ロロの空想

心に移りゆくよしなしごとを書いていくよ!

「から紅の恋歌」の和葉が完全にバトルマンガの主人公だった(コナン映画)

 

 ※ネタバレだらけです

 

 

 

 

 

 


 から紅の恋歌は、言われてる通りにたしかにラブコメなんですよ。
 でも、和葉に注目すると、これ、話の展開が超王道のバトルマンガ(アニメ)だと気づいたんですよ。

 そういうわけで、ここでは、から紅の恋歌の和葉がいかに王道のバトルマンガの主人公してるかというのを書きます。単純なバトルというよりは部活のバトルマンガというほうが正確ですね。
(バトルマンガっぽさを表すために微妙にキャラの口調や話の内容は変えて表現しています。)

 

 この映画でライバル役にあたる紅葉は、「クイーンを確実視されている」ということがはじめに情報として出されているわけです。

モブ郎「おいおい誰だあれ。」
??「おい知らねえのか?クイーンが確実視されているという、とてつもなくかるたが強い人だぞ。名前は紅葉っていうそうだ。」

 巷では噂になるほど紅葉は強いということがここで視聴者に刷り込まれるわけです。少年漫画によくある、ライバルのうわさのシーンがちゃんと描かれています。

 そして諸々の事件に巻き込まれ、未来子が負傷しますが、その後の会話。
未来子「この腕じゃかるたができない…。」
和葉「かるたよりも身体の方が心配だ。かるたの大会は来年もあるじゃねえか。」
未来子「来年じゃだめなの!!今年勝たなくちゃ意味がないの…!」
和葉「どういうことだ…!?」
未来子「今年勝たないとかるた部は廃部になってしまうの!!」
和葉「…!?」

 今年何が何でも勝たないといけない、しかし他に戦う人材がいない。
 ここのシーンによって和葉が勝負する必然性が描かれました。
 部活もので何度となく観た
「部の存続を認めてやろう。」
「やった!それじゃ…」
「待て。ただし条件がある。次の試合で勝つこと、それが存続の条件だ。しかし、もしも負けた場合、そのときは廃部だ。」

「ちくしょう。試合に出たくても部員が足りねえ!」
 が忠実に描かれています。

紅葉「あらあら、あなたみたいな素人が出て私に勝てるのかしら。」
未来子「和葉はお前なんかには負けない!」
紅葉「なら、勝負をしましょう。次の勝負、勝った方が平次をものにできる。そういった条件でどう?」
未来子「和葉駄目よ。あんな奴の挑発に乗っちゃ!」
和葉「くっくっく。面白ぇじゃねえか。その勝負乗ってやるよ!」
未来子「ちょっと和葉!」
和葉「首を洗って待ってな!お前のその鼻っぱし叩き潰してやるぜ!」
紅葉「あら威勢だけはよいこと。せいぜい一回戦で負けないようにがんばることね。」

 王道的無鉄砲主人公ですね。

蘭「で、次の試合っていつなの!?」
和葉「明後日だ。」
蘭「明後日!?そんな無茶だよ!間に合うはずがない!!」

 タイムリミットまでが異様に短いというお決まり。

 そして、和葉の修行が始まりますが、修行につきものなのが師匠の存在。
 師匠というのは往々にして、かつて数々の伝説を残したといわれるレジェンドがやってくるものですが、お決まりの通り、平次の母が元クイーンという謎の経歴を持っていました。

 そして修行!修行!

和葉「はぁ…はぁ…」
平次母「今日はこの辺りにしましょう。休むのも修行の内ですよ。」
蘭「ちょっと和葉!ボロボロじゃない!!」
平次母「昨日から一睡もしてませんからね。実力はたしかにA級。ですが、あと一歩届きませんな。ただし、この子の集中力と負けん気は特筆すべきものがあります。この子ならもしや…」

 主人公特有の身体を壊すほどに練習する熱意。そして、なぜか元から結構強い。精神力だけは飛びぬけているという熱血主人公の特徴を抑えてますね。

 そして修行は続く。

蘭(紅茶に砂糖を2つ入れる)
和葉「2つじゃ足りない!もっと入れてくれ!」
蘭(まさか、今の砂糖を入れる音が聴こえたというの!?いったいなんて耳をしているの…)

 修行の中で実力をつける主人公が、何気ない日常シーンでの超人離れした能力として描かれる、これぞ、ですね。


 で、諸々あってライバルが師匠に勝負を挑んで師匠に勝ってしまいます。
紅葉「あらあら、元クイーンだと聞いてどんなものかと思っていましたが、こんなものですか。」
平次母「…。」
紅葉「試合で戦えるのを楽しみにしてますわ。」
和葉「クッ!!」

 和葉が敵わなかった師匠に勝った紅葉というシーンを入れることによって、紅葉が和葉よりも格上だということがわかりやすく描かれました。

 ここから和葉が猛特訓して紅葉に勝てば、ライバルにも勝ち、師匠も超えることができた、という意味で和葉の成長がよりわかりやすいものになります。

そして戦い。
決勝前の会話。

和葉「こんなの初めてだからドキドキするぜ。」
紅葉「あら、私もですわ。あなたに勝った後、平次に告白したらどんな返事をくれるのだろうかと思えば、ドキドキが止まりませんわ。」

 勝つ前提で皮肉をいうライバル。
 そして決戦。
 両者共に譲らない!熾烈な争い!

和葉「あの札をとれば…」

 あと一枚を取るかどうかのライバルとの接戦。

 そして戦いは思いがけないトラブルによって終わる。

 戦いの後、
紅葉「今度戦うときも負けませんわよ。和葉ちゃん。」

 さりげなく再戦の約束をして、葉っぱちゃんと言っていたのに和葉ちゃんと呼び方を変えたり、ライバルと少し仲良くなって再戦を誓うという…。

 

 思い返すと、超ベタだったなあ、と。

 

 さて、振り返って和葉が如何にバトルマンガの主人公してたのかというのはこれで説明できたと思います。


 あと少し、なぜこんなにも今回のコナン映画「から紅の恋歌」の評判がいいのかについて考えようと思います。

 私は以下のような理由だと思います。

・和葉がかわいい
・バトルマンガ的熱さがある
・ラブコメ的な恋愛要素とコメディ要素もある
・深夜アニメ的よさが詰め込まれている(ニコニコ動画で見たら絶対コメントが面白くなるだろうなぁというシーンが盛りだくさん)
・和葉がかわいい
・平次がかっこいい
・対比と象徴がめちゃくちゃうまい

・和葉がかわいい

 ほぼすべての層にとって面白い要素がこれでもかと詰め込まれているわけですよ。
 どの層が見ても面白いってほんとすごいと思います。脚本と演出のセンスがほんとに
「えげつなー…」
って感じですよ。

 まじですごいです。


 最後に、から紅の恋歌についてうまく解説してくれているブログ記事を紹介して終わります。すごくしっかりまとめてくださっているのでぜひどうぞ。

b9life.hatenablog.com


私も小野大輔さんが出てきたときめっちゃ笑いました。
(紅葉の執事役が出てきたなぁ。なんか見た目がこのキャラだけすごい。なんていうか承太郎っぽい。どんな声なんだろう。って小野Dかよ!!承太郎じゃねーか!!しかも執事って、ジョジョの承太郎と黒執事のセバスチャン混ざってるじゃねーか!!)
と劇場で一人ツッコんでました。

 


 以上読んでくださってありがとうございました。

 

自分と他人の感じ方は違うということ


「他人にされて嫌なことは他人にするな」
 という道徳観は、一番シンプルなものだろう。多くの人は、これにしたがって行動する。

 この価値観は、「自分と他人の感じ方・考え方は同じである」という前提に基づいている。
 そして、たいていの場合、その前提は正しい。そうでないと社会生活は成立しない。
 他人に物を投げられるとつらいし、他人に優しくされるとうれしい、というのは多くの人に共通する感じ方だと思う。

 しかし、そういった前提が必ずしも成り立つは限らない。
 それを忘れたときに、主語が大きすぎる主張、というのが出てくる。

「男はみんな女の人とサシで飲むときはワンチャンを狙ってる。」
「女はみんな男の人に奢ってもらうとときめく。」
「国民はみんな、○○を望んでいる。」

 主語を大きくしすぎてはいけない。
 大抵のことは、自分と他人で感じ方・考え方は同じだと考えてよいだろう。しかし、そうでないこともたしかに存在することを忘れてはいけないのである。

 他人は違うということを、多くの人は本質的には理解していないのである。

 今まで、自分とは考え方・感じ方が違う人は、「頭がおかしい人」として排除して、「頭がおかしくない人普通の人=自分と同じ感じ方・考え方をする」と信じている人が少なくないのではないかと思う。

「好きっていうのはセックスしたいってことでしょ?」
 と他の人も思っていると思い込んでいるのも、主語を大きくしすぎた結果だろう。

rorokuusou.hatenablog.com

「好き」と「セックスしたい」の同一視

 「好きっていうのは、セックスしたいとイコールじゃないの?」
 と真顔で言う人が結構な数がいる。

 私にとっては違和感のある考え方だったが、Twitterなどを見ていると、
「好き、付き合いたい=セックスしたい」
と読み替えている人がむしろマジョリティーなのではないかと最近気が付いた。
 「セックスしたいと思わない恋愛なんて存在しない」
と信じている人もそれなりにいる気がしている。


 マジョリティーがそう考えているならば、これからの言動には気を付けなければならない。解釈の違いからあらぬ誤解を生じるかもしれない。


 しかし、疑問がある。
 性を知る前の恋愛は、彼ら・彼女らにとってどう解釈されるのだろうか??

 性について知るのは、今の日本だと小学校5・6年生~中学1年生くらいだと思う。

 しかし、性について知る前から、小学生たちは恋愛をしている。幼稚園や保育園にも恋愛は存在する。

 その恋愛は性に基づいているわけではないと思う。

 しゃべるとドキドキする、なんとなく目で追ってしまう、ふとした瞬間にしゃべりたくなる、とそういった甘酸っぱい恋心が、まだ性を知らない世代にとっての恋愛である。

 そして、性について知ったからといって、それまでと恋愛の仕方が180度変わるわけではない。
 性について知ると、多少は性について意識せざるを得なくなるとしても、恋愛の主役が甘酸っぱい恋心から性へと移行するとも限らない。

 大人になっても、性に基づいた恋愛ではなく、性を知る前の恋愛を続けている人もそれなりにいるだろうと、私は思う。


 性に基づく恋愛観というのは、性について知ってから初恋を知った人の価値観なのだろうか、あるいは、性について知った後に多くの人の価値観が変化するのだろうか、私にはわからない。

 

 ただ、「好き」と「セックスしたい」を同一視する価値観というのは、必ずしも皆に当てはまるものではないだろう。

 

人間の思考と行動を言い表すための枠組みについて

「あの人は他人との関係を作るのがうまい」
「あの人は、計算は早いのだけれど、大事な事を見落とす」
「あの人は思い込みが激しいところがある」

 こんな風に、色々と人をがんばって形容しようとしても、いまいちうまく言い表せていない気がしたりする。

 何かを言い表そうとしても、対応する言葉が見つからなかったり、言い表すのに適切な概念を知らないと、言い表すことは困難だろう。

 うまく言い表せないと、既存の言葉でなんとか言い表そうとするから、
「人間的に~」とか、そういった抽象的な言葉で代用することが多い。


 人間の思考と概念をうまく言い表すためには、適切な概念と言葉が必要だと思う。
 私が思うに、今のところ、人間の思考と概念をうまく言い表すための概念と言葉は世間に流布していない。
 人間の思考と概念をうまくいい表すための概念と言葉自体はどこかで誰かが作っているかもしれないが、残念ながら私はそれを知らない。


 ならば、私なりに人間の思考と行動をうまく言い表すための枠組み、概念と言葉を考えてみよう。

 とはいっても、人間の思考と概念を包括的に体系的に説明できる枠組みをいきなり作れるわけもないので、ここでは、よさげだと思う概念を少し書くことにしよう。


・制御と実行
 
 私はコンピュータが好きだから、何かを考えるときにもよくコンピュータの設計思想を参考にしがちである。
 コンピュータの世界では、隠蔽、モジュール化、クロスプラットフォームMVCモデルなど、色々な設計思想がある。
 コンピュータの設計思想の多くは、機能ごとにパーツを分け、それをコントロールするプログラムを用意するという思想が共通している。

 それを参考に考えると、人間の行動や思考は、制御と実行にわけて考えると言い表しやすいのではないだろうか。

 ここで、制御と実行という概念で人間の思考と行動をどのように分類するか提案してみる。

 まずは、「実行」の概念から考えよう。
 人間の思考と行動を「実行」と「制御」を分けるならば、「実行」は、会話能力、計算能力などの技術的遂行能力を表す概念として考えるとよい。
 簡単にいうならば、「何が遂行できるか」ということを「実行」の内容と考えてよいだろう。

 次に、「制御」の概念を考えよう。
 「制御」には、何をしようかと考える、他に何かいい方法はないかと考える、本当にこれでよいのかと問う、といったような能力を表す概念と考えるとよい。
 これは、「何かについてメタ的に考える」力だと言えるかもしれない。

 これだけではわかりづらいので、もう少し具体的に書こう。
 
 私は、「制御」によって、検証という「実行」に誘導する能力が、制御の意義においては結構大切だと思っている。検証を制御に含めるべきか実行に含めるべきかは悩んだが、実行のほうに含めることにした。

 例えば、ある生徒が高校で宣伝のために学芸会の発表のポスターを作ることにしたとしよう。
 A3の画用紙と油性ペンやポスターカラーが教室にはある。「実行」の面から見れば、いかにきれいに油性ペンとポスターカラーを使ってポスターを仕上げるか、といった能力を考えることになる。
 ここで、制御の能力がある程度この生徒に備わっていた場合、
「ポスターをパソコンソフトを使って作って印刷した方が量産できていいのではないか?」
「ポスターを作るのにかかる費用と宣伝の効果をてんびんにかけるとポスターを作るメリットはどれくらいあるだろうか?」
「一人で自分が作るべきだろうか?ポスターに含めるべきテーマを他人に相談した方がよいだろうか?」
 などと、ポスターを作るという行為自体にメタ的な思考を行うだろう。これは、「制御」の能力である。
 そして、それぞれのメタ的思考の是非について検証を行う。
「パソコンソフトを他の人が使えないとデータの受け渡しが面倒かもしれない。A3をきれいに印刷できる印刷機がそもそも学校にあるだろうか?」
 といった具合である。この制御→検証という経路によって制御の意義は十分に生かされる。制御のところだけでは、次に何を「実行」するかということを決定することが難しい。

 

 さて、「制御」と「実行」の概念を使って考えれば、
「何かを盲信して疑わない」
「伝統の保持に固執する」
 というのは制御の能力の問題であり、制御→検証という経路で考えることができるのが望ましい。

 「制御」と「実行」という概念を使えば、
「何かをするのが上手」ということと、
「何かの意義・価値・方法について考える事」というのは別だということができ、曖昧な批判をしなくてもよくなるのじゃないだろうか。

色んなものの設計思想

 私は、コンピュータやら生物学やら心理学やら建築学やら、色々な本を読むことがあるのだけれど、そのそれぞれを読んでいるうちに、それぞれの分野において独自の「思想」があることを感じていた。

 そして、なんとかそれをうまくまとめたりすることができないものかと考えていたのだけれど、いったいどういった切り口でまとめればいいのかというのが判然とせず、これまで考えあぐねた次第である。

 しかしながら、最近になって、「設計思想」という観点に基づいてこれらの思想をまとめることが可能なのではないかという思いつきを得た。

 さらにこれについて考えを深めるにつれて、これはなにやらうまくやれば「設計思想の研究」という一分野が作れるのではないかという、期待を持つに至った。

 そこで、ここに、設計思想をまとめるといってもいったい何をするべきなのか、そもそも設計思想を扱うといってもどういうものを扱うのかということについて、少し書いてみることにする。


・設計思想の研究の方向性
 設計思想を研究するならば、以下のようなアプローチが有効なのではないだろうか、という、案を示してみる。

1「現在、または過去にあった設計思想について、その設計思想が成立するに至った歴史的経緯、その設計思想の歴史的意義について、情報を収集、検討する。人文学的アプローチ。」

2「数多ある設計思想を抽象化し、一般的設計モデルを構築する。これにより、分析を可能とする。」

3「ある設計思想について、いくつかの前提条件のもと、その設計思想の有効性、生産性について、数学的、経済学的、あるいは何らかの手法で分析し、定量化する。科学的アプローチ」


 2は、人文学的アプローチと科学的アプローチをつなぐ架橋的役割を担っているということができるかもしれない。

 

・設計思想の例
 実際に設計思想を扱うとしたら、どのようなものを扱うのか、2つの例を挙げてみる。

・フィードバック機構
 フィードバック機構というのは、あらゆる場面で確認される。組織の活動でいえば、PDCAサイクル、生物学的機構では、内分泌は負のフィードバック機構によって恒常性を保っている。
 PDCAサイクルが社会に普及したのはいつ頃なのか、フィードバック機構というのはどのような図式によって表現できるか、また、フィードバック機構のあるなしによってどのように成果が変化するかを定量化して調べることが目標となる。


・モジュール化
 プログラムにおいて、一定の入力に対して一定の出力を返すプログラムをモジュールとしてまとめ、それを利用するという方式をとるのはよくあることである。
 また、組織においても、部署ごとに仕事を割り振り、仕事の注文という「入力」に対して、仕事の結果という「出力」を返してくれるということは、部署ごとに仕事を分けるというのはモジュール化の例といえる。
 モジュール化についても、フィードバック機構と同じように、普及の経緯の調査や図式表現、定量化が目標となる。

 

・設計思想の応用と展望

 それぞれの分野において独自の思想があるというのは初めに述べたけれど、それぞれの分野で、格差というのが存在するように感じている。
 コンピュータ関連の分野では、組織の作り方、働き方、プログラム設計、あらゆることにおいて先進的であると感じている。

 一方で、日本の学校教育では、フィードバック機構もモジュール化もうまく行われておらず、幾分前時代的だという印象を持つ。

 このような、分野ごとの設計思想の普及の差異を埋め、他の分野で有効性が確認された設計思想を他の分野にも導入するために、設計思想の研究が使えるだろうと思う。
 概念として設計思想をまとめることで、設計思想の移植が可能となる。ある分野の人間の集団を、クラスターと呼ぶことにするなら、クラスター間で設計思想を共有することを可能たらしめるのが、設計思想の研究の意義と言えるだろう。


 今後の設計思想の研究に乞うご期待を。

技術の発展の中で貧困にならないための模索

 2017年の日本の格差は、50年前の格差に比べて広がっているのか否かという問いの答えを私は知らない。

 しかし、今後、放置していたら格差は広がるのではないかと思う。

 技術の発展は、作業の効率化、自動化、人員削減を目指す。
 結果として、高度なスキルがない人々は労働市場から締め出されるということが起こりうる。

 高度な知識を持つ技術者は収入を増す一方、特別なスキルや知識を持たず手足を動かすことで労働価値を提供していた層の仕事がなくなる可能性がある。

 あるいは、手足を動かすことしかできない人がAIに駆逐されるより先に労働市場から締め出されるのは知的労働に従事して知識を切り売りしている職業かもしれない。むしろそっちの可能性の方が高い。
 AIは「人工知能」であってロボットではないのだから、AIの登場によって仕事を奪われるのは「知的労働」をしている人たちだというのは不思議なことではない。


 どちらにせよ、少数の技術者が、労働市場から労働者を追い出す。その結果、新たな産業が生まれる可能性も高いが、少数のエリートに富が集まり、結果、格差が生まれる可能性もあると思う。


 では、技術によって労働市場から労働者が締め出され、貧困層が増えるというのを防ぐためにどうすればいいのだろうか。

 

 
①国がコントロールする。
 重要な技術を国の管理下に置く。
 (資本の共有化…共産主義の実現??)
 国がベーシック・インカムフードスタンプなどを導入する。


②できる限り自給自足できるようにする。
 社会の影響を受けにくくするため、生きていくのに最低限の食糧、医療を自給自足できるようにする。
 とはいえ、結構な知識と技術が必要である。

 


 技術の発展によって少数のエリートに富が集中する世界でうまく生きていくためのなにかいい方法があるだろうか。
 私が思いつくのは上記のような方法くらいである。
 併用したらいいかもしれない。

 


 私は以前、こんなことを書いた。


 世の中には、「自由に生きる」というのを、不労所得を得ることで実現しようという人が多い気がする。
 しかし、そういう不労所得というのは、他の誰かが社会を回してくれることが多かったり、結局はゼロサムゲームになっていて、勝てた人しか自由にはなれなかったりする。
 だから、それをもって、「みんなも自由になろうよ。」とは言えないのである。結局は、誰かに支えられた上で少数の人間だけが享受できる自由と幸せになってしまう。

rorokuusou.hatenablog.com




 これはその続きの話なのだと思う。


 これからどういう仕組みにしていけば、幸せに生きることができるのか、まだまだ分からない。

個別指導の代わりにチューターのような役割がほしい

 
 予備校にはチューターというのが存在する。
 カウンセラーのような担任のような教師のような役割を担っている。

 塾に通っている人、学校に通っている人はみんな「講義」を本当に必要としているのだろうかと考えると、そうでもないのじゃないかと私は思う。

「将来、何がしたいのかわからない」
「何をすれば成績が伸びるのがわからない」
「どの大学や職場に行けばやりたいことができるのがわからない」
 あるいは、
「友達との関係がうまく行かない」
「疲れやすくていつも寝不足」
などといったことに関して相談したい人、相談するだけでやるべきことが決まる人、というのは結構な数存在していると思う。

 何がやりたいのか見つからず、何をするのがいいのかわからないまま、勉強に対するモチベーションが地を這っている生徒がかなりの数に上る一方、将来やりたいことが明確になっている生徒は授業が退屈で律速になっていたりする。

 モチベーションがない生徒に対してはモチベーションが上がらないと勉強は身につかないし、モチベーションがある生徒に対してはよい勉強方法について相談に乗ってあげたりいい本を進めてあげたりするのがよかったりする。
 人間関係や健康について困っている生徒がいれば相談に乗ってあげたうえで、専門家に紹介すれば解決するかもしれない。

 また、勉強を教えて欲しいと思っていても、
「授業をしてほしい」
のではなく、
「質問があるので教えてほしい」
という生徒も多いだろう。
 わからないことがあったら教えてもらえるというのはかなりいい環境である。

 

 塾で個別指導や集団授業を受けたりするのではなく、わからないところだけを教えて欲しい、勉強に関して相談に乗ってほしいと思っている生徒は多いはずだ。
 授業をするのではなく、相談に乗ったり一部だけ教えるといった役割の人がいてもいいのではないか、と思う。

 

 簡単に言うと、親身な家庭教師といった具合だろうか。