもしれない、と私は思っている。ただ、本当にそう言って差支えがないのかどうかは私自身にもわからない。

 「自我境界線がとけた状態」というのを、ここでは、「他者とつながりたい欲求を抱えているために内省的思考や主体的で計画的な行動を行うことができない状態」という概念だと捉えることにする。

 
 自我境界線がとけた状態、というのは私だけが感じたことのある感覚なのか、あるいは多くの人が感じているにも関わらず、自我境界線がとけたといった表現を使わないだけなのか。

 

 自我境界線がとけた状態がある一方で、他人に対して強く自我境界線を張りたいときというのもよくある。
 苦手な人が話しかけてきたとき、他の人と仲良くなりたくないとき、などである。
 そういったとき、私は、他者との境界線、自我境界線を強く意識し、私の内面を外に出さないように心がける。

 自我境界線を強く張りすぎると、厭世的な気分になり、周りの目につくもの全てが気に入らなくなり、壊してしまいたりと思ったり、自分の居場所から一歩も外に出たくないと思ったりするようになる。世間への不信感、嫌悪感が非常に強くなるということを感じる。

 それに比べれば、自我境界線がとけているときというのは、他の人と仲良くしたい、自分のことをしゃべりたい、といったような気持ちが強くなり、世間への親和性が上がっているといえるのかもしれない。

 そして、私は時に、ちょっと前まで自我境界線がとけていたような感じだったのに、急に自我境界線を強く張るようになることがある。
 わかりやすく言うならば、ちょっと前まで人と仲良くしたい、自分のことを饒舌にしゃべりたいと思っていたにも関わらず、一瞬後には、他人を拒絶したい、他人に自分のことを一切しゃべりたくない、というような経験である。
 さらに言い換えるならば、躁エピソードとうつエピソードが急に入れ替わるとも言える。(簡単に言うなら気分循環性障害に近いエピソードである)


 経験上、自我境界線がとけた状態には躁病エピソード、自我境界線を強く張る状態にはうつ病エピソードと表現することも可能だと感じている。


 自我境界線がとけた状態、強く張る状態、というのをうまく表現する心理学用語、精神医学の用語を私は知らない。躁とうつといった用語で済ませているのかもしれないが、しかし、それではうまく表現できていないと感じているので、躁とうつはまた別の概念として捉えるべきだと思う。

 では、自我境界線の概念を言い表す言葉を誰も使ってこなかったかと言えば、そうでもない。

 自我境界線の概念をうまく言い表すには、ヱヴァンゲリヲンのA.T.Fieldの概念が非常によいということを感じていた。自我境界線がとけるという言い方はしなかったが、あれは同じような概念を表現していた。

 自我境界線を強く張るというのは、A.T.Fieldの展開、逆に、自我境界線がとけた状態の心理状態というのは、アンチA.T.Field展開の状態である。

 私の知る限り、A.T.Fieldの展開については多く言及されてきたが、アンチA.T.Fieldへの言及はあまり見ない。

 私が冒頭に述べた、自我境界線がとけた状態、というのはアンチA.T.Fieldの展開状態と表現してよいのではないか。

 そして、アンチA.T.Fieldの弊害とは、先に述べた、自我境界線がとけた状態の苦しみである。

 私たちの精神活動、承認欲求、寂しさ、満たされなさ、そういったものを、「自我境界線」という概念から読み解くことがどれだけ価値のあることなのか。
 まだわからないが、いい切り口となる可能性もあると私は考える。

欲の本質―欲は抽象的で無対象である

 

 性欲、承認欲求、権利欲、購買欲、鑑賞欲、と欲には色んなものがある。
 しかし、それぞれの欲は、実は同じものなのではないか。
 つまり、それぞれの欲は別々の欲のように見えるが、実は一つの抽象的な「欲」があり、その欲を満たすための手段として、○○欲という具体的な欲があるのではないか、と私は考えた。

 以下で具体的にこのことを話そうと思う。

 まず、ここで言う「欲」の意味について決めておこう。
 ここでは、「欲=快を求める心の動き」、という解釈をすることにする。つまり、「欲を満たす=快を得る」ということができる。

 私が想定する、「欲」の本質とは以下の図のようなものである。

 

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 基本的に、我々は欲ゲートを通して快を得る。欲というのは、快を得るためのゲートである。欲の大きさというのは欲ゲートの大きさに関係する。ここでは、一つ一つの欲ゲートの集まりを欲ゲートセットと呼ぶことにする。
 上の図では、欲ゲートの大きさは、性欲>承認欲>購買欲となっている。このような欲ゲートセットを持つ人は、性欲や承認欲を大きく感じているということができる。
 しかし、それぞれの欲ゲートの大きさは人によっても違えば、同じ人でも心持ちによって変わる。
 例えば、映画鑑賞欲>性欲>運動欲、みたいな人もいるだろう。上の図の人でも、映画が好きになれば、このような欲ゲートの大きさの順になるかもしれない。

 ここで私が言いたいのは、以下のようなことである。
・欲というのは、快を得るためのゲートを指定するものである。
・極端に言ってしまえば、様々な欲というのは本質的にはすべて同じ「快を求める動き」であり、欲の種類というのは快を得る手段の違いである。
・欲の大きさというのはゲートの大きさに依存する。
・他の欲ゲートがあれば、そこから快を得るバイパス経路ができ、相対的に他の欲ゲートの大きさは小さくなる。

 特に、「欲は本質的に一つである」ことと、「欲の種類というのは快を得るための手段の種類である」ということを強調しておく。

 これらの理論のことを、ここでは「欲ゲート理論」と呼ぶことにする。

 この理論から様々な現象を説明することができる。


 昇華の説明
 心理学では、実現不可能な欲求不満を、実現可能で社会的に認められる活動を実現しようとする現象を昇華と呼ぶ。
 例えば、満たされぬ性欲をばねに芸術やスポーツに打ち込むことなどを指す。

 これを欲ゲート理論で説明するならば、性欲ゲートから快を得ることが困難となったとき、承認欲求、制作欲、運動欲などをバイパスゲートとして快を得ようとする現象、と説明することができる。

 

 カタルシスの説明
 心理学・精神医学でいうカタルシスは、「劇を見て泣く」などといった感情の動きによる代償行為によって日々の鬱積を晴らすことを指す。
 これも、日々の鬱積によって満たされぬ欲を、劇中の人物に感情移入することで仮想的に快を得ていると言える。言わば仮想的なバイパス経路の作成である。


 欲のバイパスのケース
 実際に、欲をバイパスさせているケースというのはたくさんある。欲ゲートのサイズ変更のことを全てバイパスというのは少し概念を分かりにくくするかもしれないが、ここではバイパスと呼ぶことにする。

部活動と不良
 これはある教育雑誌で読んだことであるが、学校での部活動が流行ったのは不良文化が盛りだった時代に、部活動に生徒を打ち込ませて非行に走るのを防ぐ目的があったらしい。
 スラムダンクが分かりやすい。
 これも、欲のバイパス作成と言えるだろう。

趣味や知能と性欲
 知能が高い人ほどスレンダーな人を好み、知能が低い人は巨乳を好むという話を聞いたことがある。単純に性欲の問題とも言い難いが、とりあえず、例に挙げておく。
 また、偏差値の高い高校と偏差値の低い高校では、偏差値の低い高校のほうが性的にも乱れているといった現状があると思う。
 また、時間を忘れて打ち込むような趣味を多く持っている人と無趣味な人を比較すると、無趣味な人のほうが、恋愛や性に依存しているイメージがある(個人的なイメージで確証はない)。
 これらも、性以外に社会的自己実現などの他の欲ゲートを持っていることで性欲がバイパスされていると考えることができる。

 

 物質的観点に基づいた説明
 ここで、神経解剖学的観点から考えると、欲の結果得られる快は、最終的には脳内報酬系でのドーパミン放出に集約される。したがって、欲を満たす=快を得るということは神経解剖学的にも一元的であると考えることは妥当である。


欲ゲート理論の応用

 性欲の昇華
 性犯罪の防止には、性欲を抑えることが必要となる。したがって、性欲をバイパスさせるための他の欲ゲートの拡大を性欲過剰な人の治療に使うという方法が考えられる。


 カタルシスの利用
 快が不足することによる抑うつ状態などの解決のために映画鑑賞などを通してカタルシスを引き起こし、バイパス欲ゲートによって快を得るという方法が考えられる。

 他にも、欲ゲート理論に基づいた心理療法はいくつか考えることが可能である。

 

 フロイトの言うリビドーの概念
 誤解があるかもしれないが、フロイトの言うリビドーの概念は性的欲求に基盤を置くようである。
 しかし、すでに述べたように、私は変換可能な心的エネルギーとしての「欲」は、何か具体的に対象が決まっているのではなく、対象のない抽象的な欲だと考えている。
 初めから備わっていて、閉じることはない基本的な欲ゲートというのは、たしかに、食欲、睡眠欲、性欲だと思っている。
 しかし、欲は性欲などを媒介して変換すると考えるよりは、抽象的で対象を持たない欲求を想定したほうがよいだろうと考える。

 

「から紅の恋歌」の和葉が完全にバトルマンガの主人公だった(コナン映画)

 

 ※ネタバレだらけです

 

 

 

 

 

 


 から紅の恋歌は、言われてる通りにたしかにラブコメなんですよ。
 でも、和葉に注目すると、これ、話の展開が超王道のバトルマンガ(アニメ)だと気づいたんですよ。

 そういうわけで、ここでは、から紅の恋歌の和葉がいかに王道のバトルマンガの主人公してるかというのを書きます。単純なバトルというよりは部活のバトルマンガというほうが正確ですね。
(バトルマンガっぽさを表すために微妙にキャラの口調や話の内容は変えて表現しています。)

 

 この映画でライバル役にあたる紅葉は、「クイーンを確実視されている」ということがはじめに情報として出されているわけです。

モブ郎「おいおい誰だあれ。」
??「おい知らねえのか?クイーンが確実視されているという、とてつもなくかるたが強い人だぞ。名前は紅葉っていうそうだ。」

 巷では噂になるほど紅葉は強いということがここで視聴者に刷り込まれるわけです。少年漫画によくある、ライバルのうわさのシーンがちゃんと描かれています。

 そして諸々の事件に巻き込まれ、未来子が負傷しますが、その後の会話。
未来子「この腕じゃかるたができない…。」
和葉「かるたよりも身体の方が心配だ。かるたの大会は来年もあるじゃねえか。」
未来子「来年じゃだめなの!!今年勝たなくちゃ意味がないの…!」
和葉「どういうことだ…!?」
未来子「今年勝たないとかるた部は廃部になってしまうの!!」
和葉「…!?」

 今年何が何でも勝たないといけない、しかし他に戦う人材がいない。
 ここのシーンによって和葉が勝負する必然性が描かれました。
 部活もので何度となく観た
「部の存続を認めてやろう。」
「やった!それじゃ…」
「待て。ただし条件がある。次の試合で勝つこと、それが存続の条件だ。しかし、もしも負けた場合、そのときは廃部だ。」

「ちくしょう。試合に出たくても部員が足りねえ!」
 が忠実に描かれています。

紅葉「あらあら、あなたみたいな素人が出て私に勝てるのかしら。」
未来子「和葉はお前なんかには負けない!」
紅葉「なら、勝負をしましょう。次の勝負、勝った方が平次をものにできる。そういった条件でどう?」
未来子「和葉駄目よ。あんな奴の挑発に乗っちゃ!」
和葉「くっくっく。面白ぇじゃねえか。その勝負乗ってやるよ!」
未来子「ちょっと和葉!」
和葉「首を洗って待ってな!お前のその鼻っぱし叩き潰してやるぜ!」
紅葉「あら威勢だけはよいこと。せいぜい一回戦で負けないようにがんばることね。」

 王道的無鉄砲主人公ですね。

蘭「で、次の試合っていつなの!?」
和葉「明後日だ。」
蘭「明後日!?そんな無茶だよ!間に合うはずがない!!」

 タイムリミットまでが異様に短いというお決まり。

 そして、和葉の修行が始まりますが、修行につきものなのが師匠の存在。
 師匠というのは往々にして、かつて数々の伝説を残したといわれるレジェンドがやってくるものですが、お決まりの通り、平次の母が元クイーンという謎の経歴を持っていました。

 そして修行!修行!

和葉「はぁ…はぁ…」
平次母「今日はこの辺りにしましょう。休むのも修行の内ですよ。」
蘭「ちょっと和葉!ボロボロじゃない!!」
平次母「昨日から一睡もしてませんからね。実力はたしかにA級。ですが、あと一歩届きませんな。ただし、この子の集中力と負けん気は特筆すべきものがあります。この子ならもしや…」

 主人公特有の身体を壊すほどに練習する熱意。そして、なぜか元から結構強い。精神力だけは飛びぬけているという熱血主人公の特徴を抑えてますね。

 そして修行は続く。

蘭(紅茶に砂糖を2つ入れる)
和葉「2つじゃ足りない!もっと入れてくれ!」
蘭(まさか、今の砂糖を入れる音が聴こえたというの!?いったいなんて耳をしているの…)

 修行の中で実力をつける主人公が、何気ない日常シーンでの超人離れした能力として描かれる、これぞ、ですね。


 で、諸々あってライバルが師匠に勝負を挑んで師匠に勝ってしまいます。
紅葉「あらあら、元クイーンだと聞いてどんなものかと思っていましたが、こんなものですか。」
平次母「…。」
紅葉「試合で戦えるのを楽しみにしてますわ。」
和葉「クッ!!」

 和葉が敵わなかった師匠に勝った紅葉というシーンを入れることによって、紅葉が和葉よりも格上だということがわかりやすく描かれました。

 ここから和葉が猛特訓して紅葉に勝てば、ライバルにも勝ち、師匠も超えることができた、という意味で和葉の成長がよりわかりやすいものになります。

そして戦い。
決勝前の会話。

和葉「こんなの初めてだからドキドキするぜ。」
紅葉「あら、私もですわ。あなたに勝った後、平次に告白したらどんな返事をくれるのだろうかと思えば、ドキドキが止まりませんわ。」

 勝つ前提で皮肉をいうライバル。
 そして決戦。
 両者共に譲らない!熾烈な争い!

和葉「あの札をとれば…」

 あと一枚を取るかどうかのライバルとの接戦。

 そして戦いは思いがけないトラブルによって終わる。

 戦いの後、
紅葉「今度戦うときも負けませんわよ。和葉ちゃん。」

 さりげなく再戦の約束をして、葉っぱちゃんと言っていたのに和葉ちゃんと呼び方を変えたり、ライバルと少し仲良くなって再戦を誓うという…。

 

 思い返すと、超ベタだったなあ、と。

 

 さて、振り返って和葉が如何にバトルマンガの主人公してたのかというのはこれで説明できたと思います。


 あと少し、なぜこんなにも今回のコナン映画「から紅の恋歌」の評判がいいのかについて考えようと思います。

 私は以下のような理由だと思います。

・和葉がかわいい
・バトルマンガ的熱さがある
・ラブコメ的な恋愛要素とコメディ要素もある
・深夜アニメ的よさが詰め込まれている(ニコニコ動画で見たら絶対コメントが面白くなるだろうなぁというシーンが盛りだくさん)
・和葉がかわいい
・平次がかっこいい
・対比と象徴がめちゃくちゃうまい

・和葉がかわいい

 ほぼすべての層にとって面白い要素がこれでもかと詰め込まれているわけですよ。
 どの層が見ても面白いってほんとすごいと思います。脚本と演出のセンスがほんとに
「えげつなー…」
って感じですよ。

 まじですごいです。


 最後に、から紅の恋歌についてうまく解説してくれているブログ記事を紹介して終わります。すごくしっかりまとめてくださっているのでぜひどうぞ。

b9life.hatenablog.com


私も小野大輔さんが出てきたときめっちゃ笑いました。
(紅葉の執事役が出てきたなぁ。なんか見た目がこのキャラだけすごい。なんていうか承太郎っぽい。どんな声なんだろう。って小野Dかよ!!承太郎じゃねーか!!しかも執事って、ジョジョの承太郎と黒執事のセバスチャン混ざってるじゃねーか!!)
と劇場で一人ツッコんでました。

 


 以上読んでくださってありがとうございました。

 

自分と他人の感じ方は違うということ


「他人にされて嫌なことは他人にするな」
 という道徳観は、一番シンプルなものだろう。多くの人は、これにしたがって行動する。

 この価値観は、「自分と他人の感じ方・考え方は同じである」という前提に基づいている。
 そして、たいていの場合、その前提は正しい。そうでないと社会生活は成立しない。
 他人に物を投げられるとつらいし、他人に優しくされるとうれしい、というのは多くの人に共通する感じ方だと思う。

 しかし、そういった前提が必ずしも成り立つは限らない。
 それを忘れたときに、主語が大きすぎる主張、というのが出てくる。

「男はみんな女の人とサシで飲むときはワンチャンを狙ってる。」
「女はみんな男の人に奢ってもらうとときめく。」
「国民はみんな、○○を望んでいる。」

 主語を大きくしすぎてはいけない。
 大抵のことは、自分と他人で感じ方・考え方は同じだと考えてよいだろう。しかし、そうでないこともたしかに存在することを忘れてはいけないのである。

 他人は違うということを、多くの人は本質的には理解していないのである。

 今まで、自分とは考え方・感じ方が違う人は、「頭がおかしい人」として排除して、「頭がおかしくない人普通の人=自分と同じ感じ方・考え方をする」と信じている人が少なくないのではないかと思う。

「好きっていうのはセックスしたいってことでしょ?」
 と他の人も思っていると思い込んでいるのも、主語を大きくしすぎた結果だろう。

rorokuusou.hatenablog.com